3
それから半時間も経ったろうか、他吉はどこで拾ったのか、もう客を乗せて夜の町を走っていた。
通天閣のライオンハミガキの広告燈が青く、青く、黄色く点滅するのが、ぼうっとかすんで見えた。
客は他吉の異様な気配をあやしんで、
「おやっさん、どないしてん? 泣いてるのんと違うか」
「泣いてまんねん」
「えっ?」
客はその返辞の仕方のほうに驚いてしまった。
「――こらまたえらい罪な俥に乗ってしもたもんや。これから落語ききに行こちゅうのに、無茶苦茶やがな。一体どないした言うねん?」
「へえ。娘の婿めが、あんた、マニラでころっと逝きよりましてな」
「マニラ……? マニラてねっから聴いたことのない土地やが、何県やねん」
「阿呆なこと言いなはんな」
ポロポロ涙を落しながら、マニラは比律賓の首府だと説明すると、
「さよか、しかし、なんとまた遠いとこイ行ったもんやなあ」
「マラソンの選手でしたが……」
「ほんまかいな、しかし、可哀相に……。そいで、なにかいな。その娘はんちゅうのは子たちが……?」
あるのかと訊かれて、またぽろりと出た。
「まあ、おまっしゃろ」
「まあ、おまっしゃろや、あれへんぜ。男の子オか」
「それがあんた、未だ生れてみんことにゃ……」
新世界の寄席の前で客を降ろすと、他吉はそのまま引きかえさず、隣の寄席で働いている娘の初枝を呼びだした。
「お父つぁん[#底本では「お父っあん」となっている]なんぞ用か」
出て来た初枝は姙娠していると、一眼で判るからだつきだった。
他吉はあわてて眼をそらし、
「うん。ちょっと……」
と、言いかけたが、あと口ごもって、
「――ちょっと〆さんの落語でもきかせてもらおか思てな……」
寄ったんだと、咄嗟に心にもないことを言うと、
「めずらしいこっちゃな。あんな下手糞な落語ようきく気になったな。そんなら、俥誰ぞに見てもろてるさかい、はよ、聴いてきなはれ」
「いや、もう、やめとくわ。それより、ちょっとお前に話があるねん」
そして、寄席を出て、空の俥をひきながら歩きだすと、初枝は、
「話やったら、ここで言うたら、ええやないか。けったいやなあ」
と言いながら、前掛けをくるりと腹の上へ捲きつけて、随いて来た。
活動小屋の絵看板がごちゃごちゃと並んだ明るい新世界の通りを抜けると、道は急にずり落ちたような暗さで、天王寺公園だった。
樹の香が暗がりに光って、瓦斯燈の蒼白いあかりが芝生を濡らしていた。
美術館の建物が小高くくろぐろと聳え、それが異国の風景めいて、他吉は婿の新太郎を想った。
白いランニングシャツを着た男が、グラウンドのほの暗い電燈の光を浴びて、自転車の稽古をしている。それが木の葉の隙間から影絵のように蠢いて見えた。
動物園から猛獣の吼声がきこえて来た。ラジュウム温泉の二階で素人浄瑠璃大会でも催されているらしく、太の三味線の音がかすかにきこえた。
丁稚らしい男がハーモニカを吹いている。
「流れ流れてエ、落ち行く先はア、北はシベリヤ、南はジャバよ……」
というその曲が、もう五十近い他吉の耳にもそこはかとなく物悲しかった。
ベンチに並んで、腰掛けた。
「お父つぁん[#底本では「お父っあん」となっている]、なんぜこんなとこイ連れて来んならんねん。けったいなお父つぁん[#底本では「お父っあん」となっている]やなあ。話があるねんやったら、はよ言いんかいな」
初枝がいくらか不安そうに言うと、他吉は横向いて、
「明いとこで涙出して見イ。人さんに嗤われて、みっともないやないか」
初枝はどきんとした。
「ほな、なんぞ泣かんならんようなことがあるのんか」
「…………」
他吉は黙って、マニラからの手紙を渡した。
初枝は立ち上って、瓦斯燈のあかりに照らして読んだ。
途端に初枝は気が遠くなり、ふと気がついた時は、もう他吉の俥の上で、にわかに下腹がさしこんで来た。
