六
弥生座を出ると、雪だった。しとしとと落ちて来る牡丹雪を、眩い光が冷たく照らしていた。夜の底が重く落ちて白い風が走っていた。
「寒い、寒い!」土門は動物的な声をだして、小屋の向いにある喫茶店へ飛び込んだ。豹一も随いてはいった。
ストーブで重く湿った空気がいきなり体を取りかこんだ。土門は曇った眼鏡を外した。すると、はれあがった瞼が土門の顔をふしぎに若く見せた。
土門は珈琲を一口啜ると、立ち上ってカウンターの方へ行き、電話を借りた。
「もし、もし、弥生座……?」
どこへ掛けるのかと思っていたら、つい鼻の先の今出て来たばかりの弥生座へ掛けているのだった。いかにも土門らしいと、豹一は思った。
「文芸部の北山君を呼んでくれ。……土門だよ。ツ、チ、カ、ド……東洋新報の……。あ、そう」
喫茶店の隣は銭湯だった。湯道具を前垂に包み、蛇の眼の傘をさした女が暖簾をくぐって出て来た。豹一は窓硝子の曇りを手で拭って、その女の後姿がぼうっと霞んで遠ざかって行くのを、見ていた。
再び土門の大きな声が聴えて来た。相手が電話口へ出たらしかった。
「――挨拶は抜きだ。雪どころの騒ぎか! おいけしからんぞ! 貴様なぜおれに黙ってあの娘に手をつけた? ――誰のことだとはなんだ? いわずと知れた……そうだよ、東銀子だ! 二度も言わすな。――その通り、東銀子だ! ――なに? もう一ぺんいってみろ! よくわかったねとは何ごとだ! 余人は知らず、あの娘に関してはだね、そんじょそこらの桂庵より見る眼はもってるんです。一眼見りゃわかるんだ。温泉場の三助じゃねえが……わかるんです。――ああ、お説の通り、わいはぞっこん参ってまんねん。何がわるい? 貴様も五十なら、おれも五十歳だ。年に不足はあるまい。ただ、おれはだね、貴様のように未だうら若い生娘に手をつけないだけだ。――なに? 下手人はほかにある? 白っぱくれるな! おい! ピエロ・ガールスに悪漢はちゃちな海賊船ほどいるがね、あのいたいけな、なよなよした、可憐な東銀子のような娘を食うのは、ピエロ・ガールスひろしといえど、貴様のような助平爺ひとりだ! 白っぱくれてもらわんときまいよ。おい! 泣きながら踊ってたぞ! 冷血漢め! 電話掛けたのは、貴様の老いぼれた顔を見たくないからだ。ありがたく思え! 顔を見れば、噛み殺してやる! いいか、覚悟しろ! ――なに? 会いたい? よし会ってやる。――おれが今どこに居るかぐらい探せばわかる。半時間以内におれの居所を探しだせ! それまでに貴様の汚ない顔を見せなけりゃ、弥生座を焼いてやる! ――左様、おれは坂崎出羽守だ! 千姫はおれが救い出す。貴様なんか指一本触れさすものか! けっ、けっ、けっ!」
あたりに構わぬ大きな声で呶鳴っていたが、妙な笑い声を最後にやっと受話機を掛けると、土門は、「長い電話を掛けさせやがった」と言いながら、豹一の席へ戻って来た。店の女の子たちは、くすくす笑っていた。土門は、なにがおかしいと、にらみつけて置いて、珈琲を一息にぐっと飲みほし、「元気を出せ!」と、誰にともなく言った。豹一はそれを自分のことのようにきいて、はっとした。土門の電話口での話に、すっかり気が滅入っていたからである。
しかし、なぜ気が滅入ったのであろうか。豹一は土門のようにとりとめないことを言う男の言葉は注意してきくまいと思っていたから、最初のうちはなにげなくきいていたのだが、土門の口から東銀子という名前が飛び出した途端に、どきんとした。そして、どうやら、東銀子が文芸部の北山に「手をつけられた」ことに、土門が抗議しているらしいとわかると、にわかに心が曇ったのである。どうせ、土門の言うことだから、出鱈目にちがいないだろうと、あわてて打ち消してみたが、しかし、先刻土門がそわそわと小屋を出てしまったのは、舞台の銀子を見てなにか察したのであろうと思えば思われたし、それに、ふざけた調子ではあったが、土門の電話での抗議ぶりには、いくらか本当めいたものがあるとも思われた。また、たとえそれが全く根もない事実に過ぎないと、無理に自分に言いきかせることが出来たとしても、いったんそれをきいてしまった以上、打ち消しようもないほど、心の曇りは深かった。つまりは、思い掛けぬ銀子への恋情だろうか。それが豹一にふしぎだった。
