七
「へえーん」
京吉は小莫迦にしたような声を出していたが、やはり、陽子何の用事だろうと、胸はさわいでいた。
京吉は陽子の身の上は何にも知らなかった。どこに住んでいるのかも知らなかった。陽子も京吉が田村に居候していることは知らなかった。十番館で一寸口を利くだけのつきあいでしかなかった。
だから、セントルイスへ掛ければ、京吉がつかまると、陽子が知っていることすら、すでに京吉には不思議だった。むろん、これまで電話なぞ掛って来たためしはなかった。
それだけに、意外なよろこびだと、胸が温まりかけたが、しかし、それでやに下るのはだらしがないと、京吉はピシャリと水を掛けた。
「昨日の今日じゃねえか。感じ悪いよ」
夢がこわれたのだ。誰かと踊る時、いつもあごをぐっと引いて、心もち下唇を突き出しながら口を閉じている陽子の癖や、ほんのりと桜色に透けて見える肉の薄い耳から、生え下りへ掛けての、男を知らぬやるせない曲線の弱々しさを、三十男の感覚で思い出すと、なまなましい嫉妬が改めて甦った。
「おれ帰るよ」
「あら、電話きかないの……?」
「おれポン引じゃねえよ」
「ポン引って、何のことなの。やっぱしピンボケみたいなもの……?」
夏子は「カマトト」ではなかったのだ。千代若と一緒に、キャッキャッと遊びまわったりすることが、何となく浮々と面白くて、にわかに不良マダムめいていたが、夏子はやはりうぶだった。スリルは感じても、体をよごすのは怖く、何にも知らなかった。見かけ倒しの不良マダムだった。共同経営者の他の二人が、抑留者の引揚げ促進運動のデモに参加することと、店へ来る客と大津へ泊りに行くことを、ちゃんと使い分けているのを、びっくりしたような眼でながめていたのだ。
「ピンボケ……? あはは……。朝帰りの女の電話を待つのは、ピンボケかポン引ぐらいなもんだ。おれ趣味じゃねえよ」
「あら、あら。本当に帰るの……?」
「電話掛ったら、おれもう京都にいねえよと、言っといてくれ」
「本当、それ。あたしあんたにリベラルクラブへはいって貰おうと思ってたのよ。知ってるでしょう、リベラルクラブ。同伴者がなければ入会できないのよ。アベック、素敵じゃないの。おほほ……」
場ちがいのけたたましい笑いだった。
「アベックか。ふん」
鼻の先で笑って、
「アベックは旅に限るよ。旅は道連れ、一夜は情けか」
京吉は軽薄に言って、さア行こうと娘の手を取ると、
「――見よ、東海の朝帰り!」
口ずさみながら、出て行った。
東京へ
一
隣の部屋の話声で眼がさめた。枕元の時計を見ると、もう十時であった。
しかし、章三にとってはまだ十時だ。
章三はいつもは四時間ぐらいしか眠らぬ男だが、日曜日だけは夕方近くまでぐっすり眠ることにしている。寝だめをして置くのだ。田村という所は丁度それに都合よく出来ている。だいいち、貴子という女の体には、一種ふしぎな体温と体臭があり、エーテルのように章三を眠らせる作用を持っているのだ。ぐっすり眠ってしまう。忙しい章三にとっては、土曜日以外に会ってはならない女であり、日曜日の寝だめには重宝な女である。
だから十時に眼がさめたのは、めずらしい方なのだ。しかし、眠りをさまたげたのは、隣の部屋の話声ではない。とすれば、一体何であろう。
眼をさましたのは、彼の自尊心と情熱だ。いや、彼にとっては、自尊心と情熱とは同じものを意味する。自尊心だけが彼の情熱をうみ出すのである。
そして、この情熱は今陽子に集中されているのだ。
彼が陽子の父の中瀬古鉱三に陽子をくれといったのは、最初鉱三を訪問した時に陽子が章三に見せた高慢な表情のせいだった。陽子の眉はひそめられたのだ。好悪感情のはっきりしている陽子は、章三のような男のタイプには好感が持てなかった。章三の全身にみなぎっている自尊心が、元来自尊心の強い陽子を反撥したのであろう。爪楊枝職人の息子は、侮辱されたと、誇張して考えた。そして、この考えが直ちに陽子へのだしぬけの求婚に移るところに、章三の面目がある。即ち、章三にとって求婚とは陽子を侮辱する最も効果的な手段であり、鉱三に対する軽蔑も少しはあった。もともと、章三は鉱三の如き政治家を、少しも尊敬していなかった。尊敬していないから、金を出したのだ。
