第三章
一
佐古の顔を見なければならぬかと思うと、多鶴子はもう「オリンピア」へ行く気がしなかった。しかしはっきりとそう言う名はついていないが、前借乃至契約金に似た金を貰っている以上、いきなり廃めてしまうわけにはいかなかった。人気稼業をしていただけに、契約の重んずべきことは判りすぎるほど知っていた。どうしようかと、多鶴子は朝から思案していたのである。
ところが、豹一に「今夜『オリンピア』へ来て下さらない?」と言った瞬間に彼女の心は決ってしまった。
いきなり廃めてしまっては角が立つ。佐古には昨夜のことは知らぬ顔を見せて置けば良いのだと、多鶴子はいつもの時間に「オリンピア」へ出掛けた。
しかし、なぜ豹一に「オリンピア」へ来てくれと言ったのであろうか。
一人でも多く客を勧誘するための商売気からだときいても、相手が豹一とあれば、いくら宣伝係とはいえ、佐古も喜ぶまい。むろん、そんな気持からではなかった。いうならば、多鶴子自身それをはっきり意識しなかったことだが、やはりその夜もう一度豹一と会わずにはいられなかったのである。と、いって浮わついた気持でもなかった。少年のような豹一を相手に恋人なんぞ考えてみてもおかしい、つまりその日思い掛けなく矢野に会うたという心の動揺が、豹一というあまり男臭くない杖を必要としたのだった。
矢野と会うのは五ヵ月振りだった。事件が起って以来である。会いたくても会えなかった。世間が会わさないのだと、多鶴子は思っていた。そう思いたかった。事件を良い機会に矢野の方から逃げ出したとは、思いたくなかった。向うも会いたいと思っているのだろうと、信じていた。が、矢野の顔を見た途端、その気持が裏切られてしまったのだ。五月振りに、しかもああした事件があった後の出会いならば、もっと切ない気持がお互いに湧いた筈である。少くも、多鶴子は口も利けないほど切なかった。ところが、矢野はいけ洒蛙々々とした態度を見せた。多鶴子にはそう見えた。途端に、自分から逃げ出したかったのだと、多鶴子は思った。立話さえ憚からねばならぬ気持はわかる。しかし、それにしても、もう少し愛情の籠った態度を見せてくれてもよかりそうなものだと、後追い掛けた咄嗟の恨みだった。結局はじめからてんで愛情がなかったのだと、もうあとを追う気はしなかった。矢野に愛情がなかったと、思うと、多鶴子ははじめて自分が矢野を愛していたのだと、はっきりわかるような気がした。人気のためではない好いているからだった、――と、豹一に言った言葉もこの時の多鶴子の気持から押せば、満更弁解でもなかったわけだ。その証拠に、多鶴子はもう矢野のことを思い切らねばならぬと、思ったではないか。その瞬間の豹一は、どう見ても矢野よりも影が薄かった筈だ。と、同時にどんな醜男であるとしても、いくらかましに見えた筈だ。今夜「オリンピア」へ来てくれと、多鶴子がいったのも無理からぬことだった。
なお、序でにいうならば、多鶴子に「オリンピア」へ行く決心をさせたのも矢野の後姿だった。女は失恋したときは、けっしてひとりきりにならないものだ。たとえ、心の苦しみを忘れるために旅行するにしても、誰かにその旨言ってからするのが普通である。
ともかく、多鶴子は「オリンピア」へいつもの時間に現れた。佐古は多鶴子の顔を見ても、昨夜のことは全然知らぬ顔をするつもりだったが、多鶴子が現れると、
「おや、いらっしゃい」と、思わず言ってしまった。まるで、意外な人を迎えるような言葉だった。つまり、ひょっとしたら多鶴子は来ないのではなかろうかと心配していた気持を、うかつに見せたわけだった。
十時頃、豹一はやって来た。多鶴子は当然来るものを待っていたという顔で出迎えたが、そんな風に思われたと知れば、豹一としてははなはだ面白からぬところだった。いそいそと出掛けて来たわけではなかったのである。
まことに厄介な話だが、豹一は多鶴子のいいなり次第にのこのこやって来るということに、例によってひどくこだわっていた。行かねばならぬという理由がちっとも見つからぬのである。これには豹一は困った。ひそかに多鶴子に心を寄せているなどとは、ひとは知らず、この自尊心の強い男には、許しがたいことだった。理由が見つからねば、行くことを思い止った方が良いと、豹一は自分に命じたが、これははなはだ無気力な命令だった。その証拠に彼はそう命令してからでも、然るべき理由の発見に頭を悩ました。ふと、彼は矢野の顔を想い出した。縁なし眼鏡の奥からじろりと見たさげすむような眼。眼から眉へかけての濡れたようななまなましい逞しさ。
豹一はやっと理由を発見した(そうだ。あんな男に負けてなるものか。おれはあの女をものにしてみせるぞ!)
