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冬の日(ふゆのひ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-30 8:12:31  点击:  切换到繁體中文

底本: 檸檬・ある心の風景
出版社: 旺文社文庫、旺文社
初版発行日: 1972(昭和47)年12月10日
入力に使用: 1974(昭和49)年第4刷
校正に使用: 1974(昭和49)年第4刷

 

   一

 季節は冬至に間もなかった。たかしの窓からは、地盤の低い家々の庭や門辺に立っている木々の葉が、一日ごとがれてゆくさまが見えた。
 ごんごん胡麻ごまは老婆の蓬髪ほうはつのようになってしまい、霜に美しくけた桜の最後の葉がなくなり、けやきが風にかさかさ身を震わすごとに隠れていた風景の部分が現われて来た。
 もう暁刻の百舌鳥もずも来なくなった。そしてある日、屏風びょうぶのように立ち並んだかしの木へ鉛色の椋鳥むくどりが何百羽と知れず下りた頃から、だんだん霜は鋭くなってきた。
 冬になって堯の肺はいたんだ。落葉が降り留っている井戸端の漆喰しっくいへ、洗面のとき吐くたんは、黄緑色からにぶい血の色を出すようになり、時にそれは驚くほど鮮かなくれないに冴えた。堯が間借り二階の四畳半で床を離れる時分には、主婦の朝の洗濯はうに済んでいて、漆喰しっくいは乾いてしまっている。その上へ落ちた痰は水をかけても離れない。たかしは金魚の仔でもつまむようにしてそれを土管の口へ持って行くのである。彼は血の痰を見てももうなんの刺戟しげきでもなくなっていた。が、冷澄な空気の底にえとした一塊のいろどりは、何故かいつもじっと凝視みつめずにはいられなかった。
 堯はこの頃生きる熱意をまるで感じなくなっていた。一日一日が彼を引きっていた。そして裡に住むべきところをなくした魂は、常に外界へ逃れよう逃れようと焦慮あせっていた。――昼は部屋の窓をひらいて盲人のようにそとの風景を凝視みつめる。夜は屋の外の物音や鉄瓶てつびんの音に聾者ろうじゃのような耳を澄ます。
 冬至に近づいてゆく十一月のもろい陽ざしは、しかし、彼が床を出て一時間とは経たない窓の外で、どの日もどの日も消えかかってゆくのであった。かげってしまった低地には、彼の棲んでいる家の投影さえ没してしまっている。それを見ると堯の心には墨汁のような悔恨やいらだたしさが拡がってゆくのだった。日向はわずかに低地をへだてた、灰色の洋風の木造家屋にとどまっていて、その時刻、それはなにか悲しげに、遠い地平へ落ちてゆく入日を眺めているかのように見えた。
 冬陽は郵便受のなかへまで射しこむ。路上のどんな小さな石粒も一つ一つ影を持っていて、見ていると、それがみな埃及エジプトのピラミッドのような巨大コロッサールな悲しみを浮かべている。――低地を距てた洋館には、その時刻、並んだ蒼桐あおぎりの幽霊のような影が写っていた。向日性を持った、もやしのように蒼白い堯の触手は、不知不識しらずしらずその灰色した木造家屋の方へ伸びて行って、そこににじみ込んだ不思議な影のあとを撫でるのであった。彼は毎日それが消えてしまうまでの時間を空虚な心で窓を展いていた。
 展望の北隅を支えているかしの並樹は、ある日は、その鋼鉄のような弾性でない踊りながら、風を揺りおろして来た。容貌をかえた低地にはカサコソと枯葉が骸骨がいこつの踊りを鳴らした。
 そんなとき蒼桐の影は今にも消されそうにも見えた。もう日向とは思えないそこに、気のせいほどの影がまだ残っている。そしてそれはこがらしに追われて、砂漠のような、そこでは影の生きている世界の遠くへ、だんだん姿をき消してゆくのであった。
 たかしはそれを見終わると、絶望に似た感情で窓を鎖しにかかる。もう夜を呼ぶばかりの凩に耳を澄ましていると、ある時はまだ電気も来ないどこか遠くでガラス戸のくだけ落ちる音がしていた。

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