六
母から手紙が来た。
――おまえにはなにか変わったことがあるにちがいない。それで正月上京なさる津枝さんにおまえを見舞っていただくことにした。そのつもりでいなさい。
帰らないと言うから春着を送りました。今年は胴着を作って入れておいたが、胴着は着物と襦袢の間に着るものです。じかに着てはいけません。――
津枝というのは母の先生の子息で今は大学を出て医者をしていた。が、かつて堯にはその人に兄のような思慕を持っていた時代があった。
堯は近くへ散歩に出ると、近頃はことに母の幻覚に出会った。母だ! と思ってそれが見も知らぬ人の顔であるとき、彼はよく変なことを思った。――すーっと変わったようだった。また母がもう彼の部屋へ来て坐りこんでいる姿が目にちらつき、家へ引き返したりした。が、来たのは手紙だった。そして来るべき人は津枝だった。堯の幻覚はやんだ。
街を歩くと堯は自分が敏感な水準器になってしまったのを感じた。彼はだんだん呼吸が切迫して来る自分に気がつく。そして振り返って見るとその道は彼が知らなかったほどの傾斜をしているのだった。彼は立ち停まると激しく肩で息をした。ある切ない塊が胸を下ってゆくまでには、必ずどうすればいいのかわからない息苦しさを一度経なければならなかった。それが鎮まると堯はまた歩き出した。
何が彼を駆るのか。それは遠い地平へ落ちて行く太陽の姿だった。
彼の一日は低地を距てた灰色の洋風の木造家屋に、どの日もどの日も消えてゆく冬の日に、もう堪えきることができなくなった。窓の外の風景が次第に蒼ざめた空気のなかへ没してゆくとき、それがすでにただの日蔭ではなく、夜と名付けられた日蔭だという自覚に、彼の心は不思議ないらだちを覚えて来るのだった。
「あああ大きな落日が見たい」
彼は家を出て遠い展望のきく場所を捜した。歳暮の町には餅搗きの音が起こっていた。花屋の前には梅と福寿草をあしらった植木鉢が並んでいた。そんな風俗画は、町がどこをどう帰っていいかわからなくなりはじめるにつれて、だんだん美しくなった。自分のまだ一度も踏まなかった路――そこでは米を磨いでいる女も喧嘩をしている子供も彼を立ち停まらせた。が、見晴らしはどこへ行っても、大きな屋根の影絵があり、夕焼空に澄んだ梢があった。そのたび、遠い地平へ落ちてゆく太陽の隠された姿が切ない彼の心に写った。
日の光に満ちた空気は地上をわずかも距っていなかった。彼の満たされない願望は、ときに高い屋根の上へのぼり、空へ手を伸ばしている男を想像した。男の指の先はその空気に触れている。――また彼は水素を充した石鹸玉が、蒼ざめた人と街とを昇天させながら、その空気のなかへパッと七彩に浮かび上がる瞬間を想像した。
青く澄み透った空では浮雲が次から次へ美しく燃えていった。みたされない堯の心の燠にも、やがてその火は燃えうつった。
「こんなに美しいときが、なぜこんなに短いのだろう」
彼はそんなときほどはかない気のするときはなかった。燃えた雲はまたつぎつぎに死灰になりはじめた。彼の足はもう進まなかった。
「あの空を涵してゆく影は地球のどの辺の影になるかしら。あすこの雲へゆかないかぎり今日ももう日は見られない」
にわかに重い疲れが彼に凭りかかる。知らない町の知らない町角で、堯の心はもう再び明るくはならなかった。
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