一〇 翁の語り
三河の北の山間、南、北設楽郡を中心に、境を接した南信州の一部分は、私も歩いて来て、此地方にある田楽の、輪廓だけは、思ひ浮べる事が出来ます。此は、北遠州天龍沿ひの山間にもある事は、早川孝太郎さんの採訪によつて知れました。種目が可なり多く具はつて居て、田楽と称する土地の外は「花祭り」と称へてゐて、明らかに田楽の特質の一部を保つてゐます。花祭りは、鎮花祭の踊りから出た念仏踊りが、田楽と習合した元の信仰を残してゐるので、花祭りといふのは、稲の花がよく咲いて、みいる様子を、祝福する処から言ふのであります。春の花が早く散ると、田のみのりの悪い兆と見、人の身に譬喩して見ると、悪病流行の前ぶれと考へたのであります。春の祭りに花を祝福した行事が、春夏の交叉する頃にも、一層激しく行はれ、鎮花祭――行疫神や、害虫や、悪風を誘導して祓ひ出す――が、人間の精霊を退散させる事によつて、凶事は除かれるものとする念仏踊りを生み、其が教義づけられて、念仏宗になつたものゝ様です。然し、花鎮めと言ふ事は、忘れませんでした。
田楽の中にも、念仏踊り其儘、花鎮め行事を名のるものが残つてゐます。其が、此花祭りです。花に関しては、花の唱文・花の言ひ立て・花舞ひなどをする処もありますが、大して問題にして居ない様です。畢竟、かうした田楽を「花祭り」とか「花踊り」とか言つてゐたまゝを、承けついで来たのでせう。桜町中納言が、泰山府君に花の命乞ひをした伝説なども、田楽・念仏系統の伝へなのでせう。此祭りに、舞場に宛てられた屋敷は一村の代表で、祭りの効果は、村全体に及ぶと考へてゐるのです。此は、殆ど、反閇及び踏み鎮めの舞ばかりを、幾組も作つてゐるのです。が、其中に「鬼舞」と、「翁の言ひ立て」とが、田楽の古い姿を残してゐる様でした。春祭りの鬼は、節分の追儺・修正会と一つ形式に見られてゐますが、明らかに、祝福に来る山の神です。だから、鬼は退散させられないで、反閇を踏む事になつてゐて、此辺の演出は正しいものなのです。即、春祭りに、山人の祝福に来る形です。
翁は、どの村々にも必、ある様で、田楽祭りと称する村では、勿論、必あります。其語りにも色々ある様でありますが、主なものは、生ひ立ちの物語りと海道下りとである様です。此翁の語りの事を、猿楽と言ふのも、一般の事の様です。設楽郡の山地に入り初めの鳳来寺には、田楽の他に、地狂言と言ふものがあつて、其を猿楽と称へたらしい証拠があります。先年までしたのは、唯の芝居でしたが、其始まりのものは、三番叟であつて、此を特別の演出物としてゐます。此地狂言は、古くは、猿楽能に近いものを演じた様ですが、近代では、歌舞妓芝居より外はやりませんでした。此猿楽なる地狂言が、三番叟だけは保存してゐたと言ふのは、江戸芝居と一つで、翁が猿楽の目じるしだつたからであります。三番叟を主としたのは、猿楽の中の猿楽なる狂言だからでせう。豊根村の翁には、もどきがついて出て、文句を大きな声でくり返しました。鳳来寺の地狂言では、後に引いた幕の陰に、大勢の人が隠れてゐて、三番叟の詞をくり返して、囃したさうです。
花祭りの翁でも、役人は一人ではありません。翁の外に、松風丸(又は松風・松かげ)と言ふ女面があり、三番があるのが普通の様です。翁の言ひ立ての後で、三番叟(信州新野では、しようじっきり)が出て、翁のおどけ文句以上に、狂言を述べる。松風は所作はわからぬが、千歳の若役を若女形でするので、田楽らしい為方です。田楽には、女も役人に加はつてゐました。だから、千歳役も、田楽の猿楽では、女千歳であつた事があるのでせう。其が仮面になつたのかも知れませぬ。翁の語りの中に「松風のじぶんな、寒やかりける事よな」又は「翁松かげにかんざられ、寒や悲しや(?)」かう言ふ文句があるけれど、前後の関係の推測出来るやうに、筋立つても居ません。かうした翁の役は、此田楽でも三人なのです。翁の生ひ立ちの語りは、其誕生から、其に伴ふ母の述懐を述べて、自身の醜さを誇張して笑はせます。其から、今まで生きてゐた間に、滄桑の変を幾度も見た事を言ひまして、翁の壻入りの話になるのです。壻になつた時の準備に、色々な事を習うて、種々の失敗をする、おもしろい「早物語」らしい処があります。海道下りは、京へ上る道や入洛してからの物語で、其間に、みだらな笑ひを誘ふ部分を交へてゐます。
生ひ立ちは、神の名のりの詞章の種姓明しの系統で、其に連れて、村・家の歴史を語る形式が、壊れたものです。こゝの翁も、脇方・狂言方らしい姿を見せてゐるのです。海道下りは遠くから来た神が、其道筋の出来事を語る辛苦物語から出てゐるもので、道行ぶりの古い形が其で、早く、神人流離の物語や、英雄征旅の史実の様になつたものです。其から出た道行ぶりが、記・紀にも既に発達してゐます。而も、此を所作に示す「歩きぶり」が、芸としての鑑賞の目的にさへなつてゐました。つまり「前わたり」の芸能なのです。此は元、見聞を語つて、世間的な知識を授ける詞章のあつたのが、変化して来たのであります。
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