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夫婦善哉(めおとぜんざい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 10:16:46  点击:  切换到繁體中文



 二年経つと、貯金が三百円を少し超(こ)えた。蝶子は芸者時代のことを思い出し、あれはもう全部払(はろ)うてくれたんかと種吉に訊くと、「さいな、もう安心しーや、この通りや」と証文出して来て見せた。母親のお辰はセルロイド人形の内職をし、弟の信一は夕刊売りをしていたことは蝶子も知っていたが、それにしてもどうして工面して払ったのかと、瞼(まぶた)が熱くなった。それで、はじめて弟に五十銭、お辰に三円、種吉に五円、それぞれくれてやる気が出た。そこで貯金はちょうど三百円になった。そのうち、柳吉が芸者遊びに百円ほど使ったので、二百円に減った。蝶子は泣けもしなかった。夕方電灯もつけぬ暗い六畳の間の真中(まんなか)にぺたりと坐り込み、腕(うで)ぐみして肩で息をしながら、障子紙の破れたところをじっと睨んでいた。柳吉は三味線の撥(ばち)で撲られた跡(あと)を押(おさ)えようともせず、ごろごろしていた。
 もうこれ以上節約(しまつ)の仕様もなかったが、それでも早くその百円を取り戻さねばならぬと、いろいろに工夫した。商売道具の衣裳も、よほどせっぱ詰れば染替えをするくらいで、あとは季節季節の変り目ごとに質屋での出し入れで何とかやりくりし、呉服屋(ごふくや)に物言うのもはばかるほどであったお蔭で、半年経たぬうちにやっと元の額になったのを機会(しお)に、いつまでも二階借りしていては人に侮(あなど)られる、一軒借りて焼芋屋(やきいもや)でも何でも良いから商売しようとさっそく柳吉に持ちかけると、「そうやな」気の無い返事だったが、しかし、あくる日から彼は黙々として立ちまわり、高津神社坂下に間口一間、奥行三間半の小さな商売家を借り受け、大工を二日雇い、自分も手伝ってしかるべく改造し、もと勤めていた時の経験と顔とで剃刀問屋から品物の委託(いたく)をしてもらうと瞬(またた)く間に剃刀屋の新店が出来上った。安全剃刀の替刃(かえば)、耳かき、頭かき、鼻毛抜き、爪切(つめき)りなどの小物からレザー、ジャッキ、西洋剃刀など商売柄、銭湯帰りの客を当て込むのが第一と店も銭湯の真向いに借りるだけの心くばりも柳吉はしたので、蝶子はしきりに感心し、開店の前日朋輩のヤトナ達が祝いの柱時計をもってやって来ると、「おいでやす」声の張りも違った。そして「主人(うち)がこまめにやってくれまっさかいな」と言い、これは柳吉のことを褒(ほ)めたつもりだった。襷(たすき)がけでこそこそ陳列棚(ちんれつだな)の拭(ふ)き掃除をしている柳吉の姿は見ようによっては、随分男らしくもなかったが、女たちはいずれも感心し、維康さんも慾が出るとなかなかの働き者だと思った。
 開店の朝、向う鉢巻(はちまき)でもしたい気持で蝶子は店の間に坐っていた。午頃(ひるごろ)、さっぱり客が来えへんなと柳吉は心細い声を出したが、それに答えず、眼を皿(さら)のようにして表を通る人を睨んでいた。午過ぎ、やっと客がきて安全の替刃一枚六銭の売上げだった。「まいどおおけに」「どうぞごひいきに」夫婦がかりで薄気味(うすきみ)悪(わる)いほどサーヴィスをよくしたが、人気(じんき)が悪いのか新店のためか、その日は十五人客が来ただけで、それもほとんど替刃ばかり、売り上げは〆(し)めて二円にも足らなかった。
