三
ある日、多鶴子は用事があると称して、ひとりで外出した。
「どんな用事」とは豹一はなぜかきけなかった。
そして、女中と二人で留守番をすることになった。
念入りに化粧して、そわそわと出て行った多鶴子の後姿を見た瞬間から、豹一の心は胸苦しく立ち騒いだ。
散らかした鏡台を跡かたづけしている女中の顔を見ていると、今しがたまでその鏡に映っていた多鶴子の顔の美しさが想い出された。その美しい顔で誰と会うているのかと思うと、彼の眉のまわりににわかにけわしい嫉妬が集って来た。
落日の最後の明りが窓硝子を去った。あたりが薄紫色に沈んでしまうと、多鶴子と離れている時間がひしひしと迫って来て、豹一の心を滅入らせた。
電燈がついた。多鶴子はまだ帰って来なかった。豹一は町へ出掛けることにした。
南海電車で難波まで来た。そこから、心斎橋筋の雑閙のなかを北の方へ歩いて行った。ついぞこれまでなかったことだが、今夜の豹一はすれ違う男たちの顔が眼について仕方がなかった。なんというおびただしい数の男だろう。その男たちのうちには、多鶴子と踊った者もいるに違いない。また、多鶴子の映画を見てひそかに不逞な想像をしていた者もいるだろう。
(おれは村口多鶴子の恋人だ!)という自負心の満足はしかしちっともなかった。それどころか、いかにもダンスをやりそうな気障な服装の男を見ると、豹一は周章てて首を振った。
戎橋の上で豹一はふと立止った。
対岸のキャバレエ「銀座会館」からジャズバンドの騒音がきこえていた。宗右衛門町の青楼の障子に人影が蠢いていた。よく見ると、芸者が客と踊っているのだった。軽薄な腰の動きが豹一の心をしめつけた。冷たい川風が吹きあげていた。
ふたたび歩き出した途端、傍をすれちがった女のコートを見て、豹一は思わず、あ、寒さを忘れてしまった。多鶴子だった。
そう気づくより前に、多鶴子の傍に並んで歩いている男の顔を、矢野だと、気がついていた。
「…………」呼ぼうと思ったが声が出ず、豹一は唇まで真蒼になった。
駆け寄って、いきなり多鶴子の顔を撲る――と、咄嗟に頭に泛んだが、実行出来ず、やっとの想いで足を引き抜くようにしながら、急いで二人の前へ抜け出ると、素知らぬ顔をつくろってゆっくりと歩き出すのが関の山だった。そんな風な下手な思わせぶりなことしか出来ないのを、さすがに悲しいと思ったが、いったん素知らぬ振りをした以上そうして歩き続けるより仕方なかった。うしろから二人が来ると思えば、背中が焼かれるようだった。
おどろいた多鶴子の顔を想像するという消極的な残酷さを味うのがせめてもだった。
しかし、矢倉寿司の前まで来ると、豹一はもうそんな思わせぶりな態度が続けて居れず、いきなり振り向いた。
多鶴子と矢野は宗右衛門町の角で車を拾って、乗り込もうとしていた。ちらと多鶴子が困惑した表情を見せてこちらを向いた。さすがに豹一の心にはとっくに気がついていたのである。
「あ、待て、乗ったらいかん」
はっきりとそんな風に言ったかどうかは、豹一には記憶がなかった。が、ともかく、矢野のあとから車に乗り込もうとするのを見て、豹一は動物的な叫び声をあげながら、駆け寄った。その時、車は走り出した。多鶴子はじっと前を見たまま、振りむきもしなかった。
豹一はその表情に取りつく島のない気持を強いられ、なにかいまわしい想像が生々しく頭に閃いた。
「女心はわからぬものだ」月並な表現だと思う余裕もなく、豹一は思わず呟いた。
家を出るとき、妙にそわついていた多鶴子のありさまにふと不安を感じたのは、やはり虫の知らせだったかと、豹一はわれにもあらず迷信じみた考えを抱いた。
(矢野と打ち合せしてあったにちがいない)その通りだった。
