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お渡御(わたり)に出て、すっかり疲れ切っていたが、しかし、他吉は夜が明けて路地の空地で行われる朝のラジオ体操も休まなかった。
そして、いつものように夕方から俥をひいて出て、偶然通りかかった難波橋の上から、誰やら若い男と一緒にボートに乗っている君枝の顔を、ボートの提燈のあかりでそれと見つけた。
客を乗せているのでなければ、俥を置き捨ててそのまま川へ飛び込み、ボートに獅噛みついてやりたい気持を我慢して、他吉は客を送った足ですぐ河童路地へ戻り、
「ああ、やっぱり親のない娘はあかん。なんぼ、わいが立派に育てたつもりでも、到頭あいつは堕落しくさった」
と、頭をかかえて腑抜けていると、一時間ばかり経って、君枝はそわそわと帰って来た。
顔を見るなり、他吉は近所の体裁を構わぬ声を出した。
「阿呆! いま何時や思てる。もう直きラジオかて済む時間やぜ、若い女だてらちゃらちゃら夜遊びしくさって。わいはお前をそんな不仕鱈な娘に育ててない筈や。朝日軒の娘はんら見てみイ。皆真面目なもんや。女いうもんは少々縁遠ても、あない真面目にならなあかん。今までどこイ行てた?」
「中之島へ行ててん」
「やっぱり、そやな」
他吉はがっかりした眼付きをちらっと光らせて、
「じゃらじゃらと、若い男と公園でボートに乗ってたやろ?」
睨みつけると、
「お祖父ちゃん見てたの?」
と、君枝はどきんとしたが、知れたら知れたで、かえって次郎のことが言い易くなったと思い、
「――それやったら、声掛けてくれはったら、良かったのに。次郎さんかて喜びはったのに……」
「次郎さんてどこの馬の骨や?」
「蝙蝠傘の骨を修繕したはった人の息子さんや」
君枝はくすんと笑った。
「次郎ぼん――かいな」
「そや」
「ほんまに次郎ぼんか」
他吉の眼はちょっと細まった。
「なにがうちが嘘いうもんかいな」
君枝は昨日次郎ぼんにあったいきさつを話して、
「――これ、次郎ぼんが引伸してくれはってん」
マラソン競争の写真を見せると、他吉もその写真のことは知っていて、
「こらまた、えらい大きに伸びたもんやなあ。ほんまに、これ次郎ぼんが引伸したら言うもんしよったんか。ふうん。ほな、次郎ぼん、もう一人前の写真屋になっとるんやなあ。――銭渡したか」
「そんなもん受け取りはるかいな」
「なんぜや? なんぜ受け取れへんねん? 商売やないか。うちだけただにして貰たら、済まんやないか。きちんと渡しときんかいな。どうせ、口銭の薄い商売やさかい……」
「何言うてねん? なにも写真屋が商売とちがう。写真は道楽にやったはるだけや」
君枝が言うと、他吉は、
「道楽……?」
と、聴き咎めて、
「――ほんなら、何商売して食べとんねん、あいつは……?」
「潜水夫したはんねん」
次郎から聴いたことをすっかり話すと、他吉は唸った。
「えらい奴ちゃ。人間は身体を責めて働かな嘘や言うこと忘れよらん。あいつはお前、夕刊配達しとった時から、身体を責めて来よった奴ちゃし、わいがよう言い聴かせといたったさかいな」
他吉はなんとも言えぬ上機嫌な顔になったが、しかし、それならそれで、次郎ぼんの奴なぜ路地へ挨拶に来ん、君枝だけにこっそり会うのはけしからんとすぐ眼を三角にして、
「――それにしても、君枝、若い男と女がべたべたボートに一緒に乗って良えちゅう訳はないぜ。だいいち、ボートがひっくりかえったらどないすんねん?」
「それは大丈夫や。次郎さんは潜水夫[#「や」が欠如か]さかい、ひっくり返ったかて……。潜水夫の眼エから見たら、中之島の川みたいなもん、路地の溝みたいなもんや言うてはった。大浜の海水浴は池みたいなもんやて……」
