檸檬 |
新潮文庫、新潮社 |
1967(昭和42)年12月10日 |
1990(平成2)年1月20日第46刷 |
一
この頃の陰鬱な天候に弱らされていて手紙を書く気にもなれませんでした。以前京都にいた頃は毎年のようにこの季節に肋膜(ろくまく)を悪くしたのですが、此方(こちら)へ来てからはそんなことはなくなりました。一つは酒類を飲まなくなったせいかも知れません。然しやはり精神が不健康になります。感心なことを云うと云ってあなたは笑うかも知れませんが、学校へ行くのが実に億劫(おっくう)でした。電車に乗ります。電車は四十分かかるのです。気持が消極的になっているせいか、前に坐っている人が私の顔を見ているような気が常にします。それが私の独(ひと)り相撲だとは判っているのです。と云うのは、はじめは気がつきませんでしたが、まあ云えば私自身そんな視線を捜しているという工合なのです。何気ない眼附きをしようなど思うのが抑ゝ(そもそも)の苦しむもとです。
また電車のなかの人に敵意とはゆかないまでも、棘々(とげとげ)しい心を持ちます。これもどうかすると変に人びとのアラを捜しているようになるのです。学生の間に流行(はや)っているらしい太いズボン、変にべたっとした赤靴。その他。その他。私の弱った身体(からだ)にかなわないのはその悪趣味です。なにげなくやっているのだったら腹も立ちません。必要に迫られてのことだったら好意すら持てます。然しそうだとは決して思えないのです。浅はかな気がします。
女の髪も段々堪(たま)らないのが多くなりました。――あなたにお貸しした化物の本のなかに、こんな絵があったのを御存じですか。それは女のお化けです。顔はあたり前ですが、後頭部に――その部分がお化けなのです。貪婪(どんらん)な口を持っています。そして解(ほぐ)した髪の毛の先が触手の恰好に化けて、置いてある鉢から菓子をつかみ、その口へ持ってゆこうとしているのです。が、女はそれを知っているのか知らないのか、あたりまえの顔で前を向いています。――私はそれを見たときいやな気がしました。ところがこの頃の髪にはそれを思い出させるのがあります。わげ[#「わげ」に傍点]がその口の形をしているのです。その絵に対する私の嫌悪(けんお)はこのわげ[#「わげ」に傍点]を見てから急に強くなりました。
こんなことを一々気にしていては窮屈で仕方がありません。然しそう思ってみても逃げられないことがあります。それは不快の一つの「型」です。反省が入れば入る程尚更その窮屈がオークワードになります。ある日こんなことがありました。やはり私の前に坐っていた婦人の服装が、私の嫌悪を誘い出しました。私は憎みました。致命的にやっつけてやりたい気がしました。そして効果的に恥を与え得る言葉を捜しました。ややあって私はそれに成功することが出来ました。然しそれは効果的に過ぎた言葉でした。やっつけるばかりでなく、恐らくそのシャアシャアした婦人を暗く不幸にせずにはおかないように思えました。私はそんな言葉を捜し出したとき、直ぐそれを相手に投げつける場面を想像するのですが、この場合私にはそれが出来ませんでした。その婦人、その言葉。この二つの対立を考えただけでも既に惨酷でした。私のいら立った気持は段々冷えてゆきました。女の人の造作をとやかく思うのは男らしくないことだと思いました。もっと温かい心で見なければいけないと思いました。然し調和的な気持は永く続きませんでした。一人相撲が過ぎたのです。
私の眼がもう一度その婦人を掠(かす)めたとき、ふと私はその醜さのなかに恐らく私以上の健康を感じたのです。わる達者という言葉があります。そう云った意味でわるく健康な感じです。性(しょう)におえない鉄道草という雑草があります。あの健康にも似ていましょうか。――私の一人相撲はそれとの対照で段々神経的な弱さを露(あら)わして来ました。
俗悪に対してひどい反感を抱くのは私の久しい間の癖でした。そしてそれは何時(いつ)も私自身の精神が弛(ゆる)んでいるときの徴候でした。然し私自身みじめな気持になったのはその時が最初でした。梅雨が私を弱くしているのを知りました。
電車に乗っていてもう一つ困るのは車の響きが音楽に聴えることです。(これはあなたも何時だったか同様経験をしていられることを話されました)私はその響きを利用していい音楽を聴いてやろうと企てたことがありました。そんなことから不知不識(しらずしらず)に自分を不快にする敵を作っていた訳です。「あれをやろう」と思うと私は直ぐその曲目を車の響き、街の響きの中に発見するようになりました。然し悪く疲れているときなどは、それが正確な音程で聞えない。――それはいいのです。困るのはそれがもう此方の勝手では止まらなくなっていることです。そればかりではありません。それは何時の間にか私の堪(たま)らなくなる種類のものをやります。先程の婦人がそれにつれて踊るであろうような音楽です。時には嘲笑(ちょうしょう)的にそしてわざと下品に。そしてそれが彼等の凱歌(がいか)のように聞える――と云えば話になってしまいますが、とにかく非常に不快なのです。