多鶴子は偶然矢野に会うたわけではなかった。話があるから会いたいと、矢野から場所と時間を指定した手紙が来たのだった。手紙を見た途端に、多鶴子は出掛ける心が決った。豹一に済まない気がしたかどうかは、ここで述べる筋合のものでもあるまい。矢野はやはり自分から逃げていたわけでもなかったと、ともかく多鶴子は頬を燃やしたのだ。いそいそと出掛ける気になりながら豹一に済まないもないものである。因みにいえばたいていの職業をもつ女はそんなに嫌いな男でない限り、話があるといわれれば、出掛けるものである。善良な女ほどそうだ。
話というのは、多鶴子が思った通り仕事のことであった。
「どうだね。君ひとつレコード歌手にならんかね」会うなり、矢野は事務的な口調で切り出した。
映画界へ復帰するのは当分困難だし、といって今更もう一度キャバレエ勤めでもあるまい。
「君の声なら案外ブルース物で売り出せると思うのだが……」
「しかし……」全く経験がないから……と、多鶴子がいい出すのを、
「いや、大丈夫だよ」と矢野は押えて、「君さえその気があるなら……」
「レコード会社で使って下さるの?」
「うん。大体あらかじめの話はついているんだ。どうだ? これから会社の人に会おうじゃないか」
「ええ」
二人はかき船を出て、車を拾った。
そして、レコード会社の人に会いに行った――かどうかは、説明の限りではない。少くとも豹一にはどうでも良いことだった。もはや彼にとっては、たとえ多鶴子が矢野と会うたのは仕事や人気のためだとわかったところで、なんの気休めにもならないのだ。むしろ、そうだとはっきりわかれば多鶴子の肉体の悲しみにたえきれぬ想いがするところかも知れぬ。かえって、浮気心で矢野に会うていてくれる方が助かるのだった。
豹一は悲痛な顔をして、暫く自動車の行方を見送っていたが、やがて魂の抜けたような歩き方でとぼとぼと橋の方へ引きかえした。
橋を渡ってしまうと、あたりはぱっと明るかった。その明りで豹一は財布のなかを調べた。そして、行き当りばったりのスタンドバーでカクテルを飲んだ。
急に酔がまわって来て、足が頭が体全体がふらついた。
御堂筋で車を拾った。がっくりと首をたれながら、
「新世界ラジウム温泉横!」
その言葉と同時に、シイトの上に打っ倒れて、反吐を吐いてしまった。
(あ、汚してしまった)と、後悔したが、運転手に謝る気も起らぬほど動物的な感覚に意識がしびれてしまっていた。
ラジウム温泉の横で車を降りて、軍艦横町へふらふらとはいって行くと、ききおぼえのある声がふと耳に来た。
(土門の声だな)
いつか一緒に行った店の暖簾をくぐると、はたして土門と北山がいた。路次まできこえるような大きな声で呶鳴っていたところを見ると、どうやら北山を掴えて議論をしていたらしかったが、土門は豹一の姿を見ると、急に話をやめて、
「や、珍客! 珍客! どないしたはりましてん? いったい、ちょっとは顔見せなはれな。いや、ここじゃないよ。社の方でっせ。――とにかくまあ一杯いこう!」上機嫌な顔を見せた。
こんな時に思い掛けなく土門に会えたことは、なんとなくありがたい気がして、豹一はすすめられるままに、四五杯続けざまに飲んだ。
「御見事、御見事! それでいくらか血色が良うなりましたわい」
土門が言うと、箸を無理矢理にカラーの間から背中へいれて、ぽりぽりかゆいところをかいていた北山が、
「いや、ちっとも良くなってません」恐らくさっきからの議論の仕返えしだろうか、土門に逆らうように言って、
「どうしたんです? 血色がわるいですね」
豹一ははじめていくらか赧くなって、
「さっき車のなかで吐いたんです」苦笑しながら言った。
「それやいけませんね。酒は毒ですよ。あんた方にはまだ酒を飲むのは早い。よした方がいいですね」北山は日頃に似合わぬしんみりした口調で言った。
豹一はふっと温いものが胸に落ちる想いで、「はあ」素直にきいていた。
