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古代人の思考の基礎(こだいじんのしこうのきそ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 15:59:55  点击:  切换到繁體中文


     七 数種の例 二

それから、日本の国では、年の考へが、まち/\であつた。其は、暦が幾度も変つた為である。天皇は、日置暦ヒオキゴヨミといふものを持つてゐられたが、後に、それが度々、変化してゐる。
その昔の暦を考へて見ると、天皇が高処に登られて、祝詞を唱へられると、春になる。初春に、祝詞が下される、と言ふのと反対であつて、天皇が祝詞をお下しになると、春になる、と考へてゐた。

商返アキカヘシしろすと、みのりあらばこそ。わが下衣 かへしたばらめ(万葉集巻十六)

商返を、天皇がお認めになる、と言ふ祝詞が下つたら、私の下衣を返して貰ひませうが、お生憎さま。商返の祝詞がございませんから、返して頂く訣にはゆきません、と言ふのである。
商返は、日本の歴史の上では、長い間隠れてゐた。歴史の上に見えないと言ふ理由で、事実が無かつたと思ふのは、早計に過ぎる。室町時代以後になつて、徳政と言ふ不思議なことが、突然記録に現れて来たが、此は今まで、記録にも歴史にも現れずに、長い間、民間に行はれてゐたのが、時代の変化に伴うて、民衆の力が強くなつて来たので、歴史の表面に出たのである。
商返と言ふのは、社会経済状態を整へる為、或は一種の商業政策の上から、消極的な商行為であつて、売買した品物を、ある期間内ならば、各元の持ち主の方へとり戻し、又契約をとり消すことを得しめた、一種の徳政と見るべきもので、此がちようど、夫婦約束の変更、とりかはした記念品のとり戻しなどに似てゐるので、一種の皮肉な心持ちを寓して、用ゐたのである。
かうした習慣の元をなしたのは、天皇は一年限りの暦を持つて居られ、一年毎に総てのものが、元に戻り、復活すると言ふ信仰である。此信仰は続いてゐたが、事実を見ると、人間は生きてゐて変らない。其処に、信仰と現実との矛盾を感じて来た。其でも地方では、売買貸借で苦しめられて、やりきれないので、十年目とか、二十年目とかに一度、と言ふ風に、近年までやつてゐた。土地をきりかへて、班田法のやうな方法によつて、分けてやるのである。江戸時代の末まで行はれてゐたが、明治になつて、絶えて了うた。万葉時代に、事実行はれてゐたのか、それとも、伝説となつてゐたのか、不明ではあるが、商返と言へば、皆に意味が訣つたのである。男女契りを結ぶと、下の衣を取りかへて著た。著物は、魂の著き場所で、著物を換へて身に著ける、と言ふ事は、魂を半分づゝ交換して著けてゐる事である。魂を著物につけて、相手に預けてあるので、衣服を返すと、絶縁したことになる。此処に引いた歌は、軽い洒落で、半分嫉妬し、半分笑うてゐる、おどけた、つまらない歌である。併し此歌で見ても、徳政の起原の古いことが知れる。
明治初年まで、年が悪くて、稲虫がついたとか、悪疫が流行したとかすると、盆に、二度目の正月をしてゐる。暑いのに、門松を立てゝ、おめでたうを交してゐる。すると、気持ちがよくなると共に、総てが新しくなる、と考へてゐた。
正月について考へて見ても、正月の中に、正月を重ねてゐる。元日に続いて、七日正月を迎へ、更に十五日を、小正月と言うてゐる。古来の暦法と、其後に這入つて来た暦との矛盾が、其処に現れた為である。十五日は、支那の暦法でも上元の日で、重く見られてゐる。その印象が、人の頭を支配してゐた。古い時代の暦に較べて、新しい暦法では、正月を早くしてゐる。けれども、昔の正月として、上元の日を定めて、農村では守つてゐた。
地方によると、立春の日を正月と考へ、又七日も正月としてゐる。信州の南の方では、正月元日から、十五日までの間に、正月を四五回繰り返してゐる。従つて、歳暮・大晦日・節分等も、度々やつてゐる。此考へ方は、近世から起つたことではなく、大昔からあつた。暦が、幾度にも渡来したばかりでなく、日本人は、何度も繰り返さなければ、気が済まなかつたのである。
