ちはやぶる神の社しなかりせば 春日の野辺に 粟蒔かましを(万葉集巻三)
春日野に、社がなかつたならば、粟を播かうものを。即、ほんとうの奥さんが無かつたら、私があなたの奥さんにならうものを、と皮肉に言うた、といふ風に釈かれてゐるが、此だけの解釈に、満足してはゐられない。神の社といふのは、今見る社ではなく、昔は所有地を示すのには、縄張りをして、野を標めた。其処には、他人が這入る事も、作物を作る事も出来なかつた。神のやしろといふのも、神殿が出来てゐるのではなく、空地になつてゐながら、祭りの時に、神の降りる所として、標の縄を張つて、定めてある所を言ふ。その縄張りの中には、柱が立てゝある。
日本紀を見ると、いざなぎ・いざなみの二神が、天御柱をみたてゝ、八尋殿を造られたとある。これ迄の考へでは、柱を択つて立て、そして、御殿を造つたとしてゐるが、みたてると言ふことは、柱にみなして立てる、と言ふ意である。仮りに、見立てるのである。此は、大嘗宮にも、伊勢皇太神宮の御遷宮の時にも、建築に関係のない斎柱(忌柱とも書く。大神宮の正殿の心の柱)と言ふものを立てゝ、建て物が出来た、と仮定してゐるのでも、この意味だといふことが、想像出来る。即、柱を立てると、建て物が出来た、と想像し得たのである。斎柱の立つてゐる所がやしろで、其処へ殿を建てると、やしろではなく、みやとなる。神聖な方の住んでゐられる所は、みやである。
これの一番、適切に残つてゐるのは、諏訪である。諏訪明神で、七年目毎に行はれる御柱祭りは、元の意味は訣らなくなつてゐる。其は、大陸地方の習慣である、と言ふ人もあるが、誤りである。宮を造営するに先だつて、やしろを標め、神のゐる所を作るために、柱を立てるのである。もつと簡単なのは、標め縄を張るだけである。こゝに立てる柱は、一本でもよいのに、諏訪では、四本立てゝゐる。此は、古い形を遺して、適確なやしろの信仰を伝へてゐるのである。もつと溯ると、一本で、斎柱と同じであつたらう。諏訪の御柱も、宮には関係がない。此処にもほんとうは、宮を建てる前に、やしろだけの時代があつたのかも知れない。
不思議なもので、柱さへ立てば、家が建つたと同じに見立てたので、いざなぎ・いざなみ二神の章の、天御柱をみたてたと言ふのも、此意味である。神典の書き留められた時分になつては、神聖な語として伝へられたが、其本意は、既に忘れられて、立派な御殿を見立てたと考へてゐる。
八尋殿をお建てになつて、天御柱を廻つて、夫婦の契りをなさつたと言ふ。此は不思議なことで、新しく結婚して、夫婦になると、家を建てる。此を妻屋(又、嬬)と言ふ。万葉にもある。妻屋を建てなければ、正式に結婚した事にはならない。結婚する為に、家を建てるのは、いざなぎ・いざなみ二神の故事によつて、柱を廻るのに、傚うたのである。特に、新夫妻の別居を造る、と言ふ意味ではない。此が逆に新屋を建てると、新しい夫婦を造つて、住はせなくては、家を建てた、確実な証拠にはならない、と言ふ考へを導いて来る。夫婦になる為に家を建て、家を建てる為には、夫婦を造らなければならない、と言ふ変な論理である。日本では、逆推理・比論法を平気でやつてゐたのである。をかしいながら、理窟が立つてゐる。
いざなぎ・いざなみ二神が、神々をお産みになつた後、大八島をお産みになつた、と言ふことは、信仰だからいゝのだ、とだけでは済まされないので、説明するのに、ちよつと困る話である。肉体を持つた神が、何故に土地を産むのか。其が神聖なのだ、と言うたゞけでは通らない。日本紀に、淡路島を胞として、大八島を産まれた、と明らかに書いてある。長兄・長女を兄と言うた。其で此処も、淡路島を最初に産んだ、と解釈してゐる。其様な無理な解釈でよいならば、文字はいらない。土地を産む時には、淡路島を胎盤としてお産みになると考へてゐた。つまり、腹が別なのである。昔の人としては、よく考へてゐたのだ。
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