二十歳の青年が舞台の上の踊子に恋情を感ずるというのは、あるいは極めてありふれたことであるかも知れないが、しかし豹一は案外に勁い心をもっていたためか、たとえば中学生時代女学生の紀代子と夜の天王寺公園を散歩した時も、また、高等学校時代鎰屋のお駒と円山公園を寄り添うて歩いた時も、恋情のひとかけらも感じなかったのである。それをいま情けないことに、ひょんな工合に銀子に恋情を感じたのは、なんとしたわけであろうか。
だが、はっきりと気がつけば、豹一自身いまいましいことにちがいないこの恋情に就ては、細かしく説明しない方が、賢明かも知れない。だから大急ぎで述べることにするが、つまり豹一がふと見た銀子の痛々しく細い足の記憶が、土門の電話口でいきなり生々しく甦って来たせいではなかろうか。そしていうならば、そんな豹一の心の底に、母親と安二郎を結びつけて考えたときのあのちくちくと胸の痛くなる気持が執拗に根をはっていたのである。
豹一は重い心で、窓硝子に顔をすりつけて外をながめた。しとしとと雪が降っていた。視線がぼやけた拍子に、だしぬけに感傷的になって来た。
土門は例のいらいらした手つきで、煙草の端をちぎっていたが、ふいに言った。
「おい! そんなしんみりした顔をするなよ」豹一の顔を嬉しそうに覗きこんだ。
「雪を見てるんです」言いながら、遠いハーモニカの音をきくような気がふっとした。夏の黄昏の時間が、雪を見ている豹一の心を流れた。
「あははは……。雪を見てるというか? なるほど、東銀子に惚れたな」
やっぱり見抜かれたかと、豹一は赧くなった。しかし、土門はもともと敏感な男だったが、いまは他人の心など計るような面倒くさいことはしなかった。土門がそんなことを言ったのは、じつは次の言葉を出すためのまくらに過ぎなかった。
「惚れても駄目でっせ。いまのおれの電話をきいたか? 東銀子はもうあかん。一眼この眼で見ればわかるんだ。今日の東銀子の踊り方を見た途端に、おれは諦めたね。ああ、東銀子も失われたかとね。へ、へ、へ」土門の笑いは豹一の心をますます重くした。
「珈琲もう一杯のみましょう!」
「ああ、飲もう。よくぞ言った。人生の無常がわかるとは、良いところがある。君はいくつだ?」
「二十歳です」豹一は噛みつくように言った。
「じゃ、僕と三十ちがいだ。僕は五十だ」
豹一はぷっと吹き出した。眼鏡を外した土門はどう見ても三十二、三にしか見えなかった。しかし、豹一の笑はすぐ止った。その時、一人の男が禿げあがった頭に雪をかぶって、飛び込んで来たが、その顔を見るなり、(文芸部の北山という男だな)と直感したからである。豹一は咄嗟に緊張した。この男が銀子に手をつけたのか、ともう笑えなかった。白い眼でじっとにらみつけた。が、男はそんな豹一には目もくれず土門と向いあった豹一の傍に腰を掛けると「違うぞ。誤解だ、誤解だ!」と、言った。土門はそれには答えず、
「おれがここにいるとよくわかったな」
「どうせ近くだとにらんだわい」
「電話のおれの声の大きさでわかったというんだろう。そこで、もっと大きな声をききに来たってわけか」土門はそう言って、でかい声で笑った。
豹一はそうして二人が笑っているありさまを不真面目なものに思い、じっと息をこらしていた。二人が笑うぶんだけ、豹一は怖い顔をしていたのである。土門はやがて笑い止むと、
「誤解とぬかしたな」と、言った。
「誤解だ。誤解も誤解も大誤解だ。おれが下手人だなんて、悲しいことをいってくれるな」北山はいかにも悲しそうな声をだした。が、それはまるで座附作者が役者に科白をつけているとしかきこえなかった。
「本当か?」
「遺憾ながら本当だ」
「なるほど、遺憾ながらでっか。そんなら、誰だ?」
「わからん。わかろうとは思わん。わかると一層辛い。わかっているのは、銀子が失われたという、痛ましい事実だけなんだ」
「…………」
土門はわけのわからぬ唸り声を出したが、いきなり、
「握手しよう」と北山の手を握った。
「どうせ、下手人はもみあげの長いヴァレンチノだろう。わしはいっそお宅に下手人になってもらいたかった」
土門はわざとしんみりした声をだした。
「わしもやっぱり旦那に下手人になってもらいたかったよ」北山が言った。