ところが、陽子は章三との結婚をきらって家出した。
章三の自尊心は完全に傷つけられた。この爪楊枝けずりの息子は、爪楊枝の先ほどの情熱も感じていなかった陽子に、はじめて情熱を動かされた。
「よし、いつかはあの女をおれの足許に膝まずかしてやる!」
自尊心のためには、どんなことをもやりかねない章三だった。陽子を屈服させるためには、どんな犠牲を払ってもいいのだ。しかし、たった一つ、払ってはならない犠牲がある。いうならば、自尊心だけは犠牲にしてはならないのだ。
だから、昨夜田村の玄関で陽子を見ても、章三は追うて行こうとしなかった。自尊心が許さなかったのだ。
「しかし、あの女が京都にいると判れば、こっちのもンや」
ぼやぼや寝てられんぞ、と章三は寝床の中で、今日これから成すべきことを考えながら、隣室の話声をきくともなしに聴いていた。
二
「いい部屋じゃないの、この洋室。このままバーに使えるわね」
「使ってたのよ。ただのお料理屋や旅館じゃ面白くないでしょう。だから、バーっていうほどじゃないけど、まあ洋酒も飲めるし、女の子もサーヴィス出来るように、この部屋だけ特別に洋室にしたのよ。今はオフリミットになっちゃったけど、開店当時は随分外人も来たわよ。いい子もわりと揃えてたのよ」
「京都には女の子つきで一晩いくらっていう宿屋があるときいてたけど、ははアん……」
「何がははアんよ。だけど、本当……? 東京までそんなデマがひろがってたの……?」
「デマでもないんでしょう。モリモリ儲けてるんじゃない……?」
「旧円の時ほどじゃないわよ。警察が喧しいから、女の子もみないなくなったし、この部屋だって今は応接間に使ってるぐらいだから……」
「とにかくたいしたものよ。ママは……。どう、出資しない……?」
「ああ、さっきのキャバレエの話……? 面白いと思うけど……」
「百万円で出来るでしょう。ママ、半分出してくれたら丁度いいのよ。銀座でぱアッと派手に開店するのよ。わーっと来ると思うがな。ママをあてにして、わざわざ東京から飛んで来たんだから……。ねえ、乗らない、この話。……今から準備して、クリスマスまでには、百万円回収出来ると思うがなア」
「さア、東京でどうかしら。大阪の赤玉なんか西瓜一個で五千円動かせるって話だけど。……東京じゃ、新円が再封鎖になったりしたら、どかんとバテちゃうんじゃない……?」
「見くびったわね。まア一度東京を見ることね。話じゃ判らない。今夜あたしが帰る時、ママも一緒に行かない……?」
「あら、今夜もう帰るの……?」
「京都見物……? 田村で十分。焼けない都会なんていうおよそ発展性のない所を見物したってくだらないわよ」
「ご挨拶ね」
「うふふ……。それに、もう帰りの切符三枚買っちゃったの。まごまごしてると、国鉄ゼネに引っ掛ったりして、眼も当てれらない」
「首に繩をつけて、あたしを連れて行こうというのね。負けた。だけど、あとの一枚は……?」
「どうせママのことだから、途中で一風呂浴びてということになるんじゃない……? 誰か連れて行くでしょう」
「ばかね」
「エーヴリ・ナイト!」
「何よ。それ。エーヴ……。歯むき出して!」
「うふふ……。ママのことよ。今でもそう……?」
「ばかッ!」
応接間で話しているのは、貴子と、東京から来た貴子の友達であろう。やがて話声が聴えなくなった。貴子は二階へ上って行ったようだった。
「侯爵のところだな」
章三の眼は急に輝いた。昨夜春隆のところへ来ていた陽子!