すると、土門が急に笑い声を立てた。
「北山からかうのはよせよ! 貴様がそんな意見が出来た柄か、あ、は、は、……」
北山の顔を、こいつめとにらみつけた。北山もちょっとにらみかえしぷっと噴き出しそうになるのをこらえながら、済ましこんでいた。
豹一ははじめて、北山にからかわれていたことに気がついて、気をわるくした。途端に多鶴子のことがチクリと刺す想いで想い出され、気持が沈んだ。
「おい、しっかりしろ」いきなり土門が肩を敲いた。「しょんぼりする手はさらにないと思うがね。愚僧なんかには、なんでそんなに面白くない顔をするのか、わかり、や、せんね。良い恋人をもちながら、まだ不平があるのかね? おい、こら? いっぺんどやしたろか?」
「恋人なんかありませんよ」
「ぬかしたな。村口多鶴子はどうした? ――そんな顔せんといて頂戴んか。ちゃんと聴込みがあるんでっさかい。惚れてるか、惚れられてるか、そこまでは知らんがね」
「惚れてませんよ」
「じゃ、惚れられてるのか? いよいよ以てけしからん」そう言ったが、すぐ土門は、「あ、なるほどわかった」と、大声を出した。
「痴話喧嘩だね。そうだろう?」
豹一は黙って体を動かした。
「痴話喧嘩ぐらいでくよくよするなよ。なんだ、あんな女。たかが村口多鶴子じゃないか」土門に言われて、豹一は、
「そうですよ。あんな女!」と、言って、こんにゃくをその気もなく口に入れた。口をもぐもぐ動かせながら浅ましい気持をしょんぼり噛んでいた。
「女優で想い出したがね」と、北山が口をはさんだ。「僕の友人で女優のプロマイドをうつすのを商売にしてる奴がいるんだ。そいつからきいた話だがね。そいつがね、浴衣の宣伝写真をうつすことになったんだ。いや、浴衣とはあんまり冬むきじゃないがね。しかし、まあ季節はずれと言えばね、その浴衣の宣伝写真はなんと五月頃にとるってからね。いや、こんなことはどうでも良いことだ。とにかく、奴さんその五月頃にだね、宣伝用の浴衣をもってなんとかいう女優のところへ行ったんだよ。そして、これを着変えて下さいって浴衣を出すとね、別室で着変えると思いきや、その女優はなんたることにや、奴さんの眼の前でぱっとだね……、とにかくあれだよ、浴衣ってものは素肌の上に着るもんだからね、しかし、まあ、おれなら眼をまわさないがね。奴さんともかくやられたらしい。あ、は、は、……凄い女優もいるもんだね」
「感心したか?」土門が口をはさんだ。
「おらあレヴュー小屋の住人だぜ。貴様はどうなんだ? 感心したろう」
「わてはろくろ首を見てもおどろかん。もっとも、見たこともないがね。――感心するとしたら、こちら様だろう」土門は豹一を指した。
豹一はからかわれていることに腹を立てる余裕もなかった。北山の話が豹一の心に与えた効果は、そんな余裕があるには、余りにどぎつすぎたのである。
その夜、豹一は二人に誘われて飛田遊廓で一夜を明かした。
高等学校時代、赤井や野崎に誘われても頑として応じなかった豹一も、いまは自虐的な気持から、二人のあとに随いて行った。
女は長崎県松浦郡の五島から来たと、言った。女が親元へ出す手紙の代筆をしてやりながら、いろいろ女の身の上話をきいた。
「こんな生活をどう思う?」
「馴れてますわ」
「はじめはしかし、いやだったろう? 悲しいと思ったろう?」豹一の顔は残酷なほど凄んでいた。
しかし、結局は金に換算される一種の労働に過ぎないと、女が思い諦めているのを知ると、だしぬけに豹一の心は軽くなった。今まで根強く嫌悪していたものが、ここでは日常茶飯事として、取引されているのだ。
「平気だ! 平気だ!」
豹一は洗面所の鏡に蒼ざめた顔をうつしながら、声を出して呟いた。
(多鶴子とこの女とどちらがちがうのだ!)
