三
種族の歴史は、歴史として傳へられて來たのではない。或過程を經た後、「神言」によつて知つたのである。其すら、神の自ら、如何に信仰せられて然るべきかを説く爲の、自敍傳の分化したものであつた。祭祀を主とせぬ語部が出來ても、神を離れては意味がなかつた。單に、史籍の現れるまでの間を、口語に繋ぎ止めた古老の遺傳ではなかつたのである。信仰を外にしては、此大儀で亦空虚にも見える爲事の爲の、部曲の存在をば、邑落生活の上の必須條件とする樣になつた筋道がわからない。其に又、人間の考へ通り自由に、其詞曲を作る事が許されて居たのなら、子代部・名代部の民を立てる樣な方法は採らなかつたであらう。
國と稱する邑々が、國名を廢して郡で呼ばれる樣になつても、邑の人々は、尚、國の音覺に執着した。私に國を名のり、又は郡を忌避して、縣を稱して居た。其領主なる國造等は、郡領と呼び易へる事になつても、なほ名義だけは、國造を稱へて居たのが、後世までもある。けれども、さうした國造家は、神主として殘つたものに限つて居る。邑々の豪族は、神に事へる事によつて、民に臨む力を持つて居た。其國造が、段々神に事へる事から遠ざかつても、尚、神主として、邑の大事の神事に洩れる事が出來なかつた。さういふ邑々を一統した邑が、我々の倭朝廷であつたのである。
一つの邑の生活が、次第に成長して、一國となり、更に、數國數十个國の上に、國家を形づくる事になつた。こんなにまで、所謂國造生活が擴つても、やはり他の邑の國造とおなじく、神事を棄てゝ了ふ訣にはいかなかつた。今もさうである樣にある時期には、神主としての生活が、繰り返されねばならなかつた。古い邑々の習慣が、祖先禮拜の觀念に結びついて、現に、宮中には殘つて居るのである。さうした邑々の信仰が、一つの邑の宗教系統に這入つて來る樣になる。倭朝廷の下なる邑として、單なる、豪族となつても、邑々時代の生活は易へなかつた。殊に經濟組織に到つては、豪族として存在の意義が其處に繋つて居るのだから、革まることはなくて續いて居た。難波朝廷(孝徳帝)から半永久的に行はれた政策の中心は、此生活を易へさせる事であつた。此がほゞ根本的に改つて來たのは、平安朝に入つて後の話である。
邑と豪族とを放し、神と豪族との間を裂くと言ふ理想が實現せられて、豪族生活が官吏生活に變つて了うても、元の邑の自給自足の生活は、容易に替らなかつたのである。
邑々に於ける國造は、自分の家の生活を保つ爲に、いろんな職業團體――かきべの民――を設けて、家職制度を定めて居た。奈良朝になつてからではあるが、才能の模樣では、所屬以外の部曲に移した例はある。朝妻ノ手人である工匠が、語部に替る事を認可せられた(續紀養老三年)のは、社會組織が變つた爲ばかりでなく、部曲制度が、わりに固定して居なかつた事を見せて居るのであらう。
朝妻ノ手人から語部に替ると言ふのは、聲樂の才を採用したものであらう。其外に尚、血統の上の關係があるかも知れぬ。唯、諳記力の優れて居たのだらうと言ふ想像は、語部の敍事詩をとり扱うた方法に、理解がないからである。稗田ノ阿禮が古事記の基礎になつて居る敍事詩を諳誦したと言ふのも、驚くに當らぬことである。
語部の諳誦した文章は、散文ではなかつたのである。曲節を伴うた律文であつたのだから、幾篇かの敍事詩も容易に諳誦する事が出來たはずである。邑々の語部が、段々保護者たる豪族と離れねばならぬ時勢に向うて來る。豪族が土地から別れる樣になるまでは、邑々の語部は、尚、存在の意味があつたのである。神と家と土地との關係が、語部の敍事詩を語る目的であつた。家に離れ、神に離れた語部の中には、土地にも別れねばならぬ時に出くはした者もある樣である。自ら新樣式の生活法を擇んだ一部の者の外は、平安朝に入つても、尚、舊時代の生活を續けて居た事と思はれる。
