聴いているうちに寺田は、なるほどそんな「一」だったのかと、少しは安心したが、この男のことだから四条通の酒場も荒し廻ったに違いないと、やはり気になり、交潤社の名を持ち出すと、開店当時入口の大硝子を割って以来行ったことはないがと笑って、しかしあそこの女給で競馬の好きな女を知っている。いい女だったが、死んだらしい。よせばいいのに教師などと世帯を持ったのは莫迦だったが、しかしあれだけの体の女はちょっとめず……おや、もう上るんですか。
部屋へ戻ると、女中が夕飯を運んで来たが、寺田は咽喉へ通らなかった。すぐ下げさせて、二時間ばかりすると、蒲団を敷きに来た。寺田は今夜はもう眠れぬだろうと、ロンパンを注射するつもりで、注射器を消毒していると、蒲団を敷き終った女中が、旦那様注射をなさるのでしたら、私にもして下さい。メタボリンは脚気にいいんでしょうと腕をまくった。寺田はむっちりしたその腕へプスリと針を突き刺した途端一代の想いがあった。針を抜くと、女中は注射には馴れているらしく、器用に腕を揉みながら、五番の客が変なことを言うからお咲ちゃんに代ってもらっていいことをしたという言葉を聴いて、はじめて女中が変っていたことに気がついたくらい寺田はぼんやりしていた。男前だと思って、本当にしょっているわ。寺田の眼は急に輝いた。あの男だ。あの男がこの女中を口説こうとしたのだ。寺田は何思ったか、どうだ、もう一本してやろうか。メタボリン……? いや、ヴィタミンCだ。Cっていいんですか。Bよりいいよと言いながら、しかし注射器にはひそかにロンパンを吸い上げた。
女中は急に欠伸をして、私眠くなって来たわ、ああいい気持、体が宙に浮きそう、少しここで横にならせて下さいね。蒲団の裾を枕にすると、もう前後不覚だった。二時間ばかり経って、うっとりと眼をあけた女中は、眠っていた間何をされたかさすがに悟ったらしかったが、寺田を責める風もなく、私夢を見てたのかしらと言いながら起ち上ると、裾をかき合せて出て行った。寺田はその後姿を見送る元気もなく、自責の想いにしょげかえっていたが、しかしふとあの男のことを想うと、わずかに自尊心の満足はあった。
翌日、小倉競馬場の初日が開かれた。朝からスリ続けていた寺田は、スレばスルほど昂奮して行った。最後の古呼特ハン競走で、寺田はあり金全部を1のハマザクラ号に賭けた。これを外してしまえば、もう帰りの旅費もない。
ぱっと発馬機がはね上った。途端に寺田は真蒼になった。内枠のハマザクラ号は二馬身出遅れたのだ。駄目だと寺田はくわえていた煙草を投げ捨てると、スタンドを降りて、ゴール前の柵の方へ寄って行った。もう柵により掛らねば立っておれないくらい、がっくりと力が抜けていたのだ。向う正面の坂を、一頭だけ取り残されたように登って行く白地に紫の波型入りのハマザクラを見ると、寺田の表情はますます歪んで行った。出遅れた距離を詰めようともせず、馬群から離れて随いて行くのは、もう勝負を投げてしまったのだろうか。ハマザクラはもう駄目だ! と寺田は思わず叫んだ。すると、いや大丈夫だ、あの馬は追込みだ、と声がした。ふと振り向くと、ジャンパーを着た「あの男」がずっと向う正面を睨んで立っていた。白い顔が蒼ざめている。自分とおなじようにスッて来たのだと、見上げていると、男は急ににやりとした。寺田はおやと正面へ振りかえった。白地に紫の波型がぐいぐいと距離を詰めて行く。あっと思っているうち、第四角ではもう先頭の馬に並んで、はげしく競り合いながら直線に差し掛った。しめたッと寺田が呶鳴ると、莫迦ッ! 追込馬が鼻に立ってどうするんだと、うしろの声も夢中だった。鼻に立ったハマザクラの騎手は鞭を使い出した。必死の力走だが、そのまま逃げ切ってしまえるかどうか。鞭を使わねばならぬところに、あと二百米の無理が感じられる。逃げろ、逃げろ、逃げ切れと、寺田は呶鳴っていた。あと百米。そうれ行け。あッ、三番が追い込んで来た。あと五十米。あッ危い。並びそうだ。はげしい競り合い。抜かすな、抜かすな。逃げろ、逃げろ! ハマザクラ頑張れ!
無我夢中に呶鳴っていた寺田は、ハマザクラがついに逃げ切ってゴールインしたのを見届けるといきなり万歳と振り向き、単だ、単だ、大穴だ、大穴だと絶叫しながら、ジャンパーの肩に抱きついて、ポロポロ涙を流していた。まるで女のように離れなかった。嫉妬も恨みも忘れてしがみついていた。(昭和二十一年四月)
底本:ちくま日本文学全集『織田作之助』
1993(平成5)年5月20日第一刷発行
親本:『現代日本文学大系70 武田麟太郎・織田作之助・島木健作・檀一雄集』筑摩書房
1970(昭和45)年6月25日発行
入力:富田倫生
校正:江戸尚美
1998年3月27日公開
2003年8月31日修正
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