ちくま日本文学全集 織田作之助 |
筑摩書房 |
1993(平成5)年5月20日 |
朝からどんより曇っていたが、雨にはならず、低い雲が陰気に垂れた競馬場を黒い秋風が黒く走っていた。午後になると急に暗さが増して行った。しぜん人も馬も重苦しい気持に沈んでしまいそうだったが、しかしふと通り魔が過ぎ去った跡のような虚しい慌しさにせき立てられるのは、こんな日は競走が荒れて大穴が出るからだろうか。晩秋の黄昏がはや忍び寄ったような翳の中を焦躁の色を帯びた殺気がふと行き交っていた。
第四角まで後方の馬ごみに包まれて、黒地に白い銭形紋散らしの騎手の服も見えず、その馬に投票していた少数の者もほとんど諦めかけていたような馬が、最後の直線コースにかかると急に馬ごみの中から抜け出してぐいぐい伸びて行く。鞭は持たず、伏せをしたように頭を低めて、馬の背中にぴたりと体をつけたまま、手綱をしゃくっている騎手の服の不気味な黒と馬の胴につけた数字の1がぱっと観衆の眼にはいり、1か7か9か6かと眼を凝らした途端、はやゴール直前で白い息を吐いている先頭の馬に並び、はげしく競り合ったあげく、わずかに鼻だけ抜いて単勝二百円の大穴だ。そして次の障碍競走では、人気馬が三頭も同じ障碍で重なるように落馬し、騎手がその場で絶命するという騒ぎの隙をねらって、腐り厩舎の腐り馬と嗤われていた馬が見習騎手の鞭にペタペタ尻をしばかれながらゴールインして単複二百円の配当、馬主も騎手も諦めて単式はほかの馬に投票していたという話が伝えられるくらいの番狂わせである。
そんな競走が続くと、もう誰もかれも得体の知れぬ魔に憑かれたように馬券の買い方が乱れて来る。前の晩自宅で血統や調教タイムを綿密に調べ、出遅れや落馬癖の有無、騎手の上手下手、距離の適不適まで勘定に入れて、これならば絶対確実だと出馬表に赤鉛筆で印をつけて来たものも、場内を乱れ飛ぶニュースを耳にすると、途端に惑わされて印もつけて来なかったような変梃な馬を買ってしまう。朝、駅で売っている数種類の予想表を照らし合わせどの予想表にも太字で挙げている本命(力量、人気共に第一位の馬)だけを、三着まで配当のある確実な複式で買うという小心な堅実主義の男が、走るのは畜生だし、乗るのは他人だし、本命といっても自分のままになるものか、もう競馬はやめたと予想表は尻に敷いて芝生にちょんぼりと坐り、残りの競走は見送る肚を決めたのに、競走場へ現れた馬の中に脱糞をした馬がいるのを見つけると、あの糞の柔さはただごとでない、昂奮剤のせいだ、あの馬は今日はやるらしいと、慌てて馬券の売場へ駈け出して行く。三番片脚乗らんか、三番片脚乗らんかと呶鳴っている男は、今しがた厩舎の者らしい風体の男が三番の馬券を買って行ったのを見たのだ。三番といえばまるで勝負にならぬ位貧弱な馬で、まさかこれが穴になるとは思えなかったが、やはりその男の風体が気になる、といって二十円損をするのも莫迦らしく、馬の片脚五円ずつ出し合って四人で一枚の馬券を買う仲間を探しているのだった。あの男はこの競走は穴が出そうだと、厩舎のニュースを訊き廻ったが、訊く度に違う馬を教えられて迷いに迷い、挽馬場と馬券の売場の間をうろうろ行ったり来たりして半泣きになったあげく、血走った眼を閉じて鉛筆の先で出馬表を突くと、七番に当ったのでラッキーセブンだと喜び、売場へ駈けつけていく途中、知人に会い、何番にするのかと訊けば、五番だという。そうか、やはり五番がいいかねと、五番の馬がスタートでひどく出遅れる癖があるのを忘れて、それを買ってしまうのだ。――人々はもはや耳かきですくうほどの理性すら無くしてしまい、場内を黒く走る風にふと寒々と吹かれて右往左往する表情は、何か狂気じみていた。
寺田はしかしそんなあたりの空気にひとり超然として、惑いも迷いもせず、朝の最初の競走から1の番号の馬ばかり買いつづけていた。挽馬場の馬の気配も見ず、予想表も持たず、ニュースも聴かず、一つの競走が済んで次の競走の馬券発売の窓口がコトリと木の音を立ててあくと、何のためらいもなく誰よりも先きに、一番! と手をさし込むのだった。
