ちくま日本文学全集 織田作之助 |
筑摩書房 |
1993年5月20日 |
1993年5月20日第1刷 |
1993年5月20日第1刷 |
年中借金取が出はいりした。節季はむろんまるで毎日のことで、醤油屋(しょうゆや)、油屋、八百屋(やおや)、鰯屋(いわしや)、乾物屋(かんぶつや)、炭屋、米屋、家主その他、いずれも厳しい催促(さいそく)だった。路地の入り口で牛蒡(ごぼう)、蓮根(れんこん)、芋(いも)、三ツ葉、蒟蒻(こんにゃく)、紅生姜(べにしょうが)、鯣(するめ)、鰯など一銭天婦羅(てんぷら)を揚(あ)げて商っている種吉(たねきち)は借金取の姿が見えると、下向いてにわかに饂飩粉(うどんこ)をこねる真似(まね)した。近所の小供たちも、「おっさん、はよ牛蒡(ごんぼ)揚げてんかいナ」と待てしばしがなく、「よっしゃ、今揚げたアるぜ」というものの擂鉢(すりばち)の底をごしごしやるだけで、水洟(みずばな)の落ちたのも気付かなかった。
種吉では話にならぬから素通りして路地の奥(おく)へ行き種吉の女房(にょうぼう)に掛(か)け合うと、女房のお辰(たつ)は種吉とは大分違(ちが)って、借金取の動作に注意の目をくばった。催促の身振(みぶ)りが余って腰(こし)掛けている板の間をちょっとでもたたくと、お辰はすかさず、「人さまの家の板の間たたいて、あんた、それでよろしおまんのんか」と血相かえるのだった。「そこは家の神様が宿ったはるとこだっせ」
芝居(しばい)のつもりだがそれでもやはり興奮するのか、声に泪(なみだ)がまじる位であるから、相手は驚(おどろ)いて、「無茶いいなはんナ、何も私(わて)はたたかしまへんぜ」とむしろ開き直り、二三度押問答(おしもんどう)のあげく、結局お辰はいい負けて、素手では帰せぬ羽目になり、五十銭か一円だけ身を切られる想(おも)いで渡(わた)さねばならなかった。それでも、一度だけだが、板の間のことをその場で指摘(してき)されると、何ともいい訳けのない困り方でいきなり平身低頭して詫(わ)びを入れ、ほうほうの体(てい)で逃(に)げ帰った借金取があったと、きまってあとでお辰の愚痴(ぐち)の相手は娘(むすめ)の蝶子(ちょうこ)であった。
そんな母親を蝶子はみっともないとも哀(あわ)れとも思った。それで、母親を欺(だま)して買食いの金をせしめたり、天婦羅の売上箱から小銭を盗(ぬす)んだりして来たことが、ちょっと後悔(こうかい)された。種吉の天婦羅は味で売ってなかなか評判よかったが、そのため損をしているようだった。蓮根でも蒟蒻でもすこぶる厚身で、お辰の目にも引き合わぬと見えたが、種吉は算盤(そろばん)おいてみて、「七厘(りん)の元を一銭に商って損するわけはない」家に金の残らぬのは前々の借金で毎日の売上げが喰込(くいこ)んで行くためだとの種吉の言い分はもっともだったが、しかし、十二歳(さい)の蝶子には、父親の算盤には炭代や醤油代がはいっていないと知れた。
天婦羅だけでは立ち行かぬから、近所に葬式(そうしき)があるたびに、駕籠(かご)かき人足に雇(やと)われた。氏神の夏祭には、水着を着てお宮の大提燈(おおぢょうちん)を担いで練ると、日当九十銭になった。鎧(よろい)を着ると三十銭あがりだった。種吉の留守にはお辰が天婦羅を揚げた。お辰は存分に材料を節約(しまつ)したから、祭の日通り掛りに見て、種吉は肩身(かたみ)の狭(せま)い想いをし、鎧の下を汗(あせ)が走った。
よくよく貧乏(びんぼう)したので、蝶子が小学校を卒(お)えると、あわてて女中奉公(じょちゅうぼうこう)に出した。俗に、河童(がたろ)横町の材木屋の主人から随分(ずいぶん)と良い条件で話があったので、お辰の頭に思いがけぬ血色が出たが、ゆくゆくは妾(めかけ)にしろとの肚(はら)が読めて父親はうんと言わず、日本橋三丁目の古着屋(ふるてや)へばかに悪い条件で女中奉公させた。河童(がたろ)横町は昔(むかし)河童(かっぱ)が棲(す)んでいたといわれ、忌(きら)われて二束三文(にそくさんもん)だったそこの土地を材木屋の先代が買い取って、借家を建て、今はきびしく高い家賃も取るから金が出来て、河童は材木屋だと蔭口(かげぐち)きかれていたが、妾が何人もいて若い生血を吸うからという意味もあるらしかった。蝶子はむくむく女めいて、顔立ちも小ぢんまり整い、材木屋はさすがに炯眼(けいがん)だった。