けれども、さすがに部屋にいて窓の下を走る車のヘッドライトが暗闇の天井を一瞬間明るく染めたのを見ると、夜更のしみじみとした感じも手伝って、遠く多鶴子のことが慟哭の思いで頭にうかんで来た。
四
朝、豹一は魂の抜けたような気持であったが、心はようやく一時的に落ち着いていた。夜の色がだんだんに薄紫色に薄らいで行き、やがて東の空が橙色に燃え出すと多鶴子と別々にすごした悩ましい時間ももはやどこかへ消え去ってしまった想いで、じたばたと立ち騒ぐ心も諦めのなかに沈んでしまった。
しかし、土門や北山と別れて、ラジウム温泉にはいり、広い浴槽のタイルにより掛って、虚ろな気持で体に湯を掛け湯を掛けしていると、ふと多鶴子のさびのある声をもう一度ききたいと思った。
ラジウム温泉を出ると、公衆電話のなかへ飛び込んだ。五銭白銅を入れて、待っている一瞬、胸さわぎした。多鶴子の電話の声が美しかったことを想い出した。
「通じましたから、お話し下さい」交換手の声に、多鶴子の家の内部が見える思いだった。女中が電話口に出ていた。多鶴子はいるかときくと、
「只今、お留守でございますが……」それでは、やはり昨夜から帰っていなかったのかと、改めて淋しい気持になり、
「あ、そうですか。失礼しました」と、切ろうとすると、女中は豹一の声だと察したらしく、
「あんた、毛利さん? なぜ昨夜お帰りにならなかった? 先生と御一緒じゃなかったの? ――そう? あんたいまどこ? 早く帰って来て下さいな。私ひとりなのよ、淋しいわ」
帰るもんかと、豹一は電話を切った。しかし、帝塚山へ帰らないとすれば、もう豹一の帰るところは、谷町九丁目の家よりほかになかった。
新聞社をやめて、おまけに多鶴子の家で「食客」同様の生活をしていた以上、心にかかりながら、やはり母親に会わす顔がないままにずるずると遠のいて半月も経っていたのである。
いまさら帰れないと、豹一は背中を焼かれる思いだったが、しかし、もはやそこよりほかに帰って行くところがないというより、なんの前ぶれもなしに突然のように姿を消してしまった自分を、身を切られる想いで心配しているだろう母親のやつれた顔を想えば、足は自然谷町の方へ向いた。
さすがにいつもの出入口からようはいらず、「野瀬商会」と暖簾の出ている方からまるで質札を売りに来た男のような態度で、こっそりはいった。
店の間には誰もいなかった。
かつて時々店番をさせられ、質札を売りに来た客の応待をしていた小さなテーブルによりかかって、暫く躊躇っていたが、やがて、「御用の方はこのベルを押すこと」と無愛想な文句で貼紙されているベルを押した。
「へい――」
長くひっぱるような声がきこえて、おいでやすと、やがて母親が出て来た。客に見せる愛想笑いを顔に釘づけながら出て来たのだが、豹一の顔を見た途端、その笑がすっと崩れたが、すぐ、こんどはこぼれるばかりの嬉しい表情が泛びあがって来て、唇がわなわなとふるえ、眼に涙が来た。そして、きんきんした顔で、
「ああ、びっくりした。お前やったんか。どないしてたんや。阿呆やな。こんなところからはいって来る人があるかいな。さあ、あっちからはいらんかいな」叱りつけるように言った。
「ここからでも良えやろ」豹一はぼそんと打っ切ら棒に言った。
それで、母子の挨拶になった。水いらずの気持だった。
「ほんまにどないしてたんや。会社の仕事やったんか。字がなんぼでも書けるんやさかい、手紙ぐらい出さんいう子があるかいな」嬉しさの照れかくしに、そんな風に叱りつけていたが、やがて奥へすっこんで、「豹一が帰って来ましたぜ」安二郎に言っていた。
安二郎の呶鳴りつけるような声が、咳ばらいと一緒にきこえて来た。豹一はちょっと身がすくんだ。その拍子に多鶴子の顔がだしぬけに頭をかすめた。すると、眼の前が血の色に燃えて、安二郎の前に出た豹一の顔は今日はじめての生気を取り戻していた。呶鳴りつけるなら、勝手に呶鳴りつけろといった顔であった。