十分ばかりして、貴子は章三の寝ている部屋へはいって来た。
三
「あら。もうお眼覚め……?」
「うん」
章三は腹這いのまま、手を伸ばして、煙草を取った。
「ライター……?」
貴子がダンヒルのライターをつけようとしている間に、章三はもうマッチを擦っていた。ダンヒルのライターには、マッチを擦った時のぽっと燃える感じがない。それがいやだという章三の気持の底には、貴子と陽子の比較があった。
魅力という点では、陽子は魅力の乏しい女だ。逆立ちしたって、貴子ほどの魅力は出て来ない。陽子がどれだけ処女の美しさに輝いていようと、高貴な上品さを漂わしていようと、教養があろうと、知性があろうと、一日一緒におれば、退屈するだろう。そう章三は観察していた。
いわば、マッチの軸のように魅力がない。しかし、その陽子にジイーッと音を立てて燃える感じがあると、章三が思うのは、軸を手に持って、スッと擦る時の残酷めいたスリルに自尊心の快感を予想するからであろう。爪楊枝がマッチの軸を焼き亡ぼしてしまうのだ。そして、そんな野心がふと恋心めいた情熱に変っているのだから、所謂男の心は公式では割り切れない。
火のついた軸から、ふと眼をはなして、章三は貴子を見た。貴子は昨夜のショートパンツではなかった。二十の娘が着るような花模様のワンピースを着ていた。エキゾチシズムからエロチシズムへ、そして日曜日の朝は、豚肉のあとの新鮮な果物のような少女趣味!
章三の頭に陽子が浮んでいなかったら、この貴子の計算も効果があったかも知れない。
「東京でキャバレエやろうという話あるんだけど……」
章三から金を出させようと思っているのだ。
「…………」
「何だか、銀座でいい場所らしいから、今夜行って見て来ようと思うんだけど……」
「誰と……?」
「ああ、お友達、来てるのよ。あとで会ってあげてね。ちょっと綺麗よ」
「それより、ゆうべ乗竹のとこへ来てた女、あれどこの女や」
「さア……」
「ここへは……?」
「はじめてでしょう。どうせ、どっかの玄人じゃないかしら」
「靴とりに来えへんのか」
「まだでしょう……?」
「乗竹は……? まだ居とるのンか」
「侯爵……? 帰ったわ、今……」
「ふーん」
「あなたは、これからどうなさる……?」
「大阪へ帰る」
「東京へ行くひまなんか……?」
「まア、ないな」
そう言いながら、章三は、こいつ乗竹を誘って行くつもりやなと、キラッと光る眼で貴子を見た。そして、新聞をひろげると、
「売邸、某侯爵邸、東京近郊……」
そんな広告が眼にとまった。
四
章三はゾッとするような凄い笑いをうかべて、
「こりゃ面白くなって来よったぞ!」
と、その新聞広告を見ていた。
「某侯爵邸と書いとるが、こらてっきり乗竹侯爵のことにちがいない」
章三は偶然というものを信じていた。自分の事業家としての才能や、頭脳回転の速度や、闘志は無論信じていたが、それ以上に偶然を信じていたのだ。
爪楊枝けずり職人の家に生れたのは、偶然だ。そして、この偶然がやがてかずかずの偶然を呼んで、三十五歳の無名の青年実業家が、二十一年度の個人所得番付では、古い財閥の当主の上位を占めるという大きな偶然を作りだしたのだと、彼は思っていた。
「偶然に恵まれんような人間はあかん」
これが彼の持論だ。もっとも、考えようによっては、誰の一生も偶然の連続であろう。しかし、偶然に対する鈍感さと鋭敏さがあるわけだ。章三は絶えず偶然を感じ、それをキャッチして来たのである。しかもそれを自分にとっての必然に変えてしまうくらい、偶然を利用するのが巧かった。いや、利用するというより、偶然に賭けるのだ。そして、賭にはつねに勝って来た。幸運に恵まれた男だというわけだが、しかし、例えば爪楊枝職人の家に生れたという偶然を、結局幸運な偶然にしてしまうまでには、絶えず偶然の襟首を掴んで、それに自分を賭けるというスリルがくりかえされて来たのだ。自信はあったが、しかし、必ず勝つときまった賭にはスリルはない。
だから、章三にとって偶然を信ずるということは、自分は絶えず偶然によって試されて行く人間であり、しかもその時自分の頼るのは結局天よりも自分だけだということであろう。