日本橋の古着屋で半年余り辛抱(しんぼう)が続いた。冬の朝、黒門(くろもん)市場への買出しに廻(まわ)り道して古着屋の前を通り掛った種吉は、店先を掃除(そうじ)している蝶子の手が赤ぎれて血がにじんでいるのを見て、そのままはいって掛け合い、連(つ)れ戻(もど)した。そして所望(しょもう)されるままに曾根崎(そねざき)新地(しんち)のお茶屋へおちょぼ(芸者の下地(したじ)ッ子(こ))にやった。
種吉の手に五十円の金がはいり、これは借金払(ばら)いでみるみる消えたが、あとにも先にも纏(まと)まって受けとったのはそれきりだった。もとより左団扇(ひだりうちわ)の気持はなかったから、十七のとき蝶子が芸者になると聞いて、この父はにわかに狼狽(ろうばい)した。お披露目(ひろめ)をするといってもまさか天婦羅を配って歩くわけには行かず、祝儀(しゅうぎ)、衣裳(いしょう)、心付けなど大変な物入りで、のみこんで抱主(かかえぬし)が出してくれるのはいいが、それは前借になるから、いわば蝶子を縛(しば)る勘定(かんじょう)になると、反対した。が、結局持前の陽気好きの気性が環境(かんきょう)に染まって是非に芸者になりたいと蝶子に駄々(だだ)をこねられると、負けて、種吉は随分工面した。だから、辛(つら)い勤めも皆(みな)親のためという俗句は蝶子に当て嵌(はま)らぬ。不粋(ぶすい)な客から、芸者になったのはよくよくの訳があってのことやろ、全体お前の父親は……と訊(き)かれると、父親は博奕打(ばくちう)ちでとか、欺されて田畑をとられたためだとか、哀れっぽく持ちかけるなど、まさか土地柄(とちがら)、気性柄蝶子には出来なかったが、といって、私(わて)を芸者にしてくれんようなそんな薄情(はくじょう)な親テあるもんかと泣きこんで、あわや勘当(かんどう)さわぎだったとはさすがに本当のことも言えなんだ。「私のお父つぁんは旦(だん)さんみたいにええ男前や」と外(そ)らしたりして悪趣味(あくしゅみ)極まったが、それが愛嬌(あいきょう)になった。――蝶子は声自慢(こえじまん)で、どんなお座敷(ざしき)でも思い切り声を張り上げて咽喉(のど)や額に筋を立て、襖紙(ふすまがみ)がふるえるという浅ましい唄(うた)い方をし、陽気な座敷には無くてかなわぬ妓(こ)であったから、はっさい(お転婆(てんば))で売っていたのだ。――それでも、たった一人(ひとり)、馴染(なじ)みの安化粧品問屋(やすけしょうひんどんや)の息子(むすこ)には何もかも本当のことを言った。
維康柳吉(これやすりゅうきち)といい、女房もあり、ことし四つの子供もある三十一歳の男だったが、逢(あ)い初めて三月(みつき)でもうそんな仲になり、評判立って、一本になった時の旦那(だんな)をしくじった。中風で寝(ね)ている父親に代って柳吉が切り廻している商売というのが、理髪店(りはつてん)向きの石鹸(せっけん)、クリーム、チック、ポマード、美顔水、ふけとりなどの卸問屋(おろしどんや)であると聞いて、散髪屋へ顔を剃(そ)りに行っても、其店(そこ)で使っている化粧品のマークに気をつけるようになった。ある日、梅田(うめだ)新道(しんみち)にある柳吉の店の前を通り掛ると、厚子(あつし)を着た柳吉が丁稚(でっち)相手に地方送りの荷造りを監督(かんとく)していた。耳に挟(はさ)んだ筆をとると、さらさらと帖面(ちょうめん)の上を走らせ、やがて、それを口にくわえて算盤(そろばん)を弾(はじ)くその姿がいかにもかいがいしく見えた。ふと視線が合うと、蝶子は耳の附根(つけね)まで真赧(まっか)になったが、柳吉は素知らぬ顔で、ちょいちょい横眼(よこめ)を使うだけであった。それが律儀者(りちぎもの)めいた。柳吉はいささか吃(ども)りで、物をいうとき上を向いてちょっと口をもぐもぐさせる、その恰好(かっこう)がかねがね蝶子には思慮(しりょ)あり気に見えていた。
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