そんな顔色を見なくとも、安二郎はむろん呶鳴りつけたいところであった。しかし、安二郎はじっと我慢した。
安二郎にとっては、豹一が半月家をあけようと、一月家をあけようと、そんなことはどうでもよかった。ただ、三日前の節季に豹一がいなかったということは、はなはだ残念なことであった。貰うべき下宿代も貰えなかったのだ。それだけが癪だった。だから、顔を見るなり、呶鳴りつけたい気持だったが、しかしさすがに安二郎は慎重だった。下手に呶鳴りつけて、怒らすと再び飛び出してしまうおそれがあると、豹一の気性をのみこんでいたから、お君が嬉し涙をこぼしたほど、口調を柔らげたのである。
「家をあけるのは、そら構へんぜ、しゃけど、きまりだけはきちんとしといてもらおう。節季はもう過ぎてるぜ」それだけを言った。
頭から呶鳴りつけて来るものと身構えていたから、豹一はすかされた気持だった。
(なるほど、金のことを言いやがったわい)豹一は思わずにやりと微笑した。
一見はなはだ和かな風景であった。
「利子をつけてお渡しします」
「いつくれるんね?」
「今夜お渡しします」
「そうか? 間違いなや」
安二郎はちらと上機嫌な表情を見せた。お君が豹一のために食事を出してやっているのを見ても、この際いやな顔はせぬことにした。
母親の給仕でお茶漬を食べていると、豹一はじーんと気が遠くなるほど、頭の底が静まって、放心したような快いけだるさが感じられた。食べなれた漬物の味もなつかしかった。食事が終ると、豹一は再びオーバーを着た。
「どこへ行くねや?」
「社へ金もらいに行くねや」
「真っ直ぐ帰っといでや」
「大丈夫や」そう言って、家を出た。
北浜二丁目で電車を降りて、東洋新報のビルの方へ歩き出しながら、豹一はさすがに浅ましい気がした。安二郎に渡す必要がなければ、おめおめ日割勘定のサラリーを貰いに行かないだろうと、思った。
ビルの前の掲示板に、その日の夕刊が貼出されてあった。それをちらっと見ると豹一はもはや自分がここの社員ではないということがはっきりと意識され、こそこそと玄関をくぐった。
会計へ出頭して、先月の中頃に退社したものだが、半月だけはたしかに出勤した故、もしや規程でその日割勘定でもらえることになっているのだったら、いま受け取りたいのだがと、半泣きの顔で早口に言うと、会計係は名前をきいて、
「あ、君のサラリーまだだったね。君、やめたの?」
と、言いながら、褐色の俸給袋を渡してくれた。毛利豹一殿と殿をつけて表に書いてあるのを、なにか不思議なくらい鄭重に扱われた気持で気持よく見ながら、玄関を出てから、封を切ってみると、一月分のサラリーがそっくりそのままはいっていた。
豹一はふたたび会計のところへ戻って、なにかの間違いではないかと言った。
「さあ。僕にはわからん、君、まだ辞職届を出してへんかったのとちがうか。届が出てなかったら、こっちは辞めてないもんと認めるさかいな。一月分渡さんならん。しかし、まあ、多いよって、文句はないやろ」
「そんなら、僕はまだ馘首になっていないんですか。もう半月も無断で休んでるのですが」そうきいていると、うしろから不意に、
「気の弱い奴だな」声がした。振り向くと、土門が前借の伝票をもって立っていた。「そんなことで新聞記者が勤まるか。半月ぐらい休んだかて、なにが馘首になるもんか。君、撲られて気絶したんだろう? 一月ぐらい入院して、当り前のところだ」そう土門は言った。
「しかし、……」そのために「中央新聞」に書かれて、社に迷惑を掛けたのだから……と、言うと、土門は、会計係と前借のことで押問答しながら、
「うちの社はそんなことで馘首にするような水くさい社とちがう。水くさいのは会計だけや」背中で言って、「さあ、編輯長に挨拶して来給え。君の姿が見えんから、えらい淋しがっとる。奴さん、君に気があるんだよ。用心し給え」そしてまた会計係とぶつぶつ押問答をはじめた。