例えば――、新聞は誰でも読む。新聞のない一日はユーモアや偶然のない一日より寂しいくらいだ。祇園のあるお茶屋では、抱えの舞妓に新聞を読むことを禁じた。彼女はパンツの中へ新聞をかくして、便所の中で読んだという。昔は若い娘が新聞を持って町を歩いている姿は殆んど見られなかったが、最近では夜の町角で佇む若い軽薄な背のずんぐりした娘でも、ハンドバッグと一緒に新聞をかかえている。猫も杓子も読むのだ。しかし、同じ新聞を同じ時にひらいても、一番さきに眼にはいるのが、同じ記事だとは限らず、某侯爵邸の売物の広告が何よりも先にぱッと眼にはいるのは、余ほどの偶然であろう。
しかも、この偶然を陽子、春隆、貴子、貴子の友達、東京行き……などという偶然に重ねてみると、もはや章三にはその売邸が乗竹侯爵邸以外のものであるとは思えず、今日一日の行動がもはや必然的にきまってしまった。そして、その行動がひろがって行くありさまを、描きながら、さりげなく貴子にきいた。
「何時の汽車にするンや」
「急行だから、夜の九時頃でしょう」
「車よんでくれ。飯はいらん」
「あら、もうお帰り!」
「急ぐんや。君の友達によろしく。どうせまた会えるやろ」
章三はにやりとした。
身上相談
一
猫も杓子も新聞を読む。同じ記事を読んでいる。われわれが思っている以上に、猫の関心も杓子の関心もみな似たり寄ったりである。しかしまた、われわれが思っている以上に、猫も杓子も同じ問題に関心を抱いているとは限らないのだ。
われわれが思っている以上に、ひとびとは一番さきに新聞の同じ欄を見るだろうし、また、われわれが思っている以上に、ひとびとが一番さきに見る欄は、それぞれ違っているのだ。
たとえば、坂野という男は、まっさきに身上相談欄を読む。そのあとで、ほかの欄を読む――こともあるし、読まぬこともあるが、とにかく身上相談欄をまっさきに読むことだけは、一日も欠かしたこともない。もっとも、一日もというのは、誇張だ。載っていない日があるからだ。
今朝の新聞には載っていた。細君が逃げてしまっても、身上相談欄はちゃんと彼の傍にいた。その欄を読むという習慣は、実は細君の影響だが、細君がいなくなっても、この習慣だけはヒロポン注射同様逃げてしまわない。
だから、坂野はまずヒロポンを二CC打った。それから今日の身上相談欄を読んだ。そして、改めて細君に逃げられたことを想い出して、ふんがいした。
「問――私の出征中、妻は、御主人は前線から帰りませんよという一巡査の言葉に偽られて、不倫の関係に陥り、ついに子供まで出来てしまったのでした。
その上相手は私の勤務先の手当や、子供の貯金まですっかり消費してしまい、終戦となるや、私の復員をおそれて無籍の嬰児を連れたまま行方をくらましてしまいました。妻も今では、捨てられたと詫びて、苦しんでおりますが、このような相手が公職にいるとは、国家のためにも許されないと思います。また連れて行った赤ん坊について調査の方法はないものでしょうか。赤ん坊は相手の意に従ってまだ籍が入れてありません」
「答――戦争はそれ自体が悲劇ですが、その悲劇に巻き込まれた国民の生活、これは最も悲惨で苦悩の深いものです。あなたの胸中をお察しします。同時に奥さんについても一概に不貞の妻としてかたづけてしまうのは、気の毒のように思います。
私どもは出征者の遺家族の生活というものを知りすぎるほど知っています。もし奥さんが前非を悔いておるなら許してあげて、再び平和な家庭をつくって下さい。
ことにお子さんたちの将来を考えるとき、私はそれを希望します。それにしても相手の巡査はけしからん奴です。遺家族とあれば一層保護を加うべき任にありながら、色と慾の二筋道をかけるなど実に言語道断です。
その男の勤務していた警察署に頼んで探し出し、厳重な処置をして貰って下さい」
読み終ると、坂野はいきなり、
「ばか野郎!」
とどなった。
二
その時、
「何が、ばか野郎なんだい……?」
と、にやにや笑いながら、木崎がドアをあけてはいって来た。赤い眼をしばだたいているのは、昨夜坂野に打って貰ったヒロポンが効きすぎて、眠れなかったのであろう。
「聴えましたか。――いや、なに、おたくに言ったわけじゃないです。一寸これ見て下さい。ひでえもんですよ」
坂野は新聞の身上相談欄を見せた。木崎はざっと眼を通して、
「なるほど、こりゃひどい!」
「そうでしょう。怒ったね、あたしゃ。全くこりゃ怒りもんでさアね。とんがらかる理由がざっと数えて四つはありまさアね。ひでえ話だよ、こいつア……」
昔漫談をやっていただけに、真剣に喋っていても、坂野の喋り方は何か軽佻じみていた。
