三
わざと閉店近くの夜十一時過ぎ、豹一はひきずるように着た長いオーバーのポケットに両手を突っ込んで、「オリンピア」の前へ現われたのだった。
ジャズバンドの音が気おくれした豹一を押しのけるようになかからきこえて来て、道頓堀のアスファルトを寒く乾かしていた。
なんということか、豹一は何度かためらった挙句、ボーイや女給たちが並んでいる正面の入口からはいる気がせず、「男ボーイ入用」「雑役夫入用」「淑女募集」などの貼紙が風にはためいている勝手口から飛び込んだ。
そこにボーイがいて「なんぞ用だっか」とじろりと見られた。あるいは、若い豹一を見てボーイに雇われに来たのだと思ったのかも知れぬ。豹一のようないくらか蒼ざめた、顔かたちの整った青年は、ボーイにうってつけなのだ。
「新聞記者のものですが……」うろたえた豹一は、「新聞社のもの……」というところを、そんなへまを言ってしまった。
「名刺もったはりまっか」
なるほど新聞記者は先ず名刺が要ると土門がいったのはこれだったかと、豹一は正直に作って置いた莫迦に小型の名刺を出した。ボーイはちらとそれを見て、
「はあ、さいですか? いま係の方に来てもらいまっさかい、ちょっとお待ちなすって……。さあ、どうぞ、お掛け下さい」
名刺の効果はてきめんだった。ボーイは急に言葉使いを改め、椅子をすすめた。そして、陰気くさい溜り部屋のドアを押して出て行った。ドアをひらいた拍子に、はなやかなキャバレエの内部がぱっと見えた。豹一は妙に緊張した。
暫く待っていると、燕尾服の胸に薔薇の花をつけた男が下品な感じの顔をぬっと出した。
「私佐古です」そう言ったかと思うと、いきなり、「あんた、東洋新報の方でんな?」と呶鳴りつけるように言った。
「はあ」豹一は相手の顔をしげしげと観察しながら、答えた。
「あんたとこはけしからん」佐古はどう見ても駈出しの新聞記者としか見えぬ、子供っぽい豹一をなめて掛ったのか、のっけから喧嘩腰だった。「なんでうちの記事を書いてくれはれしまへんねん。よそさんは皆書いてくれはりまっせ。ほんまにけしからん。書かんのは君とこだけやぜ。どないしてくれる気や?」
豹一はむっとした。「だから今日こうしてわざわざ来てるんじゃないですか?」豹一は「わざわざ」に力を入れて、そう言った。その調子にはまるで豹一の外観からは想像も出来ぬ、鋭いものがあったから、さすがに佐古は、「今日来ても手おくれや」とは口に出せなかった。
(駈出しの癖に威張ってくさる。こういうのがかえってうるさいのかも知れぬ)下手に怒らしてはあとが怖いと、佐古は咄嗟に考えた。(こういう青っぽい駈出しが、得てしてあと先も見ずに慾得もなしに、無茶なゴシップを書きくさるのや)
佐古の顔は急にほころびた。
「それはよう来てくれはりました。さあどうぞ!」まるで打って変ったようにぐにゃぐにゃした佐古は、そう言って豹一をドアの外へ連れ出した。
眼も痛むような明るい光線がジャズの喧噪に赤く青く揺れている社交場が、眩しく展けていた。豹一はもう何ものも眼にはいらぬような興奮した状態になって道頓堀に面した窓側のテーブルへ連れて行かれた。
「さあ、どうぞ!」佐古はソファの方へ掌を出した。
豹一は虚勢を張りながら、いきなりどすんと腰を下したが、スプリングがついていたので、危く転りそうになった。かなり済ましこんでいたので、ぶざまなことにはちがいなかった。佐古の眼が笑ったと、豹一は咄嗟に思った。
佐古は豹一がやっとソファの奥深く収ってしまうのを見届けてから、「では御ゆっくり……」と言って、眼ばかりぎょろぎょろ光らせている豹一をそこに残して、立去ってしまった。
やがて、ボーイが現れて、テーブルの上へ爪楊子入れのようなちっぽけなグラスを置き、それに洋酒を注いで立去った。ビール罎やコップが載っているのならともかく、そんなちっぽけなグラスがぽつりと大きなテーブルの上に置かれた図は、いかにもわびしかった。じっとそれを見ていると、豹一はなんだか恥しくなって来た。豹一は照れかくしにそのグラスを手に取って、一気にそれを口へ流しこんだ。
「あ!」ジンだった。舌を咽喉をさす強烈な刺戟に、豹一は眼の玉までやけるような気がした。驚いて、下を向き床の上へこっそり吐き出していると、ふっと衣ずれの音がして、生温い女のにおいが閃いた。顔をあげると、白いイヴニングを着た女がすんなりとテーブルの横に立っていた。
(村口多鶴子だな?)と、豹一は直感した。
「やあお待たせしました、村口さんです。――こちらは新聞社の方……」傍についている佐古は器用に掌を使いながら、そう紹介した。
「どうぞよろしく」仮面のように笑いを釘づけながら、村口多鶴子は妙に重みのあるしわがれ声で挨拶した。
「はあ……」豹一は情けないほど小さな声が曖昧に出ただけで、われながらぎこちなかった。なんだか胸がどきどきした。醜態にも酒を吐き出しているところを見つけられたと、眼が霞むほど赧くなってしまった。
「失礼します」と多鶴子はそう言って、豹一の向い側に腰をおろした。微笑の膠着したその顔は明かに、豹一の質問を催促していた。
(いよいよ喋らねばならない!)豹一はテーブルの上の空のグラスを手にとって、神経質に弄んでいた。
佐古はそれを見ると、豹一がお代りを催促しているのだと、感ちがいして酒を取りに行くべく、その場をはずしてしまった。あとには豹一と多鶴子は無意味に残されて、物も言わずに向き合っていた。目まぐるしく交錯する赤、青の光線が思い切ってはだけた多鶴子の白い胸を彩っていた。多鶴子の顔が正視出来ないので、豹一は自然胸のところばかり見ていたが、赤く染められた胸の静脈が急にぴりりと動いた。そして、多鶴子は微笑の仮面を不意にはずして、眉をひそめた表情になった。余り豹一が黙ってばかしいるので、多鶴子もいらいらして来たのである。しかし、豹一はなおも口が利けなかった。どんな風な質問をして良いのか、さっぱり見当がつかなかった――というよりも、むしろ気遅れがしていたので。
