三
説経の表面から見ても、山王祭りにえたの干与する事を暗示して居るやうであるが、古くは、京の河原辺の部落ではなく、瀬田川下の村が与つて居たのではあるまいか。此民譚直接間接に深い交渉を持つてゐぬとも言へまい。
細工が臼の上に若の座を設けたと言ふ形は、浅草観音宮戸川出現の条に似てゐるが、ともかく、祭りに賤民が重要な役目を務めた事を示したのは疑ひがない。尚細工を古くから馬具細工の意に解して居た証拠は「名歌勝鬨」には、細工小次郎に宛てゝ、鞍作杢作及び其娘お為と言ふのを設けて居るのでも知れる。
田畑之助と言ふ名は、変な名であるが、室町から江戸にかけて、助の字のつく名には、妙なのが、物語・芝居の類には殊に多い。葛の恨之介・稲荷之助・女之介など、其であるが、膳所での山王祭りの頭人の名は、近江之介・粟津之介など言ふ。かうした方面の聯想も、幾分働いて居るのであらう。
田畑之助を祀つたと言ふ田中山王社一名田畑ノ宮は、疑ひもなく同じ粟の話のある恒世ノ社である。膳所の近辺中庄村瓦浜に在るが、古くは其地の亀屋といふ家の界内に在つた。其家は堀池氏で、堀池は佐々木氏の一族だ(誌略)といふが、亀屋の主人が祭りの頭人となる時の名が、田畑之助だつたかも知れぬ。
山門・寺門の関係と、大友村主の本貫であると言ふ辺から、山王を天武、新羅明神を大友ノ皇子と考へた時期も、あつたらしく思はれる。所謂桃のにこう(尼公か)の件は、石芋民譚(土俗と伝説一の一、田村氏報告参照)の形式で、穴生とも言ふ賀名生に脂桃の話のあるのは、暗合でなく何かの脈絡のありさうな気がする。
大体石芋民譚は、宗教家の伝記に伴ふものが多い様だが、古くは慳貪と慈悲とを対照にした富士・筑波式の話であつた。其善い片方を落したのが石芋民譚で、対照的にならずに、善い方だけの離れたのもある。宗教家は精霊を使ふ者と考へられて居た為に、精霊の復讐と言ふ風の考へが、一転して石芋民譚となるのであらう。古く言語精霊の活動と考へられたのろひが、役霊の考へに移つたのは、大部分陰陽家の職神・仏家の護法天童・護法童子の思想の助勢がある様である。役霊・護法の活動は、使役者には都合はよいが、他人には迷惑を与へる事が多い。使役者の嫉妬・邪視が役霊の活動を促す。護法童子に名をつけたのが、乙護法である。伝教大師にも、性空上人にも、同名の護法があつた。性空から其甥比叡の皇慶に移つたのを乙若とも言うて居る。三井寺の尼護法は鬼子母神ともなつて居る。女の護法神だから言ふのだが、或は「乙」と同じく、其名であつたのかも知れぬ。若の名の「愛」と言ふのも、護法の名で、護或は若は其護法なることを示してゐると考へられぬでもない。愛護ノ若を護法童子の変形とすれば、桃・麻の呪ひの意味は、徹底する様である。
此呪ひを志田義秀氏は叡山の不実柿と関係あるものと観察して居られるやうだ。皇慶甫めて叡山に登つた時、水飲・不実柿などの地で「実のなるのにみなら柿とは如何。湯を呑むのに水飲とは如何」と言ふませた、併し子供らしいへりくつ問答を試みた、と言ふ話のある地で、皇慶の呪ひによつて、不実柿になつたとは見えぬ。
併し乙若が性空の手から移つて来た話を思ふと、数度の変形として、或は、愛護・皇慶の関係は、成り立つかも知れぬ。川村杳樹氏(実は柳田国男先生)が提供せられた沢山の難題問答(郷土研究四の七)の例の中、陸前赤沼長老阪で、西行に舌を捲かした松下童子が、山王権現の化身であつたと言ふ話も、多少根本の山王に痕跡のあつたものとすれば、まへの関係は一層深くなるのだが、数点の類似だけでは、愛護・皇慶の交渉はむつかしい。
継母雲居ノ前は、合邦个辻の玉手御前の性格を既に胚胎してゐるので「女筆始」其他の様な純然たる悪玉でなく、寧、薄雪物語の様な艶書を書くあはれ知る女となつてゐる。中将姫・しんとく丸の継母とは、類型を異にして、恋の遺恨といふ、新しい創造がまじつてゐる様である。
手白の猿は、後の創作類では、かなり重要な位置に居るけれども、説経には極めて軽い役に使はれてゐる。動物報恩説話の外には、山王のつかはしめとなつた理由を見せたに止まつてゐる様である。かういふ動物が、此民譚に現れたのは、勿論日吉の猿部屋に関係があるので、手首ばかり白い猿を、神猿とするなどいふ信仰もあつたと思はれるのである。山姥狂言の中にも、手白の猿を出した物があつた。今日さう言ふ芝居絵を見ても、別に手に特徴はない。結局別に語原を持つものに違ひない。
古代に手代部といふ部曲のあつたのも、後世の神社に於ける手長職と同じもので、神の手其物として働く部曲だつたらしい。てしろの語ばかりが残つて、実の忘れられた時代に、山王のつかはしめなる猿を手白と感じ、特別に又、さうした霊妙な一類があることも考へてゐたのだらう。が、今いふ、信仰もあつたかと思はれるのである。前述の山姥狂言の中に出る手白の猿も愛護若の物語とは関係なく、山姥の狂言の中に、手白の猿の姿を描いた、江戸の芝居絵を見たことがあるだけで、他には、何の材料も見あたらぬ。
鼬の骸を仮つて、地獄の幽霊が復帰して来るのは、因果物語であるが、説経としての特徴を止めたものである。尚、桜の木に愛護を吊るのは、説教節通有の拷問をこんなところにも割り込ましたのだが、神仏の身代りで、脱出する其常型は破つてゐる。
細工が禁札の為に、途中から引つ返す条、叔父帥ノ阿闍梨が疑うて逢はぬと言ふ、はる/″\来た者を還す件は、同じ説経の石童丸の母と父との物語に通じてゐる。但、阿闍梨が、天狗の障碍と疑うた点だけは、長物語に幾分か似通つてゐるが、其は他人のそら似であつて、肝腎の山伏も石室も現れないのである。其よりももつと注意の値打ちのあるのは、苅萱のやうに故意でなく、齟齬が原因で、空しく山を下る点である。
一体児物語は必、妻争ひ民譚の一種、美女自殺の結末の筋を引いて来るので、競争者のない時でも、円満な解決を見ぬのが常になつて居て、入水して自殺するのが多い。児入水譚は、高野其他大寺には、つき物の様である。江ノ島の児个淵伝説は相手方の僧も後を追ふ事になつてゐるが、大体は、能動側の男は発心、又は堅固に出家を遂げる、と言ふ発心物語となつて居る。細工夫婦の死も、後追ひの死とは考へられぬ。寧、前に言つた多人数殉死・殉死者転生の物語となつてゐる。
其外、宝比べ・申し子などいふ形式は、愛護民譚に限つた事でないから、茲には言ふまい。若の挿した松の枝が、唐崎の一つ松に化生したといふのは「女筆始」のついて来た松が枝の杖をさしたと言ふ方が、古い形を詳しく伝へたのもので、琴御館家の祖先が、日吉の神の残された杖を立てたのが、化生したと言ふ(耀天記)伝へと直接関係があり、又、北野の一夜松原・息ノ松原などの系をも加へてゐる。
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