産気づいたのだと、他吉にもわかり、路地へ戻って、羅宇しかえ屋のお内儀の手を借りて、初枝を寝かすなり、直ぐ飛んで行って産婆を自身乗せて来たので、月足らずだったが、子供は助かり、その代り初枝はとられた。
「えらい因果なこっちゃな。死亡届けが二つと出産届けが一つ重なったやないか」
朝日軒の敬吉は法律知識を高慢たれて、ひとり喧しかったが、しかし、他の者は皆ひっそりとして、羅宇しかえ屋の女房でさえ、これを見ては、声をつつしんだ。
長屋の寄り合いにはなくてかなわぬ〆団治も、
「おまはん、今日はただの晩やあらへんさかい、あんまり滑稽(ちょか)なこと言いなはんなや」
と、ダメを押されて、渋い顔をしていたが、けれど、さすがに黙っているのは辛いと見えて、腑抜けた恰好で壁に向って、ぶつぶつひとりごとを言っている他吉の傍へ寄って、
「他あやん、ほんまにえらいこっちゃな、まるでお前、盆と正月が一緒に……」
うっかり言いかけると、
「〆さん、阿呆なこと言いな!」
敬吉の声が来た。
それで、さすがに〆団治もシュンとしてしまったが、暫らくすると、また口をひらいて、
「しかし、他あやん、人間はお前、諦めが肝腎やぜ。おまはんもよくよく運(かた)のわるい男やけど、負けてしもたらあかんぜ。そんな、夢の中で豆腐踏んでるみたいな顔をせんと、もっとはんなり[#「はんなり」に傍点]しなはれ。おまはんまで寝こんでしまうようになったら、どんならんさかいな」
そんな口を敲くと、他吉は、
「何ぬかす、あんぽんたん奴。わいが寝こんでしもて、孫がどないなるんや。ベンゲットの他あやんは敲き殺しても死なへんぞ」
と、そこらじゅうにらみ倒すような眼をしたが、けれど、直ぐしんみりした声になると、
「――しかし、言や言うもんの、〆さんよ、新太郎の奴と初枝はわいが殺したようなもんやなあ」
と、言った。
十日ばかり経った夜、界隈の金満家の笹原から、ちょっと話があるからと、他吉を呼びに来た。
黒の兵古帯を二本つなぎ合わせ、それで孫の君枝を背負って行くと、笹原は酒屋ゆえ、はいるなりぷんと良い匂いがし、他吉は精進あげの日飲んだのを最後に、生駒に願掛けて絶っている酒の味を想って、身体がしびれるようだった。
「夜さり呼びつけて、えらい済まなんだけど、話言うのはな、実はおまはんのその孫のことやがな……」
型通りのおくやみを述べたあと、笹原はそう切りだした。
「――藪から棒にこんなこと言うのは、なんやけったいやけど、その子どこぞイ遣るあてがもうあるのんか」
「いえ、そんなもんおまへん」
「そか、そんなら話がしやすい。早速やが、他あやん、その子うちへ呉れへんか」
「ほんまだっかいな」
「嘘言うもんか。おまはんも知ってる通り、うちは子供が一人も出けへんし、それにまた、わしもそうやが、うちの家内(おばはん)と来たら、よその子供が抱きとうて、うちに風呂があるのに、わざわざ風呂屋へ行きよるくらい子供が好きやし、まえまえから、養子を貰う肚をきめてたんや。ほかにも心当りないわけやないけど、それよりもやな、気心のよう判ったおまはんの孫を貰たらと、こない思てな。それになんや、その子は両親(ふたおや)ともないさかい、かえって貰ても罪が無うて良えしな」
「……………」
背負った孫可愛さの重みに他吉は首を垂れて、慌しく心の底を覗いていた。
祖父ひとり孫ひとりのわびしい路地裏住いよりも、こんな大家にひきとられて、乳母傘で暮せば、なんぼこの子の倖せかと、願うてもない孫の倖せを想わぬこともなかったが、しかし、この子の中には新太郎と初枝の生命がはいっていると想えば、到底手離す気にはなれず、おろおろ迷っていると、
「言うちゃなんやけど、礼はぎょうさん[#「ぎょうさん」に傍点]さして貰うぜ。おまはんの好きな酒も飲み次第や」
と、笹原が言った。途端に他吉の肚はきまった。
「旦さん、えらい変骨言うようでっけど、わたいは孫を酒にかえる気イはおまへん。眼に入れても痛いことのない孫でっけど、酒に代えて口の中へ入れたら舌が火傷してしまいま」