電車の中で憂鬱になっているときの私の顔はきっと醜いにちがいありません。見る人が見ればきっとそれをよしとはしないだろうと私は思いました。私は自分の憂鬱の上に漠とした「悪」を感じたのです。私はその「悪」を避けたく思いました。然し電車には乗らないなどと云ってはいられません。毒も皿もそれが予(あらかじ)め命ぜられているものならひるむことはいらないことです。一人相撲もこれでおしまいです。あの海に実感を持たねばならぬと思います。
ある日私は年少の友と電車に乗っていました。この四月から私達に一年後(おく)れて東京に来た友でした。友は東京を不快がりました。そして京都のよかったことを云い云いしました。私にも少くともその気持に似た経験はありました。またやって来た※々直ぐ東京が好きになるような人は不愉快です。然し私は友の言葉に同意を表しかねました。東京にもまた別種のよさがあることを云いました。そんなことをいう者さえ不愉快だ。友の調子にはこう云ったところさえ感ぜられます。そして二人は押し黙ってしまいました。それは変につらい沈黙でした。友はまた京都にいた時代、電車の窓と窓がすれちがうとき「あちらの第何番目の窓にいる娘が今度自分の生活に交渉を持って来るのだ」とその番号を心のなかで極め、託宣を聴くような気持ですれちがうのを待っていた――そんなことをした時もあったとその日云っておりました。そしてその話は私にとって無感覚なのでした。そんなことにも私自身がこだわりを持っていました。
二
或る日Oが訪ねてくれました。Oは健康そうな顔をしていました。そして種々(いろいろ)元気な話をしてゆきました。――
Oは私の机の上においてあった紙に眼をつけました。何枚もの紙の上に Waste という字が並べて書いてあるのです。
「これはなんだ。恋人でも出来たのか」と、Oはからかいました。恋人というようなあのOの口から出そうにもない言葉で、私は五六年も前の自分を不図(ふと)思い出しました。それはある娘を対象とした、私の子供らしい然も激しい情熱でした。それの非常な不結果であったことはあなたも少しは知っていられるでしょう。
――父の苦り切った声がその不面目な事件の結果を宣告しました。私は急にあたりが息苦しくなりました。自分でもわからない声を立てて寝床からとび出しました。後からは兄がついて来ておりました。私は母の鏡台の前まで走りました。そして自分の青ざめた顔をうつしました。それは醜くひきつっていました。何故(なぜ)そこまで走ったのか――それは自分にも判然(はっきり)しません。その苦しさを眼で見ておこうとしたのかも知れません。鏡を見て或る場合心の激動の静まるときもあります。――両親、兄、O及びもう一人の友人がその時に手を焼いた連中です。そして家では今でもその娘の名を私の前では云わないのです。その名前を私は極くごく略した字で紙片の端などへ書いて見たことがありました。そしてそれを消した上こなごなに破らずにはいられなかったことがありました。――然しOが私にからかった紙の上には Waste という字が確実に一面に並んでいます。
「どうして、大ちがいだ」と私は云いました。そしてその訳を話しました。
その前晩私はやはり憂鬱に苦しめられていました。びしょびしょと雨が降っていました。そしてその音が例の音楽をやるのです。本を読む気もしませんでしたので私はいたずら書きをしていました。その Waste という字は書き易い字であるのか――筆のいたずらに直ぐ書く字がありますね――その字の一つなのです。私はそれを無暗(むやみ)にたくさん書いていました。そのうちに私の耳はそのなかから機(はた)を織るような一定のリズムを聴きはじめたのです。手の調子がきまって来たためです。当然きこえる筈だったのです。なにかきこえると聴耳をたてはじめてから、それが一つの可愛いリズムだと思い当てたまでの私の気持は、緊張と云い喜びというにはあまりささやかなものでした。然し一時間前の倦怠(けんたい)ではもうありませんでした。私はその衣(きぬ)ずれのようなまた小人国の汽車のような可愛いリズムに聴き入りました。それにも倦(あ)くと今度はその音をなにかの言葉で真似て見たい欲望を起したのです。ほととぎすの声をてっぺんかけたか[#「てっぺんかけたか」に傍点]と聞くように。――然し私はとうとう発見出来ませんでした。サ行の音が多いにちがいないと思ったりする、その成心に妨げられたのです。然し私は小さいきれぎれの言葉を聴きました。そしてそれの暗示する言語が東京のそれでもなく、どこのそれでもなく、故郷の然も私の家族固有なアクセントであることを知りました。――おそらく私は一生懸命になっていたのでしょう。そうした心の純粋さがとうとう私をしてお里を出さしめたのだろうと思います。心から遠退(とおの)いていた故郷と、然も思いもかけなかったそんな深夜、ひたひたと膝(ひざ)をつきあわせた感じでした。私はなにの本当なのかはわかりませんでしたが、なにか本当のものをその中に感じました。私はいささか亢奮(こうふん)をしていたのです。
然しそれが芸術に於てのほんとう、殊に詩に於てのほんとうを暗示していはしないかなどOには話しました。Oはそんなことをもおだやかな微笑で聴いてくれました。
