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土曜夫人(どようふじん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 10:12:15  点击:  切换到繁體中文


      七

 京吉をひきとめた銀ちゃんの強気は、しかし、実はセントルイスで女を待たせてあるという弱みのせいであった。
 女は坂野の細君であった。
 銀ちゃんと坂野とは、坂野が京極の小屋へ出ていた頃の知り合いで、坂野が細君と結婚する時も、せめて形式だけでもと挙げた式は銀ちゃんのアパートで、銀ちゃんが盞をしてやったのだ。いわば仲人で、だから坂野も銀ちゃんを頼りにし、細君も夫婦喧嘩の時は銀ちゃんのアパートへ泣きついて行った。
 ある夜、ヒロポンのことから大喧嘩になり、飛び出した細君は銀ちゃんのアパートへ泣きに来た。遅いから、今夜は泊って行け、明日はおれが坂野の所へ行って謝らせて来てやる、くよくよせずに、これでも飲めと、グラスにウイスキーを注いだ。
 それがアルプ・ウイスキーだった。四条のある酒場へ行くと、顔で一本八十円でわけてくれる。公定価格は三円五十銭だが、それでも一本八十円のウイスキーは安い。死んだという噂もきかないから、少々眼にやにが出ても、メチルではあるまいと、専らこれにきめ、その晩も二人で二本あけてしまった。
 安いのと、口当りがいいので、ガブガブやったのが、いけなかったのだ。ほかのウイスキーではそんなことにもならなかったが、やはりアルプだった。銀ちゃんは前後不覚に酔っぱらい、意識が混濁したまま、坂野の細君と妙な関係になってしまった。細君も女に似ず強かったが、さすがに参っていた。
 坂野はむろん疑いもしなかった。昨夜は女房の奴がまた御厄介で――と、へんに律儀に恐縮していた。銀ちゃんは返す言葉もなかった。
 細君も悩んだが、しかし、この女は奇妙な女だ。悩んでいるかと思うと、あんなヒロポンマニアとは別れた方がましだと、サバサバしたり、不義の子を孕んだといって泣いたり、あんたの子うむのうれしいわとやに下ったり、ああ、おろしてしまいたい。
 と、とりとめがなかったが、昨夜いきなり、置いてくれと、家出して来た。
「そりゃ困るよ、だいいち坂野に知れたら……」
 銀ちゃんは少しでも女と一緒にいることを避けたかった。細君が逃げたと判れば、坂野はきっとその報告にやって来るだろう。夜が明けると、銀ちゃんは拝むように、
「どこかへ行っていてくれ」
「どこへ行ったらいいの。行く所ないわ」
「活動でも何でも見て来たらいいだろう。三時にセントルイスで会おう。相談はそれからのことだ」
 とにかく、ここにいてはまずいと、無理やり女を追い出した。しかし、三時に会うても何の話があろう。いい思案もうかばぬことは判り切っていたから、会うのが辛かった。
 イーチャンが終ると、柱時計を見上げて、五時を指している針を見た時、だから銀ちゃんは軽い後悔と共に、何か諦めた安心感を感じたが、実は時計は故障で停っていたのだ。まだ三時半だった。間に合う。いかねばならない。しかし、もうイーチャン打って、ずるずる時間を延ばすことが、この際のごまかしだった。
 無理に京吉をひきとめていると、風のようにふわりと一人の男がはいって来た。あッ。
 坂野だった。