豹一の考え方はいつもこれだった。が、この時の考え方にはいくぶん嫉妬の気持もまじっていた。それだけに強かった。豹一はだしぬけに頭に泛んで来たこの考え方に従うことにした。これが、「オリンピア」へ行く口実になった。
そんな豹一の考えを知ったら、多鶴子はぞっとしたであろう。それとも、おかしいと思ったであろうか。しかし、豹一はそんな変な考えを鼻の先にぶらさげて多鶴子の前に現れたわけではなかった。
やっと口実が見つかってほっとしたというものの、しかし、多鶴子をものにせよと自分に課した義務というものは、二十歳の豹一にとっては随分重荷だった。彼はぶるぶる顫えながら、多鶴子の前に現れたのである。まるで吩咐られた通りにおやつを貰いに来た子供のように、多鶴子には見えた。だから多鶴子は随分好ましいと思い、粗末には扱わなかった。
役目柄、多鶴子はあちこちのテーブルへ挨拶に出むかなければならなかったが、その都度豹一に、
「ちょっと待っててね」と、言った。そして直ぐ戻って来て豹一の傍に坐るのだった。
そんな風にされるのは客のなかで豹一ひとりだったから、彼は随分よろこんで良いわけだった。ところが、彼はちっとも嬉しくなかった。例の義務を想い出していたからである。
(なにかしなければならない!)そう思うのだが、しかし、なにをすれば良いのか見当がつかなかった。口説くというような考えは、頭をかすめもしなかった。いろいろ考えたあげく、いつか喫茶店でやったように、手を握るということを思いつくのが関の山だった。結局それを決行しようとだしぬけに、決心した。豹一はそわそわしだした。
が、丁度良い工合にその時多鶴子の手は空いていなかった。多鶴子はボーイがわざとむかずに持って来た林檎を手にとると、器用な手つきでそれをむきだしたのである。むろん豹一のためにだった。不器用な豹一は林檎ひとつようむかず、そんな多鶴子を見て、ふと心が温った。瞬間義務のことは忘れ、繊細な多鶴子の指の美しさにうっとりとした。
そんな夜が四五日続いた。その三日間なにひとつ「義務」に気に入るような行動は出さなかったために、豹一は些かうんざりしていたが、あるいはそれがかえって良かったのかも知れぬ。「義務」の命ずるままに乱暴に手を握ったりすればお互い不愉快なことこの上ない。全くのところ、豹一はいっぺんに愛相をつかされたところだったかも知れない。しかし、そんなことはなかったから、多鶴子は彼女自身の表現を借りていえば、豹一と「遊ぶことに小川の清流のような気持」を味わっていた。つまり、矢野の男くささを忘れるためには、豹一のような内気な少年と接触しているのが最も良い方法だったのである。
もし豹一の変挺な「義務」というものを抜きにして考えるならば、二人の仲は全くままごとじみていたわけである。誰の眼もそれを怪しむものはない筈だった。しかし、美貌の点に於いてはひけをとらぬこの二人の組み合せは、さすがにひとびとの眼を瞠らしめるに足るものがあった。就中、佐古の眼に余った。
佐古は豹一と多鶴子の「特別の関係」に就いては、この間の晩身を以て知っていただけに、やきの廻ることおびただしかった。豹一に弱点を掴まれているという痛さのために、一層癪に障った。ことに腹が立ってならないのは、毎晩豹一が閉店になるまで粘って、多鶴子と同じ車で帰って行くということだった。そのため、彼の図々しい計画もさすがに手も足も出なかったのだ。
(おれの計画の邪魔をしやがる。生意気な若造や!)
