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競馬(けいば)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 10:02:08  点击:  切换到繁體中文

底本: ちくま日本文学全集 織田作之助
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1993(平成5)年5月20日


底本の親本: 現代日本文学全集70
出版社: 筑摩書房

 

 朝からどんよりくもっていたが、雨にはならず、低い雲が陰気いんきに垂れた競馬場を黒い秋風が黒く走っていた。午後になると急に暗さが増して行った。しぜん人も馬も重苦しい気持にしずんでしまいそうだったが、しかしふととおが過ぎ去ったあとのようなむなしいあわただしさにせき立てられるのは、こんな日は競走レースれて大穴が出るからだろうか。晩秋の黄昏たそがれがはやしのび寄ったようなかげの中を焦躁しょうそうの色を帯びた殺気がふと行き交っていた。
 第四コーナーまで後方の馬ごみに包まれて、黒地に白い銭形紋ぜにがたもんらしの騎手きしゅの服も見えず、その馬に投票していた少数の者もほとんどあきらめかけていたような馬が、最後の直線コースにかかると急に馬ごみの中からけ出してぐいぐいびて行く。むちは持たず、せをしたように頭を低めて、馬の背中にぴたりと体をつけたまま、手綱たづなをしゃくっている騎手の服の不気味な黒と馬のどうにつけた数字の1がぱっと観衆のにはいり、1か7か9か6かと眼をらした途端とたん、はやゴール直前で白い息をいている先頭の馬にならび、はげしく競り合ったあげく、わずかに鼻だけ抜いて単勝二百円の大穴だ。そして次の障碍しょうがい競走レースでは、人気馬が三頭も同じ障碍で重なるように落馬し、騎手がその場で絶命するというさわぎのすきをねらって、くさ厩舎きゅうしゃの腐り馬とわらわれていた馬が見習騎手の鞭にペタペタしりをしばかれながらゴールインして単複二百円の配当、馬主も騎手も諦めて単式はほかの馬に投票していたという話が伝えられるくらいの番狂ばんくるわせである。
 そんな競走レースが続くと、もうだれもかれも得体の知れぬ魔にかれたように馬券の買い方が乱れて来る。前の晩自宅で血統や調教タイムを綿密に調べ、出遅でおくれや落馬へきの有無、騎手の上手じょうず下手へた距離きょりの適不適まで勘定かんじょうに入れて、これならば絶対確実だと出馬表に赤鉛筆えんぴつで印をつけて来たものも、場内を乱れ飛ぶニュースを耳にすると、途端にまどわされて印もつけて来なかったような変梃へんてこな馬を買ってしまう。朝、駅で売っている数種類の予想表を照らし合わせどの予想表にも太字で挙げている本命ほんめい(力量、人気共に第一位の馬)だけを、三着まで配当のある確実な複式で買うという小心な堅実けんじつ主義の男が、走るのは畜生ちくしょうだし、乗るのは他人だし、本命といっても自分のままになるものか、もう競馬はやめたと予想表は尻にいて芝生しばふにちょんぼりとすわり、残りの競走レースは見送るはらを決めたのに、競走レース場へ現れた馬の中に脱糞だっぷんをした馬がいるのを見つけると、あの糞のやわらかさはただごとでない、昂奮剤こうふんざいのせいだ、あの馬は今日きょうはやるらしいと、慌てて馬券の売場へけ出して行く。三番片脚かたあし乗らんか、三番片脚乗らんかと呶鳴どなっている男は、今しがた厩舎の者らしい風体の男が三番の馬券を買って行ったのを見たのだ。三番といえばまるで勝負にならぬ位貧弱な馬で、まさかこれが穴になるとは思えなかったが、やはりその男の風体が気になる、といって二十円損をするのも莫迦ばからしく、馬の片脚五円ずつ出し合って四人で一枚の馬券を買う仲間を探しているのだった。あの男はこの競走レースは穴が出そうだと、厩舎のニュースをまわったが、訊く度にちがう馬を教えられて迷いに迷い、挽馬場ひきばと馬券の売場の間をうろうろ行ったり来たりして半泣きになったあげく、血走った眼を閉じて鉛筆の先で出馬表をくと、七番に当ったのでラッキーセブンだと喜び、売場へ駈けつけていく途中、知人に会い、何番にするのかと訊けば、五番だという。そうか、やはり五番がいいかねと、五番の馬がスタートでひどく出遅れるくせがあるのを忘れて、それを買ってしまうのだ。――人々はもはや耳かきですくうほどの理性すら無くしてしまい、場内を黒く走る風にふと寒々とかれて右往左往する表情は、何か狂気きょうきじみていた。
 寺田はしかしそんなあたりの空気にひとり超然ちょうぜんとして、惑いも迷いもせず、朝の最初の競走レースから1の番号の馬ばかり買いつづけていた。挽馬場の馬の気配も見ず、予想表も持たず、ニュースもかず、一つの競走レースが済んで次の競走レースの馬券発売の窓口がコトリと木の音を立ててあくと、何のためらいもなく誰よりも先きに、一番! と手をさしむのだった。
 何番が売れているのかと、人気を調べるために窓口へ寄っていた人々は、余裕よゆう綽々しゃくしゃくとした寺田の買い方にふと小憎こにくらしくなった顔を見上げるのだったが、そんな時寺田の眼は苛々いらいらと燃えて急にいどかかるようだった。何かしら思いめているのか放心して仮面めんのような虚しさにあおざめていた顔が、瞬間しゅんかんカッと血の色をうかべて、ただごとでないはげしさであった。
 迷いもせず一途いちずに1の数字を追うて行く買い方は、行き当りばったりに思案を変えて行く人々の狂気を遠くはなれていたわけだが、しかし取り乱さぬその冷静さがかえって普通ふつうでなく、度の過ぎた潔癖症けっぺきしょうの果てが狂気に通ずるように、かたくななその一途さはふと常規を外れていたかも知れない。寺田が1の数字を追い続けたのも、実はなくなった細君が一代かずよという名であったからだ。