      八

 北(ペー)の風から良い手のつき出した男らしく、京吉はもうイーチャン打つことには十分食指が動いていた。が、セントルイスで待っているカラ子のこともあった。
 だから、銀ちゃんにすすめられて、ふと迷っていた。その矢先の坂野の登場であった。
「あ、坂野さん、いいところへ来た」
 と、京吉はもっけの幸いの声を出し、それでもう肚がきまった。
「――おれ、のくよ。坂野さん代ってくれよ」
 ねえ、その方がいいだろう――と、銀ちゃんの顔を見ると、
「…………」
 銀ちゃんはうなっていた。
 京吉と坂野が知合いだったことを、銀ちゃんは知らなかったのだ。だから、
「亭主がアコーディオン弾きだから、すぐ腹がふくれやがる」
 云々と、女のことで口をすべらせたのだが、思えば、うかつに言ったものだ。パイを捨てる手拍子につれて、ひょいとすべった言葉だが、どだいおれは弁士時代から口が軽いと来てやがる。
 銀ちゃんは毛虫を噛んだような顔で、しお垂れていた。
 その顔をちらと見た途端、京吉もはじめて、坂野が知らぬ間に銀ちゃんに細君を寝取られていたというホットニュースを想い出して、
「うえッ! こいつアひでえキャッキャッになりやがった」
 と、坂野を残して行く皮肉さを、ひそかに砂利のように噛んでいたが、しかし、この場の空気をにやにや見ているほど、京吉はいかもの食いではなかった。
「逃げるにしかず!」
 と、起ち上ろうとすると、坂野は、
「いいよ、京ちゃんやんな! せっかくヒロポン打ったんじゃないか。あたしア高見の見物だ」
 と、とめた。
 いや、その高みの見物になりたくないから逃げるのだと、京吉はそわそわして、
「おれ、セントルイスへ取りに行くものがあるんだよ」
「じゃ、おれ行って来てやるよ。どうせ女房を探して……」
 町という町からア、丘という丘を、あちらをも、こちらをも、探すは上海リル……という唄の文句を、自嘲的に口ずさみかけた途端、
「あッ!」
 と銀ちゃんが声を上げた。が、だれも気づかなかった。まして、坂野の細君がセントルイスで待っていることを、知る由もない。
「え、へ、へ……。なアんて、うまいこといって、この使いめったにひとにやらせてなるものか」
 これ取りに行くんだからねえと、親指と人差指で丸をつくって見せると、あッという間に祇園荘を飛び出して行った。
「おい、京ちゃん、京ちゃん!」
 グッドモーニングの銀ちゃんは、なに思ったか急に起ち上って、京吉を呼びとめた。

      九

「なンや、銀ちゃん……」
 あわてふためいて……と、京吉は入口まで戻って来た。もっと傍へ来い……と、銀ちゃんは眼まぜで引き寄せると、京吉の肩に手を掛けて、
「さっきの話……」
 坂野には内証だぜ……と、囁きかけたが、急にふっと気が変った。京吉という男は、ひとは善さそうだが、それだけに口は軽そうだ。だから、京吉の口から坂野の細君とのことがばれるおそれがある――と、銀ちゃんは呼びとめて、口止めしようと思ったのだが、京吉の顔を見ると、何だか京吉に対して恥しいような気がして、もう言えなかったのだ。いや、京吉によりも自分に恥しかったのだ。あわてふためいた口止めは、男らしくもないと思ったのだ。おまけに、それではあんまり坂野が可哀相だ。もっとも、一切合財坂野に打明けるのも、坂野には酷だと思った。が、「知らぬは亭主」の坂野のいる前で、こっそり口止めは、坂野を侮辱しているようなものだ。京吉に知られてしまったのは罰が当ったようなものだから、
「喋るなら喋れ」
 と、成行きに任せるのが、自分としても気が楽だと、銀ちゃんはせめてこの点で捨身の裸になっていたかった。
「さっきの……?」
 と、京吉はききかえした。
「いや、さっきの二千点の金、いつ払うんだ」
 と、銀ちゃんはむりにそこへ話を変えた。
 なアんだ、それで呼びとめたのかと、京吉は軽蔑したような口つきになって、
「ちゃっかりしてるね。払うよ。セントルイスへ行きゃア、はいるんだ。今日中に払うよ。銀ちゃん、そんなんかね。おれ見直すよ。感じ悪いや。払やいいんだろう」
 プイと怒って、出てしまった。銀ちゃんは憂欝な顔で卓子へ戻って来た。
「銀ちゃん、どうした。女に振られたんじゃないですか。元気溌剌じゃないですな」
 坂野はうかぬ顔でパイを撫ぜていた。
「そういうおたくも、からきし元気溌剌じゃないね」
「あッしですか。」
 坂野は苦笑して、
「――女房逃げちゃったンでさア」
「へえン」
「だから、ショボショボしょげてるッてんじゃねえですがね。人間あんまり腹が立つと、目まいがしていけねえ。くらくらッとね」
「大事にしてくれよ」
「女房をですかい」
「いえさ、体を。ヒロポン打ちすぎるンじゃないか」
「大丈夫でさア。漫才のワカナは一日六十本打ってもピンピン生きてまさア。それより、銀ちゃん、アルプはいけませんぜ。あれ航空燃料だといいますぜ、しまいにゃ、アップアップ、てっきりでさアね」
「うん。てっきりだね」
 銀ちゃんはそっと坂野の顔色をうかがったが、急に、
「――おい、場をきめよう! どうせ短い命だ!」
 喧嘩腰のような声になった。