多鶴子は莫迦にされているような気がした。無躾に質問される方が未だしもだと、思うぐらいであった。多鶴子はふっと顔をそむけて、窓の外を見た。道頓堀川の暗い流れに、「オリンピア」のネオンサインの灯影が歪になって、しきりに点滅していた。寒々としたながめだった。(なぜこんなところに働く気になったのだろうか?)改めてそのことが後悔された。昨夜から引続き、泣きたいぐらいの気持であった。自分の人気への自信や顧慮というものがなかったならば、とってつけたような笑い顔など、みじめ過ぎるところではないか。うかうかと佐古の甘言に乗ったという想いが強かった。彼女の教養はこの「紳士の社交場」に於ける自分の姿をきびしく批判していた。蝶々のように客席から客席へ飛びまわっている自分の姿を、先生が見たらなんと言うだろう? 中途退学だが、彼女は広島県のある女学校へ通っていたことがあり、その時可愛がってくれた先生はアララギ派の歌人だった。因みに彼女はアンドレ・ジイドが愛読書だと、かつて映画雑誌のハガキ質問に答えたことがあった。
彼女は余っ程席を立とうかと、思った。そんな彼女を僅かに引止めたのは、豹一の少女のような睫毛の長い美しい顔だった。ぶくぶくのオーバーの下に大人に成りきらないきゃしゃな体がかくれているのかと思うと、彼女は本気になって腹を立てることも出来なかった。生毛まで赤くして、何か言おうと力んでいるさまを見ると、彼女は、ふっとおかしくなり、
「あのウ、社はどちらですの?」随分好意を示したのだった。
ところがその時豹一は、口も利けずにいる情けない状態から逃れ出るために、散々苦心した挙句、昼間新聞を見てむやみに彼女に腹を立てていた時の気持を無理に呼びおこして、(この女に口も利かないなんて、お前は軽蔑に価するぞ! なんだ、こんな女ぐらい……、じかに見れば年増じゃないか?)[#「年増じゃないか?)」は底本では「年増じゃないか?」」]と、ひそかに喧嘩腰になって、カッと眼を光らせていたところだった。だから、多鶴子の方から先に言葉を掛けられて見ると、物事にこだわり易い豹一は、先を越されてしまったと、ますます屈辱を感じてしまった。自然、多鶴子の問に答える豹一の言葉は普通のなまやさしい答えでは済まされない筋合いになっていた。
ところが、運良くそこへ佐古が洋酒の瓶をもって現れたので、豹一は苦しい気持を押してまで失敬なことは言わずに済んだ。
「どないだ? 東洋新報さん。ネタがとれましたか?」
佐古が「東洋新報さん」といってくれたので、豹一はもう多鶴子に答えなくも良いとほっとして、
「はあ、とれました」と、思わず言った。多鶴子はその言葉にあきれてしまった。その顔を見ると、豹一もさすがに、(嘘をつけ!)と、苦しかった。
「そんならもう酔ってもよろしいな。一つ、行きましょう! こら、誰にも罎にもさわらさん内緒の洋酒でっさかいな、じイわり味わうとくれやす」
ボーイの手を借りずにわざわざ持って来てやったのだという顔で、佐古は豹一のグラスに注ぎながら多鶴子に目くばせした。多鶴子は心得て立ち上り、
「どうぞよろしく」席をはずしてしまった。豹一はあわてて、
「はあっ!」と、わけのわからぬ掛声を挨拶がわりに唸りあげて、多鶴子の後姿を見送った。
「さあ、いただきまひょ」佐古は飲めと催促した。豹一は眼をつむって、噛みちぎるように、一気に飲み乾し、グラスを佐古の手に渡した。
「凄い! 凄い! お水は……?」
「結構です」実は欲しかったのだが、わざわざ言われると、持前の負けずぎらいからそう答えざるを得なかったのだ。
余程悪質のジンだと見えて、急激に廻って来た。豹一は醜態を見せぬ内にと思い、
「お忙しいところをどうも……」ぶらんと頭を下げて、わりに新聞記者らしい言い方でそういうと、ふらふらと「オリンピア」を出て行った。
出ると、寒い風がさっと来た。肩をすくめた拍子にぐらぐら目まいがして、道頓堀の灯が急に真っ白にぼやけて、視線になだれこんで来た。かと思うと、いきなり遠ざかり、頭の中を赤い色が走った。
無我夢中で食傷横町の狭くるしい路次を抜け、法善寺の境内にぽかりと出た。凍てついた石畳の上にぽつんとベンチが置かれてあるのを見て、豹一は這うようにして、それに腰を下ろした。途端にげっと吐き気を催した。動物的な感覚がこみあげて来て、豹一はたまり切れずげッ! ばッ! とやった。石畳の上へ吐きだされた汚物からかすかに湯気があがるのを見ながら、豹一は今夜の仕事が未だ残っていることをふと想った。金刀比羅天王の赤い提灯がひっそりと揺れていた。
四
夜の一時を過ぎると、気の早い拾い屋が道頓堀通のアスファルトへ手車を軋ませながら、薄汚い姿を現わす。それと前後して、どこから集って来たのか、おびただしい数の自動車が夜中の葬式のようにずらりと並ぶ。カフェの灯がぽつりぽつりと消されて行って、やがてあわただしい暗さがあたりに漂うと、アスファルトは急に凍てついた白さに冴える。そんな暗さの中に最後まで残っていた「オリンピア」の灯も、やがてひとつひとつ消されて行き、ほの暗くなった表口からショールにくるまった女給たちがぞろぞろと出て来て、寒い肩をすぼめていた。ひとり毛皮の外套を着た女がすらりとした長身で、飛ぶように出て来て、五六台並んだいちばん前の車に駆け寄った。
扉がひらいた。
「さあ、どうぞ!」そう言ったのは、中折を阿弥陀にかぶった佐古だった。
「お送りしまひょ!」その言葉にその女はステップから足をおろした。
「あらいいんですの」村口多鶴子だった。
「まあ、まあ、ちょっとその辺まで送らしとくれやす」そう言って、佐古はいきなり多鶴子の耳に顔を寄せ、
「早くせんと経営者が来まっせ」意味あり気に囁いた。
その言葉と佐古の掌に押されて、多鶴子はさっと車内へ飛び込んだ。佐古はあとに続いて、中腰のまま扉を閉めながら、「帝塚山まで……」と、なかば多鶴子にきかせる気持で、運転手に命じた。多鶴子は佐古の言った行先に安心したさまで、はじめてクッションの奥へ体をずらした。そして車が動き出すと、習慣でコンパクトをちらと覗いた。眼尻の皺が夜更けの時間を見せていた。(今日いちにちの役目もやっと済んだ!)