 客足がさっぱりつかず、ジレットの一つも出るのは良い方で、大抵は耳かきか替刃ばかりの浅ましい売上げの日が何日も続いた。話の種も尽(つ)きて、退屈したお互いに顔を情けなく見かわしながら店番していると、いっそ恥かしい想いがした。退屈しのぎに、昼の間の一時間か二時間浄瑠璃を稽古(けいこ)しに行きたいと柳吉は言い出したが、とめる気も起らなかった。これまでぶらぶらしている時にはいつでも行けたのに、さすがに憚(はばか)って、商売をするようになってから稽古したいという。その気持を、ひとは知らず蝶子は哀れに思った。柳吉は近くの下寺町の竹本組昇(そしょう)に月謝五円で弟子入(でしい)りし二ツ井戸の天牛書店で稽古本の古いのを漁(あさ)って、毎日ぶらりと出掛けた。商売に身をいれるといっても、客が来(こ)なければ仕様がないといった顔で、店番をするときも稽古本をひらいて、ぼそぼそうなる、その声がいかにも情けなく、上達したと褒めるのもなんとなく気が引けるくらいであった。毎月食い込んで行ったので、再びヤトナに出ることにした。二度目のヤトナに出る晩、苦労とはこのことかとさすがにしんみりしたが、宴会の席ではやはり稼業(しょうばい)大事とつとめて、一人で座敷を浚(さら)って行かねばすまぬ、そんな気性はめったに失われるものではなかった。夕方、蝶子が出掛けて行くと、柳吉はそわそわと店を早仕舞いして、二ツ井戸の市場の中にある屋台店でかやく[#「かやく」に傍点]飯とおこぜの赤出しを食い、烏貝(からすがい)の酢味噌で酒を飲み、六十五銭の勘定払って安いもんやなと、カフェ「一番」でビールやフルーツをとり、肩入れをしている女給にふんだんにチップをやると、十日分の売上げが飛んでしもうた。ヤトナの儲けでどうにか暮しを立ててはいるものの、柳吉の使い分がはげしいもので、だんだん問屋の借りも嵩んで来て、一年辛抱したあげく、店の権利の買手がついたのを幸い、思い切って店を閉めることにした。
 店仕舞いメチャクチャ大投売りの二日間の売上げ百円余りと、権利を売った金百二十円と、合わせて二百二十円余りの金で問屋の払いやあちこちの支払いを済ませると、しかし十円も残らなかった。
 二階借りするにも前払いでは困ると、いろいろ探しているうちに、おきんの所へ出はいりして顔見知りの呉服屋の担(かつ)ぎ屋(や)が「家(うち)の二階空いてまんね、蝶子さんのことでっさかい部屋代はいつでもよろしおま」と言うたのをこれ倖(さいわ)いに、飛田(とびた)大門前通りの路地裏にあるそこの二階を借りることになった。柳吉は相変らず浄瑠璃の稽古に出掛けたり、近所にある赤暖簾(あかのれん)の五銭喫茶店(きっさてん)で何時間も時間をつぶしたりして他愛なかった。蝶子は口が掛れば雨の日でも雪の日でも働かいでおくものかと出掛けた。もうヤトナ達の中でも古顔になった。組合でも出来るなら、さしずめ幹事というところで、年上の朋輩からも蝶子姐(ねえ)さんと言われたが、まさか得意になってはいられなかった。衣裳の裾なども恥かしいほど擦(す)り切れて、咽喉(のど)から手の出るほど新しいのが欲しかった。おまけに階下(した)が呉服の担ぎ屋とあってみれば、たとえ銘仙(めいせん)の一枚でも買ってやらねば義理が悪いのだが、我慢してひたすら貯金に努めた。もう一度、一軒店の商売をしなければならぬと、親の仇(かたき)をとるような気持で、われながら浅ましかった。
 さん年経つと、やっと二百円たまった。柳吉が腸が痛むというので時々医者通いし、そのため入費が嵩んで、歯がゆいほど、金はたまらなかったのだ。二百円出来たので、柳吉に「なんぞええ商売ないやろか」と相談したが、こんどは「そんな端金(はしたがね)ではどないも仕様がない」と乗気にならず、ある日、そのうち五十円の金を飛田の廓(くるわ)で瞬く間に使ってしまった。四五日まえに、妹が近々聟(むこ)養子を迎(むか)えて、梅田新道の家を切り廻して行くという噂が柳吉の耳にはいっていたので、かねがね予期していたことだったが、それでも娼妓(しょうぎ)を相手に一日で五十円の金を使ったとは、むしろ呆(あき)れてしまった。ぼんやりした顔をぬっと突き出して帰って来たところを、いきなり襟を掴んで突き倒し、馬乗りになって、ぐいぐい首を締(し)めあげた。「く、く、く、るしい、苦しい、おばはん、何すんねん」と柳吉は足をばたばたさせた。蝶子は、もう思う存分折檻(せっかん)しなければ気がすまぬと、締めつけ締めつけ、打つ、撲る、しまいに柳吉は「どうぞ、かんにんしてくれ」と悲鳴をあげた。蝶子はなかなか手をゆるめなかった。