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劇作家としてのルナアル(げきさっかとしてのルナアル)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-30 13:43:55  点击:  切换到繁體中文


 外国の作品、殊に戯曲に現はれる人物のせりふを通して、その人物のコンディションを知る為めには、余程の注意と敏感さが必要である。わけても、その国の社会状態を一と通り研究することが肝腎である。
 今、此の『別れも愉し』について見ても、女の生活はすぐに解るとして、此の男が、果してどれくらゐの社会的地位乃至教養の程度を有つてゐる人物か、それがわからなければ、第一、作品を味はふことが出来ず、それをまた、誤つて解釈してゐる場合には、白の妙味は丸で消えてしまひ、却つて、不自然さや、破綻を、読者自ら作り出すことになるのである。
 例へば、此の男を、高等教育ぐらゐ受けた青年紳士とでも思ひ違へて、一々の白を追つて行くと、誠に浅間しいオッチョコチョイに見えるばかりで、あの微笑ましい喜劇味が、作者の下らない気取りとしか思へなくなるかも知れない。
 これは註釈を附するまでもなく、少し欧羅巴の都会生活、殊に巴里の生活といふことを考へたら、今日日本の知識階級の男女が好んで使ふほどの言葉は、職工や女売子が平気で日常口にしてゐる程度の言葉だといふことぐらゐわかる筈である。
 学問と頭、思想と考へ、これは別物である。現代の日本では、学問をしないと頭が出来にくい。思想がないと考へが述べられない。さういふ傾きがある。これは社会がさうなつてゐるからだ。
 もう一方、西洋では、学問のある人間と、学問の無い人間と、そんなに違つた言葉を使はない。日本ではその差がひどい。
 西洋の作家は、学問の無い人間に面白いことを言はせる。それを日本語に訳すと、日本でなら学問のある人間しか使はない言葉になる恐れがある。然し、敏感な読者は、さういふ言葉を通しても、「言はれてゐること」が、いろいろの動機から、思想や学問と縁の遠いものであることがわかつて来る。それが一つの場面を通してその人物の学問や教養の程度を決定することになるのである。
 日本の知識階級といふものが、これまた心細い知識階級で、学校で習つたこと以外に何も知らず、それさへ学校を出れば忘れてしまひ、専門的なことは兎も角も、一般常識さへ満足に有ち合はせてゐない。何を喋舌つても面白からう筈がない。その知識階級が、大きな顔をして舞台に現はれ、恋愛を論じ、生活を説き、甚しきは社会人類を憂ふるのであるから全くお話しにならない。
 僕が嘗て日本の現代生活に「芸術的雰囲気」が欠けてゐると云つたのは、そこなのである。
 作家の想像力も勿論足らないのだらう。それよりも、現代生活を形造つてゐる、われわれが、もつと頭を錬ることだ。もつと考へる力を作ることだ。もつと自由に感じ、自由に述べる事だ。その上で「言ふべきこと」と「言ひ方」との間を好みの色で塗り上げることだ。
 われわれの日常生活は、もつと深く、もつと朗らかに、もつと調子よく、もつと楽しくなるだらう――少くとも傍観者にとつて。
 劇作家は、そこから、もつと多くの霊感と暗示を受けるだらう。
 ゴオルキイの描いた『どん底』にさへ、あの深さ、あの朗らかさ、あの調子のよさ、あの楽しさがあるではないか。それは悉く芸術家ゴオルキイの創造だと云ふのでせう。よろしい。日本の「どん底」に、あの「生活そのものゝ生彩」がありますか。いやさ、あゝいふ人物が一人でも日本にゐますか。あれほど「興味のある人物」がですよ。それは、露西亜人は、あの階級の人物さへ、「考へてゐること」が面白いからです。「考へ方」が自由だからです。「考へてゐることを上手に云はせる」のは作家です。露西亜人は――日本人を除いた何処人でも――「考へてゐることを上手に云ふ」事が不自然でないのです。何故なら、彼等は、「めいめいの表現」を有つてゐるからです。日本で若し、或る劇作家が、その作品中の人物に、「考へてゐることを上手に云はせ」たら、批評家はきつと、こんな人物は日本にゐないと云ふでせう。何故なら、日本人は「めいめいの表現」をもつてゐないからです。「考へ」のニュアンスを無視してゐるからです。お座なりと口上と紋切型が多すぎるからです。感情の表現がカテゴリックだからです。
「沈黙は金なり云々」の格言は、遂に、東洋流の解釈によつて、「咄弁は美徳なり」と同義になり、やがて、「月並な文句は粗服を纏へる真理なり」と敷衍せられ、遂に「退屈な話は人類を堕落より救ふ」とまで進んで来た。
 僕は潔よく人類たることを辞退する。

