九 常世の国
常世の国は、記録の上の普通の用語例は、光明的な富みと齢との国であつた。奈良朝以前から既に信仰内容を失うて、段々実在の国の事として、我国の内に、此を推定して誇る風が出来て来た様である。常陸風土記に、自ら其国を常世の国だとしたのは、其一例である。人麻呂の作と推測される「藤原ノ宮の役ノ民の歌」を見ても「我が国は常世にならむ」と言うてゐるのは、藤原の都の頃既に、常世を現実の国と考へてゐたからである。此等から見ると、海外に常世の国を求める考へ方は古代の思想から当然来る自然なものである。出石びとの祖先の一人たるたぢまもりが「時じくの香の木実」を採りに行つたと伝へる常世の国は、大体南方支那に故土を持つた人々の記憶の復活したものと見る事が出来る。此史実と思はれてゐる事柄にも、若干民譚の匂ひがある。垂仁天皇の命で出向いた処、還つて見れば、待ち歓ばれるはずの天子崩御の後であつたと言ふ。理に於て不都合な点は見えぬが、常世の国なる他界と、我々の住む国との間に、時間の基準が違うてゐると言ふ民譚の、世界的類型を含んでゐる事を示してゐる。浦島子の行つたのも、やはり常世の国であつた。此物語では「家ゆ出でゝ三年のほどに、垣も無く家失せめやも(万葉巻九)」と自失したまでに、彼土と此国との時間の物さしが違うてゐた。浦島の話は、更に一つ前の飛鳥の都の頃に既に纏つて居たものらしいが、早くもわたつみの宮ととこよの国とを一つにしてゐる。海底と海のあなたとに相違を考へなくなった事は、前にも述べた通りである。
常世の国を理想化するに到つたのは、藤原の都頃からの事である。道教信者の空想した仙山は、不死常成の楽土であつた。其上帰化人の支那から持ち越した通俗道教では、仙境を恋愛の理想国とするものが多かつた。我国のとこよにも恋愛の結びついて居るのは、浦島の外に、ほをりの命の神話がある。此は疑ひなく、海中にある国として居る。唯浦島と変つて居る点は、時間観念が彼此両土に相違のない事である。此海中の地は、わたつみの国と謂はれてゐる。此神話にも、富みと恋との常世の要素が十分にはひつて来てゐる。富みの豊かな側では、古代人の憧れがほのめいてゐる。海驢の皮畳を重ね敷いた宮殿に居て、歓楽の限りを味ひながら、大き吐息一つしたと言ふのは、万葉歌人に言はせれば、浦島同様「鈍や。此君」と羨み嗤ひをするであらう。ほをりの命の還りしなに、わたつみの神の釣り鈎を手渡すとて訓へた呪言は「此鈎や、呆鈎・噪鈎・貧鈎・迂鈎」と言ふのであつた。此鈎を受けとつた者は、これ/\の不幸を釣上げろと呪ふのである。其上に水を自在に満干させる如意珠を贈つて居るのは、農村としての経験から出てゐるので、富みの第一の要件を握る事になるのである。貧窮を与へる事の出来る神の居る土地は、とりも直さず、富みについても、如意の国土であつた訣である。
とこよと言ふ語が常に好ましい内容を持つてゐるに拘らず、唯一つ違つた例は皇極天皇紀にある。秦ノ河勝が世人から謳はれた「神とも神と聞え来る常世の神」を懲罰した其事件の本体なる常世神は、長さ四寸程の緑色で、黒い斑点のあつた虫だつたとある。橘の樹や蔓椒に寄生したものを取つて祀つたのである。「新しき富み入り来れり」と呼んで、家々に此常世神を取つて清座に置き、歌ひ舞うたと言ふ。巫覡の託言に「常世神を祭らば、貧人は富みを致し、老人は少きに還らむ」とあつた。かうした邪信と見るべきものだが、根本の考へは、やはり変つて居ない。常世並びに常世から来る神の内容を明らかに見せてゐる。
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