定本織田作之助全集第七巻 |
文泉堂書店 |
1976(昭和51)年4月25日 |
女の構図
一
キャバレエ十番館の裏は、西木屋町に面し、高瀬川が流れた。
高瀬川は溝のように細い。が、さすがに川風はあり、ふと忍びよる秋のけはいを、枝垂れた柳の葉先へ吹き送って、街燈の暈のまわりに夜が更けた。
しかし、十番館のホールではまだ夏の宵だった。
裳裾のようにパッとひらいた頽廃の夜が、葉鶏頭の花にも似た強烈な色彩に揺れて、イヴニングドレスの背中をくりぬいて見せた白い素肌が、蛇のようにくねると、そのくぼみに汗が汗ばみ、女の体臭を男の体臭が絞り出すような夏の夜の踊りに、体の固い若いダンサーのステップもいつか粘るのだった……。
そんなホールの中へ、こおろぎが一匹、何にあこがれたのか、さまよい込んで、ピョンとはねた途端、クイックターンのダンスシューズの先に蹴られて、チリチリと哀れな鳴き声のまま、息絶えたが、その声はバンドの騒音に消されて、たれも気がつかなかった。
木崎三郎も気がつかなかった。
木崎は肉眼がカメラのレンズに化してしまったかと、思われるくらい、視覚神経の病的に鋭いカメラマンであり、ことにグラフ雑誌から頼まれたダンスホール風景の写真を撮りに、三晩もつづけて十番館へ足を運んでいるのだから、ホールの床の上のこおろぎという構図には敏感に神経が動く筈だのに、やはり見逃してしまったのは、丁度その時、木崎は二階の喫茶室にいたからであろうか、それとも……。
喫茶室からは一眼でホールの隅から隅まで見下ろせたが、しかし、こおろぎまでは視力が届かない。とはいうものの、よしんばそれが出来ても、少くともその時の木崎の眼にははいらなかったに違いない。
なぜなら、木崎の視線はひたすら、辻陽子というダンサーの姿態や顔の動きを追うていたのだ。憑かれた眼にはそれだけしか見えない。
しかも、それが今夜で三晩も執拗につづいているのだ。最初の晩辻陽子を一眼見て、なぜかどきんとした途端に、もう木崎の眼は、
「よし。このダンサーだ。この女を撮ろう」
と、たちまちカメラのレンズに化してしまったが、しかし、非情のレンズにしては、何か熱っぽく燃えて、夜光虫のように光った。
木崎は自分の心の底を覗くように、レンズを覗いた。レンズの向うには、陽子のさまざまな姿態があった。が、三日目の今日まで、ついぞ一度もシャッターを切らなかった。
気に入った構図が見つかるまで、めったにフイルムを使おうとしない、名人気質的な、ふと狂気じみた凝り方は、いつものこととはいうものの、しかし、いつもの彼ならいそいそと撮ったようなポーズにも強く反撥していたのは、一体何であろう。
木崎の顔は憂愁の翳が重く澱んで、いらいらと暗かった。が、何を思ったのか、急に起ち上ると、木崎は階段の中程に突っ立った。
そして、陽子へ向けたライカのシャッターを切った途端、一人のダンサーが声も立てずに、いきなり床の上へ崩れるように、倒れた。
二
まるで、わざとのような偶然であった。
木崎のライカがカチッとシャッターの音を立てたのと、そのダンサーの体が崩れるように床の上へ倒れたのと、殆んど同時――というより、むしろ、シャッターの音が防音装置のピストルのかすかな音のように、彼女を倒した――と言ってもいいくらいだった。
木崎も驚いたが、客もダンサーも、そして楽師もあっと思った。
バンドの調子は、いきなり崩れた。
一階のホールの正面の演奏台ではスウィングバンド、二階の廊下から突き出したバルコニー風の演奏室にはタンゴバンド――この二つのバンドが交替で演奏するのだが、丁度その時はタンゴバンドの番だった。
曲はクンパルシータ。
みんな知っている曲ゆえ、一層その崩れ方が判った。が、楽師はあわてて調子を取り戻した。昨日までいてよそのホールへ引っこ抜かれたバンドの代りに、今夜から新しく雇い入れられたバンドだった。いわば初演奏だ。だからすくなくとも今夜はおかしいくらい熱心だった。しかし、取り戻した調子を張り上げた時は、もう誰も踊っている者はなかった。