    暮色

      一

 東京や大阪のバラック建ての喫茶店は、だいいち椅子そのものがゴツゴツと尻に痛く、ゆっくり腰を落ちつけて雰囲気をたのしむという風には出来ていないが、さすがに京都の喫茶店は土地柄からいっても悠長だ。
 例えば、セントルイスには半日坐り込んでいる常連がいる。三条河原町のD堂という古本屋の主人など、自分の店に坐っている時間よりも、セントルイスの片隅に坐っている時間の方が多いのだ。
 この主人の人生の目的は享楽にある。しかし、多くの金を要する享楽は、彼にとっては不愉快そのものだ。出来るだけすくない金で、出来るだけ効果的に楽しむことが、彼にとっては、真の享楽なのだ。彼はこの主義にもとづいて、毎日セントルイスでねばる。なぜなら、この店は場所柄先斗町あたりの芸者の常連が多く、それを見ていることが、彼にとっては目の正月であり、顔見知りの芸者を相手にいやがらせを言っておれば、お茶屋散財しているような気がするからである。むろん、芸者たちはいやな顔をする。が、どうせ金を使って散財しても、もてないことを知っているから、苦にはならない。色男を気取らず、見栄も張らず、けちで通った五十男らしいいやがらせを言っているのが、むしろサバサバしたたのしみであり、一杯十円の珈琲の高さが安くなるこの享楽にまさる享楽がほかにあろうか。京都人であった。
 セントルイスはめったに満員にならない。だからといってさびれているというわけではないのだ。京都では満員になる喫茶店なぞ殆んどないのである。しかし、たまにセントルイスが満員になることがあっても、彼は席を譲ろうとしない。泰然と落着きはらっている。チェーホフの芝居に出て来る下宿代を払わない老人のように、澄ましこんでいる。
「商談、お待ち合わせにお利用下さい」
 という女文字の貼紙の下で、あたかも誰かを待ち合わせているかの如き顔をしているのだが、むろん誰を待ち合わせているのでもない。
 しかし、D堂の主人を除けば、その時セントルイスにいたひと達は、まるで申し合わせたように、誰かを待っていた。
 マダムの夏子さえも、待っていた。京吉を待っていた。
 先斗町の千代若も旦那を待っていた。喫茶店で待ち合わせる旦那は、むろん上旦那ではなかったが、しかし、イロと旦那を兼ねた所謂イロ旦(那)はただの旦那、ただのイロよりもいいにはきまっている。だから、D堂の主人にからかわれながら、いつまでも待っていた。
 カラ子が祇園荘から尾行して来たスリも、誰かを待っているのか、いらいらしていた。
 そのカラ子は勿論京吉を待ちこがれていた。早く来てくれぬと、スリが出てしまう。カラ子は何度も表へ出て、京吉の来そうな方へ遠い視線を送っていた。が、来ない。
「遅いなア。どないしたンやろか」
 再びセントルイスへ戻って来たカラ子の心配そうな声をきいた時、一人の若い女がふっと顔を上げた。坂野の細君の芳子であった。
「遅い。本当に遅い。銀ちゃんどうしたんだろう」
 と、芳子はつり込まれたように、にわかに不安になって来た。