しかし、未だ済んでいない者があった。佐古と、もうひとり豹一だ。
豹一は寒い風に吹かれながら、多鶴子が「オリンピア」から出て来るのを、浮かぬ顔で待っていたのだった。女給帰りを待ち受けているらしい男たちにまじっていると、(なんという仕事か?)と、むかむかして来た。しかし、やっと多鶴子が出て来ると、さすが豹一ははっと緊張した。なるべく多鶴子に見つけられぬようにと、後の方に並んでいる車のかげにかくれたが、多鶴子はむろんそんな方へは一瞥もくれず、さっさといちばん前の車に乗ってしまった。豹一はあわてて、「あの女の車をつけてくれ!」と、言いながら、運転手の返辞も待たずに飛び乗った。オーバーの長い裾が邪魔になって、文字通り転ったが、しかし眼だけは多鶴子の車から離さなかった。
「早くやってくれ!」多鶴子の車が動き出したので、豹一は気が気でなかった。
運転手はしかしのろのろと扉を閉めながら、
「どこまででっか?」
「何べん言わすんだ? あの車をつけてくれ。あの女の車」豹一は、こいつは耳が遠いんだと思うことによって腹立って来る気持を押えることにした。「早くやってくれ!」
「そない急かしたかて、前がつかえてまんがな」
「後へ下れば良いじゃないか?」豹一は到頭腹を立てた。
「後へ下ったら、二つ井戸まで行ってしまいまっせ。なんなら高津さんまで行きまひょか」
ここで喧嘩していては、多鶴子の車を見失うと思ったので、豹一は、
「頼む、早くやってくれ!」と、下手に出た。この「頼む」という言葉でやっと動き出した。そして巧みに他の車の間を抜け出た。
「金はいくらでも出す!」この言葉をもっと早く言うべきだった。急にスピードが出た。そして、徐々に前方の車との距離を詰めて行った。豹一はほっとした。が、相かわらず中腰のままだった。
多鶴子の車は道頓堀通を真っ直ぐ御堂筋へ出てナンバの方へ折れて行った。カーブした拍子に、多鶴子はちらと眼をあげて走っている方角をたしかめたが、すぐまたコンパクトを覗いた。つまり、そうして居れば、佐古の相手にならなくても済むのである。車は電車通に添うて日本橋筋一丁目の方角へ折れて行った。
やがて車は日本橋筋一丁目の交叉点を霞町の方へ折れて行った。豹一の車もあとに続いていた。
多鶴子の車が霞町から天王寺公園横の坂を登って行くと、佐古は、
「寒い、寒い、隙間風がはいって来よる」と、言い出した。そして、坂を登る動揺を防ぐために、半身乗り出して運転台の方へ寄り掛っていたが、いきなり、「そこを閉めてくれ!」といいながら、運転台の横の窓ガラスを閉める真似をした。真似をしたというのはじつははじめから閉っていたからである。その動作の咄嗟に、佐古は五円紙幣を運転手の膝の上へ落し、何やら囁いた。
多鶴子はおやと思った。その瞬間、車は阿倍野橋まで来たが、彼女の住居のある帝塚山へ行くべく右へ折れずに、不意に左へ折れてしまった。迂回するためかと思ったが、車はそのまま真っ直ぐ天王寺の方へ走って行った。そのかすかなタイヤの軋みを多鶴子ははっと不気味にききながら、
「方角がちがってよ。運転手さん! 引きかえして頂戴!」思わず叫んだ。
しかし、佐古の意を察している運転手は、よくあることやと苦笑しながら、それに耳を藉そうとはしなかった。
「佐古さん!」多鶴子は佐古の顔をきっとにらんだ。「車を引きかえして頂戴!」
「そら無茶でっせ。わてはなにも運転手さんやあらへん。引きかえそうにも、わてが運転するわけにいきまへんがな」済ましこんでそう言うと、あははと、多鶴子の白い眼へ笑いをかぶせた。多鶴子は叫び出しそうになったが、さすがにかつての人気女優だった。やっとこらえて、十分用心深い表情のまま、じっと車の方向を見つめていた。
阿倍野橋から二町も行った頃だろうか、いきなり車が停った。運転手は素早く降りて、「清川」と門燈の出ているしもた屋風の家へはいって行った。それがどんな商売の家であるか、多鶴子には直ぐわかった。古びているが、映画のセットにこれとそっくりの家が出て来る。
運転手が出て来るまで、佐古はこの男に似合わぬ神経質な手つきで、煙草を吸っていた。電機工の時分から憧れていた此の美しい女優を自由にすることが出来るといううずくような期待から、さすがにぶるぶるふるえが来たのである。多鶴子は佐古の隙をうかがって逃げるという、映画的な場面を頭に描いた。
運転手は直ぐ出て来た。そして、佐古に眼くばせして、扉をあけた。佐古は先に降りて、「どうぞ」と、莫迦ていねいに運転手の傍に立って、多鶴子を促した。
じっとクッションの隅に身をすくめていることは、多鶴子の矜恃が許さなかった。多鶴子は黙ってうなずき、車の外へチョコレートの靴下に包まれたすんなりした足を伸ばした。佐古は身ぶるいした。蒼ざめた多鶴子の顔は、佐古の眼にも凄いほど美しく見えた。佐古はなんだか大それたことをしているような気がするほどだった。
その時、豹一の車がぎいとにぶい音を軋ませて、辷りこんで来た。そして停った。
「あ、いかん、停めたらいかん!」豹一は思わず叫んでいたが、頓間な運転手は多鶴子の車を掴えることばかしに気を取られていたので、豹一がそう叫んだ時、既にまるで当然のようにブレーキを掛けてしまっていた。
(まずいところで停めやがった!)尾行して来たのをわざわざ知らせるようなものではないかと、豹一はいきなりオーバーの襟を立てて、顔をかくそうとしたが、多鶴子は素早くそれを見つけて、「あ!」かすかに叫び声をあげた。
(あ、この人は……)インターヴィユを取りに来て一言も喋らなかったという点だけでも、記憶に残るに充分だった。(あの新聞記者だ!)咄嗟に想い出すと、多鶴子はなんのために豹一がそんなところへ現われたかを考える余裕もなく、突然身をひるがえすと、豹一の車へ駆け寄った。
「乗せて下さらない?」そして、返辞も待たずに、豹一の傍へ転り込むように飛び乗ってしまった。
