五 淡路・西の宮と人形との関係
淡路島と人形との関係は、次の様に考へて見たい。淡路島に、西の宮の神人が居つて、其が、西の宮の祭礼に参加する事、恰も古代の邑々に於て、海岸から離れた洋上に、神の島があり、其所から、神の来り臨むやうであつたのだと思ふ。そして、人が神となつて来る代りに、人形なる神、及び其を遣ふ人が出て来たのであらう。此長い習慣が、遂に、遥か後世に至つて、西の宮・淡路に亘る、偶人劇団を作ることになつたのであらう。又、かうした事実が、一方には、早くから淀川・神崎川の下流に、半定住してゐたくゞつの間にも行はれて、西の宮対西摂地方のかいま女の偶人呪術を生みもしたのだと思ふ。
狂言小唄に、「遥かの沖にも石のあるもの夷の御前の腰かけの石――夷様の腰掛けの石が沖にあるとの義――」とある。此小唄から見ると、夷神が海から来て、上陸する前に、一時休憩する場所があつた様だ。だから、古い形を考へて見ると、夷神が人形でなく、迎へに行くのが、人形であつたのだ。此が、夷かき・夷舞はしの人形に、変化して来たのである。
西の宮の吉井太郎さんは、私の友人で、疾うから、かう言ふ点に留意されて居る筈だが、尚御参考になるなら、百太夫の社が、何故夷の社に附属して居るかについて申して見たい。此は、近世風に言ふと、夷神のお迎へ人形の居る処で、更に、神社の建て物配置から見ると、主神に対して、矢大臣・左大臣の位置に居る事になつて居る。だから、此を古い形にして見ると、主神に対して、大人神が附属して、其社地を護つて居るのと、一つでなければならない。私は、夷神自身が、人形でなかつた事を言うて置く。其方が、今の西の宮の社の事情ともぴつたり合うて、都合がいゝやうである。
くゞつの遣うた人形は、くゞつ自身の仕へる神であつた。其は八幡神などの主神に対しては、精霊の位置にあるものである。尠くとも、我が国の古代の論理から云へば、或種族が、他の種族に降服すると言ふ事は、同時に、祖先の奉仕してゐる神と共に、降服して居つたと言ふ事になるので、歴史的に飜訳して言ひ換へると、祖先の神以来、服従して居つたと言ふ事になるのである。だから、征服せられ、降服したとしても、必しも、信仰をまで捨てる必要はなかつた。奴隷階級であつても、信仰だけは、支配階級のものを、其まゝ受け入れなくともよかつた。後々まで、寺と寺の奴隷・社と社の奴隷・豪族と被管との間などに於て祀る神仏の、別々のものである事を認めて居たのは、此長い歴史的理由からであつた。
くゞつは海部の一部であるが為に、海部の祀る神は、海部降服の後は、主神たる八幡神に対しては、精霊の位置に置かれた訣だが、其でも、彼等はやはり、祖先伝来の神に奉仕した。此がくゞつの仕へる百太夫である。
断らなければならぬ事は、百太夫或は才の男は、元はお迎へ人形であつたのだが、いつか迎へられる神と合一して、一体となり、新しい主神に対して、従属関係を持つ様になつた。此意味に於て、完全に、此人形がくゞつの神となつたのだ。
かうして見ると、社々の祭礼に出るお迎へ人形系統のだし人形は、祭りに臨む神を迎へて、服従を誓ふ精霊の形の変化ではあるが、此が逆に、祭礼に来臨する神其ものゝ形にもなるのである。同じ事は、虫送りの人形に於ても言へる。或は、ひな祭りの人形に於ても言へるのだ。
六 虫送り人形
虫送りの人形は、多く禾本科の植物を束ねたもので作るのだから、畢竟藁人形であるが、此に於ても、やはり手を問題にして、足を言はない。足はたゞ、胴の延長であるに過ぎない。此手は、或は進歩して、離宮八幡の青農のやうに、二つながら動くものが出来て居たかも知れないが、多くは、拡げたまゝのものである。此ははたものの形であつて、古代の信仰に於ては、磔刑の形式と、共通して居る。雄略紀に見えて居る百済の池津媛、並びに其対手の男を、姦淫の罪によつて、仮――後世の櫓の類――の上にはたものとした、など言ふ記事から見ると、罪によつて罰せられると言ふ事は、同時に、神のものになる事で、神に服従すると言ふ考へに這入つて来る。延いては、凶事のある時、其代表者としての天津罪・国津罪の者が選ばれて、神に進められると言ふ考へから、さうした罪人、或は罪人の姿を以て、儀礼の中心――形式に於ては、先頭になる事もある――とする様になつた。此手の前に合はさつたのが、大人弥五郎である。後手に廻つた方の人形の形は、此がだん/\説話化されて、稲につく螟虫の蛹のあまのしやぐま・おきく虫と言ふ様なものにまで、附会せられる事になつた。だから、大人弥五郎に於ても、神の束縛を受けて、神の為に働くと言ふ意味のある事は、忘れる事が出来ない様である。