「ざまあみろ」と、土門。
「ざまあみろ」と、北山。
「いい気持だ。焼酎禿のくせに踊子にうつつを抜かしやがって……。あはは……。恥しくねえのか?」
「うむ、いったな」
「どうだ、恥しくねえのか」
「うーむ」
「さあ、さあ、返答、返答!」
「さあ、それは……」
「返答、なんと? なんと?」
「恥しいのは、お互いさまだ。てめえの歳はいくつだと思ってやがるんだ」
「おお、よくきいてくれた。五十だ。隠しはせん」
「隠せるもんか?」
「なにをッ、こののんだくれ!」
「なにをッ、てめえには五円貸してあるぞ!」北山はそう言ったかと思うと、今までその存在を全く無視していた豹一の方を向いて、「君、こいつにいくら借りられた?」
豹一は彼等のふざけた問答にすっかり腹を立てていたから、それに返辞しなかった。土門が代って答えた。
「三円だ」そう言って、土門は、「紹介しよう」と、豹一を北山に紹介した。「毛利君だ。ほやほやの新聞記者。――こちらはピエロ・ガールスの座附作者であらせられる北山老人」
よろしくと豹一が頭を下げると、北山は瞬間別人のように改った表情をちょっと見せて、「これは、これは……。何ぶんともに……」と、古風な挨拶をした。
やがて三人はその喫茶店を出て、歌舞伎座の方へ歩いて行った。いつもはあくどい感じに赤黒く輝いている千日前通も、今夜は雪のせいか、しっとりとした薄明りに沈んでいた。人通もふしぎなくらいまばらだった。豹一は土門や北山のあとに随いて行きながら、顔にかかる雪を冷たいと思った。
第二章
一
東洋新報の編輯長はいつになく機嫌がわるかった。
この人には子供が十人もあり、最近も五十六の年でありながら妻君に双生児を生ませたということである。二代目春団治に似てひらめのように下ぶくれしたこの人の顔はとぼけた大阪弁が似合っていた。めったに社員を叱ったことがなく、たとえばタイピストなどが仕事の上でひどい失敗をやっても、「もうこんなへまやりなや。なんしょ、わてはあんたに肩入れしてるのやよって、叱りとうても叱られへんがな」と、冗談口を敲くぐらいのものだった。誰からも親しまれ、この人の怒った顔を見たこともない社員の方が多かった。この人の顔から機嫌のわるい表情を想像するのは余程困難なのである。
今日もはじめのうちは、編輯長が機嫌がわるいなどとは誰も気がつかなかった。口をとがらして、しきりにぶつぶつ言いながら編輯長室のなかを歩きまわっているのが、硝子扉ごしに見られたが、まさかそれが怒りを爆発させないために、必死の努力をはらっているのだなどとは、気づかなかった。周章て者は、編輯長が口笛の練習をしているのだと思ったぐらいである。
編輯次長と社会部長が編輯長室へ呼ばれ、そして出て来た顔を見て、はじめて人々は、おや変だぞと気がついた。両人とも真蒼な顔をしていたのである。
「なんぞおましたか?」口の軽い連中がそう訊いたが、しかし、二人とも答えなかった。まさか、いま編輯長から「良え年してなにぼやぼやしてるねん。そんなこっちゃったら、もう新聞記者をやめなはれ」と言われて来たのだとは、長と名がついた手前でも言えなかったのだ。両人は、いまいましそうに、「土門の奴め!」と、唇を噛んでいた。
じつは、その日の大阪の新聞が一斉にデカデカと書き立てている記事を、よりによって、東洋新報だけが逃がしていたのである。映画女優の村口多鶴子がキャバレエ「オリンピア」のラウンドガールになったという、いまならさしずめ黙殺されるか、扱うにしても遠慮して小さく扱われそうな記事なのだが、当時はこんな記事が特種として、あらゆる新聞の三面に賑かに取扱われていたのだった。妙な言葉だが、キャバレエはなやかなりし頃であった。それに、村口多鶴子は監督との恋愛事件のいまわしい結果が刑法問題になったという、いわば新聞の見出し通り、「問題の美貌女優」だった。「オリンピア」の支配人がそのネーム・ヴァリューに眼をつけるだけのことはあったのだ。ラウンド・サーヴィスするだけの報酬が、一晩何百円だと新聞に報ずるところも、満更誇張とは思えなかった。それほど有名だったのである。それを東洋新報だけが黙殺したとはなんとしたことであろうか。東洋新報はかねがねこの種の記事で売っており、おまけに「オリンピア」は大事な広告主である。よろしくたのみますと、わざわざ営業部からの依頼もあったのだ。