柔い腰の感触がいきなり豹一の体を敲いた。思わず身を避けた拍子に、強い女の香がぷんと鼻に来た。豹一は一層周章ててしまって、咄嗟に口も利けなかった。
「こら、待て! 待ちくさらんか!」驚いた佐古がそんな芝居掛った科白を、地金の柄のわるい調子で言った時、豹一の車は多鶴子を乗せたまま、再び深夜の街へ走り出していた。
豹一も多鶴子も運転手に「走れ」と命じたわけではなかった。ただ運転手が咄嗟の機転を利かせたのだった。彼は豹一の顔から察して豹一を多鶴子の情人だと、簡単に決めていたのである。だから、命じられなくても、充分、心得ていたわけだ。
五
「あ、そこで停めて頂戴」
小綺麗な洋風のこぢんまりした住宅の前まで来ると、多鶴子は車を停めた。
「ここですの。私の家……」そう言って、多鶴子はクッションから腰を浮かせながら、「どうもありがとうございました」
豹一に礼を述べかけた拍子に、(そうだ! この人を家へ案内しよう)だしぬけに思いついた。
謝礼の意味からいっても、その必要はあるわけだと思った。わざわざ送ってくれた人を、帰らすのは失礼にあたると、多鶴子は自分に言いきかせたが、じつはこのまま帰らすわけにはいかぬわけがほかにあった。今夜新聞にかかぬように頼むということが残っていたのだ。
「御迷惑でしょうが、寄って行って下さいません? 夜分のことでなんにもおもてなし出来ませんけれど……」多鶴子はそう言った。
そんなことを言われると夢にも思っていなかったから、豹一は不意打をくらった気持でぱっと赧くなり、
「いや、ここで失礼します」正直な返事だった。じつは豹一はここまで同乗して来るのさえも、窮屈で仕方がなかったのである。この上、家のなかまではいって息のつまるような気持を味わせられるのは真平だと思ったのだ。運転手が羨んだ車中も、豹一には長い道中だった。やっと車が停って、折角やれやれと思ったところではないか。全く運転手に金を払うということさえなかったら、途中でも逃げ出したい気持だったのだ。
ところが、その金は多鶴子が当然のように素早く運転手に渡してしまった。運転手はじつは「金はいくらでも出す」といった豹一から貰いたかったのだが、多鶴子から渡された金を見て、ひどく満足した。
(男ならこんなに呉れるまい)運転手は金を貰った以上、豹一だけを乗せてもう一度走るのは損だと思った。二重取りもさせないほどの多額の金だったのである。それに、二重取りしたくとも、出すまい。「さっき女に貰ったじゃないか」と着いた時いわれるにきまっている。そう思ったから、運転手は、豹一がなんといっても走らなかった。
「もうガソリンが切れてまんねん。どこまででっか?」
「下寺町だ」
「入庫の方角と違いますわ。あきまへん、降りとくなはれ」結局、豹一は降りざるを得なかった。
車は後戻りすべく、夜更けの空気のなかに爆音を響かせて、不格好に迂回しはじめた。ぽかんと突っ立っていた豹一は周章てて飛びのいた。自然、豹一は多鶴子の家の玄関に近寄った勘定になった。
「どうぞ!」多鶴子が言った。
豹一は多鶴子の言うままになるより仕方なかった。そんな夜更けの住宅地では、もう帰る車を拾うのも容易ではないと諦めた。しかし、その夜更けという点で、豹一もこだわっていた。「夜分のことで……」と、さっき多鶴子も言った筈だった。が、豹一は、僅かに仕事という点を自分への口実にすることが出来た。ひょんなところで新聞記者であることを自覚するところを見れば、まだまだ豹一は新聞記者ではなかった。
自動車の音でそれと気づいたらしく、玄関に灯がつけられた。
「只今!」多鶴子が声をかけると、
「お帰り遊ばせ」なかから女中の声がして、戸をひらいた。
「どうぞ! お先に……」
言われて、豹一が玄関にはいると、女中が頭を下げていた。そろえて下しているその手を見て、豹一はおやっと思った。痛々しく赤ぎれて、ところどころ血がにじんでいるとも見えた。豹一はだしぬけに母親のことを想い出した。胸がしめつけられる思いだった。
多鶴子は女中に命じて、豹一を応接間に案内させると、階下の日本間にいる母親のところへ顔を出した。
「お帰り」母親は長火鉢の前に背中を猫背にまるめて、ちょこんと坐っていた。
「未だ起きていらしたの?」
「いや。いま寝ようと思っていたところだよ……」母親はなにか狼狽して、「……炬燵が熱すぎたので、外へ出して冷ましてから寝ようと思って……」
そんな風に弁解する母親が、多鶴子はおかしいと思うより、むしろつんと胸にこたえて悲しかった。昨夜も多鶴子が帰るまで寝ようとしなかった。長火鉢の前でじっと坐ったまま、欠伸ひとつせず待っていてくれたのかと、多鶴子はそんな母親の心配がむしろ悲しく心配しないでも良い、大丈夫だ、さきに寝ていてくれと、あれほど言ったのである。ところが、やはり今夜も起きて待っていた。そして心配の余り寝られなかったという気持をごまかすために、炬燵なんかひきあいに出しているのだ。以前はこんな風ではなかった。撮影の都合で帰宅がおくれるなど珍らしくなく、思いがけぬ徹夜撮影で家をあけることさえあったのだが、わざわざ電話で断るまでもなく、母親は安心して寝ていたのである。
女優になる前ダンサーをしていた頃もそうだった。ダンサーになりたての頃、一度無断で家をあけたことがあった。女友達の下宿で長話をしている内に電車がなくなり、泊めてもらったのだが、夜なかに公衆電話が掛って来た。母親から掛けて来たのだった。事情がそれとわかって、母親はほっとしたが、それでも余程周章てたと見えて、娘に靴を買ってやるべくいれて置いた金を財布ぐるみ公衆電話のなかへ置き忘れてしまった、――心配したのはあとにもさきにもその時だけで、以後帰宅がおそくなっても安心して居れたのである。信用していたのだ。