虫送りの人形が、お迎へ人形に対して、送り人形であるのも面白い。たゞ、これが送られる人形か、送る人形か、或は、時としては、神か精霊かも訣らなくなつてさへ居る。友人早川孝太郎さんと見た、三河田峯の村境の山に、くゝりつけられてあつたおかた人形は、神送りに送られる神の様に見えて居るけれども、実は、送つて出た精霊と、巫女とを兼ねたもの、とも見える。それで、主婦・刀自を意味する「お方」を以て呼んでゐるのであらう。思ふに、日本の古代からの信仰では、他所から来る者は大きな神であつて、精霊は土地の所属となつてゐるのであるから、精霊を他所に送り出すと言ふことは、実際は、不可能であつたのである。それ故、すべての凶害は、他所から来る神に、附属せしめて考へたのであらう。
虫送りの人形は、凶悪な精霊の様にも見えるが、同時に、凶悪を一身に背負つて、遠国に去つてくれる主神でもあつた。此送り人形は、後に化成して、生き物になると考へられて居た様だ。河童も、藁人形の変化である。藁人形が稲虫になる、と信ぜられたのも無理はない。
七 草人形の信仰
我が国の伝説では、稲虫の発生に於ては、尠くとも横死した人の化成を、原因と説いてゐる様である。其中、特に多く言はれて居るのは、斎藤実盛に仮托して説かれて居るものであるが、これの大きな原因と考へられるものは、琵琶僧が、凶悪除けに語つた物語から、出て居るのであらうと言ふ事だ。語られた主人公の強さになぞらへて、追ひ払ふと言ふ思想が、本来あつたからだと思ふ。幸若で、戦記物が歓ばれたのなども、其家に祟る怨霊を退散せしめる為には、其に似た英雄の物語をする事は、怨霊が其英雄と同格扱ひにされた、と思うて退散する、と言ふ風な考へがあつた様だ。
其外には、さなぶりの時に作る田の精霊、或は巫女を形どつた――苗を組んで作る――さなぶり人形の形式が、虫送りの時にも、まなばれた為だと言ふ事も、考へて見る必要がある様だ。田の神として、祀つて置くのだから、虫の出た時に、此に背負はして出すのである。併し此考へは、尠くとも送り人形の正統ではなく、寧、怨念を懐いて殺された者が、稲虫になると言ふ考へ方の、元をたづねて見なければならない。そこに出て来るのが、虫送りの草人形である。尠くとも、日本の国の信仰では、最初の蒭霊をすさのをの命と考へて居る。高天原を追はれるとき、全裸にせられた為に、道で青草束を身につけた事になつて居る。古くから、この青草は、身体とつかず離れずの関係にあつて、それが蓑の形にもなつて居るのだ。だが、元は皮膚其ものである。
更に言へば、みのと言ふ言葉は、みのしろ――身の代り――の語尾脱略で、みのしろごろもと言うたは、後の事である。みのしろかみになり、文章でみのしろごろもと言ふ様になつた。
我々の国では、殆最初の伝説から、藁人形と凶悪との関係は言はれて居る。藁人形と怨霊との関係は、近代になつて、突如として考へ出されたものではない。
近世の例で言ふと、宇和島騒動のやんべ清兵衛は、田植ゑの時に、蚊帳の中で殺されて居る。此話には、手足の自由にならない事が、印象せられてゐる。又佐倉宗吾郎も、死んで稲虫になつたと言はれてゐる。其事から出発して、宗吾の霊が祀られるに至る、史実らしいものが考へ出されもしてゐるのだ。
更に不思議な事は、壱岐の島に於ては、熊治右衛門以下三人の兇徒が、刑死して居るが、其は明治少し前の事で、伝説でも何でもない、明らかな事実であるにも拘らず、此にも、稲虫になつた話がついて居る。
とにかく、農村の生活に於ては、稲虫――其他、田の凶害――と怨念、或は刑罰とは、常に一続きに、聯想せられたのである。其で、佐倉宗吾郎の如き義人を考へると同時に、熊治右衛門の如き悪徒すらも、死んで稲虫になる事が出来た。此から見ても、稲虫の話には、どうしても、送り人形の草人形の信仰が、結びついて居るものと見なければならない。
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