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古代人の思考の基礎(こだいじんのしこうのきそ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 15:59:55  点击:  切换到繁體中文


     三 惟神の道

主上の行為を、神ながらといふ。神として・神のゆゑ・神のせいと言ふ意味で、神のまゝ、と言ふ事ではない。ながらは、のからで、神のせいで、さういふ事をする、といふのである。惟神の文字の初めて見えたのは、日本紀孝徳天皇の条で、又随神とも書いてゐる。主上が、神として何々をする、と言ふ時には惟神、神の意志のとほりに行ふ、と言ふ時には随神と書いたやうである。
万葉集などにある、惟神の用語例が、最古のものだ、と考へてゐる人もあるが、さうは思はない。万葉集に見える例も、浮動してゐるので、記・紀・万葉等の用語例を、日本最古のものとする考へ方は、よくないと思ふ。もつと前に、もつと古い意味があつたのが、幾度か変化して後、記・紀・万葉等に記録せられたのである。惟神にあつても、万葉集に出てゐるから、其が本義だ、と考へる人もあるが、其は日本の国語の発達の時代を、あまりに短く、新しく見過ぎてゐる。
惟神の意味をくにしても、記・紀・万葉等で訣らぬところは、新しい学問の力を借りて、民俗を比較研究した上に、古い用語例を集め、此と照合して、調べて行かなければならない。古い神道家の神道説はまだよいが、新しいのは哲学化し、合理化してゐる。其代表とも見るべきは、筧克彦博士の神道である。其は、氏一人の神道であり、常識であるに過ぎないので、残念ながら、いまだ神道とは、申すことが出来ないのである。
神ながらの道は、主上としての道であつて、我々の道ではない。類聚三代格に、出雲国造――政治上の権力と関係のない所は、国造と称することを、黙認してゐた。後には、公に認められた――筑前宗像国造が、采女と称して、国の女を召して自由にしてゐたのを、不都合だとして、禁止されたことが見えてゐる。当時にあつては、国造が、采女を自由にするのは、当然のことであつた。宮廷にあつても、現神として、天皇は、采女に会はれたのである。其生活を、前記国造等が、模倣してゐたのである。宮廷の神道が盛んになつて、出雲国造等の、言はゞ小さな神ながらの道と言ふべきものが、禁ぜられたのである。国造等の行うた、小さな神ながらの道も、神主たちにはあつても、民間にはなかつたのである。
主上が神祭りの時に、神として行為せられるのが、惟神の道であつた。処が主上は、殆一年中、祭りをしてゐられるので、神と人との区別がつかなくなつた。神道家は、現神アキツミカミを言語の上の譬喩だ、と思うてゐるが、古代人は、主上を、肉体をもつた神すなはち現神と信じてゐたのだ。
惟神の道とは、今述べて来たやうに、主上の神としての道、即主上の宮廷に於ける生活其ものが、惟神の道であつた。今では、神道を道徳化してゐるが、何事でも、道徳的にのみ、物を見ると言ふ事は、いけない事である。道徳以上の情熱がなくては、神社は、記念碑以外の何物でもなくなつて了ふ。今日考へられてゐる神道は、もつと道徳以外に出て、生活其物に、這入つて来なければならない。宮廷の生活だと言うても、道徳的なことばかりでなく、いろ/\な生活があつたのである。
神道の長い歴史の上から見ると、既に澆季の世のものである万葉集に、人麻呂は大宮人・労働者の区別なしに、その行為してゐることを「神ながらならし」と歌うてゐる。主上の御行動は、すべて惟神と感じ、毫も、道徳的には見てゐないといふ事は、我々も、惟神について、もう一度、考へ直して見ねばならぬ事実である。日本の神道は、新しく研究する余地の十分あるもので、国学の先輩によつて、研究し尽されたものではない。又、哲学的・倫理学的に見ることが、今直に、正しい見方だ、とする事は出来ないのである。