それが、例の事件があってからは、もう娘の身辺が心配で心配でたまらなくなった。ことにオリンピアへ出る昨日今日がそうだった。事件が一段落すんで、やれやれと骨身を削られて細った肩をなでたのも束の間だ。もう男たちの遊び場所へ顔出ししなければならぬようになってしまったのだ。二度とあんな間違いは起してくれるなと、「只今」という多鶴子の声をきくまでは、長火鉢の傍も離れられないのだった。
そんな風に心配されているのかと思うと、多鶴子はなにかたまらなかった。しかもそうして心配している顔をかくそうとする母親の気持がわかるだけに、一層たまらなかった。
「莫迦ね。早く寝みなさいな」しかし、母親はすぐには起とうとしなかった。なにかおろおろとして多鶴子の顔色をうかがっているのだった。
母親は今夜誰か男の客があることを、敏感に知っていた。思わず二階の方へ聴耳が立って行くのだった。無理もなかった。こんな夜更けに男の客なぞここ二年ほど絶えてなかったのである。二年前にはあった。いきなり夜おそく訪ねて来て、多鶴子に紹介された。それが監督の矢野だった。いつも多鶴子がお世話になりましてと、ぺこぺこ頭を下げると、ああ、ああと鷹揚にうなずいていたが、その鷹揚さは多鶴子を人気女優に仕上げてやった監督としてのそれよりも、既に多鶴子の心身を自由にしてしまっているという強味に裏づけされていた。残酷な尊大さで、矢野は、「あんたも良い娘を産みなすったな」と言っていたが、その晩黙って泊って行った。それからもちょくちょく来た。きけば矢野には妻子もあるということで、その人達にも済まぬことだとひそびそと多鶴子に迫っていたが、多鶴子は、なにいいのよ。そう言っている内に、ふと多鶴子の体の異状に気がついた。もはや、ものも言えず、悲しい眼付きで娘を見ていたが、やがてそれが思い過しだったと、ほっとした途端に、なんとしたことか、娘が警察へ呼ばれた。あとでその理由がわかり、そんなことをさせる位なら、女優を廃めさせてでも産まし育てるのだったのにと後悔したが遅く、矢野の入智慧かと矢野が恨めしかった。はじめて来たときのあの矢野の尊大な態度がいつまでも想い出されるのだった。いまも母親はその晩のことを想い出し、ふっと不安な眼を二階へ向けた。が、
「お客さんは誰……?」とはきけなかった。
そんな母親の気持を多鶴子は敏感に察した。
「お客さんがあるのよ……」自分の方から言い出して、
「新聞社の方よ。私の尾行記を書きたいんですって。うるさいのね。新聞記者って……。だけど、行かないとわるいから、ちょっと顔出しして来るわ」
そして、先に寝んで頂戴と、次の間にはいって、イヴニングを和服に着替えながら、多鶴子はそんな風に言ったことを、若い新聞記者にはちょっと済まなく思った。そのため彼女は美しい女特有の本能から、念入りに化粧をしなおした。
「どうもお待たせしました。――先ほどはありがとうございました」
そして、向い合って腰を下すと、豹一が出された珈琲に手をつけていないのに素早く気がついて、
「さあ、どうぞ。冷めないうちに……」しかし、待たされている間に、すっかり冷たくなっているのに気がつき、
「あら、もう冷たくなっちゃいましたね。御免なさい」尻あがりの口調で言って、女中を呼ぶためにベルを押した。全く申分ないほど、愛相がよかったのである。
若い女中は一目見た途端に、豹一を好いてしまった。映画女優のところへ女中に雇われるだけあって、彼女は非常に映画趣味があったから、ぶくぶくのオーバーを不恰好に身につけた豹一を見ると夜ふけのせいもあって、此の美少年は「男装の麗人」ではなかろうかと思ったほどである。全くだしぬけにはしたない恋を感じてしまった女中は、可哀相におどおどして応接間へ現れた。珈琲茶碗を差出すのがたまらなく恥しかった。汚い手を見せねばならぬからであった。
ところが、もし豹一が幾分でもこの女中に惹きつけられるところがあるとすれば、それは彼女が大急ぎでべたべたにぬりつけた鼻の頭ではなくて、彼女が見せるのを憚った、赤切れた汚い手だったかも知れない。豹一にとっては、それだけ切りはなして見ただけでも、その手は胸をうつに充分だった。母親の手を連想するからであった。ところが、豹一はその手を豪華な装飾に輝いている応接間で見た。豹一は一層胸を打たれて、弥生座の舞台で踊っていた東銀子の赤い足を不意に思い出した。豹一は思わず涙が落ちそうになったのを、周章ててその部屋に対する反感で拭って起ち上った。
「これで失礼します」
こともあろうに、折角新しい珈琲が来た途端に、帰るといい出した豹一に、多鶴子は驚いてしまった。
「まあ、いいじゃありませんの。もう少しゆっくりして下すっても……。そんなに早くお帰りになったら、私怒りましてよ」
本当に怒ってしまった。そして、いま帰られては困ると、多鶴子は必死になって豹一を引き止めた。そんな自分を浅ましいと思うぐらいだった。豹一も、なぜこんなに引き止められるのかと、不思議でたまらなかった。とにかく熱心に引止められたので、豹一はそれを振り切って帰ることに、ちょっとした満足を想った。
「もう、こんなに更くなりましたから……」そう言い捨てて、扉を押した。そして、階段を降りて行った。
「あら、お帰りですの?」女中が玄関へ顔を出した。
豹一はそれに答えず、汚い靴を突っ掛けると、大急ぎで出て行った。犬の遠吠をききながら、住吉線の姫松の停留所まで行き、豹一はやっと車を拾った。帰りぎわに見た多鶴子の哀願的な表情が、なぜか頭を去らなかった。
女中は、豹一を見送ってしまうと、応接間へ後かたづけの顔ではいって行った。彼女はなにか不満だった。そんなに早く帰ってしまうと思っていなかった。泊って行くものと決めていたのである。彼女の女主人とどういう関係の男か見当もつかなかったが、ともあれ泊って行ってほしかった。それが言葉も掛けずに、帰ってしまったのである。寂しかった。(私のような女中風情には言葉も掛けて下さらぬのが当り前だ)
しかし、なにも女中だけには限らなかった。いくらか違うが、彼女の女主人だってそれに似た気持を味わされてしまったのだ。女中がはいって行った時、多鶴子は長椅子に腰を掛けたまま、身動きもせずに、呆然としていたのである。
