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鬼の話(おにのはなし)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 15:38:19  点击:  切换到繁體中文



     三 土地の精霊と常世神と

まきむくの穴師の山の山人と、人も見るかに、山かつらせよ

古今集巻二十に、かういふ歌がある。柳田国男先生が古今集以前に、既に、此風はあつたらしい、と言つて居られる通り、大嘗祭には、日本中の出来るだけ多くの民族が出て来たもので、穴師山の山人も其一つなのである。即、土地の神々が、祭りに参与すると言ふ考へが、かうしたしきたりを産んだのである。彼等は、彼等の神の代表者として来り加はり、神と精霊と問答をし、結局、精霊が負けると言ふ行事をすることになつて居たのだ。
此形は、あまんじやくが何でも人に反対すると言ふ事に残つてゐる。あまんじやくは即、土地の精霊で、日本紀には、アマ探女サグメとして其話があり、古事記や万葉集にも見える。やはり、何にでも邪魔を入れる、といふ名まへであらう。神々が土地を開拓しようとする時、邪魔をするのは、何時も天探女である。即、土地の精霊なのである。此天探女は、実に日本芸術の発足の源をなしてゐるものである。其為事は、

一 ものまね→芸能(舞踊)
一 人に反対すること→狂言(おどけ)

即、日本の芸術、尠くとも演芸の発生を為すものである。狂言は、江戸に入つて初めて勢力が出た。ものまねとは、ちようど反対の立場にある。
猿楽ではをかしといひ、延年舞ではもどきと称して、所謂もどき開口の儀式をする者がある。もどきが、殊に有力な働きをするのは田楽で、随つて寺院の舞踊に這入つてゐる。ひよつとこは、その最近くまで残つた形である。もどきは即「もどく」意で、反対する事を現す。日本の芸術では、歌の掛け合ひから既にもどきである。神と精霊との問答が、歌垣となつたのである。源に溯ると、あらゆる方面にもどきが現れてゐる。
能楽の面に※(「やまいだれ+惡」、第3水準1-88-58)オホベシミと言ふのがあるが、※(「やまいだれ+惡」、第3水準1-88-58)ベシミは「へしむ」といふ動詞から出た名詞で、口を拗り曲げてゐる様である。神が土地の精霊と問答する時、精霊は容易に口を開かない。尤、物を言はない時代を越すと、口を開くやうにもなつたが、返事をせないか、或は反対ばかりするかであつて、此二つの方面が、※(「やまいだれ+惡」、第3水準1-88-58)オホベシミの面に現れてゐるのだ。一体日本には、古くから面のあつたことを示す証拠はある。併し、外来の面が急速に発達した為、在来の面は、其影を潜めたのである。
開口は、口を無理に開かせて返事をさせる事で、其を司る者は脇役である。しては神で、わきは其相手に当る。かうしたわきの為事が分化して来ると、狂言になるのだ。勿論、狂言は、能楽以前からあつたものである。※(「やまいだれ+惡」、第3水準1-88-58)オホベシミの面は、全く口を閉ぢてゐる貌であるが、此面には、尊い神の命令を聴くと言ふ外に、其命令を伝達すると言ふ、二つの意味がある。即、神であり、おにであるのだ。
また一方、恐怖の方面のみを考へたのが、鬼となつた。鬼と言ふ語は、仏教の羅卒と混同して、牛頭ゴヅ馬頭メヅの様に想像せられてしまうた。其以前の鬼は、常世神の変態であるのだが、次弟に変化して、初春の鬼は、全く羅卒の如きものと考へられたのである。つまり、初めは神が出て来て、鬼を屈服させて行くのだが、後には、神と鬼との両方面を、鬼がつとめることになつて行つた。鬼が相手方に移つて行つたのである。田楽では、鬼と天狗とを扱うてゐる。一体、田楽は宿命的に、天狗と鬼とを結合させてゐる。此は演劇の発足を示すもので、初めはしてが鬼、わきもどきであつた。
村々の大切な儀式に鬼が参加することは、今も、処々に残つてゐる重大なことである。壱岐の島へ行くと、おにやと言ふものがあるが、此は古墳に相違ない。此処には昔、鬼が棲んだと言はれてゐる。対馬へ行くと、やぼさと言ふ場所が神聖視せられてゐる。初春には、殊に大切に取り扱はねばならぬ。此処には、祖先の最古い人が住んでゐると考へられ、非常に恐れられてゐる。
昔は、海辺の洞穴に死人を葬つたが、後には其処を神の通ひ場所と考へる様になつた。沖縄の石垣イシガキ島の宮良メイラ村では、なびんづう鬼屋オニヤに十三年目毎に這入つて行つて、若衆入りの儀式を挙げる。恐るべき鬼は、時には、親しい懐しい心持ちの鬼でもある。仏教で言ふ鬼では決してないのである。
かうした鬼を扱ふ方法を、昔の人々はよく知つてゐた。あるじと言ふ語は、まれびと即、常世神に対する馳走を意味する。日本の宴会には後世まで、古代の神祭りの儀式のなごりが、沢山遺つてゐる。武家の間で馳走の時、おにと言ふ名の役が出た事も、かうして見て初めて意味がよく訣る。
まれびとなる鬼が来た時には、出来る限りの款待をして、悦んで帰つて行つてもらふ。此場合、神或は鬼の去るに対しては、なごり惜しい様子をして送り出す。即、村々に取つては、よい神ではあるが、長く滞在されては困るからである。だから、次回に来るまで、再、戻つて来ない様にするのだ。かうした神の観念、鬼の考へが、天狗にも同様に変化して行つたのは、田楽に見える処である。





底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
   1995(平成7)年4月10日初版発行
底本の親本:「古代研究 民俗学篇第二」大岡山書店
   1930(昭和5)年6月20日発行
※底本の題名の下に書かれている「大正十五年、三田史学会例会講演筆記」は省きました。
※訓点送り仮名は、底本では、本文中に小書き右寄せになっています。
※平仮名のルビは校訂者がつけたものである旨が、底本の凡例に記載されています。
※「次第」と「次弟」の混在は底本通りにしました。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2004年1月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
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