岸田國士全集20 |
岩波書店 |
1990(平成2)年3月8日 |
1990(平成2)年3月8日 |
1990(平成2)年3月8日 |
新選岸田國士集 |
改造社 |
1930(昭和5)年2月8日 |
「新劇運動」といふ言葉の意味は様々に用ひられてゐる。それは、しかしながら、常に、所謂「新劇」といふ言葉の内容から生じる区別であると同時に、「運動」なるものゝ本来の性質が極めて漠然としてゐるところに基因してゐるやうに思はれる。
現在、日本で呼ばれてゐる「新劇」とは、歌舞伎劇及び新派劇に対するもので、その特色とする処は、「欧米近代劇の流を汲む」といふことである。然るに、今日まで、此の種の劇が劇壇の主流となり得ない事実の前に、凡ゆる苦悶が続けられてゐる。此の苦悶を、「新劇運動」と呼ぶならば、正に、欧米の所謂「新劇運動」なるものと、著しくその趣を異にすべきである。
欧米に於ける「新劇」とは、それは、最早、近代劇の別名ではない。従つて、此処に一人の「新劇運動者」なるものが現はれたとすれば、それは最早「近代劇」の樹立を標榜するものではなくて、既に近代劇の名によつて総称せらるべき、既成演劇から、一歩、何か知ら「新しきもの」への躍進を志してゐるのである。そして、その傾向が近代主義的であり、又は本質主義的であることには関係なく、何れも、所謂「先駆的」精神に支配されてゐることは云ふまでもない。そして此の意味に於ける「新劇運動」が我が国でも、夙に築地小劇場、心座、前衛座等の手によつて、少くとも、これらの劇団の仕事の一部として、われわれに光輝ある未来を提示してゐることは周知の事実である。
然しながら、私は、築地小劇場が、その一方に於て努力しつゝあるやうな、別の意味の、現代日本の特殊な事情が生んだ「新劇運動」――即ち、「近代劇の普及」なる一見生彩のない仕事をも甘んじて続けて行く忍耐が必要であると思ふ。
新劇協会は寧ろ、今、此の方面で、その努力を識者から認められようとしてゐる。
勿論、私なども、その当事者の一人として、此の劇団を本質的な演劇革新運動の先頭に立たせたい意気込はもつてゐるのであるが、その運動たるや、一朝一夕にして効果を挙げることは困難である。何となれば、毎に云ふ如く、その仕事は、先づ俳優の根本的訓練から始めなければならず、しかも、その訓練に適し、その訓練に堪え得る俳優志望者を得ることは、現在容易でないからである。
新劇協会は、事実、いろいろな意味で恵まれない劇団である。しかしながら、唯一つ幸ひなことには、「よきもの」であれば、何でも受け容れる劇団である。そのことだけによつて成長しようとしてゐる劇団である。一つの形式を固守しようとしないで、その流動性を活かし得る劇団である。よい仕事でさへあれば、何人がそこで、何事をしようと、それは自分の仕事と呼び得る劇団である。
さういふ種類の劇団が、日本に唯一つ存在することは、われわれ演劇研究者、乃至愛好者にとつて何と必要であり、便利であり、悦ぶべきことではないか。此の劇団の「意志」は大いに尊重されていゝものである。
われわれの仕事を目して、或は築地小劇場に対抗するものとなし、或は、「新しさ」に於てこれに及ばずと貶し去るものがあるが、築地には築地の本領があり、新劇協会には、新劇協会の本領がある。それぞれ、その本領を発揮すればよいのであつて、その一つを失ふも、日本の劇壇に取つては惜むべきことである。
新劇協会四月の公演について今日まで決定した出し物を見るがよい。先づ、久保田万太郎氏の『短夜』である。久保田氏自身の監督――此の一事だけでも築地小劇場と趣を異にしてゐる。恐らく、築地に於ても、『短夜』を「築地流」の舞台にかけることがあるかもわからない。われわれは、その何れをも同じ興味を以て見ることができやう。
次は、ジュウル・ロマンの『クノック』――訳者岩田豊雄氏の監督並びに装置である。これも新劇協会独特の上演法である。岩田氏は、長く仏国にあつて演劇の研究に没頭し、将来舞台監督として、将又装置家として、わが劇壇にその手腕を示すであらう一個の得難き才能である。氏は先づ、その籠手調べとして此の「紹介的演出」を行ふのであるが、実際的経験の浅さに於て、或は多少の「思惑違ひ」を見せはしても、純仏蘭西式舞台の味を日本の観客に「味はせる」だけの自信はあるらしい。
最後に、もう一つ何を据えるか。出演俳優の関係でまだ決定には至らないが、これも、ほかの舞台では見られない「或るもの」をお目にかけられるだらうと思ふ。
少し長々と新劇協会について語り過ぎた。尤も、その必要がなければ、此の標題は選ばなかつたかも知れない。
新劇運動の二つの道――その一つを歩む新劇協会の仕事を理解する人は、そこに足らないものを云々する前に、他に求められないのをそこに発見して満足すべきである。いや、満足せよとは云はぬ。しばらくそれで我慢すべきである。
先駆的精神は、何ものか、「既に在るもの」の上に築かるべきである。「何ものもない」といふ見方が、現在のわが劇壇に於ては許されるやうな気がする。その「何もの」かを作るだけでも、既に「一つの仕事」ではないか。
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