「お泊りじゃございませんでしたのね」女中がそう言った時、多鶴子ははじめてわれにかえった。
「わかってるじゃないの。誰が泊めるの? あんな新聞記者!」多鶴子は叱りつけるように言った。
実は彼女は豹一を引止めた時、夜更けのことでもあり、泊めてやるべきだと思っていた。ところが、女中にそう言われてみると、なにかそんな自分の考えははしたないもののように思われたのだ。帰りぎわに豹一が言った「もうこんなに更くなりましたから……」という言葉が、妙に皮肉な響きをもって想い出されるのだった。多鶴子はこんな夜更に豹一を家に伴って来たことを、軽はずみだったと、はじめて後悔した。
女中はひそかに心を寄せた男をそんな風に言われたので、ふと悲しくなった。が、さすがに敏感に、多鶴子の怒りを察して、それに順応した。
「ほんとにそうですわね。あんな新聞記者! それになんですわ。生意気すぎますわ。挨拶もせずに帰って行ったりして……」
女中は、豹一が多鶴子に挨拶をして帰ったのか、挨拶もせずに帰ったのか、知らなかった。だから、この言葉は彼女自身のことを言ったに過ぎなかった。ところが、全く多鶴子にとっては、豹一は「挨拶もせずに帰って行ったりして」しまったのである。いや、それどころか、彼女の引止めるのも振り切って帰ってしまったのである。(何か腹の立つことがあったのだろうか?)
考えてみて、なかった。まさか、女中の赤い手を見たのが原因だったとは、気づく筈もなかった。原因がないとすれば、多鶴子にとって全くこれ以上に自尊心を傷つけられることはなかったわけである。しかも、肝腎の新聞記事に就て一言も触れぬさきに帰られてしまったことは、かえすがえす立つ瀬がなかった。
女中の言葉は、だから、多鶴子には余程痛かった。が、多鶴子はふと、さっき女中が変な眼付で豹一をうっとり眺めていたのを想い出した。それで、多鶴子はちょっと慰まった。
(この娘、嘘を言ってるわ。あの新聞記者に惚れてるのに、あんなことを言ってる! ……そうだ。あの新聞記者は丁度この娘が恋人になるのに適しいような男なんだわ!)多鶴子はそう思って、豹一をさげすむことにした。
(あんな男を相手に腹を立てるのは、いっそ恥しいことだわ!)
(つまり、あの男の相手は女中だけで結構)
自分の心に無理にそう言いきかす必要があるほど、豹一のことが頭にこびりついて離れなかったのである。
彼女は、このままで済ませぬと思った。だから、彼女は翌日豹一の社へ電話を掛けるという軽はずみなことを、全く思い掛けずやってしまったのである。
六
夕刊第一版の原稿〆切は正午だった。
昨夜の疲れですっかり寝すごしてしまった豹一が出社したのは、もう十一時近かった。豹一は尾行記の原稿を〆切時間に間に合わせるため、大急ぎで4B[#「4B」は縦中横]の鉛筆を走らせていた。
鉛筆の芯が折れた。
「給仕! 鉛筆だ!」
普通の時なら、給仕に用事を吩咐たり出来なかったのだが、急いでいたから、先輩たちの口調を真似てそう呶鳴った。だが、悲しいことには、彼はまだ新米だと見られていた。おまけに若い。誰も鉛筆を持って来なかった。豹一は赧くなった。すると、
「よう、鉛筆だよ!」豹一のところへ、鉛筆を持って来てくれた男がある。見ると、土門だった。
「あ、済みません」豹一は嬉しかった。
「金貸してくれ! 五十銭で良いよ」いつものでんだと苦笑しながら、机の上に五十銭銀貨を置くと豹一は再びザラ紙の上へ尾行記を書き続けて行った。
土門は銀貨をズボンのポケットに入れながら、
「いこう熱心でげすな。いったい何の記事?」訊ねかけて、豹一が答えぬ先に、「あ、なるほど。村口多鶴子の……。代役恐縮だね。あはは」笑った。豹一はふと顔をあげて、
「村口多鶴子っていったいどんな女優なんですか? なにをしたんですか?『罪の女優』ってなんのことですか?」ほかに訊く人もなかったから、土門と顔を合せたのを良い機会だと思って、訊いてみた。
「おや? 知らないのか? こりゃ愉快だね。村口多鶴子の一件を知らん新聞記者がいるとは愉快だよ。ことにそいつの尾行を書くっていう手合が知らぬと来ては、あはは、たまりまへんよ。ぞくぞく嬉しくなりまんがな。朝っぱらからあんまり喜ばさないで頂戴ね。へ、へ、へ、……」嬉しそうに笑っていたが、ふと真顔になると、
「本当に知らないの?」
「ええ」
「そうか、じゃ教えてやろう。村口多鶴子ってのは、ありゃ君つまらない奴だよ。良い役をつけて欲しさに、監督とくっつきやがった挙句、到頭カル焼みたいに肥り出して来たお腹を、あっという間にもとのスタイルに整形したというかどで、ちょっと来なさい――そんな奴だよ。それで謹慎してりゃ、未だ可愛いが、よくよく人気稼業が忘れられんと見えて、しゃりしゃり『オリンピア』へ現れて来るって代物だ。酔っぱらって書けなかったいいわけじゃないが、あんな奴の提灯持記事を書くのは、おら真平でがんすよ。あはは」土門は一気にまくし立てると、「だが、君は役目だから、せいぜい書きたまえよ、はじめての記事だろう? 頑張って書きたまえ。じゃあ、また……」と、言いながら、立ち去ってしまった。
なるほど、そんなわけだったかと、豹一はもう書き続けるのがいやになった。じつは彼は提灯を持って書いていたのである。豹一はいきなりいままで書き綴って来た原稿用紙を破ってしまった。そして、新しいザラ紙に「1」と番号をつけた。
やがて、豹一は土門に刺戟された辛辣な文章で書きはじめた。「止」と終止符号を書いたのはもう正午近かった。豹一は原稿を読みながら、編輯室を横切って、編輯長のところへ持って行った。そして、出て来ると、給仕が寄って来て、
「あんた、昨夜『オリンピア』へ行きはりましたか?」と、訊いた。そうだとうなずくと、給仕は、
「そんなら、あんたに電話が掛ってますわ」小莫迦にした口調で言った。