 議論がやゝ矯激に失したやうである。ルナアルが小鼻を膨らましてゐるだらう。
 処で何の話しをしてゐたかと云へば、わがルナアルの戯曲についてゞある。
 戯曲の文体――つまり対話の形式はいろいろあるだらう。第一作中の人物によつて違ふ。人物のコンディションによつて違ふ。然し、それらの人物の対話を通して、「作者独特の文体」といふものが論じられる。これは作者の素質である。
 同じやうに傑れた才能を有つた劇作家が、同じコンディションの人物を描いて、之に同じ対話をさせても、作者の異つた霊感が、独自の文体を生ましめる。それが作品の色調トーンを決定する。
 ルナアルの描く人物は、必ずしも常に機智に富んだ人物ではない。ルナアル自身の眼からは、その機智すらも愚かなる衒気と見えるやうな人物が可なりある。それに、作品そのものは極めて才気煥発といふ感じがする。極めてスピリチュエルである。これは、作中の人物以上に、作者の機智が光つてゐるのである。人物の言葉に耳を澄ましてゐる作者の眼――その眼つきが、人物以上に物を言つてゐるのである。これは、ルナアルに限らず、優れた喜劇作家の眼附である。繊細な心理喜劇が往々浅薄扱ひを受けるのは、此の「作者の眼」が見逃され易いからである。
 ルナアルは断じて浅薄な作家ではない。

 芸術家としてのルナアルの偉大さは、彼が聡明なペシミストであるが為めに、たゞそれが為めに、屡々凡庸な批評家を近づけない。
 彼は叫ばない、彼は呟くのである。
 彼は泣かない、唇を噛むのである。
 彼は笑はない、小鼻を膨らますのである。
 彼は教へない、眼くばせをするのである。
 彼は歌はない、溜息を吐くのである。
 彼は怒らない、眼をつぶるのである。
 そして彼は、友と語るが如く、「観たこと」を正直に語るのである。たゞ彼は、自分が面白いと思つたことを、それだけ人にも面白く思はせる義務と呼吸とを心得てゐる。
「ね、面白いだらう」――ルナアルは、考へ込んでゐる聴手の肩を叩いて、さつさと行つてしまふのである。
 聴手は、「面白い、しかし面白いだけか知ら」と思ふのである。「面白いだけ……」では勿体ない「面白さ」――さういふ「面白さ」だけでは何故いけないのだ。
 ルナアルの芸術はそれである。
 芸術にその他のものを望むことは誤りである。その他のものを加へることは勝手である。