鉛筆の秀(ほ)をとがらして私はOにもその音をきかせました。Oは眼を細くして「きこえる、きこえる」と云いました。そして自身でも試みて字を変え紙質を変えたりしたら面白そうだと云いました。また手加減が窮屈になったりすると音が変る。それを「声がわり」だと云って笑ったりしました。家族の中でも誰の声らしいと云いますから末の弟の声だろうと云ったのに関聯(かんれん)してです。私は弟の変声期を想像するのがなにかむごい気がするときがあります。次の話もこの日のOとの話です。そして手紙に書いておきたいことです。
Oはその前の日曜に鶴見の花月園というところへ親類の子供を連れて行ったと云いました。そして面白そうにその模様を話して聞かせました。花月園というのは京都にあったパラダイスというようなところらしいです。いろいろ面白かったがその中でも愉快だったのは備えつけてある大きなすべり台だと云いました。そしてそれをすべる面白さを力説しました。ほんとうに面白かったらしいのです。今もその愉快が身体のどこかに残っていると云った話振りなのです。とうとう私も「行って見たいなあ」と云わされました。変な云い方ですがこのなあ[#「なあ」に傍点]のあ[#「あ」に傍点]はOの「すべり台面白いぞお[#「お」に傍点]」のお[#「お」に傍点]と釣合っています。そしてそんな釣合いはOという人間の魅力からやって来ます。Oは嘘の云えない素直な男で彼の云うことはこちらも素直に信じられます。そのことはあまり素直ではない私にとって少くとも嬉しいことです。
そして話はその娯楽場の驢馬(ろば)の話になりました。それは子供を乗せて柵(さく)を回る驢馬で、よく馴れていて、子供が乗るとひとりで一周して帰って来るのだといいます。私はその動物を可愛いものに思いました。
ところがそのなかの一匹が途中で立留ったと云います。Oは見ていたのだそうです。するとその立留った奴はそのまま小便をはじめたのだそうです。乗っていた子供――女の児だったそうですが――はもじもじし出し顔が段々赤くなって来てしまいには泣きそうになったと云います。――私達は大いに笑いました。私の眼の前にはその光景がありありと浮びました。人のいい驢馬の稚気に富んだ尾籠(びろう)、そしてその尾籠の犠牲になった子供の可愛い困惑。それはほんとうに可愛い困惑です。然し笑い笑いしていた私はへんに笑えなくなって来たのです。笑うべく均衡されたその情景のなかから、女の児の気持だけがにわかに押し寄せて来たのです。「こんな御行儀の悪いことをして。わたしははずかしい」
私は笑えなくなってしまいました。前晩の寐(ね)不足のため変に心が誘われ易く、物に即し易くなっていたのです。私はそれを感じました。そして少しの間不快が去りませんでした。気軽にOにそのことを云えばよかったのです。口にさえ出せば再びそれを可愛い滑稽(おどけ)なこと」として笑い直せたのです。然し私は変にそれが云えなかったのです。そして健康な感情の均整をいつも失わないOを羨(うらやま)しく思いました。
三
私の部屋はいい部屋です。難を云えば造りが薄手に出来ていて湿気などに敏感なことです。一つの窓は樹木とそして崖(がけ)とに近く、一つの窓は奥狸穴(おくまみあな)などの低地をへだてて飯倉の電車道に臨む展望です。その展望のなかには旧徳川邸の椎(しい)の老樹があります。その何年を経たとも知れない樹は見わたしたところ一番大きな見事なながめです。一体椎という樹は梅雨期に葉が赤くなるものなのでしょうか。最初はなにか夕焼の反射をでも受けているのじゃないかなど疑いました。そんな赤さなのです。然し雨の日になってもそれは同じ。いつも同じでした。やはり樹自身の現象なのです。私は古人の「五月雨(さみだれ)の降り残してや光堂」の句を、日を距(へだ)ててではありましたが、思い出しました。そして椎茜(しいあかね)という言葉を造って下の五におきかえ嬉しい気がしました。中の七が降り残したる[#「たる」に傍点]ではなく、降り残してや[#「てや」に傍点]だったことも新しい眼で見得た気がしました。
崖に面した窓の近くには手にとどく程の距離にかなひで[#「かなひで」に傍点]という木があります。朴(ほお)の一種だそうです。この花も五月闇(さつきやみ)のなかにふさわなくはないものだと思いました。然しなんと云っても堪らないのは梅雨期です。雨が続くと私の部屋には湿気が充満します。窓ぎわなどが濡れてしまっているのを見たりすると全く憂鬱になりました。変に腹が立って来るのです。空はただ重苦しく垂れ下っています。
「チョッ。ぼろ船の底」
或る日も私はそんな言葉で自分の部屋をののしって見ました。そしてそのののしり方が自分がでに面白くて気は変りました。母が私にがみがみおこって来るときがあります。そしてしまいに突拍子もないののしり方をして笑ってしまうことがあります。ちょっとそう云った気持でした。私の空想はその言葉でぼろ船の底に畳を敷いて大きな川を旅している自分を空想させました。実際こんなときにこそ鬱陶(うっとう)しい梅雨(つゆ)の響きも面白さを添えるのだと思いました。
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