豹一の名はわからなかったから、昨夜「オリンピア」へ来た人を呼んでくれと、掛けて来たのは村口多鶴子だった。
電話口へ出て、それと知ると、豹一は周章てた。それでなくとも、豹一はこれまで電話というものを使った経験が余りなく、ことに社でははじめてである。豹一は真赤になって、はあ、はあと下手な返辞ばかりしていた。
「昨夜は大変失礼しました」声で豹一だとわかると、多鶴子はそう言った。
「はあ」失礼したのは自分の方ではなかったかと、豹一はふと昨夜帰りぎわに見た多鶴子の哀願的な表情を想い出した。
「あのう、ちょっとお話したいことがありますの。いま、お手すきでしょうか」
「はあ」
「では、会っていただけます?」
「はあ」
「心斎橋の不二屋でお待ちしていますわ」
「はあ」
「すぐ来ていただけます?」
「はあ。不二屋ですね」豹一はびっしょり汗をかいていた。断り切れなかった。
いま、彼女のことを散々にこきおろした記事を書いたばかりではないか。豹一はすっかり恐縮していた。もともと彼女には反感をもっていた筈だった。ことに、土門の話をきいただけに一層その反感に油が注がれている筈だ。だから、むやみに恐縮するのは変な話だったが、その反感をすっかり文章に出してしまったいま、無理にその反感に頼ろうにも、効果は少かった。それに面と向っての話ではないだけに、いつもなら、その美しい顔から受ける冷たい感じに反感を覚えることもなかったわけだ。ひとつには、多鶴子の電話を通した声は例の重みのあるしわがれた響きがなく、案外に透き通った優しい響を伝えていたのである。
電話機を掛けると、豹一はオーバーをひっ掛けながら、社を飛び出した。
不二屋へはいって行くと、多鶴子はさきに来ていて、手袋をはめた指を一本あげて豹一に合図した。
「お呼び立てしまして……さあ、どうぞ!」多鶴子に言われて、豹一は、赧くなりながら、向いあった席に腰を下した。
テーブルに両手をついた時、豹一ははっとした。掌に黒い墨のようなものがついていたのだ。はっと手をひっ込めた拍子に、(鉛筆の粉で汚れたのだな)と、思った。つまり、夢中になって多鶴子の尾行記を書いた証拠なのだ。豹一は顔もようあげず、痛い気持でしきりに掌をズボンの膝でこすっていた。
何を飲むかときかれたので、豹一は珈琲だと答えた。多鶴子はボーイを呼んで、
「お珈琲にお菓子、……それから、私はクリーム、……クリームはなに……?」
「ヴァニラだけでございます」
ボーイが言った。
「それでいいわ」注文し終ると、多鶴子ははじめてゆっくりと豹一を観察した。
そして驚いた。はいって来た時の、おかしいほど真赤になったとはてんでちがって、いま豹一はいくらか蒼ざめた顔にむっとした表情をうかべていた。じろりと多鶴子を見あげた。その眼の色に、かすかな敵愾心さえあった。(なんという表情の変り易い男だろう)多鶴子はあきれてしまった。
実は、なにごとにつけてもけちをつけたがる豹一の厄介な精神は、全く莫迦げたことだが、この時も多鶴子がアイスクリームを注文したことに憤慨していたのである。豹一に言わせると、寒中アイスクリームを食べるのは気障だというのである。ことに多鶴子のような若い女が人前で食べるのは気障だというのである。
学校時代ある夜おそく豹一は友人の赤井と野崎と連立って、京極裏のスター食堂へ行った。寒中のことで、ことに京都は底冷えがひどく、彼等はストーブの傍に椅子を寄せて陣取った。なにを食べようということになると、食べることにかけては全く意地汚い野崎が、いっぺんアイスクリームを食べてみたいな、去年の夏から食べたことあらへんから、と言い出した。すると、赤井がすかさず、うん、おれもそれ食べたいと、思ってたんだと、応じた。毛利、君はときかれたので、豹一は異を樹てるというより、極く普通のことだが、珈琲を注文し、そして、彼等が肩のあたりをぶるぶるふるわせながら、アイスクリームを噛じるようにのみこんでいるのを、にやにや笑って見ていた。すると、赤井は、寒中のアイスクリームの味を知らんとは、お前田舎者だぞと歯を鳴らしながらいった。
そのことを豹一は想い出していたのだ。しかし、その時田舎者だといわれたが、豹一はそんなに腹が立たなかった。なぜなら、赤井や野崎のそんな気障っぽさはまるで腹の中ではしゃぎまわっているような、気障っぽさであったから……いうならば、多鶴子のそれのようにつんと乙にすまし込んだ気障っぽさではなかったからである。
そんな風にけちをつけたがるところ、つまり豹一は量見がせまいというのではなかろうか。たぶん、それに違いはあるまい。もともとの性質がそうなのだから致方のないところだが、ひとつには、彼には物ごとに対するはっきりした意見、つまり人生観だとか思想だとかいうようなものが欠けていたせいでもある。だから、このようにこせこせした意見だけを小出ししているわけだった。衝動的にしか物ごとが考えられず、従って行動出来ず、自尊心の振幅が彼を動かしていたわけであった。
多鶴子はそんな豹一の表情を見ると、いきなり昨夜の彼の無礼を想い出した。そして、わざわざ彼を電話で呼び出す気になったわけがはっきりとして来た。
全く、彼女はなんのために再び豹一に会う気になったのか、はっきりわからなかったのである。むろん、昨夜あんな風にされたままでは済まぬという気持はひそかにあった。が、それだけの理由で、彼に会うとは、余りにはしたないことではなかろうか。たかが相手はとるに足らぬ駈出し記者ではないか。そう思うと、電話を掛けたことを軽はずみだと後悔する気持が強かった。ぽっと顔を赧らめてはいって来た豹一を見ると、ますます気持が強くなった。つまり、豹一に対してなんらかの意味で惹きつけられて了うのが許しがたいほど恥しく思えたのである。
だから、いま豹一がそんな可愛げのない表情を見せてくれることは、彼女にとっては、むしろサバサバするようなものであった。