しかし、豹一は動こうともしなかった。なぜか編輯長に会わせる顔がないと思った。
「さあ早く行った、行った。行くなら早い方が良いぞ。じらすのは悪い。君のにおいがもう二階までにおってるからね。奴さん気が気じゃないよ。君のように、そうものごとにいちいちこだわってると、北山みたいに頭がはげあがるよ」
土門に言われて、豹一は、(そうだ。このまま編輯長に会わずに帰るのは、かえって失礼になる。たとえ辞めるにしても一応断ってからにするのが礼儀だ)と、思いながら、やっと二階への階段をあがって行った。
その気の弱さと紙一重の裏あわせになっている豹一の気持から推して、普通なら、黙ってしまうところだった。そしてお互い気まずい想いをし、あげくは、相手が怒っているだろうと気をまわして、その必要もないのに敵愾心すら抱くような破目になるところだった。だから、そのように編輯長に会う気になれたことは、豹一にとっては嬉しかった。
果して結果はよかった。編輯長は豹一の顔を見るなり、
「どないしてたんや? えらい心配してたんやぜ。君、物凄い立廻りやった言うことやな」笑いながら言った。
「はあ。そのことでお詫び……」と、豹一が言いかけるのを、終いまで言わさず、
「構へん。構へん。気にしなや。よその新聞に書かれたぐらいで気にしたらあかん」
「でもあんな風に書かれましたら、……」
「どない書きよっても構へんやないか。君はなにか、中央新聞の記事を認めるのんか。中央新聞の威力におそれを成してるのんか。君は中央新聞の廻し者とちがうやろ? そやろ? そんなら、あんな記事黙殺したら良えやないか。それよりうちの新聞にひとつ良え記事書いてえな」その言葉で、馘首ではなかったことがはっきりわかったも同然だった。
豹一はこれまであらゆる人間を敵愾心の対象にしていた。人を見れば泥棒と思えのでんで、人さえ見れば自尊心を傷つけて掛って来るものと思って、必要以上に敵愾心を燃やしていたのである。
ところが、そうした編輯長の大阪弁まるだしのとぼけた話し振りに接していると、なにかしみじみとした雰囲気に甘くゆすぶられる想いで彼は敵愾心に苛立っている日頃の自分の醜さに恥しくなった。豹一は泣きたいぐらいの甘い気持で、編輯室を辞した。
外に土門が待っていた。
「どうだった?」
「馘首じゃなかったです」そう言うと、土門は、
「そうだろう? おれの言うことに間違いはないだろう? 感心したろう?」
「はあ、感心しました」
「二円貸してくれ」
この際、こんな風に金を借りられることもなにか気持が良かった。
「ああ」軽く答えて、俸給袋を取りだしながら、すっかり心が軽くなっていた豹一は柄にもない冗談をふと言ってみたくなった。
「あのね、土門さん。お貸ししますがね。この前の借金はあれはもう何年ぐらいあとでかえしていただけますか?」
土門の手に金を渡しながら、そんな拙い冗談を言った。思い掛けない豹一のそんな冗談に土門は瞬間あっという顔を見せたが、さすがに、
「じゃあ、とにかく内金を入れて置こう。さあ、二円かえしたよ。帳面から引いといてくれ給え」今豹一から受け取ったばかしの金を、再び豹一にかえした。「ところで、その金で飯を食おうじゃないか」
「食いましょう」豹一はさすがは土門だと、げらげら笑いながら、言った。
支那料理屋を出ると、あたりはすっかり黄昏の色だった。豹一はそのまま土門と別れて帰るのが惜しいというより、ひとりになって孤独な気持のなかに閉じこもるのが怖かった。
「どうです? 活動でもみませんか?」豹一は土門を誘った。
「よし来た」
千日前へ出た。活動小屋の看板を見あげて歩きながら、土門は片っ端から演し物をこきおろした。弥生座の前まで来ると、土門は、