「そない言うてしもたら、話でけへんがな。――そらまあ、おまはんが私は要らん言うのやったらそいでええとせえ。しかし、他あやん、おまはんはそいでええとしても、ひとつその子のことを考えてみたりイな。河童路地で育つ方が倖せか、それとも……」
痛いところを突かれたが、他吉はいきなり、
「そら判ってます。よう判ってま」
と、顔をあげて、
「――しかし、旦さん、たとえ貧乏でも、狸や河童の巣みたいな路地で育っても、やっぱり血をわけたわいに育ててもろた方が、この子の倖せだす。いやきっとわたいが倖せにしてやりま」
そこまで言って、他吉は男泣いた。
やがて、涙をふきふき、
「――まあ、聴いてやっとくれやす。この子のお父つぁん[#底本では「お父っあん」となっている]も、わいが無理矢理横車(ごりがん)振ってマニライ行かしたばっかりに、ころっと逝ってしまいよりました。この子のお母んもそれを苦にして、到頭……。言うたら皆わたいの責任だす。もうわたいは自分の命をこの孫にくれてやりまんねん」
言っているうちに、本当にその覚悟が膝にぶるぶる来て、光った眼をきっとあげると、傍にいた笹原の御寮人が、
「あんたのそう言うのんはそら無理もないけど、ほんまに男手ひとつで育てられまっか。あんた、お乳が出るのんか」
「出まへん、なんぼわたいの胸を吸うても、そら無理だす。胃袋で子供うめ言うのと同じだす」
「それ見なはれ」
「しかし、御寮はん、ミルクいうもんが……」
言うと、笹原が、
「ミルクで育った子は弱い」
だしぬけに言った、
「そうだすとも……」
笹原の御寮人は残酷めいた口元を見せて、
「――他あやん、うちはその子貰たらお乳母をつけよ思てまんねんぜ。それに他あやん、あんたその子背負(せた)ろうて俥ひく気イだっか」
「ほな、こいで失礼さしてもらいま。えらいおやかまっさんでした」
他吉が頭を下げると、背中の君枝の頭もぶらんと宙に浮いて、下った。
4
間もなく他吉は南河内狭山の百姓家へ君枝を里子に出し、その足で一日三十里梶棒握って走った。
里子の養育料は足もとを見られた月に二十円の大金だ。なお、婿の新太郎が大阪に残して行った借金もまだ済んでいない。
他吉の俥はどこの誰よりも速く、客がおどろいて、
「あ、おっさん、そないに走ってくれたら、眼エがまう。もうちょっと、そろそろ行(や)って貰えんやろか」
と、頼んでも、
「わたいはひとの二倍、三倍稼がんならん身体だっさかい、ゆっくり走ってられまへんねん」
辛抱してくれと、言って振り向いた眼の凄みに物を言わせて、他吉はきかなんだ。
その頃、大阪の主な川筋に巡航船が通った。
俥など及びもつかぬ速さで、おまけに料金もやすく、切符に景品をつける時もあって、自然俥夫連中は打撃をうけ、俥に赤い旗を立てて、巡航船の乗場に頑張り、巡航船に乗ろうとする客を、喧嘩腰で引っ張ろうとしてかなわぬ時は巡航船へ石を投げるという乱暴もはたらいたが、他吉はそんな仲間にはいらず「ベンゲットの他吉」を売り出そうとせなんだ。
もっとも、朋輩との客の奪い合いには、浅ましいくらい厚かましく出て、さすがに「ベンゲットの他あやん」の凄みを見せ、その癖酒は生駒に願掛けたといって一滴ものまず、なお朋輩に二十銭、三十銭の小銭を貸すと、必ず利子を取った。
次郎ぼんに貰った夕刊を一銭で客に売りつけることもあり、五厘のことで吠えた。
ある夏、角力の巡業があった。
横綱はじめ力士一同人力車で挨拶まわりをすることになったが、横綱ひとり大き過ぎて合乗用の俥にも乗れず、といって俥なしの挨拶まわりも淋しいと考えた挙句、横綱の腰に太い紐をまわし、その紐を人力車二台にひかせて、横綱自身よいしょよいしょと練り歩いて、恰好をつけ、大阪じゅうを驚かせた。
新聞に写真入りで犬も吠えたが、この俥をひいたのが、他吉とその相棒の増造で、さすが横綱だけあって祝儀の張り込み方がちがう、どや、これでたこ梅か正弁丹吾(しょうべんたんご)で一杯やろかと増造が誘ったのを、他吉は行かず、