何番が売れているのかと、人気を調べるために窓口へ寄っていた人々は、余裕綽々とした寺田の買い方にふと小憎らしくなった顔を見上げるのだったが、そんな時寺田の眼は苛々と燃えて急に挑み掛るようだった。何かしら思い詰めているのか放心して仮面のような虚しさに蒼ざめていた顔が、瞬間カッと血の色を泛べて、ただごとでない激しさであった。
迷いもせず一途に1の数字を追うて行く買い方は、行き当りばったりに思案を変えて行く人々の狂気を遠くはなれていたわけだが、しかし取り乱さぬその冷静さがかえって普通でなく、度の過ぎた潔癖症の果てが狂気に通ずるように、頑なその一途さはふと常規を外れていたかも知れない。寺田が1の数字を追い続けたのも、実はなくなった細君が一代という名であったからだ。
寺田は細君の生きている間競馬場へ足を向けたことは一度もなかった。寺田は京都生れで、中学校も京都A中、高等学校も三高、京都帝大の史学科を出ると母校のA中の歴史の教師になったという男にあり勝ちな、小心な律義者で、病毒に感染することを惧れたのと遊興費が惜しくて、宮川町へも祇園へも行ったことがないというくらいだから、まして教師の分際で競馬遊びなぞ出来るような男ではなかった、といってしまえば簡単だが、ただそれだけではなかった。
寺田の細君は本名の一代という名で交潤社の女給をしていた。交潤社は四条通と木屋町通の角にある地下室の酒場で、撮影所の連中や贅沢な学生達が行く、京都ではまず高級な酒場だったし、しかも一代はそこのナンバーワンだったから、寺田のような風采の上らぬ律義者の中学教師が一代を細君にしたと聴いて、驚かぬ者はなかった。もっとも一代の方では寺田の野暮な生真面目さを見込んだのかも知れない。もともと酒場遊びなぞする男ではなかったのだが、ある夜同僚に無理矢理誘われて行き、割前勘定になるかも知れないとひやひやしながら、おずおずと黒ビールを飲んでいる寺田の横に坐った時、一代は気が詰りそうになった。ところが、翌る日から寺田は毎夜一代を目当てに通って来た。置いて行く祝儀もすくなく、一代は相手にしなかったが、十日目の夜だしぬけに結婚してくれと言う。隣のボックスにいる撮影所の助監督に秋波を送りながら、いい加減に聴き流していたが、それから一週間毎夜同じ言葉をくりかえされているうちに、ふと寺田の一途さに心惹かれた。二十八歳の今日まで女を知らずに来たという話ももう冗談に思えず、十八の歳から体を濡らして来た一代にとっては、地道な結婚をするまたとない機会かも知れなかった。思えば自分ももう二十六、そろそろ身を堅めてもいい歳だろう。都ホテルや京都ホテルで嗅いだ男のポマードの匂いよりも、野暮天で糞真面目ゆえ「お寺さん」で通っている醜男の寺田に作ってやる味噌汁の匂いの方が、貧しかった実家の破れ障子をふと想い出させるような沁々した幼心のなつかしさだと、一代も一皮剥げば古い女だった。風采は上らぬといえ帝大出だし笑えば白い歯ならびが清潔だと、そんなことも勘定に入れた。
ところが寺田の両親が反対した。「お寺さん」という綽名はそれと知らずにつけられたのだが、実は寺田の生家は代々堀川の仏具屋で、寺田の嫁も商売柄僧侶の娘を貰うつもりだったのだ。反対された寺田は実家を飛び出すと、銀閣寺附近の西田町に家を借りて一代と世帯を持った。寺田にしては随分思い切った大胆さで、それだけ一代にのぼせていたわけだったが、しかし勘当になった上にそのことが勤め先のA中に知れて免職になると、やはり寺田は蒼くなった。交潤社の客で一代に通っていた中島某はA中の父兄会の役員だったのだ。寺田は素行不良の理由で免職になったことをまるで前科者になってしまったように考え、もはや社会に容れられぬ人間になった気持で、就職口を探しに行こうとはせず、頭から蒲団をかぶって毎日ごろんごろんしていた。夜、一代の柔い胸の円みに触れたり、子供のように吸ったりすることが唯一のたのしみで、律義な小心者もふと破れかぶれの情痴めいた日々を送っていたが、一代ももともと夜の時間を奔放に送って来た女であった。肩や胸の歯形を愉しむようなマゾヒズムの傾向もあった。壁一重の隣家を憚って、蹴上の旅館へ寺田を連れて行ったりした。そんな旅館を一代が知っていたのかと寺田はふと嫉妬の血を燃やしたが、しかしそんな瞬間の想いは一代の魅力ですぐ消えてしまった。