「いちいち年寄りに逆らうもんやあれへん。次郎ぼんであろうが、太郎ぼんであろうが、若い娘が男とちゃらちゃら会うたりするもんと違う。だいいち、次郎ぼんの仕事に差しつかえる。ええか。こんどめ[#「こんどめ」に傍点]から会うたらあきまへんぜ」
蚊帳の中へはいってからも、他吉の小言は続いた。
君枝は首垂れて他吉の方に団扇で風を送っていたが、ふと顔をあげると、耳の附根まで赧くなり、
「あのな、次郎さんな、今日、うちと……」
団扇の動きがとまった。
「――うちと夫婦になりたいと言やはんねん」
「…………」
他吉の顔の筋肉がかすかに動いた。
暫らく沈黙が続いた。蚊の音がはげしかった。
君枝は今日中之島公園で次郎とかわした会話を慌しく膝の上に想い出した。
「――他あやん、いつまで俥ひいたはる気やろな。なんぼえらそうなこと言っても、やっぱり歳は歳やさかい……」
「――隠居してくれ言うても、なかなか隠居してくれしめへんねん。うちに甲斐性が無いさかい……」
「――そんなことは無いやろけど……。他あやんにしてみたら、早よあんたに良えお婿さんを貰て、それから隠居しよ思たはるのんと違うやろか」
「――さあ。いつぞやそんなことも言うてましたけど……。お前の身がかたづいたら、わいはもういっぺんマニラへ行こ思てるねんて……」
「そんなら、余計はよ結婚せないかんね」
「――まあ。意地悪(いけず)なことよう言やはるなあ」
「――そうかて、そうやないか。好きな人あったら、はよ結婚して、他あやんを安心さしたらな、いかんぜ」
「――知らん。うち結婚みたいなもん、せえへん。好きな人みたいなもんちょっともあれへん。それに、うちひとりやったらともかく、お祖父ちゃんの面倒まで見てくれるいう人今時あれへんわ。うち、お祖父ちゃんの生きてる間、結婚せえへん」
「――そんなこと言うたら、余計他あやんを苦しめるもんや」
「――そやろか。しかし、それよか仕様ない。ほかに仕様があれへんわ」
「――ないこともないがな。たとえばやな……。たとえば、僕と結婚したら……」
「――あんた、平気で冗談(てんご)言やはんねんなあ」
「――冗談や思てるのん?」
「――ほな……?」
「――うん」
想いだしていた君枝はまた顔をあげて、
「次郎さんやったら……」
お祖父ちゃんの面倒もみてくれる、三人で住めば良いのだと、もじもじ言うと、
「阿呆!」
蚊帳の中から他吉の声が来た。
「――もうこれから、どんなことあっても、次郎ぼんと会うたら、あきまへんぜ。次郎ぼんにもそない言うとく。次郎ぼん今どこに住んどオるねん?」
それから五日経った夜、他吉はなに思ったか、いきなりこんなことを言いだした。
「お前ももう年頃や。悪い虫のつかんうちにお祖父(じ)やんのこれと見込んだ男と結婚しなはれ。気に入るかどないか知らんけど、結婚いうもんは本人同志が決めるもんと違う。野合(どれあい)にならんように、ちゃんと親同志で話をして、順序踏んでするもんや。明日の朝が見合いいうことに話つけて来たさかい、今晩ははよ寝ときなはれ」
「うち、いややわ」
君枝はもう半分泣きだしていた。
「なんぜ、いややねん? なんぞ不足があるのんか?」
「そらそやわ。そない藪から棒に見合いせえ言うたかて、何したはる人かわからへんし……」
「お前にはわからんでも、お祖父やんには判ってたらそいで良え。まさか、肥くみもしとれへんやろ?」
「写真もまだ見てへんし……」
「写真、写真て、写真がなにが良えのや。次郎ぼんに写真きちがいを仕込まれやがってエ……」
叱っているが、眼だけは和やかであった。
「――なんでも良え。とにかく見合いしなはれ」
「…………」
咽の涙を鹹(しお)からく、君枝はしょんぼり味わった。
「するか、せんか。どっちや。返辞せんかい! するか?」
君枝はうなずいた。
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