「東銀子どうしたか、君知ってるか?」と、訊いた。
知らないと答えると、土門は、
「失踪したんだ。行方不明なんだ。余り皆んながひどい目に会わせやがったんで、到頭小屋を逃げ出したんだ。悲しいこった。――ところで、このことでいちばん悲観してるのは、いったい誰だと思う?」
「北山さんでしょう?」
「半分当った。じつは、このおれもだ。いや、案外君もその一味かも知れんぞ! あ、は、は、……」土門の笑い声が寒空に響くのを、豹一はしょんぼりした気持できいた。
ある三流小屋の前まで来ると、豹一ははっと顔をそむけた。村口多鶴子の主演している古い写真がセカンドで掛っているのだった。絵看板のなかで、あくどい色に彩られた多鶴子の顔がイッと笑っていた。こそこそと通り過ぎようとすると、土門が、
「おい、君の恋人の写真やってるぞ! 見ようじゃないか」と、引き止めた。
豹一は怖い顔をして、切符売場へ寄って行った。
「切符はいらんよ」土門が言った声も、殆んどきこえなかった。
黒い幕をあげて、なかへはいると、いきなり多鶴子の声だった。顔だった。肢態だった。幅のひろい、しかし痩せた肩をいからせ気味に、首をうしろへそらして、うっとりとした眼で、男に取りすがり、
「…………」
なにを言ってるのか、豹一にはききとれなかった。涙がいっぱいの気持だった。なまなましい多鶴子の肢態の記憶が豹一の胸をしめつけていた。痛いような嫉妬が、多鶴子の白い胸のホクロひとつにまで哀惜を覚える心とごっちゃになって、豹一は身動きもせず、じっとスクリーンを見つめていた。
だんだんたまらなくなってきた。
写真のなかの多鶴子はピストルを握って、男に迫った。
「こりゃ。良きじゃね」
土門が豹一に囁くために、ふと横を向くと、いつのまにか豹一の姿が見えなくなっていた。
五
小屋を出るとすっかり夜だった。盛り場の灯がチリチリと冷たく、輝いていた。
豹一は薄暗い電車通に添うて、谷町九丁目の方へ帰って行った。
下寺町の坂下まで来ると、急にぱっと明るくなった。停留所の前のカフェのネオンが点滅しているのだった。
うなだれていた顔をあげて、ふとその方を見ると、真っ白に白粉をつけて、カフェの入口に立っている女の視線と打っ突かった。
「お兄さん。おはいりやすな」女は眼のまわりに皺をつくって、笑った。その笑いがネオンの色に、赤く染まり青く染った。
豹一はあわてて視線をそらし、寒々とした気持で坂を登りかけたが、だしぬけに、
(あの女を口説いてやろう)と、変なことを思いついた。
豹一はひきかえして、カフェのなかへはいって行った。入口に立っていた女が傍へ来た。
豹一はぱっと赧くなった切りで、物を言おうとすると体がふるえた。呆れるほど自信のないおどおどした表情と、すべての女に対する嫌悪と復讐の気持に凄んだ表情を、交互にその子供っぽい美しい顔に泛べながら、豹一はじっと女を見据えていた。
その夜、その女は豹一のものになった。自分から誘惑して置いて、
「お前は馬鹿な女だ」と、言ってきかせ、醜悪に固くなっている女のありさまを、残酷な快感を味いながら、じっと見つめた。そして、女をさげすみ、自分をさげすんだ。女は友子といい、豹一より一つ年下の十九歳だった。初心だが、醜い女だった。
「こんなことになったら、もうあんたと別れられへんわ」乾いた声で言った。なにか哀れだった。
豹一はふと、多鶴子もこんな哀れなありさまを矢野に見せたことがあるのだろうかと、辛い気持で見ていた。
「捨てんといてね」友子は何度も言った。そして、豹一の膝に頭をくっつけたまま離れなかった。膝が熱くなって来た。
死んだように生気のない頭髪を、豹一はちょっと触ってから、いきなり友子を突き離した。
それきり、友子に会わなかった。
三月経った。