初春には、常世国から、神が渡つて来た。春の初めに行はれる春田うちは、信州にもあるが、此時は、爺婆の姿か、普通の男女の形かで出て来て、田を耕し、畔を塗り、苗を植ゑる形をして、雪中に松を刺して、稲が出来たなど言うて喜ぶ。一年中の事を、とり越してやつて見せると、土地の魂が、其様にしなければならないと感じて、春田うちにやつたとほりに、農作の上に実現して呉れると考へた。初春に、一度すればよい訣であるのに、気がすまないので、田植ゑにやり、更に二百十日・二百二十日前後にやつてゐる。其頃になると、神嘗祭りに近づいて来る。
天皇が、初春の祝詞を下される時には、必復活の形をとつて、高御座にのぼり給うた。実際は、お生れになつた形を、とらなければならなかつたのである。
昔の考へ方は、堂々めぐりをしてゐて、一つ事をするのには、其に関聯した、いろんな事をせねばならなかつた。天皇初春の復活に際しても、皇子御降誕の時の形式をとつて、大湯坐オホユヱ若湯坐ワカユヱ飯嚼イヒガミ乳母チオモがお附きする。この大湯坐は、主として、皇子に産湯をつかはせる役目をするもの、若湯坐も同様である。飯嚼は、食物を嚼んで、口うつしに呉れる者、乳母は、乳をのませる者である。この形を繰り返してせなければ、完全な式ではない。それを後世からは、この形式を、或天皇がお生れになつた時の事を伝へてゐるのだ、と考へてゐるが、これは或天皇に限つた事ではなく、常に行はれてゐる事であつた。初春ばかりでなく、祭りの時は、何時でもこの形式を執つた。
更に不思議なことがある。天皇が高所に登つて、祝詞を下すと、何時でも初春になり、その登られた台が、高天原になつて了ふ。此信仰が、日本神道の根本をなしてゐる。此を解かないから、神道の説明は、何時でも粗略なものになつてゐる。台に登つて、ものを言はれると、地上が高天原となる。この時、天皇は天つ神となる。大和及び、伊予の天香具山アメノカグヤマ、同じく大和の天高市アメノタケチ、近江のやす川などの名は、皆天にある名を移したのである。後になると、忘れられて、天から落ちて来たものだ、と考へるやうになつた。
奈良朝のものゝ断篇だ、と言はれてゐる、伊予風土記の逸文に、天香具山は、伊予にもあると記して、天上のものが二分して、大和と伊予とに落ちて来た、と考へてゐるが、此は、後代の説明である。
宮廷の祭りの時に、天上と地上とを同じものと感じ、天上の香具山と見做された処が、大和・伊予にある香具山である。天の何々と呼ばれてゐるところは、天上と地上とを同じものと見た時に、移し呼ばれた、天上の名前である。
天子は常に、祭りをなさつてゐる為に、神か人か、訣らなくなつてゐる位、天上の分子の多いお方である。後世――と言うても、奈良朝頃――は常識的に、現神と言うてゐるが、古代にあつては、神であり、神の続きと見てゐる。
此処で、天子の意味を考へて見たい。
天皇は、天つ神の御言を、此土地にもつて来られたお方である。昔は、言葉によつて、物事が変化する、と言ふ言霊コトダマの信仰をもつてゐた。言霊は単語、又は一音にあるやうに、古く神道家は解いてゐたが、文章或は、その固定した句に於て、はじめてある事実である。文章に、霊妙不可思議な力がある、と言ふ意味からして、其が作用すると考へ、更に、神の言葉に力があるとし、今度は語の中に威力が内在してゐる、と考へた。其を言霊と言ひ、其威力の発揚することを、言霊のさきはふ(又は、さちはふ)と言うた。
天皇は、天上の神の御言詔ミコトを伝達して、其土地の人、及び、魂に命令せられる。其間は、天神と同じになられるのである。
上使が「上意なれば座に直る」などゝ言ふのも、此と同じことである。天皇には、神聖な瞬間が続いてゐるのだから、神であるが、元は、御言詔持ミコトモちであらせられた。天神の御言詔どほり、其土地に実現なさるのである。
其が後には、天皇の為に、更に御言詔伝達ミコトモチを考へて来た。かうして、実権は次第に、低い位の者の手に下つて行き、武家時代には所謂、下剋上――易経の語を借りて――と言ふ事が、現れて来る。此は、上位の人と、下の者とが、同格になる時があつたのである。
天皇は、天つ神とは、別なお方であるが、同格になられる事があるので、我々の信仰では、天皇と、天つ神とを分つことが、出来なくなつてゐる。ところが、天皇と神との間に、仲だちといふものを考へて来た。信仰上の儀礼で、介添への女がゐる。天皇は、瞬間々々に神となられるが、其より更に、神の近くに生活し、直接に、神の意志を聴くものである。