      二

 三時に行くと銀ちゃんは言っていたが、もう四時をすぎている。狭い横町にあるだけに、セントルイスの店なかは、ただでさえ早い秋の暮色が、はやひっそりと、しかし何かあわただしく忍び込んでいた。
 もしかしたら銀ちゃんは来ないのではないかという心配が、その暮色のように迫り、芳子は、昨夜銀ちゃんのアパートへ転がり込んで行った時の、銀ちゃんの迷惑そうな顔を改めて想い出した。
「あたしが来ては、迷惑なんでしょう……?」
「迷惑じゃないが、困るよ」
「あたしがきらいなんでしょう……?」
「きらいじゃないが、ここにいちゃまずいよ」
「それごらんなさい。きらいなんでしょう」
「…………」
 坂野の手前困るんだ――という銀ちゃんの気持は、芳子には判らない。
 女というものは、こういう場合、相手が自分を好いているか、きらっているか――という二つのことしか考えず、それ以上のことは考えようとしない。すくなくとも、そんな顔をしている。三時セントルイスで会おうという口実でアパートを追い出されたのは、相手が自分をきらっているせいだ、――という風にひたすら思い込んでしまうのだ。
 その証拠に、三時の約束が四時をすぎても来ないではないかと、芳子はもう捨てられた女の顔であった。
 もっとも、はじめは銀ちゃんが好きでも何でもなかった。好きで結びついた関係ではない。アルプ・ウイスキーの魔がさした。――というより、酔ったゲップを吐き出すような、まるで冗談まぎれのような結びつきであった。出来心という言葉さえ、大袈裟であろう。ところが、そんな冗談から、もう銀ちゃんが忘れられなくなるという駒が出たのだから、肉体のつながりの不思議さは、われわれの考える以上だ。
 乗り掛った不義の駒を、動かせるのはいつも女の方だ。だから、芳子はわざとヒロポンにかこつけて、アンプルを割るという芝居までして、銀ちゃんのふところへ転がり込んで来たのだが、しかし、一つにはお腹の子供のこともあった。坂野にもそれと感づかれそうになっていたのだ。
 そのお腹の子のことがあるから、きらわれても、とにかくもう一度銀ちゃんに会わねばならない。が、銀ちゃんはどこにいるのだろう。アパートへ電話してみたが、むろんいなかった。半泣きの顔で、ふっと入口の方を見た途端、芳子ははっとした。京吉がはいって来たのだ。悪いところを見つけられたように、芳子はあわてて顔をそむけた。
 が、京吉はむろん芳子に気がついた。
「ははアん」
 セントルイスから祇園荘へ電話が掛った時の、銀ちゃんの狼狽ぶりが想い出された。京吉はわざと芳子には顔を向けて、両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、くわえた煙草を、舌の先でペッと吐き捨てると、
「ひでえキャッキャッだ!」
 そのキャッキャッという言葉をきくと、芳子は何思ったか、急に起ち上って、京吉の傍へ来た。