しかし、そのことは豹一の意志から出たのではなく、じつは多鶴子から同じ車で途中まで送ってくれと、頼まれたことをやっていたまでであった。しかし、それならそれで佐古は一層腹を立てたところだったかも知れない。
(あいつは惚れられとる。生意気な奴)……には変りなかった。
(二度と再び『オリンピア』へ来られんように、がーんとひとつ行ったらんといかん!)そう思ったが、しかし、さすがに大人気ないと躊躇した。が、ふと、(あいつはうちの商売の邪魔や!)
そう思いつくと、やっと口実がついた。これならば、ひとにきかれたとしても、恥しくないわけだ。少くとも、佐古は焼餅をやいて若い男を撲ったと思われなくて済む。
かつての電機工らしく、佐古は他人を撲る快感を想って、ぞくぞくした。が、ふと思えば、佐古は豹一に弱点を握られているわけだった。
(おれが出たら拙い。あとで新聞に書かれたらわやくちゃになる)そこで、佐古はかねがね「オリンピア」と縁のある道頓堀の勝に依頼することにした。
道頓堀の勝は頼まれたことを、簡単にやってのけた。わざわざ喧嘩を売るきっかけを求める必要もなかったのである。道頓堀の勝は「オリンピア」が閉店になって、豹一が多鶴子より一足先に出て来るところを待ちうけていたのだが、おいと声を掛けて寄って行ったかと思うと、もう豹一の方から突っ掛って来た。弥生座の裏路次で撲り倒された相手を豹一が忘れているわけもなかったのである。豹一は前後の見境もなく、突っ掛って行ったが、
「二度と再びこの店へ来やがると、承知せえへんぞ!」
という道頓堀の勝の鼻声をきいた途端に、意識を失った。
はっと気がつくと、車に乗っていた。傍に多鶴子がいた。いつも豹一が降りることにしていた日本橋筋一丁目はとっくに過ぎていた。
簡単に撲り倒された醜態を見られたかと思うと、豹一はあのまま死んでしまった方が良いと思うぐらいだった。そして誰にも知られていないが、この前にも一度こんなことがあったと思えば、一層身が縮まり、もう多鶴子にも愛想をつかされたと、しょんぼり気が滅入ったが、車が帝塚山へつくと、多鶴子は泊って行けと意外なことを言った。
「でも……」と、さすがに渋ると、多鶴子は、
「そんな体ではひとりで帰れないわ」
まるで豹一の体をかかえんばかりにして、車から降ろした。豹一はもう断る口も利けなかった。じかに触れて来る多鶴子の手や肩や胸のかすかな感触のせいばかりではない。そんな風に病人扱いにされることが、消え入りたいほど恥しかったからである。
倒れるときちょっと頭をうったのは、それに興奮していたせいもあって脆くも意識を失ったのだが、かすり傷ひとつなかったのである。大袈裟に倒れたわりにかすり傷ひとつなかったという点で、豹一はますますしょげて、情けない状態になっているのを、多鶴子はかつ安心し、かつおかしいと思った。
多鶴子は殆んど夜通し豹一を「看病」した。じつは円タクの運転手からことのいきさつをきいていた。運転手のいうところによれば、撲った男は豹一に、「二度と再び『オリンピア』……」云々といったそうである。だから、運転手の想像によると、撲った男はいろおんなを豹一にとられたのか、それとも「オリンピア」に頼まれてやったのかどちらかだというのであった。それをきいて多鶴子はなにか自分の責任を感じた。だから、「看病」の義務はあると思った。ひとつには、女中が豹一を看病することに異常な情熱を見せたので、多鶴子はなにか気色を損じ、女中に任せきりで置くというわけにいかなかったのである。
可哀相に豹一は氷枕をあてがわれた。飛びあがるほど冷たかったのと、そんな風に病人扱いにされる恥しさのため、豹一は到頭熱を出してしまった。多鶴子は看病の仕甲斐があったわけである。彼女はすっかり疲労してしまった。
女中は自分が看病出来ぬので、すっかり多鶴子に嫉妬を感じた。女中は漠然とした不安を抱きながら、眠った。
この不安は適中した。恥しさのため腹を立てんばかりに逆上してしまった豹一と、疲労のために日頃の半分も理性が働かなかった多鶴子は、ありきたりの関係に陥った。
戸外は小雪だった。
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