ある夜、一代は痛いと飛び上った。驚いて口をはなし、手で柔く押えると、それでも痛いという、血がにじんでも痛いとは言わなかった女だったのに、妊娠したのかと乳首を見たが黒くもない。何もせぬのに夜通し痛がっていたので、乳腺炎になったのかと大学病院へ行き、歯形が紫色ににじんでいる胸をさすがに恥しそうにひろげて診てもらうと、乳癌だった。未産婦で乳癌になるひとは珍らしいと、医者も不思議がっていた。入院して乳房を切り取ってもらった。退院まで四十日も掛り、その後もレントゲンとラジウムを掛けに通ったので、教師をしていた間けちけちと蓄めていた貯金もすっかり心細くなってしまい、寺田は大学時代の旧師に泣きついて、史学雑誌の編輯の仕事を世話してもらった。ところが、一代は退院後二月ばかりたつとこんどは下腹の激痛を訴え出した。寺田は夜通し撫ぜてやったが、痛みは消えず、しまいには油汗をタラタラ流して、痛い痛いと転げ廻った。再発した癌が子宮へ廻っていたのだ。しかし医者は入院する必要はないと言う。ラジウムを掛けに通うだけでいいが、しかし通うのが苦痛で堪え切れないのなら、無理に通わなくてもいいという。その言葉の裏は、死の宣告だった。癌の再発は治らぬものとされているのだ。余り打たぬようにと、医者は寺田の手に鎮痛剤のロンパンを渡した。モルヒネが少量はいっているらしかった。死ぬときまった人間ならもうモルヒネ中毒の惧れもないはずだのに、あまり打たぬようにと注意するところを見れば、万に一つ治る奇蹟があるのだろうかと、寺田は希望を捨てず、日頃けちくさい男だのに新聞広告で見た高価な短波治療機を取り寄せたり、枇杷の葉療法の機械を神戸まで買いに行ったりした。人から聴けば臍の緒も煎じ、牛蒡の種もいいと聴いて摺鉢でゴシゴシとつぶした。
しかし一代は衰弱する一方で、水の引くようにみるみる痩せて行き、癌特有の堪え切れぬ悪臭はふと死のにおいであった。寺田はもはや恥も外聞も忘れて、腫物一切にご利益があると近所の人に聴いた生駒の石切まで一代の腰巻を持って行き、特等の祈祷をしてもらった足で、南無石切大明神様、なにとぞご利益をもって哀れなる二十六歳の女の子宮癌を救いたまえと、あらぬことを口走りながらお百度を踏んだ帰り、参詣道で灸のもぐさを買って来るのだった。それでも一代の激痛は収まらず、注射の切れた時の苦しみ方は生きながらの地獄であった。ロンパンがなくなったと気がついて、派出看護婦が近くの医者まで貰いに走っている間、一代は下腹をかきむしるような手つきをしながら、唇を突き出し、ポロポロ涙を流して、のた打ち廻るのだ。世の中にこんな苦痛があったのかと、寺田もともにポロポロ涙を流して、おろおろ見ている。一代は急に、噛んで、噛んで! と叫んだ。下腹の苦痛を忘れるために、肩を噛んでもらいたいのだろう。寺田はガブリと一代の肩にかぶりついた。かつては豊満な脂肪で柔かった肩も今は痛々しいくらい痩せて、寺田は気の遠くなるほど悲しかったが、一代ももう寺田に肩を噛まれながら昔の喜びはなく、痛い痛いと泣く声にも情痴の響きはなかった。やっと看護婦が帰って来たが、のろまな看護婦がアンプルを切ったり注射液を吸い上げたり、腕を消毒したりするのに手間取っているのを見ると、寺田は一代の苦痛を一秒でも早く和げてやりたさに、早く早くと自分も手伝ってやるのだった。
気の弱い寺田はもともと注射が嫌いで、というより、注射の針の中には悪魔の毒気が吹込まれていると信じている頑冥な婆さん以上に注射を怖れ、伝染病の予防注射の時など、針の先を見ただけで真蒼になって卒倒したこともあり、高等教育を受けた男に似合わぬと嗤われていたくらいだから、はじめのうち看護婦が一代の腕をまくり上げただけで、もう隣の部屋へ逃げ込み、注射が終ってからおそるおそる出て来るというありさまであった。針という感覚だけで参ってしまうような弱い神経なのだ。ところが、癌の苦痛という感覚の前にはもうそんな神経もいつか図太くなって来たのか、背に腹は代えられぬ注射の手伝いをしているうちに、次第に馴れて来て、しまいには夜中看護婦が眠っている間一代のうめき声を聴くと、寺田は見よう見真似の針を一代の腕に打ってやるのだった。
[1] [2] [3] 下一页 尾页