      三

「京ちゃん、あんた……」
 芳子はちょっと言いにくそうに、
「――元橋さんの居所知らない……?」
「元橋さん……? そんな男……」
 知るもんか、おれきいたこともねえよ――と、銀ちゃんの本名を知らない京吉は、寄ってきた芳子へ、わざとらしい背中を向けて、そしてカラ子とうなずき合った眼を、ちらとスリの方へ光らせていた。
 日頃の京吉は、友達の坂野よりも、むしろ細君の芳子の方へ、ペラペラと冗談口を利いていた。口は悪いが、しかし、それが一種の愛嬌になっていて、芳子も京吉がアパートへ遊びに来ると、何となく気がまぎれるのだった。が、その京吉の今日のこの不愛想さは一体どうしたことであろう。
 芳子は取りつく島のない想いの底に、何か後ろめたい気持を、ひやりと覗きながら、
「銀ちゃんのことよ。グッドモーニングの……」
 われにもあらず、赧くなっていた。
「おれ知らねえよ」
「あんた、銀ちゃんと会うて来たんじゃな……?」
「おれ知らねえよ」
 すねたように、うそぶいている言い方で、芳子には、京吉が今まで銀ちゃんと会うていたらしいと、判った。もっとも、さっき京吉が、
「ひでえキャッキャッだ」
 と、言った途端に、芳子にはピンと来ていたのである「キャッキャッ」というものは、銀ちゃんの口癖であり、その言葉が今京吉の口から出るのは、つい今のさきまで、会うていた証拠だ。
 どこで会うていたのか。芳子は、半時間ほど前に祇園荘へ電話をかけて、京吉を呼び出したことを、想い出した。京吉は祇園荘でマージャンをしていたにちがいない。そして、その相手は、もしかしたら銀ちゃんだったかも知れない。いや、そうにちがいあるまい。銀ちゃんは、まだ祇園荘にいるだろうか。
「ちょっと電話おかし下さいません……?」
 芳子はいきなり夏子にそう言って、祇園荘へ電話を掛けた。
 自動式ゆえ、どこへ掛けているのか、はじめはまるで見当がつかなかったが、
「もしもし、祇園荘さん……? そちらに……」
 という芳子の言い方で、すぐそれと判った――途端に、京吉は、
「あれッ、こりゃいけねえ」
 と、驚いて、芳子の言葉をさえぎるように、
「――だめ、だめ! いま掛けちゃいけねえよ。祇園荘、だれもいねえよ。いねえッたら!」
 坂野もいるんだとは言いかねた見えすいた嘘でごまかしていると、
「京ちゃん、邪魔しないでよ」
 京吉まで自分を銀ちゃんに会わすまいとするのかと、芳子はもう邪推のキンキンした声であった。
 その時、例のスリが急に立ち上って、勘定を払うと、セントルイスを出て行こうとした。
「兄ちゃん!」
 カラ子はじれったそうに、京吉の袖を引いた。