編輯長が機嫌をわるくするのも、無理はなかったのだ。しかし、東洋新報ではなにもその特種をわざと黙殺したわけではなかったのだ。社会部長はちゃんと腕利きの記者を「オリンピア」へ派遣したのである。社会部長に手落ちはない筈だ。その旨編輯長に言うと、
「いったい、誰に行かせたんや」
「土門です」
「土門君をここへ呼びなはれ」
しかし、土門はまだ出社していなかった。実は土門は昨夜写真班と一緒に「オリンピア」へ出掛けたことは出掛けたのだが、「オリンピア」の支配人が新聞記者のサーヴィスに飲み次第の饗応をしたので、よせばよいのにピエロ・ガールスの北山を電話で呼び寄せ、二人で飲みはじめると止らず、かんじんのインターヴィユはそっちのけで、到頭泥酔してしまい、今日は二日酔で休んでいたのである。土門がいないので、編輯長は自然次長と社会部長の両人に当り散らすより外に仕方がなかった。それでなくとも編輯長は土門を叱りたくはなかった。叱っても張りあいのない男だというより、やはり子飼の記者でありながら結局部長にしてやれなかった土門を叱りつけるのは、いわば情に於てしのびなかったのだ。それに、こんな大きな問題は、やはり責任を次長や部長に転嫁して置く方が適わしいのではないか。両人とも良い迷惑だった。ことに編輯長のとぼけた大阪弁も、「新聞記者をやめなはれ」というような言葉になると、冗談にいわれたのであったが、意外な効果を発揮した。彼等は土門の来るのを手ぐすね引いて待っていた。土門は良いとき休んだものである。
編輯長は一通り怒りを通過させてしまうと、善後策を思案した。営業部からの抗議があってみれば、とにかく「オリンピア」のためにその記事をのせる必要がある。といって今からでは手遅れだ。結局、他の新聞と全然変った扱い方をするのだ。どの新聞でも、「オリンピア」に於ける彼女をインタヴィユしていたが、もはやそれでは二番煎じだから、「オリンピア」がカンバンになってからの彼女の尾行記をものするのだ。誰をその任にあたらしたものかと、編輯長は硝子扉ごしに編輯室のなかを物色した。
ある者は机の上で夕刊用の原稿を書いている。ある者は電話を掛けている。ある者は新聞のとじこみを見ている。用事のない者は、ストーヴのまわりに集って、がやがやと雑談している。それらの顔をひとつひとつ見て行ったが、どれもこれも適任者と思えるものがなかった。ふと、隅の方に一人仲間はずれて固い姿勢で突っ立っている豹一の姿が目に止った。まるで、何ものかに向って身構えているような、いらいらした姿勢だったので、いやでも編集長の目を惹いた。その美貌にも注意を惹くものがあった。
(あの男誰やったかな?)
忘れっぽい癖の編輯長は咄嗟には思い出せなかった。
入社してから半月経っていたのだが、全くの見習記者に過ぎぬ豹一は、仕事らしい仕事も与えられず、ただ意味もなく毎日出社しているだけのことだった。だから編輯長はうっかりと豹一の存在を忘れていたのだった。ところが、いまよく見ると、豹一の印象は群を抜いて異常なものがあった。そんな風に一人ぽつりと離れて、鋭敏な眼を光らせながら突っ立っているのは豹一だけだった。妙に生気が感じられた。
じつは、仕事らしい仕事を与えられず、ときどき土門に金を借りられる以外は誰からも一顧も与えられなかったので、豹一はうんざりし、かつ何か屈辱を感じていたのである。新入社員のみじめな負目が皮膚にこびりつき、ひとびとの視線が何れも軽蔑の色を泛べているように大袈裟に感じられたので、自然豹一の社内に於ける態度は、醜いほどぎこちなかった。しょっちゅう何糞と力みかえりながら、どこかの隅に突っ立って眼を光らせていたのである。ひとつには、机の数が不足していたので、豹一には坐るべき場所がなかったのだった。
とにかく、編輯長ははじめて豹一に注目した。思い出すまでちょっと時間が掛った。
(あ、あれか?)とはじめて豹一が新しくはいった見習記者であることに気がついた途端、編輯長はなにかしら満足感を覚えた。入社試験の成績が風変りに良かったことが思い出された。見れば美少年だ。(あの男をひとつ使って見るかな)美少年だから、カフェの女給の尾行に適任だという編輯長の咄嗟の考えは、極めて安易な思いつきだったが、結局人を使うのにこんな安易な公式的なやり方がいちばん無難なのかも知れぬ。
