岸田國士全集20 |
岩波書店 |
1990(平成2)年3月8日 |
1990(平成2)年3月8日 |
1990(平成2)年3月8日 |
「我家の平和」の作者、ジヨルジユ・クウルトリイヌは、私の最も好きな近代劇作家の一人である。
彼の名は巴里に於て、甚だポピユラアであること、我が菊池寛氏の東京に於けるそれの如く、彼の芸術の特長は、わが柳家小さん、そしてわが岡本一平氏のそれに似たものがある。軽妙で、辛辣で、どこかとぼけたところがあり、痛快味と、温かな情味とが程よく入れ交り、巴里生活のあらゆる感情のニユアンスを、心憎きまでに捕へてゐる。
此の「我家の平和」は、彼の傑作の一つで、国立劇場コメデイイ・フランセエズの上演目録中に加へられてゐるので、私も、その舞台を観たことがある。
たゞ、かう云ふ脚本を演じるために、彼我の俳優は、あまりにその素質に於て異つてゐると思ふが、当協会の伊志井寛君は、比較的喜劇に適してゐるし、花柳はるみ君も、此の役なら、持ち前の溌溂さを活かし得るだらうと思ふ。
何れにしても、此の作者のものは、まだ日本の舞台に上せられたことはないのだから、新劇に興味をもつてゐる人は勿論、傾向等の点からこれまでの新劇に慊らない人は、是非一度、今度の出演を観に来てほしい。
此のフアルスの演出については、私は勿論責任を負ふつもりであるが、元来、「観る芝居」の要素よりも、「聴く芝居」の要素を多分にもつてゐる此の作者の作品(最近、巴里ラヂオ界の消息によれば、ラヂオ・ドラマとして放送された脚本中、此の作者のものがその数に於て第一位を占めてゐるさうである)――わけても、人物は二人きりといふ此の脚本の内容は、主として台詞の妙味に尽きてゐるのである。演出の上で、若し、何処かに欠点があるとすれば、それは私の不注意、不熟練に在るのであるが、若しまた、此の舞台が成功すれば、それは、云ふまでもなく、俳優の手柄である。
日本でも、そろそろ、「青年の文学」のみでなく、「壮年の文学」が要求せられてゐる。新劇の方面でも、さう云ふ要求を満たして行かなければなるまい。処が、「壮年の文学」は、兎角生活の弾力を欠くか、空想の翼を折られてゐるかしてゐるものが多い。
わがクウルトリイヌは、青年と共に哄笑し、壮年者と共に苦笑し、老人と共に微笑する体の「苦労人」であると同時に、その奔放自在なフアンテジイは、人生の悲痛な半面を描くに際しても、常に、朗らかな心境と豊かな生活力を反映させてゐる。老若男女を問はず、苟くも、「人生を批判する興味」を興味とするほどのものは、挙げて彼の作品に傾倒する所以である。
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