妹が聟養子を迎えると聴いたくらいでやけになる柳吉が、腹立たしいというより、むしろ可哀想で、蝶子の折檻は痴情(ちじょう)めいた。隙を見て柳吉は、ヒーヒー声を立てて階下へ降り、逃げまわったあげく、便所の中へ隠れてしまった。さすがにそこまでは追わなかった。階下の主婦は女だてらとたしなめたが、蝶子は物一つ言わず、袖に顔をあてて、肩をふるわせると、思いがけずはじめて女らしく見えたと、主婦は思った。年下の夫を持つ彼女はかねがね蝶子のことを良く言わなかった。毎朝味噌しるを拵(こしら)えるとき、柳吉が襷(たすき)がけで鰹節(かつおぶし)をけずっているのを見て、亭主にそんなことをさせて良いもんかとほとんど口に出かかった。好みの味にするため、わざわざ鰹節けずりまで自分の手でしなければ収まらぬ柳吉の食意地の汚さなど、知らなかったのだ。担ぎ屋も同感で、いつか蝶子、柳吉と三人連れ立って千日前へ浪花節を聴きに行ったとき、立て込んだ寄席(よせ)の中で、誰(だれ)かに悪戯(いたずら)をされたとて、キャッーと大声を出して騒(さわ)ぎまわった蝶子を見て、えらい女やと思い、体裁の悪そうな顔で目をしょぼしょぼさせている柳吉にほとほと同情した、と帰って女房に言った。「あれでは今に維康さんに嫌(きら)われるやろ」夫婦はひそひそ語り合っていたが、案の定、柳吉はある日ぶらりと出て行ったまま、幾日(いくにち)も帰って来なかった。
 七日経っても柳吉は帰って来ないので、半泣きの顔で、種吉の家へ行き、梅田新道にいるに違いないから、どんな容子かこっそり見て来てくれと頼んだ。種吉は、娘の頼みを撥(は)ねつけるというわけではないが、別れる気の先方へ行って下手(へた)に顔見られたら、どんな目で見られるかも知れぬと断った。「下手に未練もたんと別れた方が身のためやぜ」などとそれが親の言う言葉かと、蝶子は興奮の余り口喧嘩までし、その足で新世界の八卦見(はっけみ)のところへ行った。「あんたが男はんのためにつくすその心が仇(あだ)になる。大体この星の人は……」年を聞いて丙午(ひのえうま)だと知ると、八卦見はもう立板に水を流すお喋(しゃべ)りで、何もかも悪い運勢だった。「男はんの心は北に傾(かたむ)いている」と聴いて、ぞっとした。北とは梅田新道だ。金を払って外へ出ると、どこへ行くという当てもなく、真夏の日がカンカン当っている盛(さか)り場(ば)を足早に歩いた。熱海の宿で出くわした地震のことが想い出された。やはり暑い日だった。
 十日目、ちょうど地蔵盆(じぞうぼん)で、路地にも盆踊りがあり、無理に引っぱり出されて、単調な曲を繰(く)りかえし繰りかえし、それでも時々調子に変化をもたせて弾いていると、ふと絵行燈(えあんどん)の下をひょこひょこ歩いて来る柳吉の顔が見えた。行燈の明りに顔が映えて、眩(まぶ)しそうに眼をしょぼつかせていた。途端に三味線の糸が切れて撥ねた。すぐ二階へ連れあがって、積る話よりもさきに身を投げかけた。
 二時間経って、電車がなくなるよってと帰って行った。短い時間の間にこれだけのことを柳吉は話した。この十日間梅田の家へいりびたっていたのは外やない、むろん思うところあってのことや。妹が聟養子をとるとあれば、こちらは廃嫡(はいちゃく)と相場は決っているが、それで泣寝入りしろとは余りの仕打やと、梅田の家へ駆け込むなり、毎日膝詰の談判をやったところ、一向に効目がない。妻を捨て、子も捨てて好きな女と一緒に暮している身に勝目はないが、廃嫡は廃嫡でも貰(もら)うだけのものは貰わぬと、後へは行けぬ思(おも)て梃子(てこ)でも動かへんなんだが、親父(おやじ)の言分はどうや。蝶子、お前気にしたあかんぜ。「あんな女と一緒に暮している者に金をやっても死金(しにがね)同然や、結局女に欺されて奪(と)られてしまうが落ちや、ほしければ女と別れろ」こない言うたきり親父はもう物も言いくさらん。そこで、蝶子、ここは一番芝居を打つこっちゃ。別れた、女も別れる言うてますと巧(うま)く親父を欺して貰うだけのものは貰(もろ)たら、あとは廃嫡でも灰神楽(はいかぐら)でも、その金で気楽な商売でもやって二人末永(すえなご)う共白髪(ともしらが)まで暮そうやないか。いつまでもお前にヤトナさせとくのも可哀想や。それで蝶子、明日(あした)家の使の者が来よったら、別れまっさときっぱり言うて欲しいんや。本真(ほんま)の気持で言うのやないねんぜ。しし、芝居や。芝居や。金さえ貰たらわいは直(じ)き帰って来る。――蝶子の胸に甘い気持と不安な気持が残った。