      四

 カラ子にうながされて、京吉はすぐそのスリのあとをつけて出ようと思ったが、しかし、坂野の細君の芳子の方へ、気は取られた。
 放って置けば、芳子は銀ちゃんに電話を掛けるだろう。しかし、銀ちゃんの傍には今坂野がいる筈だ。芳子から銀ちゃんへ電話が掛ったことを、もし坂野がその場で知ったら、どんな波瀾が起きるか知れたものではない。よしんば、坂野が気づかなくても、銀ちゃんは困るだろうし、だいいち、京吉の気持としても、昨日までの亭主と情夫がいる場所へ、女が電話を掛けるという光景を、だまって見ているにしのびなかった。何かいやアーな気持だ。
「だめッたらだめだ!」
 よせッと、京吉はいきなり、芳子の手から受話機をひったくって、ガシャンと切ってしまった。芳子は真青になった。
「気ちがいッ!」
「おれ気ちがいなら、おめえはキャッキャッだ!」
「…………」
 芳子は肩をふるわせて、京吉を睨みつけていた。半泣きの顔だった。
「…………」
 京吉も半泣きの顔だった。――女ってみなばかだ。茉莉は死ぬし、陽子は誘惑されるし、この女は間男して亭主の所を逃げ出す……。おまけに、何も知らずに電話を掛けやがる。おやッ、姙娠してけつかる。おシンの奴もでかい腹だったっけ!
「兄ちゃん、早う……」
 行かないと見失うわよと、カラ子はそんな京吉に、気が気でない声をあげた。あ、そうだと、京吉はセントルイスを飛び出した。カラ子もついて飛び出して来て、
「あっちよ」
 と、河原町通りの方へ歩いて行くスリを指した時、芳子がバタバタと出て来た。そして血相をかえて、木屋町の方へ小走りに行こうとする――のを、京吉は、
「どこへ行くんだ……?」
 と、とめた。
「余計なお世話よ。どこへ行こうと……」
 あたしの勝手よ――と、いわんばかしに突っぱなしたそのいい方には、祇園荘へいるとにらんだ銀ちゃんに会いに行こうとする女の思いつめた激しさが読み取れた。
「おい、ちょっと待った」
「はなしてよ!」
「いや、はなさねえ」
「やぶけるわよ!」
「ねえ、待ってくれよ。祇園荘に行くんだろう……? ねえ、おれ頼むよ。行くのかんべんしてくれよ。ねえ、芳ッちゃん!」
「芳ッちゃん、芳ッちゃんって、お安くいわないでよ」
 と、いわれながら、京吉はしかし、ねえ、たのむよ、と、だんだん甘えるような哀願的な声になっていた。
 そして芳子をひきとめながら、ひょいと振り向くと、もうスリは河原町通りへ姿を消していた。同時にカラ子の姿も見えなくなっていた。

      五

 四条河原町の三味線屋の飾窓の中に、委託品として陳列されているスリービーのマドロスパイプを吸口の所だけ照らしていた落日の最後のあかりも、市電を待っているうちにいつか消えてしまい、黄昏がするすると落ちて来た。古い都のうらさびた寂けさよりも、銀座風に植民地じみた雑然とした色彩の洪水の方がむしろ最近の特徴になっているこの界隈も、灰色の秋風が肌寒く走ると、さすがに古い京都らしいくすんだ黄昏たそがれ方であった。町も人もうらぶれたように風に吹かれて、都会の憂愁がほつれ毛のようにふるえていた。
 三味線屋の飾窓の前に立って、電車を待っているスリも、何かしらうらぶれていた。スリも人並みにうらぶれるのか。いや、その男はスリが本職ではなかった。本職のスリなら、電車を待つ行列の中にまぎれ込んでいるはずだ。ひとりぽつりと行列からはなれて、手巻きの、三分の一以上葉が抜けたような煙草を吸ったりしないはずだ。
 その男――北山正雄は大阪のある銀行の下級行員であった。商業学校の夜間部を出ると、出納係に雇われたが、間もなく応召し、五年の後復員して来たが、その五年の歳月はこの実直な青年の実直さを、すこしも変えていなかった。ボソボソとした小さな声も、応召前と同じで、ソロバンをはじく手にも五年間の異常な経験のしみはついていないようだった。けろりとした手だった。
 しかし、ただ一つ帰ってから闇の女を買うことを覚えた。
 ある夜、大阪の中之島公園で拾った娘に、北山は恋心めいた情熱を感じた。ところが、無理をして二三度会うているうちに、右の眼の下にアザのあるその娘はふいに中之島公園に現われなくなった。大阪駅前の闇の女の群の中にも見当らなかった。難波や心斎橋附近の夜の場所も空しく探したあげく、検挙されたのだろうか。病気だろうかと心配していると、ある日その娘から手紙が来て、
 ――大阪は何かときびしくなったので、京都へ来て働いている。こんどの日曜日、三時半に四条河原町の横町のセントルイスという店で待っているから来てくれ――という。
 飛び立つ思いとはこのことだと北山は日曜日が来ると、朝のうちにもう京都へついた。そして駅前で靴磨きに生れてはじめて靴を磨かせた。ところが、磨き終って金を払おうとするとズボンの尻のポケットに入れて置いた財布を掏られていることに気がついた。金がなくてはもう娘にも会えない。魂が抜けたようになって河原町通りを歩いていると、朝日ビルの前で靴を磨かせている若い男のズボンの尻から財布がはみ出していた。急に魔がさした。はっと思った途端、北山の手は伸びていた……。
「ああ、ああ!」
 その時のことを、北山はなまなましく想い出して、溜息とも叫びともつかぬ、得体の知れぬ声をうめきながら、ぶるんと首を振っていると、電車が来た。北山はそわそわと、しかし、何か心を残しながら、その電車に乗った。すると、そのうしろから、十二三の娘が急いで乗って来た。いうまでもなく、カラ子であった。