給仕に呼ばれて、豹一は編輯長室へはいって行った。
「君、いま手が空いているか?」
用事を吩咐る時の編輯長の文句はいつもこれだ。つまりは、人を使うのが巧いというわけだった。ところがこの言葉は豹一にははなはだ面白くなかった。手の空いていない時など、入社以後絶対になかったのである。
「はあ、べつに……」豹一は赧くなった。
「そんなら、ひとつやって貰おうか?」編輯長は豹一の成すべき仕事を説明して、
「こら大任やよって、気張ってやってや」と、念を押した。
この際なら、どんなけちな仕事にでも豹一は活気づくことが出来たにちがいなかった。だから、大任だという編輯長の言葉は豹一をすっかりのぼせあがらせてしまった。
「いま直ぐ廻ります」豹一は「廻ります」という如何にも新聞記者らしい言葉を使えたことに満足しながら、言った。
「いま直ぐ言うても、カフェは晩にならんと店をあけへんぜ」
編輯長に言われて、豹一はまるで出鼻をくじかれた想いで、周章てて、
「はあ、そんなら晩に……」と、言った。これもわれながら芸もない科白だった。一層まごついてしまった豹一は重ねて変なことを言った。
「原稿は僕が書くんですか?」
むろんそんなわかり切った質問をする気は毛頭なかったのである。むしろ、良い原稿を書くぞという意気込みを含ませて、わざとそう言ったまでのことであった。ところが、編輯長にはそれがまるで「なるべくなら、ほかの人に書いてもらいたい。僕には未だ良い記事を書く自信がありませんから……」といっているようにきこえた。編輯長はがっかりしてしまったが、とにかく、「金が要るやろ」と、伝票を書いてくれた。
豹一はそれを持って階下の会計へ行き、金を貰った。そして再び二階の編輯室へ現れて、壁に掛けてあるオーバをとって着込み、出て行った。その後姿をちらと見て、編輯長は一層失望してしまった。豹一のオーバは母親が無理算段の金で買ってくれたものだが、いわゆる「首つり」という代物だった。日本橋の洋服屋の店頭にぶら下げてある既製品だった。寸法を間ちがえたのか、むやみに裾が長かった。それをひきずるように着て、固い姿勢で歩いて行く豹一の後姿というものは、まるで宝塚少女歌劇の男役としか見えず、どう見ても一人前の新聞記者とは受けとれなかったのである。
編輯長がそんな風な失望を感じたことは知らず、豹一は滑稽なことだが、仕事を与えられた喜びにすっかり興奮して淀屋橋の方へ歩いて行った。編輯長の前で随分へまなことを言ったことを想えば、どうあってもこの「大任」を果さねばならぬ。豹一はひどく落着きがなかった。淀屋橋まで来たが、足は止まらず、一気に肥後橋まで来てしまった。
交叉点で信号を待っている間に、豹一はふと村口多鶴子の記事をよむために新聞を買うことを思いついた。朝日ビルの前で一そろいの新聞を買った。そしてビルのフルーツパーラーへはいって片っ端から読んで行った。
世事にうとい豹一は村口多鶴子に関しては全く無知といって良かった。その名前も編輯長にいわれてはじめて知ったぐらいであった。「罪の女優」だとか「嘆きの女優」だとか新聞の見出しに使われている意味がちっともわからなかった。新聞もそれに就ては詳しく書かなかった。もはや散々報道されつくして、映画ファンでなくても誰でも知っている事実であったから、わざわざ村口多鶴子が「罪の女優」である所以を説明する必要もなかったのである。
買って来た新聞に全部眼を通したが、結局豹一は村口多鶴子の罪や嘆きに就ては得るところがなかった。(なにが「罪」なもんか?)と、豹一は軽率にも呟いた。新聞に出ている村口多鶴子の顔には、罪とか嘆きとかいった印象は全くなかったのである。「新聞記者の前に語る」――あるいは「テーブルの間を泳ぐ」――村口多鶴子の顔はいちように妖艶とでもいいたい笑いを派手に泛べていた。まるでその写真から笑い声がきかれるようだった。イヴニングの胸のあたりにつけている花が、その笑いを一層はなやかなものにしていた。豹一は「罪の女優」とか「嘆きの女優」とか書いてあるのがどうもうなずけなかった。
(胸に花とはなんだい?)