(そうだ! 私は昨夜のこの男の無礼に黙っておれず、わざわざ会うことにしたのだ!)そう意味がつくと、はしたないとか、軽はずみという後悔がなくなった。彼女は睫毛の長い眼をじっと豹一に注いだ。そして、どんな文句を浴びせ掛けてやろうかと、思案した。
ふと彼女は、女らしい敏感さで、豹一のオーバーの疲れに眼がついた。まるで可哀相なほど皺がよっている。おまけに、既製品だと見えて、身に合わずぶくぶくなのだ。なお、仔細に見れば、洋服は冬物ではないらしい。ネクタイだって、みじめなものだった。昨夜と同じ柄だが昨夜より皺が多い。
「そのオーバーどなたのお見立て……?」いきなりそう訊いてやろうか、と多鶴子は思った。が、瞬間、豹一の痩せた頬が、眼を痛く突いて来た。
すると、もう彼女はそれが口に出せなかった。そんな言葉を想いついただけでも、なんだか気の毒になって来た。(おや、いけない!)多鶴子は思わず心の中で叫んだ。(私はこの人に同情している)
つまり、それでは、やはり豹一に心を惹かれてわざわざ会う気になったということになるのだ。
彼女は周章てて豹一から眼を離した。その拍子に、(あッ、そうだ!)と、微笑した。
(大変なことを忘れていた。この人に頼むことがあったのだわ)
尾行記のことで頼むために、わざわざ会うているのではなかったかと、彼女はまわりくどい径路を通ったあげく、やっとその結論に到達した。多鶴子はほっとして口をひらいた。
「あのう、じつはお願いがあるんですけれど……。きいていただけます? ……昨夜おっしゃってました尾行記のことですけど……」
豹一はぎくりとした。
「……無理なお願いなんですけど、書かずに置いて下さいません?」ほかに弄すべき策も見当らなかったので、多鶴子はそのように真正面から頼んでみた。
豹一は返事の仕様がなかった。いまそれを書いて来たばかしではないか。活字に組まれて、いま頃は輪転機に載せられた時分だろうと思うと、豹一は、
「ど、どうしてですか?」と、なにか胸のあたりが重いような声を出した。が、次の瞬間にはもう豹一は充分意地わるい口調になって、
「書かれちゃ困るんですか?」土門の話を想い出していた。
(書かれると人気に障わると、いうんだろう。この女はなによりも人気が大切なんだ。監督との問題でも、人気を出すための打算なんだ)
その女のことを散々悪く書いてしまったあとでも、なおこんな風に頭のなかで鞭をふるっていたのは、ひとつには豹一は多鶴子に対して済まぬと思う自分の気弱さを、振い立たせるためでもあったろうが、じつは、丁度そこへアイスクリームが運ばれて来たからであった。
「困るっていうわけでも……」ありませんと、多鶴子がいい掛けるのを、豹一は畳み掛けて行って、
「人気にかかわるっておっしゃるんでしょう!」
多鶴子はふと眼を落した。
「人気ですって……?」語尾が落ちた。
「違いますか?」
「違います!」いきなり、多鶴子の眼の輝きが睫毛を押しあげた。「人気、人気って皆様がおっしゃいますが、……」多鶴子の声は朗読口調になった。
「……私そんなに自分の人気のことばかし考えているのでしょうか。……たとえば、矢野さんのことにしろ、皆様は、村口は良い役をつけてもらいたさに、矢野に貞操を与えたなんて、ひどいことをおっしゃいますが、私そんな気で矢野さんとお交際したのでしょうか。人気のために、自分の人気のために、自分を殺したのでしょうか? ……違いますわ。なるほど、矢野さんは私の恩人です。しかし恋愛とそれとは違います。いくら恩人だからって、矢野さんが好きでなければ、私あんな風なお交際はしませんわ。私、ただ、矢野さんが好きだっただけです。それだけです。だからこそ、あのことにしろ、矢野さんがそうしろとおっしゃったときその通りにしたのです。好きな人の言うことだから、そうしたのです。それを皆様は、なにもかも人気のためだと、お片づけになるのですわ。色眼鏡でごらんになるのですわ。あなたもきっとそうでしょうね?」
そう言って、彼女はふっと「寂しい微笑」を泛べた。途端に、彼女はその微笑が意識的なものであると気づいて、いやになった。習慣というものは怖しいものだと、思った。彼女は無意識にクローズ・アップの表情をとっていたのである。
(しかし、私の言ってることは嘘じゃない)彼女はそう思った。(少くとも私は自分の人気よりも矢野さんを愛していた)
咄嗟にそう信ずることが出来た。永い間、自分に言いきかせて来たから、もはや、それ以外の考え方が出来なかったのだ。いわば、彼女の固着観念になっているのであった。
しかし、この固着観念を人前ではっきり述べるのは、いまがはじめてだった。彼女はこんなところでそれを言いたくないと、思った。「世間の眼」へのはじめての抗議を、こんな喫茶店のなかでしたくなかった。ことに相手は、新聞記者という点を勘定にいれるにしても、ともかく子供すぎるほど若い男なのだ。
しかし、多鶴子は豹一がびっくりした表情で熱心にきいてくれているらしいのを見て、いくらか張りあいがあると思った。たしかに豹一は、多鶴子の言葉に心を惹かれていた。自分の「批判」が辛辣であっただけに、一層彼女の言葉を信ずる気持が強かった。(土門なんかの言葉があてになるもんか!)と思った。
多鶴子は人なかだという点を考慮して、声を低めねばならなかった。感情がたかまっているのに、声を低めねばならないということは、自分の悲しさを一層深めていると思い、思わず瞳がうるんでいた。それを見ると、豹一はますます心を動かされた。極端に走りやすい豹一は、いきなり起ち上った。
「そうですか。わかりました。しかし、尾行記は書いてしまったんです。間に合うかどうかわかりませんが、とにかく社へ電話して発表を見合せてもらうことにします」
そう言うと、豹一は、そんなことが許されるかどうかも思ってみずに、急いで電話を借りに行った。
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