「まず第一に、よりによって、昨日の今日、こんな身上相談が出ているなんてね。罪ですよ。罪な野郎だよ、全く……。あたしゃアね、木崎さん、これを読んだ途端、女房の奴、てっきり男をこしらえて逃げやがったなと、ピンと来ましたよ。いや、それに違えねえ。ヒロポンだけで逃げるもんですか。だいたい、あたしと女の馴れ染めはね、あたしがまだ小屋に出ていた時分でしてね、え、へ、へ……。女房もその小屋で、ハッチャッチャッ……てね、足をあげて、踊ってましてね。つまり、踊り子。あたしゃ、これでも音楽家ですからね。先生ッ! ですよ。ねえ、先生ッ! と来やがった。徹夜稽古の晩にね、あたし眠いわと来やがった」
そこで坂野は、ぶるぶるッと肩をふるわせて、もはや喜劇役者の身振りであった。
「――待ってましたッてとこですね。しかし、あたしゃ、眠いのかい、じゃ、一緒に寝ンねしようや――なんて言わない。夜が更けりゃ泥棒だって眠いや。辛抱、辛抱! 今夜のうちにあげてしまわなくっちゃ、明日の初日は開かんよ――ってね、実にこれ芸人の真随でさアね。すると、奴さん、眠くってたまらないのよ、ヒロポン打って頂戴! よし来た、むっちりした柔い白い腕へプスリ……、これがそもそも馴れ染めで、ヒロポンが取り持つ縁でさアね」
「じゃ、あんたのヒロポンは承知の上じゃないか」
「そうなんですよ。今更ヒロポンがどうの、こうの……。何言ってやがんだい。男が出来て逃げたに違えねえですよ。どこの馬の骨か知らねえが、ひでえ男だ。まるで、この警官でさアね」
と、新聞を指して、
「――捨てられて、孕まされて、ポテ腹つき出して、堪忍どっせと帰って来たって、あたしゃ、承知しませんよ」
「しかし、そりゃ一寸気を廻し過ぎじゃないかな」
「いや。てっきりでさア。賭けてもいいね」
百パーセントそれでさアねと、坂野が言った時、アパートの階段を登る足音が、
「見よ、東海の朝帰り……」
という鼻歌と一緒に聴えて来た。
三
「坂野さん」
京吉は部屋の前まで来ると、馴々しい声を出した。
「――はいってもいい……?」
「あ、京ちゃんか」
それで、はいれと言ったのも同じだった。
「はいりますよ。うっかり、あけられんからね、この部屋」
京吉はドアを一寸あけて、首だけのそっと入れると、
「――おや、お客さん……?」
と、言いながら、はいって来た。そして、木崎に向って、ピョコンと頭を下げた。木崎はおや見たような顔だなと思いながら、挨拶をかえした。
「人ぎきの悪いことを言うなよ。――第一覗かれなくっても、もう手遅れでさアね」
逃げちゃったよと、坂野はケラケラと笑ったが、さすがに虚ろな響きだった。
「へえーん」
「京ちゃん、どう思う。女房のやつ男が出来たと、あたしゃ思うんだが、どうかね。おたくの観察は……」
「そりゃ、てっきりですよ」
京吉は香車で歩を払うように、簡単に言った。
「――女って、だらしがねえからな。いつ逃げたんだ。昨夜……? ふーん、そうだろうと思った。土曜日だからね」
土曜の夜は女のみだれる晩だという、藪から棒の京吉の意見の底には、古綿を千切って捨てるような、苛立たしいわびしさがあった。
「そうか。おたくもそう思うか」
坂野はいきなり京吉と握手した。木崎はふと顔をそむけて、自分だけがひとり女の弁護にまわりたい気になっている矛盾を、煙草のけむりと一緒に吐きだしていた。しかし、坂野が、
「ねえ、木崎さん、あたしゃ、絶対許しませんよ。許してやれなんて、身上相談の解答こそ、まさに許しがたいと思いませんかね」
と、言うと、はや木崎はいつもの木崎であった。
「いや、こんな解答が平気で出来るという点が、身上相談担当の重要な資格になるんだよ。いちいち、質問者の心理の底にまではいっておれば、結局解答者は失格さ。警察へ届けて姦夫を処罰して貰え、女房は許してやれ。――こんなお座なりの解決で気が済むなら、誰も身上相談欄へ手紙を出すもんかね。財布を落しても、今時、警察へ届けろなんて、月並みなことを言う奴はいないよ。姦夫を処罰して貰ったって、悩みは残るさ。前非を悔いているから、許してやれ――か。ふん。学問が出来て、社会的地位があっても人間のことは、何にも判ってないんだ。ねえ、君、そうだろう」
木崎は京吉の方を向いた。
「おれ、そんなことどうだっていいや」
京吉は舌の先についた煙草の滓をペッと吐き捨てて、
「それより、坂野さん、おれにヒロポン打ってくれ。それで来たんだよ」
と、腕を差し出した。
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