ありていに言えば、豹一はその写真に腹を立ててしまった。写真班が無理に笑わせたぐらいのことはわかりそうなものだのに、豹一にはそんな思慮深いところがなかった。だから、全く向う見ずに、花一つのことにも大袈裟に腹を立ててしまったのである。しかし、なぜそんなに腹が立つのであろうか。元来は虚栄心の強い男でありながら、――いやそのためか、豹一は華やかな名とか社会的な地位を鼻の先にぶら下げている連中には、一応は「因縁をつけたがる」というわるい癖があった。自然彼は弱いうらぶれたものに本義的に惹きつけられるのだった。しかし、これを正義感だと一概に片づけてしまうのは、軽卒であろう。なにかしら我慢の出来ぬ苛立った精神が、勝手気儘な好悪感の横車を通しているとでもいうところではなかろうか。いってみれば、彼には鷹揚な気持というものが生れつき備っていなかったのだ。ひとつにはこのとるに足らぬ(――と彼は思った――)女性を、大騒ぎで祭りあげている新聞記事というものに、自分が記者であることを忘れて、苦々しく思ったのである。そして、自分がそういうことを強いられている新聞記者であることを想出すに及んで、一層苦々しかった。(こういうことをさせられるのがおれの役目か?)そしてまた、序でに(おれならもう少し巧く書く)なお、つけ加えるならば、彼がなんの恨みもないのにこんなに村口多鶴子に面白からぬ感じを抱いたのは、彼が今夜彼女に会わねばならぬということも勘定に入っていた。
その年齢からいっても、また性質からいっても、豹一にとってはどんな女性も苦手だったが、ことにこのどうやら高慢ちきそうな(――おまけに美しいと来ている――)村口多鶴子のような女は体がふるえるほど苦手だと思われた。(この女はおれを軽蔑するだろう)情けないことに、豹一はおじ気がついてしまった。すると、自分が腹立たしくなって来た。豹一はいきなり、なにが怖いもんかと起ち上って、
(勇気を出して会いに行くんだ! なんだ、こんな女ぐらい……)
喧嘩に出掛ける男みたいに、物凄い勢でそこを飛び出した。が、村口多鶴子に会うまではまだ時間があり過ぎた。
二
キャバレエ「オリンピア」の「支配人」佐古五郎は昨日から引続いて、仰々しく燕尾服を着込んで、鼠のように忙しく立ち廻っていた。村口多鶴子のせいである、「支配人」ということにしているのだが、本当は宣伝部長とでもいうところだった。電機の工事人として、しばしば「オリンピア」へ工事に出掛けていたのが縁となって、「オリンピア」の電気掛りに雇われたのが、つい二、三年前のことだったが、いまでは平気で、「支配人」と自称し得るところにまで、「出世」した。所詮ただの鼠ではあるまいと業者でも評判であった。
事実、才人であったかも知れない。てんで教養のないところなども宣伝部長としては打ってつけであった。普通の内気の人なら想像もつかないようなあくどい宣伝法を採用するなど、電機工あがりの彼を以てしてはじめて出来る芸当であった。たとえば村口多鶴子を「招聘」したことなどがそれである。歌人だとか女優くずれだとか、有名人をキャバレエに「招聘」するのは、宣伝としてはもはや常識になってしまっていることながら、村口多鶴子の場合だけは、業者もあっと驚いた。さすが佐古だと、その図太さには歯の立たぬ感じであった。
問題の女優として宣伝されていたそのポスター価値を考えてみれば、なるほど一応は思いつけぬこともなかったが、しかしそれだけに一層なにか手の出せぬ感じだった。佐古めやりくさったとは、所詮あとの嘆きだった。一日の報酬何百円だと、そんな金ずくめの話なら、二の足も踏まなかったが、ともかく法廷にも立ち女優もやめねばならないほどの罪を犯した女ではないか。監督との醜関係の後始末を闇に葬ったと、まだ世間の記憶には血なまぐさかった。無罪にはなったというものの、やはり当分は世間へ出ることは憚るべき身である。事実機敏な映画会社でも彼女を引っこ抜くのは、もう少しあとでと思っていたくらいである。そんな村口多鶴子を引っ張り出そうとは、だから抜目のない業者もさすがに憚ったのだ。それを佐古は平気でやったのだ。いまいましいほどの図太い神経だと、業者もあきれたのも無理はなかった。
図太い神経だけではなかった。執拗な押しの強さもあった。細かい頭の働きもあった。それでなければ、いくらなんでも村口多鶴子にうんといわすことが出来なかった筈である。全くそうした事件がなくとも、キャバレエに出ることなど自他ともに想像も出来ないような女だった。附焼刃にしろ、教養のある女優といわれていた。知性の女優とよばれていた。それゆえに人気もあり、また事件も一層大袈裟に騒ぎ立てられたのだ。事件のあとで歌など作っていた。だから、けっして彼女から、売り込んだ話ではない。わかりきったことである。佐古が持って行った話だ。当然のこととして、彼女ははねつけた。泪を流した恨めしそうな眼で、じっと佐古をにらんだのだ。普通の神経をもった男なら、それきりで諦めた話だった。ところが佐古にはそうしたものが欠けていた。
