* * *
私がその三年程も以前のことを思ひ出したのは、今日往來で子供の喧嘩を見てからのことである。私はその喧嘩を見ていろんなことを思つた。その思ひの辿るまにまにふとその記憶にぶつかつたのだつた。
その喧嘩といふのはかうである。
私は學校から熊野神社の方へ歩いてゐた。
雨模樣の空の間から射し出す太陽がいやに蒸暑くてあの單調な路が殊更長く思へた。顏や首から油汗がねつとり滲み出てゐたが、手拭を忘れて來てゐたので、と云つても洋服の汚れた袖で拭くのはなほのこと氣味がわるく、私はやけ氣味に汗まみれであるいてゐた。晝過ぎだつた。道は小學校の生徒が四五人と中學の生徒が二三人と、そして私だけだつた。埃にまみれたポプラの葉が動かうともしない。
はじめ自分はそれをほかの事だと思つてゐた。――が、それが喧嘩だつた。
一人の運動シヤツを着た子供が小學校歸りらしい子供とつかみあつてゐる。中學の生徒が二人程、あまり熱心でもなくそれを留めやうとしてゐる。
歩きながら見てゐると、どうやら運動シヤツの子供の方が優勢らしく見えた。片方の子供はいかにも弱さうだつた。
なんとか云つてシヤツの兒が相手の脛のあたりを蹴つた。するとも一人は横面を撲つた。いかにもそれが頼りなささうで撲つたとは云へない位のものだつた。攻撃のためではなく自分の威嚴のため止むを得ずその形をしてゐる。――撲りながらも心では「もうこらへて呉れ。」と云つてゐる――といふ風に見えた。
一方は毒々しい程積極的だつた。弱い者いぢめをしてゐるにちがひなかつた。
一瞬間私は、私が幼い時經驗した無念さや恐怖を、やはりそんなに迫害されてゐる私の姿を憶ひ浮べた。
さきの方は顏を紅潮させてゐて、それが變に歪んでゐた。泣き出しさうにも見えた。然し消極的にせよ一つ一つ報いてゐた。一つに一つ。私はそれがいぢらしくて見てゐられない樣な氣がした。もうその上續けさせておき度くなかつた。
とめてやらうと思つて獨でに歩調を速めた時中學生等がやつと彼等をひき離した。
小學生の方は直ぐに、顏を少し伏せる樣にして走り去つた。――それも片足だけでけんけんをしつゝ一種踊る樣な恰好を身體につけながら。
私はその瞬間そんな恰好をせずにゐられないその兒の氣持が、私自身の氣持の樣に、ぐんと胸へ來た。
「敗けて逃ぐるのんか。何や、泣てやがる。」とそのシヤツの兒がその背後から叫んだ。
そしてそこに立つて見てゐた、その小學生の連れらしい、それもやはり學校歸りらしく鞄を下げた二三人が、獨りで走り去つた友達を追ふともなく、その後からその方角へ歩いて行つた。
――それは時間にすれば僅か二分かそこらのちよつとしたことだつた。
然し私にはそれがびんと響いた。
「男らしさ」への義理立てだけといつた風に振り上げられたその兒の弱々しい拳や、歪められた顏や、殊にけんけんで踊る樣にした恰好が何度となく眼に浮んで來た。
その兒がいぢらしくて堪らなかつた。
何だかその兒の顏が私の一番末の弟に似てゐる樣にも思へた。
「父親のない、母親だけが家に待つてゐるといふ風の兒なのぢやないか。」
そんなことまで空想したりした。
そして蒸暑い天候のことなど忘れてしまつてゐた。
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