ステップをすっと引き寄せてから、その反動でぐっと女の体を押して行く――いわば情熱的にアクセントの強いタンゴの中でも、クンパルシータの曲は誰も踊りたがり、お茶を引いて椅子に「カマボコ」になっているダンサーすら、同じカマボコさんをつかまえて、女同士で踊っていたくらいだが、しかし倒れた茉莉の顔は、余りに青すぎた。
ただごとではない。
「醜態だね。転ぶのはまだ早いや。宵の口じゃないか。不見転ダンサーか。誰なんだい」
ステップを踏みはずして、転んだのか――と皮肉りかけた口の悪い客も、
「あ、茉莉が……」
倒れたのかと気がつくと、あわてて相手のダンサーをはなして、
「――茉莉誰と踊ってたんだい。柔道屋か」
茉莉はまかりまちがっても転ぶような、そんな下手なダンサーではなかったのだ。
「踊りでは茉莉、顔では陽子」
と、十番館では定評になっていた。
「えッ、茉莉が……?」
と、陽子も顔色を――いや、陽子の顔色は既に木崎がシャッターを切った時なぜかはっと変っていた。
「あ、うつされる!」
と、ぎょっとしたように、いきなりそむけた顔が、みるみる青ざめた。
「失礼します」
陽子は客からはなれて、木崎の方へ行こうとした――その途端、茉莉が倒れたのだ。
写真も気になったが、それよりも茉莉のことが……。ちょっと迷ったが、やはり陽子は人ごみの間をすり抜けて、茉莉の方へかけよった。
茉莉の顔は、青ざめた陽子よりも、血の色がなかった。頬紅の色まで青く変っていた。
そして、口から泡をふき出して、床の上を蛭のようにかすかにうごめいている――その傍に、青年がキョトンと突っ立っていた。
三
「あ、京ちゃん」
茉莉の倒れている傍に、突っ立ってキョトンとしている青年の顔を見ると、陽子は茉莉よりもその青年に声を掛けた。
十番館では「京ちゃん」で通っている京吉という二十三の青年だった。
京吉はどこのホールでも、チケットなしで踊れた。
天才的にダンスが巧いのだ。ダンス教師も京吉のステップを見ていると、自分が情なくなるくらいだった。京吉の相手をしたダンサーは、慾も得も商売気も、そして憂さも忘れて――いや自分を見失ってしまうくらい、うっとりと甘くしびれるのだった。
「バンドがよくって、好きな曲で、リードの素晴らッしく巧い奴と踊ってると、よっぽど生理的にいやな奴でない限り、ふっと、こいつに口説かれてみたい――と思うことがあるわ」
と、浮気なダンサーが言っているが、身持ちの固いダンサーでも、ダンスの三昧境へ巧みにリードされて行くと、ふっと相手に身を任しているような錯覚に、ゆすぶられることもあるという。
ダンスの持っている強烈な、――殆んど生理的なリズムにまで燃える魅力の一つであろうか。
京吉はそんな魅力を持っている少数の一人だった。
おまけに、美貌だ。
二十三歳だが、十代に見えるくらい、一見無邪気な可愛いい顔立ちで、ほっそりと痩せた横顔の青白さは、まるで胸を病む少女のようにいじらしく、ふと女たちにはやるせなかった。が、美しい眉に翳るニヒルな表情や、睫毛の長い眼のまわりの頽廃的な黝ぐろい隈や、キッと結んだ唇の端にちらと泛ぶ皮肉な皺は、何かヒヤリとした苦味のアクセントを、京吉の顔に冷たく走らせて、ふと三十男のようであった。
ハンサムという言葉では、当らない。いわば、女たちをうっとりさせると同時に、ぞっとした寒気を感じさせる美貌だ。
だから、みんな京吉と踊りたがった。
「チケットを倍にして返すから、あたしと踊ってよ。ねえ、京ちゃん、明日来て、あたしと踊ってよ」
と、頼む女もあった。京吉となら、チケットを貰うのが済まないというのであろう。
その京吉と、茉莉は今夜踊っていたのだ。
――と、陽子は思い出して、
「どうしたの、一体……」
と、せきこんで、たずねた。
「う……?」
京吉はちらと陽子の顔を見た。
「あんた、茉莉と……」
踊ってたんでしょう――と、あとは眼できいたが、京吉は答えず、不機嫌な唇を結んで、キョトンとした眼で、茉莉を見下ろしていた。
繋ぎ提灯の、ピンク、ブルウ、レモンエローの灯りが、ホールの中を染めていた。
が、茉莉の顔はその色に染まりながら、いや、そのために一層、みるみる蝋色の不気味さに変って行くのが、判るようだった。
苦しそうだ……。
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