「あんたの人気を維持するためじゃおまへんか、それに、いま引っ込んでしもては、一生女優として立てなくなりまっせ。なにも、いつまでも居て貰おうとは思てしまへん。ここでの話でっけどな、うちの経営者が△△キネマを買収する計画を樹てていますねん。こら誰にも言わんといとくれやすや、その暁はあんたに一枚看板になって貰わんならん。芸術映画ちゅうもんをやりまっさかいな、どうしてもあんたみたいなひとに出て貰わんならんのや。つまりやな、あんたは△△キネマの舞台挨拶にでも出るのや思てくれはったら、よろしおまんねん」
こうした嘘八百のことを佐古は前後四、五回にわたって、徐々に彼女に説明したのだ。彼女の映画界復帰の夢に希望をもたせたところはさすがであった。佐古は彼女を説き伏せるために、あらゆる手段をえらんだ。彼女の老いたる母親は何のことかわからぬ理由で、白浜温泉へ招待されたりした。女中のところへ身分不相応の品物がデパートから届けられた。母親、女中と三人ぐらしの彼女の生活費は、最近切り詰めてはいても、やはり相当な額だった。かつての人気女優の生計の苦しさというものは切ないものだったが、しかしこれも二ヵ月にわたって、「オリンピア」の会計が無理矢理に彼女の手に渡した。その額は女中の見積りによるもので、多くもなし、少なくもなし、全くあきれるほどの正確な額だった。
そうまでされては、彼女ももはや断り切れなかった。むろん、頼みもしないのに、いや、それどころかそんな理由のない金は受け取れぬと、ヒステリックに拒み続けていたのに、まあ、まあと無理に渡されたのだから、彼女は腹を立てていた。しかし、そうした佐古のやり方も、もしこれが教養のある人間がやったことだったなら、彼女のなかにある教養がそれに反撥したことであろうが、佐古のような人間がやったのであってみれば、彼女も顔を赧らめることが少しで済んだ。こういう下卑た人間の前では、女というものは、異国人の前に於けるように、いくらか羞恥心を忘れるものであろうか。ともあれ、彼女は佐古のやり方にだんだん馴れて来て、そんなに腹も立てなくなった。むしろ佐古をさげすみ、微笑を以て佐古の勧誘の言葉をきくようになった。佐古は遂に成功した。
二ヵ月にわたる口説き落しの努力が報いられたので、さすがの佐古も余程嬉しかったと見えて、自祝の意味もあり、多鶴子がいよいよ「オリンピア」に現れる晩、それは昨夜だったが、燕尾服を着用したのである。おまけに佐古はこともあろうに、多鶴子とおそろいの真紅の薔薇を、燕尾服の胸にぶら下げたのである。しかし、誰もこれを莫迦莫迦しいこととも思わなかった。いや、注意すらしなかった。人々は美しい村口多鶴子にすっかり惹きつけられてしまい、ある者は感嘆の余り異様に興奮し、佐古なんかに注意をはらう余裕なぞてんで無かったのであった。
大成功だった。彼女を招聘するために佐古が惜し気もなく使った機密費の額に最初文句をつけ通しだった経営者も、純白のイヴニングの裾さばきも軽やかな、匂うばかりの村口多鶴子を見た途端、慾も得も忘れてしまった。いや、それを想い出したところで、客止めの盛況を見ては、文句のなかったところだ。
「良え女子を入れてくれたな」経営者は佐古に一言だけ感謝の言葉を与えた。
この一言がしかし佐古をぎくりとさせた。経営者の眼は多鶴子の胸から腰へ執拗に注がれていた。音を立てるような視線だった。(覘てけつかる)佐古はすっかり狼狽してしまった。
実は佐古が村口多鶴子を「オリンピア」に招聘するために涙ぐましいほどの努力をはらったのは、慾得をはなれた考えからであった。電機工をしていた頃、彼の菜っ葉服のポケットには村口多鶴子のプロマイドがはいっていたこともあった。といって、はじめのうちはべつに取り立てて彼女ひとりに憧れていたわけではない。たいていの美しい女優ならいちように心をそそったものだ。むろん女優に限らなかったろう。ただ、偶然彼女のプロマイドを拾ったというだけの話だった。が、ポケットから出して、つくづく見れば良い女だと思った。こんな女をとひそかに夢を描き、悩ましく思いつめるようになった。トーキーで声をきいて一層心を惹きつけられた。無理にそんな声を出しているとしか思えぬ、しわがれた悩ましい声は、なにもかも知りつくしたような円熟した女の底の深さを囁いて、佐古の好奇心を刺戟した。