「それより此間(こないだ)貸した銭返してくれ。利子は十八銭や、――なにッ! 十八銭が高い? もういっぺん言うてみイ」
そんな時他吉の眼はいつになくぎろりと光り、マニラ帰りらしい薄汚れた麻の上着も、脱がぬだけに一そう凄みがあった。
ところが、それから半月ばかり経ったある夜のことだ。
御霊の文学座へ太夫を送って帰り途、平野町の夜店で孫の玩具を買うて、横堀伝いに、たぶん筋違橋(すじかいばし)か、横堀川の上に斜めにかかった橋のたもとまで来ると、
「他吉!」
と、いきなり呼ばれ、五六人の俥夫に取り囲まれた。
「なんぞ用か?」
咄嗟に「ベンゲットの他あやん」にかえって身構えたところを、
「ようもひとの繩張りを荒しやがったな」
と、拳骨が来て、眼の前が血色に燃えた。
「何をッ!」
と、まずぱっと上着とシャツを落して、背中を見せ、
「さあ、来やがれ!』
と、振りあげた手に、握っていた玩具が自分の眼にはいらなかったら、他吉はその時足が折れるまで暴れまわったところだが、
――今ここで怪我をしては孫が……
他吉は気を失っただけで済んだ。
やがて、どれだけ経ったろうか、ベンゲットの丸竹の寝台の上に寝ている夢で眼をさますと、そこはもとの橋の上で、泡盛でも飲み過ぎたのかと、揺り起されていた。
そうして五年が経った。
間もなく小学校ゆえ君枝を自身俥に乗せて河童路地へ連れて戻ると君枝は痩せて顔色がわるく、青洟で筒っぽうの袖をこちこちにして、陰気な娘だった。
両親のないことがもう子供心にもこたえるらしく、それ故の精のなさかと、見れば不憫で、鮭を焼いて食べさせたところ、
「これ、何ちゅうお菜なら?」
と、里訛で訊くのだった。
「鮭という魚(とと)や」
「魚て何なら?」
「あッ、それでは……」
里では魚も食べさせて貰えなかったのかと、他吉はほろりとして、
「取るもんだけは、きちきち取りくさって、この子をそんな目に会わしてけつかったのか」
と、そこらあたり睨みまわす眼にもふだんの光が無かった。
君枝は茶碗の中へ顔を突っ込み、突っ込み、がつがつと食べ、ほろりとした他吉が、
「ほんまにお前にも苦労さすなあ。堪忍(かに)してや。しかし、なんやぜ、よそへ貰われるより、こないしてお祖父(じい)やんと一緒に飯(まま)食べる方が、なんぼ良えか判れへんぜ。な、そやろ? そない思うやろ?」
と、言っても、腑に落ちたのかどうかしきりに膝の上の飯粒を拾いぐいしていた。
入学式の日、他吉は附き添うて行った。
校長先生の挨拶に他吉はいたく感心し、傍にいる提灯屋の親爺をつかまえて、
「やっぱし校長先生や。良えこと言いよんなあ。人間は何ちゅうても学やなあ」
と、しきりに囁いていたが、やがて新入生の姓名点呼がはじまると、他吉は襟をかき合わせ、緊張した。
「青木道子」
「ハイ」
「伊那部寅吉」
「ハイ」
「宇田川マツ」
「ハイ」
「江知トラ」
「ハイ」
アイウエオの順に名前を読みあげられたが、子供たちは皆んなしっかりと返辞した。
サの所へ来た。
「笹原雪雄」
「ハイ」
笹原雪雄とは笹原が君枝の代りに貰った養子である。来賓席の笹原はちょっと赧くなったが、子供がうまく答えたので、万更でもないらしくしきりにうなずいていた。
「佐渡島君枝」
「…………」
君枝は他所見していた。
「佐渡島君枝サン」
他吉は君枝の首をつつき、
「返辞せんかいな」
囁いたが、君枝はぼそんとして爪を噛んでいた。
「佐渡島君枝サンハ居ラレマセンカ? 佐渡島君枝サン!」
他吉はたまりかねて、
「居りまっせエ、へえ。居りまっせ」
と、両手をあげてどなった。
頓狂な声だったので、どっと笑い声があがり、途端におどろいて泣きだす子供もあった。
さすがに他吉は顔から火が出て、よその子は皆しっかりしているのに、この子はこの儘育ってどうなるかと、がっくり肩の力が抜けた。
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