     四 古代詞章に於ける伝承の変化

語原解剖から、物の本質を定める事は、危険の伴ふものである。そして、或一方面から、明りがさして来たやうに思はれる。今までは、祝詞・古事記等の文章は、其自身完全なものであつて、解釈出来ないのは、我々の方が未熟なのだ。鈴木重胤・本居宣長に訣らなかつた所は、古く解釈する鍵が、既に失はれてゐて、如何とも出来ない。時代の故だと考へてゐた。
併し此は、速断から来る誤りに陥つてゐる。祝詞・古事記等を比較すれば、訣ることであるが、文中既に、矛盾が沢山ある。譬へば、天御蔭アメノミカゲと言ふ語は、祝詞だけでも、四種の用例がある。大和の如き、訣りきつたやうな語も、記・紀・万葉・祝詞と辿ると、四五種以上、意義の変化がある。其を比較すると、意義の変化につれて、用ゐられた時代の、異つてゐることが訣る。
祝詞の如きは、神代乃至は、飛鳥・藤原時代以来、伝つてゐる古いものだ、と考へられてゐるが、此は奈良朝の末から、平安朝の初め百年頃までに、出来たものである。延喜式祝詞は、全部新作とは言へないまでも、平安朝に這入るまでに、幾度か改作せられてゐる。古い種をもつてゐながら、文章は、新しいのである。新古、入り混つてゐるのに、何を標準として、解釈したらよいか。神代の用法も、飛鳥・藤原・近江、下つては、奈良・平安の用法も混つてゐる。其も純粋に、時代々々の語を用ゐてゐるのならばよいが、まじなひのやうに、伝承してゐる中に、意味が訣らなくなる。すると、訣らせる為に、時代の解釈の加つた改作をする。語についての考へが、変化して了ふのである。
此種の改作は、一再ならず、度々行はれたものと思はれる。自然の間に起る、語意の変化の外に、忘れられて、訣らなくなつてから加へられた、其時代の合理観があるのである。故に、文章や単語に、誤りがある。若し其がないならば、禍津日神・直日神の出て来る訣がない。
允恭天皇の世、大和国味白檮岡アマカシノヲカ言八十禍津日前コトノヤソマガツヒノサキで、探湯クガタチをしたことがある。家々の系図ツギブミ――古くはつぎ、記録になつたのがつぎぶみ、後にはよつぎと言ふ。天皇では、ひつぎ又はあまつひつぎといふ――の、正邪を判断する為に、其を口に唱へさせながら、手を湯につけさせた。即、当時にあつても、伝承による言葉に、誤りあることを知つてゐたのである。
天孫降臨の章は、大切な所であるが、尚、古事記・日本紀・日本紀一書皆、おなじ言葉の伝へが、区々である。日本紀は、漢文で書いたものであるが、其天孫が、日向へ下られた道筋の大切なところは、日本語でうつしてゐる位である。語部の伝ふべき一番大切な言葉が、固定した為に訣らなくなり、神聖な言葉なので、改作もせなかつたが、伝へを異にするやうになつた。或家の伝として、三種又は、四種の伝へがあるが、皆訛つてゐる。此様に、変つて行くのであるから、単語の変るのは、当然のことであつた。
今日残つてゐる、祝詞の最古いのは、延喜よりもつと早く、書き留められたものであらうが、新しい息のかゝつてゐないものはない。平安朝の末になつて、不思議にもたゞ一つ、古い祝詞が、偶然と言うてよい事情によつて残つた。宇治の悪左府藤原頼長の書いた「台記」の中に、近衛天皇の大嘗祭の時に、中臣氏の唱へた寿詞――中臣天神寿詞――が、記してある。天神寿詞といふものが、此他にも、古い家に伝つてゐたであらうが、神秘を守つた為に、亡びて了うた。氏の長者としての勢力によつて、大中臣――藤原氏が分れてから、中臣は、大中臣と称した――に伝つてゐた神秘な寿詞をも、書き留めることが出来たのである。
頼長によつて亡びずに済んだ、この中臣天神寿詞も、古い形その儘ではなく、代々少しづゝ、変化させてゐることゝ思ふ。此寿詞も、最神秘なところは、書き漏してゐて、伝へてゐない。
延喜式祝詞は、公の席上で述べることの出来るものだけで、神の内陣で、小声で唱へる神秘な語、即、宮廷の采女等によつて、神秘が守られてゐたものは、亡んで了うた。亡びない迄も、固定して訣らなくなり、或は改作せられて、半分訣つたものとなつた。訣り過ぎると、神聖味が薄くなると思うたのであらう。
古事記・日本紀ともに、其文章は、同時代のものを記してゐる、とは言へないばかりでなく、此事を頭に入れて置かなくては、国語の研究は行きづまる。此点を突き破ると、国語・国文及び、日本神道の研究も、変つて来ると思ふ。此までの研究は、余りに常識的な、一時代前の研究を、基礎としてゐたのである。

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