岸田國士全集23 |
岩波書店 |
1990(平成2)年12月7日 |
1990(平成2)年12月7日 |
1990(平成2)年12月7日 |
時・処・人 |
人文書院 |
1936(昭和11)年11月15日 |
文学といふものを専門的なものと考へる理由は十分にあるが、また、これを専門的なものではないと考へる一面がある筈である。
専門家にしか興味のないやうな文学と、専門家には興味がないやうな文学(?)とが截然と別れてゐるところに、わが国現代文化の特殊性があるとみて、私は、今日のわれわれの仕事といふものの困難を、つくづく感じるのである。
個人々々の問題はしばらく措くとして、文学者一般が、世間なるものをどんなに遠いところにおいて眺めてゐるか、世間はまた文学者なるものを、どんなに「変つた存在」として扱つてゐるか、この点、誰でもが気がついてゐるやうで、実はそれほど気にしてゐない事実を私は不思議に思ふ。
今や、文壇といふ特殊国には、世間一般に通用しない風俗習慣があり、言語があるのであつて、これに従ひ、それを重んじなければ、少くとも専門家の資格を欠くことになり、純文学は、これによつて、心境を研ぎすまし、大衆文学はこれによつて、厚化粧を施すのだとすれば、話はますますわからなくなる。
それでも、私は、純文学と大衆文学とを、こんな風に同じ垣根のうちに住はせるつもりはないのである。純文学は世間を相手とせず、大衆文学は読者本位に作られるものだといふぐらゐの区別は知つてゐる。が、ただ、世間といふものは、俗衆ばかりでできてゐないことをも知つてゐるのである。つまり、優れた文学が俗衆に容れられないからといつて、それで世間全体を軽蔑し、敵視することは当らないので、その傾向が遂に、「一般社会に話しかける言葉」を文学者から奪つたといふ観察を私は下してゐる。
これは、文学者の方にばかり罪があるのではない。「世間」にも罪があるのだが、世間は今文学などを必要と感じてゐない時代であるから、如何とも致し方がない。文学者の方で、それに気がついて、世間の注意をこつちへ向ける工夫をしなければならぬ。勿論、日本といふ国を幾分でも住みいい国にするためである。それには第一、「共通の言葉」を探すことが急務だ。文学者の興味とする興味が、甚だしく職業的、孤立的である上に、その云はうとすることが、その「云ひ方」が、どうしても隠語的、暗号的になる。普通の教養で解釈し会得し得る表現によつて、文学は成り立ち得ないであらうか?
文学者同志でなければ通用しないやうな言葉身振りが、文学そのものをいかに狭くし、時によると、どんなに無力にしてゐるかを、私は幾多の例について語ることができる。
文学の独自性といふものは、そんな狭苦しいところにあるのではない。詩や小説は、世間の何人がこれを論じてもをかしくない性質のものだ。政治家でも軍人でも実業家でも技師でも、好きな時に好きな場所で、文学の話ぐらゐできなくては困るのである。現代の日本には、それをさせない「何か」がある。空隙か、障碍か? 恐らくその両方であらう。
われ等ひと度、何人かの面前で、自分の職業を口にするや、一座の空気は忽ち凝固し、話題は一筋の糸の上を伝つて、危くトンチンカンに終るのが関の山である。そこで、われわれ文学者は今、いかなる時代に生き、いかなる役割を演ずべきかが問題となるのである。
文学に対する国家的インテレストとか、文学者の社会的地位とか、体裁ばかりがどうなつても仕方がないといふ意見も、成立つと同時に、案外そんな掛声から、実質的なものが生れて来ないとも限らないといふ見方も、信用できなくはない。日本といふ国は、由来、さういふ奇現象に恵まれた国である。かういふ情勢の中で、われわれが一番もどかしく感じるのは、例の、文学に現はれた「文壇的奇習と方言」の存在である。文学が等しく「世間」を描いて、しかも、そのうちに「世間」を住はせない狭量または潔癖である。自分のうちにないものを、あるかの如く見せる幼稚な手品は、往々にして、非文学的俗臭を放つことがある。訛る標準語と同様、世間の識者を茫然自失せしめる所以である。
実際、かういふことをむきになつて云ひ出しても、文学の面貌が一新するまでには、五十年はかかるだらう。(一九三六・一)
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