      六

 電車が動き出すまで、少し間があった。その間、北山もカラ子もそれぞれ河原町通りの舗道を、窓ごしにキョロキョロ見ていた。カラ子は京吉が来るのを、待っていたのだ。
 せっかく祇園荘からセントルイスまで尾行して、電話で兄ちゃんを呼び出したのに、兄ちゃんはよその女の人にばっかし気を取られていたので、カラ子は結局機転を利かしてひとりで尾行して来たのだったが、さすがに嫉妬じみた気持に、カラ子は唇を噛んでいた。
 しかし、そのために京吉を恨もうという気もなかったのは、恋心の幼なさのゆえではない。ひとから優しくされることは、何となく諦めているこの少女の哀しいならわしだった。それゆえか、カラ子はひとから優しくされたいと願う前に、まず自分の方から献身して媚びて行こうとした。しぜん、ひとから頼まれごとをするのが好きだった。いや、頼まれぬことも進んでやりたがった。しかし、報酬はあてにせず、いわば孤児の感情のさびしさがさせる無償の献身であった。十二の小娘にしては、荷の重すぎるスリの尾行という仕事も、だからカラ子を、いそいそと弾ませていた。そして、それを立派にやりとげることが、京吉への恋心めいた気持の、せめてもの表現であった。
 電車が動き出した。カラ子はふと兄ちゃんとこのまま別れてしまって、もう二度と会えないのではないかという予感にさびしく揺れたが、眼はピカピカ光り、北山をにらんでいた。北山は未練たらしく、いつまでも河原町通りの方へ、視線を泳がせていた。あの娘を探していたのだ。その女のことがあるから、京吉の財布を掏ったのだった。さきに自分が掏られたことへの腹いせでもあり、魔がさしたともいえるが、しかし、その闇の娘を買う金という目的がなかったら、実直で小心な北山には、ひとを掏るなどという大それたことは出来なかったはずだ。掏ると、すぐ人ごみの中へ姿を消した。約束の三時半にはまだ間があった。行きあたりばったりに歩いていると、悔恨と恐怖が追うて来て、ジリジリと背中を焼いた。歩いていることが怖くなり、北山は祇園荘へ飛び込んだ。マージャンは戦地でならったことがある。マージャンで時間をつぶして、セントルイスへ行った。が、その娘はいつまで待っても来なかった。その娘が昨夜、仏壇お春たちと一緒に検挙されたとは、むろん北山は知らなかったのだ。
 いらいらと待っていると、いきなり、
「おれはこんな所でボヤボヤしていてもいいのやろか」
 という焦躁が、蛇のように頭をもたげて、北山の右の手首へからみついた。スリ、悪事、手繩! 気の小さい男だった。北山はソワソワとセントルイスを飛び出し、京都駅行きの電車に乗ったのだった。
 そして、女への未練と、一刻も早く京都を逃げ出したい気持を、二本の電車線路のように感じているうちに、電車は駅前についた。
 駅前の広場を横切る北山の足は速かった。カラ子はハアハア息をはずませて、チョコチョコついて行った。

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