ある日、豹一が日本橋筋一丁目の交叉点を横切っていると、うしろから、女の声で呼び止められた。振り向くと、友子が着物の裾を醜くみだして、追って来るのだった。はっと立止ったが、信号が黄に変っていたので、豹一はその気もなくどんどん横切ってしまった。なにか逃げているような気がした。
友子は信号にかまわず横切って来た。
「あんた探してたんやわ」傍へ来ると、友子はもう涙ぐんでいた。
近くの木村屋の喫茶店へはいった。ソーダ水のストローをこなごなに噛み千切りながら、友子は妊娠している旨豹一に言った。
豹一ははっとした。友子は白粉気なくて、蒼ぐろい皮膚を痛々しく見せていた。唇に真赤に口紅がついていたが、それが一層みすぼらしく見えた。好みのわるい小さなマフラを、羽織の紐の下へ通して掛けていた。
豹一はふと、
(ショールを買ってやろう)と、思った。豹一は友子と結婚した。
谷町九丁目の路次裏に二階を借りて、豹一は毎朝新聞社へ出掛けた。
その年の秋、豹一は見習記者から一人前の記者に昇進した。従って、五円昇給した。友子はそれを機会に、豹一に頭髪を伸ばすことをすすめた。
豹一の頭髪が漸く七三にわけられるようになった頃、友子は男の子を産んだ。産気づいたことが、母親の声で新聞社へ電話された。
豹一は火事場に駈けつけるような恰好で、飛んで帰った。産婆が来ていた。
階下の台所を借りて湯をわかしていた母親は、豹一の顔を見るなり、
「はよ、二階へ行ったりイ。両方の肩をしっかり持ってたるんやぜ」と、言った。
豹一は友子の枕元に坐って、友子の肩を掴んだ。友子は、苦しそうに、うん、うん、うなっていたが、たまりかねたのか、豆絞の手拭をぎりぎりと噛み出した。
陣痛がはじまっていたのだ。友子の眼のふちは不気味なほど黝んでいた。豹一は、じっとそのあたりを見つめていた。
「さあ、もうちょっとの辛抱や。しっかり力みなはれや。聟さんもしっかり肩を抑えたりなはれや。もうちょっとや」
産婆の声をきいていると、豹一は友子の苦痛がじかに胸にふれて来て、もう顔を正視することが出来なかった。
(このまま死ぬのじゃないだろうか?)ふと、そんなことを想って、ぞっとした。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏!」
いつの間にあがって来たのか、母親が産婆の横にちょこんと座って、念仏を低く唱え、唱えしていた。
豹一は眼をつぶった。
「はあッ」産婆の掛声に豹一は眼をひらいた。友子の低い鼻の穴が大きくひらいた。その途端、赤児の黒い頭が豹一の眼にはいった。そして、まるくなった体がするすると、出て来た。
産声があがった。豹一は涙ぐんだ。いままで嫌悪していたものが、この分娩という一瞬のために用意されていたのかと、女の生理に対する嫌悪がすっと消えてしまった。なにか救われたような気持だった。
「よかった。よかった」と、いいながら、部屋のなかをうろうろ歩きまわった。
「じっとしてんかいな」母親が叱りつけた。
豹一はふと膝のあたりに痛みを感じた。枕元に鋏が落ちていて、豹一はその上に膝をついていたのだった。
その日、産声が空に響くようなからりとした小春日和だったが、翌日からしとしと雨が降り続いた。四畳半の部屋一杯にお襁褓が万国旗のように吊された。
お君は暇を盗んでは、豹一のところへしげしげとやって来た。
火鉢の上へかざしたお襁褓の両端を持ちあいながら、豹一とお君は、
「乳母車を買わんならんな」
「そやな」
「まだ乳母車は早いやろか」
そんな風なことを話しあった。やがて、お君は、
「早よ帰らんと叱られるさかい、帰るわ」そう言って立ち上り、買って来た赤ん坊の玩具をこそこそと出して、友子の枕元に置くと、また来まっさ、さいなら。
雨の中を帰って行った。
一雨一雨冬に近づく秋の雨がお君の傘の上を軽く敲いた。
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