 ┌a'
a┤↑
 └b

aは天つ神。a'は其御言詔持ちなる地上の神。bは介添への女性。a'に仕へねばならない尊貴族、最高位にいらつしやる方に当るbと言ふものは、信仰的にはaの妻であるが、現実的には、a'の妻の形をとる。祭りの時も、此形式をとるものである。
宮廷で、神を祭るのは天皇で、神来臨は、信仰の上のことであつて、神主が即、神であつた。今の神主は、昔の斎主イハヒヌシに当るものである。神其ものが神主で、神職は斎主の地位に下つたのである。神祭りの時には、主上は神主であると同時に、まれびとであつて、非常に神秘なことである。だから結局、自問自答の形式も、お在りになることゝ察せられる。今日の我々の、窺ふことの出来ない、不思議なことであるが、此が当然の事と考へられてゐた。只今から考へると、矛盾が沢山あるが、古代生活の感情の上の論理では、差し支へがなかつたのである。比論法の誤りに陥つてゐるが、此が日本の、根本の論理である。
天竺の因明インミヤウが、日本に渡り、又支那から、新しい衣を著た因明が、輸入せられて、支那風と、仏教其まゝの論理学とが、日本古来の論理を訂正して来たが、其処に、矛盾を生じて来た。暦法の上でも、新・旧・一月おくれの三通りの暦を、平気で用ゐて、矛盾したことをしてゐる。最後に這入つて来たのが、西洋の論理学――此とても、天竺の因明が、希臘に這入つて、変化したものに違ひないが――であつた。
この因明的の考へ方で言ふと、日本古代の論理は、感情の論理である。外国の論理学が這入つて来なかつたら、別の論理学が、成立してゐたかも知れない。前述のことも、現代の環境・論理で考へるから、不思議なのである。此は、大切な問題だとおもふ。
日本の信仰には、女神の信仰があるが、私の考へでは、女神は皆、もとは巫女であつた。此処に、永久に論断を下すことの出来ない仮説を申してみると、天照大神も最高至尊の地位にあらせられた、女神である。この仮説への道筋を述べて見よう。
記・紀を見ると、天照大神の蔭にかくれてゐる神がある。たかみむすびの神(たかぎの神とも)と言ふ神である。何の為に、此神が必要なのであらうか。日本の古い神道で、此事を考へなければならない理由がある。此神が何時も、天照大神の相談相手になつてゐられる。天照大神は、日の神ではなく、おほひるめむちの神であつた。
此神には、おほひるめの神・わかひるめの神と二種あつて、前者は御一方、後者は沢山あつた。すさのをの命が、斑馬の皮を斎服殿イミハタドノに投げ込まれた時に、気絶したのは、わかひるめの神であつた(日本紀一書)。
ひるめと言ふのは、日の即、日の神の・后と言ふことである。ひるめは、である。水の神の后を、みぬめ又は、みるめと言ふのと同じである。
出雲国造神賀詞カムヨゴトに、

此方コチカタノ古川岸フルカハギシニ生立オヒタテル若水沼間ワカミヌマノ……

と見えてゐる。神賀詞自身「若水沼間」を植物と解してゐる。日本紀の神功皇后の巻には、みづはとあつて、みづ/″\しい草葉のことになつてゐるが、よく討ねて見ると、水の神に仕へる、女の神の名前であつて、同時に、禊ぎの時に、何時も出て来る神であつた。みぬめ又はみるめで、水の妻即、水の神の后である。即ひるめは、疑ひもなく、日の神の后の意であらう。
其が次第に、信仰が変つて来ると、日の神に仕へてゐる最尊貴な、神聖な神の后を、神と考へる様になつた。私の考へでは、天照大神も、かうした意味の神である。此点で、社々にある姫神と、同じに考へることが出来ようと思ふ。神典を見ても、大神は始終、たかみむすびの神に御相談なさつていらせられる。此たかぎの神が、日の神かどうかは、此処では触れないでおく。

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