 翌朝、高津のおきんを訪れた。話を聴くと、おきんは「蝶子はん、あんた維康さんに欺されたはる」と、さすがに苦労人だった。おきんは、維康が最初蝶子に内緒(ないしょ)で梅田へ行ったと聴いて、これはうっかり芝居に乗れぬと思った。柳吉の肚は、蝶子が別れると言ってしまえば、それでまんまと帰参がかない、そのまま梅田の家へ坐り込んでしまうつもりかも知れぬ。とそうまではっきりと悪くとらず、またいくら化粧問屋でもそこは父親が卸(おろ)してくれぬとすれば、その時はその時で悪く行っても金がとれるし、いわば二道を掛けているか、それとも自分で自分の気持がはっきりしてないか、何しろ、柳吉には子供もあることだと、そこまでは口に出さなかったが、いずれにせよ蝶子が別れると言わなければ、柳吉は親の家におれぬ勘定だから結局は柳吉に戻って欲しければ「別れると言うたらあきまへんぜ」蝶子はおきんの言う通りにした。嘘にしろ別れると言うより、その方が言い易(やす)かった。それに、間もなく顔を見せた使の者は手切金を用意しているらしく、貰えばそれきりで縁が切れそうだった。

 三日経つと柳吉は帰って来た。いそいそとした蝶子を見るなり「阿呆やな、お前の一言で何もかも滅茶苦茶や」不機嫌(ふきげん)極まった。手切金云々の気持を言うと、「もろたら、わいのもらう金と二重取りでええがな。ちょっとは慾を出さんかいや」なるほどと思った。が、おきんの言葉はやはり胸の中に残った。
 父親からは取り損ったが、妹から無心して来た金三百円と蝶子の貯金を合わせて、それで何か商売をやろうと、こんどは柳吉の口から言い出した。剃刀屋のにがい経験があるから、あれでもなし、これでもなしと柳吉の興味を持ちそうな商売を考えた末、結局焼芋屋でもやるより外には……と困っているうちに、ふと関東煮(かんとだき)屋が良いと思いつき、柳吉に言うと、「そ、そ、そらええ考えや、わいが腕前ふるってええ味のもんを食わしたる」ひどく乗気になった。適当な売り店がないかと探すと、近くの飛田(とびた)大門前通りに小さな関東煮の店が売りに出ていた。現在年寄夫婦が商売しているのだが、土地柄、客種が柄悪く荒っぽいので、大人(おとな)しい女子衆(おなごし)は続かず、といって気性の強い女はこちらがなめられるといった按配で、ほとほと人手に困って売りに出したのだというから、掛け合うと、案外安く造作から道具一切(いっさい)附き三百五十円で譲(ゆず)ってくれた。階下は全部漆喰(しっくい)で商売に使うから、寝泊(ねとま)りするところは二階の四畳半一間あるきり、おまけに頭がつかえるほど天井が低く陰気臭(いんきくさ)かったが、廓(くるわ)の往(ゆ)き帰りで人通りも多く、それに角店(かどみせ)で、店の段取から出入口の取り方など大変良かったので、値を聞くなり飛びついて手を打ったのだ。新規開店に先立ち、法善寺境内の正弁丹吾亭や道頓堀のたこ梅をはじめ、行き当りばったりに関東煮屋の暖簾(のれん)をくぐって、味加減や銚子(ちょうし)の中身の工合、商売のやり口などを調べた。関東煮屋をやると聴いて種吉は、「海老(えび)でも烏賊(いか)でも天婦羅ならわいに任しとくなはれ」と手伝いの意を申(もう)し出(い)でたが、柳吉は、「小鉢物はやりまっけど、天婦羅は出しまへん」と体裁よく断った。種吉は残念だった。お辰は、それみたことかと種吉を嘲(あざけ)った。「私(わて)らに手伝(てつど)うてもろたら損や思たはるのや。誰が鐚(びた)一文でも無心するもんか」

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