「大きさ」の価値に対する迷信は東洋的である。
 学問や芸術や職業の方面まで、その迷信は根を下してゐるらしい。大部の著書、大規模の作品が真価以上に珍重せられ、象の研究が蚤の研究より「大きな仕事」のやうに思はれ、同じ内科でも小児科の医者は何んとなく「小さく」思はれ、大工は指物師より、小説家は詩人より、五幕物作家は一幕物作家より、何となく「大きく」「偉く」「堂々たる」ものゝやうに思はれ勝ちである。
 この迷信は、変な儒仏流道徳と結びついて、同じ劇作家でも、悲劇作家は紳士らしく文学者らしく、真面目らしく、時によれば「偉大らしく」「神々しく」見られるやうにはなつたが、さて、喜劇作家となると、何処やら、芸人らしく、狡猾らしく、軽薄らしく、つまり「小さく」「俗つぽく」見られる傾きがある。
 なほまた、文学全般について云へば、個人を描くよりも家庭を、家庭よりも一族を、団体を、社会を、民族を、人類を、宇宙を……と、人間の数が多くなればなるほど、ミリュウの範囲が広くなればなるほど、主題がさういふ点に触れてゐればゐるほど、その作品が「厳粛らしく」思はれ、「尊く」思はれ、「有がたく」思はれ、「偉大らしく」思はれる傾向がある。文学の内容論、作品に盛られる思想云々の議論もこゝから生じるのである。学問偏重、理窟万能、謹厳第一、法螺通用……これも、つまり、抽象は具体よりも「広い」といふ迷信である。抽象は具体よりも「深い」といふ迷信である。これは北欧文学の影響も大にある。尤も、さういふ点で優れた作品が日本にはまだ一つも出てゐないやうであるが。なるほど、或る意味に於て、個人よりも人類そのものゝ方が「大きい」には違ひない。一個の魂を取扱つた作品よりも「宇宙」の神秘を取扱つた作品の方が「大きい」に違ひない。然し、それは、たゞ飽くまでも「或る意味に於て」である。
 仏蘭西文学は、殊に仏蘭西の戯曲は、広大な視野、幽遠な幻覚の上に築かれなかつたことは事実である。然し、これが為めに、芸術そのものゝ「偉大さ」、芸術そのものゝ価値を疑ふ無定見に陥つてはならない。芸術が哲学と結び、宗教と結び、科学と結び、政治と結び、社会運動と結び、それはその結び方次第で、芸術としての存在が許されるだけである。
 芸術を哲学と結んで哲学的芸術を生んだのがゲエテであるとすれば、哲学を芸術と結び芸術的哲学を樹立したのがベルグソンであらう。芸術を宗教と結び宗教的芸術乃至芸術的宗教を作つたのがトルストイだとすれば、芸術を科学と結び、科学的芸術を試みたのがルノルマンであり、芸術的科学を編んだのがファーブルであらう。
 芸術を芸術のみによつて芸術たらしめようとする類ひの作家が仏蘭西には最も多い。早く云へば分業が発達してゐる。仏蘭西は、芸術家が思想を云々する必要が無いほど学者としての思想家が多い。若輩にして思想劇などを書けば、親爺が黙つてはゐないのである。
 ある種の「思想ある芸術家」は、その思想が思想として伝へられることを恐れるが為めに、その思想は常に機智の仮面をつけて、読者の眼を欺くのである。読者はまたそこを買ふのである。
 ルナアルに於てその一人を見出す。

 ルナアルの戯曲は恐らく、彼自身、小説家の余技として、その上にあまり多くの期待をかけてゐなかつたやうに思はれる。
 自由劇場の没落後、その演劇論に一転機を与へようとしてゐたアントワアヌが、偶然、ルナアルの処女脚本『人参色の毛』を発見して膝を叩いた。何といふ美しき発見!

 僕の座談は尽きさうにもない。
 甚だ不体裁な序文であるが、今、稿を錬る暇が無い。
 始めてルナアルの戯曲を紹介する責任上、仏蘭西文学に親しみの浅い読者の為めに、ルナアルの真価が、なるべく正しく認められることを希望する余り、そして、何よりも先づルナアルが好きになつて欲しさの余り、少々出しや張り過ぎた議論にまではいつた次第である。

 最後に、重ねて云つて置く。
 僕は、ルナアルに就いて何かを言はなければならないなら、寧ろ黙つてゐたいのである。なぜなら、僕は、あまりに多く彼に傾倒し、あまりに多く彼の芸術に酔つてゐる。





底本:「岸田國士全集20」岩波書店
   1990(平成2)年3月8日発行
底本の親本:「我等の劇場」新潮社
   1926(大正15)年4月24日発行
初出:「別れも愉し」春陽堂
   1925(大正14)年5月15日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年2月18日作成
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