日本歌謠のおほざつぱな分類の目安は、うたひ物・語り物の二つの型である。敍事風で、旋律の單調な場合が「かたる」であり、抒情式に、變化に富んだ旋律を持つた時が「うたふ」である。此分類は、長い歴史ある、用語例である。物語と言ふ語も、後には歴史・小説など、意義は岐れて來たが、單に會話の意味ではない。此亦古くからある語で、語部の「語りしろ」即敍事詩の事なのである。
語部の曲節に、音樂として、さほどの價値があつたらうとは考へられない。けれども、出發點から遠ざかつて固定を遂げる間に、若干の藝術意識は出て來た事と思はれる。文字や史書が出た爲に、語部が亡びたとは言へない。眞の原因としては、保護者を失うた外的の原因のほかに、藝術的内容が、時代とそぐはないものになつたと言ふ事が考へられる。語部の物語が段々、神殿から世間へ出て來た時代が思はれる。家庭に入つて諷諭詩風な效果を得ようとした事も、推論が出來る。一族の集會に、家の祖先の物語として、血族の間に傳る神祕の記憶や、英邁な生活に對するを新にした場合なども、考へることが出來る。神との關係が一部分だけ截り放されて、藝術としての第一歩が踏み出されるのであつた。書物の記載を信じれば、藤原朝に既に語部が、邑・家・土地から游離して、漂泊伶人としての職業が、分化して居た樣に見える。
落伍した神人は、呪術・祝言其他の方便で、口を養ふ事は出來る。かうして、家職としての存在の價値を認めない、よその邑・國を流浪してゆくとなると、神に對しての敍事詩と言ふ敬虔な念は失はれて、興味を惹く事ばかりを考へる。神事としての墮落は、同時に、藝術としての解放のはじめである。かう言ふ人々が、奈良から平安になつても、幾度となく浮浪人の扱ひは受けないで、田舍わたらひをした事と思ふ。併し、今一方、呪言系統の文藝の側にも、かうした職業の發達して來る種はあるのである。
「神言」に今一つの方面がある。神が時を定めて、邑々に降つて、邑の一年の生産を祝福する語を述べ、家々を訪れて其家人の生命・住宅・生産の祝言を聞かせるのが常である。此は、神の降臨を學ぶ原始的な演劇に過ぎない。
以前、私の考へは、呪言と敍事詩とを全く別な成立を持つものとしての組織を立てゝ居た。其は生産其他を祝福しに來る神の託宣と、下の事實とを關聯させないで居た爲であつた。
生命・生産を祝福する神の語が、生産物に影響を與へると言ふ觀念が、一轉して人間の言語で、祝福しようとする形式をとつて來るのである。
近世まであり、現にありもするほかひ・ものよし・萬歳などは、神降臨の思想と、人のした祝言の變形である。
萬歳の春の初めの祝言は、柱を褒め、庭を讚へ、井戸を讚美する。其讚美の語に、屋敷内の神たちをあやからせ、かまけさせようと言ふ信仰から出てゐる。單に現状の讚美でない。ほむ・ほぐと言ふ語は豫祝する意味の語で、未來に對する賞讚である。其語にかぶれて、精靈たちがよい結果を表すものと言ふ考へに立つて居る。言語によつて、精靈を感染させようとする呪術である。其上に言語其物にも精靈の存在して居るものと信じて居た。「言靈さきはふ」と言ふ語は、言語精靈が能動的に靈力を發揮することを言ふ。言語精靈は、意義どほりの結果を齎すものではあるが、他の精靈を征服するのではない。傳來正しき「神言」の威力と、其詞句の精靈の活動とに信頼すると言ふ二樣の考へが重なつて來て居る樣である。
呪言は古く、よごとと言うた。奈良朝の書物にも、吉事・吉言など書いて居るのは其本義を忘れて、縁起よい詞などゝ言ふに近い内容を持つて來たのであらう。壽詞と書いて居るのは、ほぐの義から宛てたのではなく、長壽を豫祝する「齡言」の意味を見せて居るのだ。併し、それよりも更に古くは「穀言」の意に感じても居、眞の語原でもあつたらしい。世が「農作の状態」を意味することは、近世にも例がある。古くは穀物をよと言うたのである。即、農産を祝ぐ詞と言ふ考へから出たらしい。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
上一页 [1] [2] 尾页