だから、彼女を招聘するために、自分でも不思議なほど熱心になれたのだった。経営者の眼の色に彼女への野心を見て、狼狽したのも無理はなかった。なんのことはない、経営者の好奇心を満足さすため努力したようなものだと、佐古はがっかりしてしまった。
売り上げの額がいつもの三倍にもなった大成功ながら、佐古は昨夜欝々としてたのしまなかった。(おれが儲けるわけではあらへん)全部経営者のふところにはいる金だと思えば、阿呆らしかった。おまけに、村口多鶴子も経営者の女になってしまうのだ。いまいましかった。
他の人は知らず、経営者にだけは佐古も頭が上らなかった。張り合う気などとても持てなかった。可哀相に佐古は昨夜一晩中無気力な嫉妬に苦しんで、眠れなかったぐらいであった。が、今夜の佐古は昨夜よりいくらか変っていた。村口多鶴子を諦めるのは未だ早いと思ったのだ。諦めるわけもなかった。経営者と張りあう気持が少しだが生れて来たのだった。いわば、経営者へのひそかな反抗だった。この反抗心は今日店へ来て多鶴子の姿を一眼見た途端、いきなりふくれあがったのだ。
(経営者も糞もあるもんか? 馘首にするならしやがれ。ここを追い出されたっておれは水商売仲間ではつぶしがきく男や。それに、あの女をおれのものにしたら、あの女でおれは食って行けるのやないか)そう思うと、もう佐古の足は自然に動き出して、多鶴子のいる客席の方へ歩き出した。「いらっしゃいませ」
佐古はまず客の方へ挨拶して置いてから、揉手の手をほどき、多鶴子の肩をとんと敲いて、「ちょっと」柱のかげへ呼んだ。
「……? ……」固い表情で多鶴子は寄って来た。強い香水の匂が佐古の鼻の穴の毛をふるわせた。すっかり興奮してしまった佐古はわれを忘れて、ぐっと多鶴子の体へもたれかかるようにしながら、多鶴子が擽ったくて我慢が出来ぬほど耳近く口を寄せて、
「あんたに注意してかんならんことがあるのや。気になってたのや。あのな、おやじを警戒しなはれや。あんたのため思ていうたげてんねんやさかい、よう心得ときなさい」
「ありがとう」多鶴子はひらりと身をひるがえして、元の席へ戻った。
多鶴子には、佐古が言った「おやじ」とは誰のことか咄嗟にわからなかった。が、わかろうともしなかった。警戒すべきは「おやじ」だけではない。どの男だってそうだ。昨夜一晩でうんざりするほど経験させられたのだ。わざわざ呼んでそのような忠告を親切めかす佐古だって警戒すべき一人だと、いえばいえないこともないのだった。そういうことを言われるのも、役目のひとつかと、多鶴子は悲しい心を押えて極めて事務的にきいたまでであった。
しかし、佐古は多鶴子の「ありがとう」という言葉にすっかりのぼせあがっていた。(あの女はおれに感謝してくれとる。あの女は支配人のおれに頼ってくれとる)そう思って、にやにやしていた。佐古のような抜目のない人間でも、いったん女に惚れるとからきしだらしがなくなっていたのである。(ざまあ見てけつかれ!)佐古は心の中でひそかに経営者に向って舌を出した。丁度その時、ボーイがやって来て新聞記者の来訪を伝えた。
「新聞記者?」佐古は眉をひそめた。
新聞記者連には昨日招待状を出し、随分と饗応してやったのだ。おかげで今日の朝刊にはデカデカと村口多鶴子の記事が写真入りだった。宣伝にはなったと、佐古はその効果を一応は喜んだ。しかし、今の佐古としてはなにか人眼のつかないところへ多鶴子をそっとして置きたい気持であった。騒ぎ立てられるのが怖いのだ。多鶴子を張りに来る客はいまはどいつもこいつも恋敵なのだ。もう新聞記者には用はないのだ。佐古は舌打ちした。
「どこの新聞記者や?」そう言いながら、ボーイのもって来た名刺を見た。
東洋新報記者 毛利豹一
毛利豹一という名刺には全然記憶はなかったが、東洋新報という四字を見ると、佐古には思い出されるものがあった。今朝、佐古は多鶴子の記事を読むために、一つ残らず大阪の新聞へ眼を通した。一つだけ、全然多鶴子のことを書いていない新聞があった。それが毎週「オリンピア」の広告を出してやっている東洋新報だと知ると、その時佐古はまだ多鶴子の宣伝に情熱をもっていたから、大いに憤慨して、早速東洋新報の広告部へ電話で抗議したのだった。
その怒りが今もなお佐古の心の中に残っていた。佐古は名刺を握りしめたまま、入口の方へ駆けつけた。ボーイはあとを追うて、
「こっちの方です」
出入商人や従業員が出はいりする勝手口の方を指さした。
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