 寺田は細君の生きている間競馬場へ足を向けたことは一度もなかった。寺田は京都生れで、中学校も京都A中、高等学校も三高、京都帝大の史学科を出ると母校のA中の歴史の教師になったという男にあり勝ちな、小心な律義者りちぎもので、病毒に感染することをおそれたのと遊興費がしくて、宮川町へも祇園ぎおんへも行ったことがないというくらいだから、まして教師の分際で競馬遊びなぞ出来るような男ではなかった、といってしまえば簡単だが、ただそれだけではなかった。
 寺田の細君は本名の一代という名で交潤社こうじゅんしゃの女給をしていた。交潤社は四条通と木屋町通の角にある地下室の酒場で、撮影所さつえいじょの連中や贅沢ぜいたくな学生達が行く、京都ではまず高級な酒場だったし、しかも一代はそこのナンバーワンだったから、寺田のような風采ふうさいの上らぬ律義者の中学教師が一代を細君にしたと聴いて、おどろかぬ者はなかった。もっとも一代の方では寺田の野暮やぼ生真面目きまじめさを見込んだのかも知れない。もともと酒場遊びなぞする男ではなかったのだが、ある夜同僚どうりょうに無理矢理さそわれて行き、割前勘定になるかも知れないとひやひやしながら、おずおずと黒ビールを飲んでいる寺田の横に坐った時、一代は気が詰りそうになった。ところが、あくる日から寺田は毎夜一代を目当てに通って来た。置いて行く祝儀チップもすくなく、一代は相手にしなかったが、十日目の夜だしぬけに結婚けっこんしてくれと言う。となりのボックスにいる撮影所の助監督じょかんとくに秋波を送りながら、いい加減に聴き流していたが、それから一週間毎夜同じ言葉をくりかえされているうちに、ふと寺田の一途さに心かれた。二十八さいの今日まで女を知らずに来たという話ももう冗談じょうだんに思えず、十八のとしから体をらして来た一代にとっては、地道な結婚をするまたとない機会かも知れなかった。思えば自分ももう二十六、そろそろ身をかためてもいい歳だろう。都ホテルや京都ホテルでいだ男のポマードのにおいよりも、野暮天で糞真面目くそまじめゆえ「お寺さん」で通っている醜男ぶおとこの寺田に作ってやる味噌汁みそしるの匂いの方が、貧しかった実家の破れ障子をふとおもい出させるような沁々しみじみした幼心のなつかしさだと、一代も一皮げば古い女だった。風采は上らぬといえ帝大ていだい出だし笑えば白い歯ならびが清潔だと、そんなことも勘定に入れた。
 ところが寺田の両親が反対した。「お寺さん」という綽名あだなはそれと知らずにつけられたのだが、実は寺田の生家は代々堀川ほりかわの仏具屋で、寺田のよめ商売柄しょうばいがら僧侶そうりょむすめもらうつもりだったのだ。反対された寺田は実家を飛び出すと、銀閣寺附近ふきんの西田町に家を借りて一代と世帯しょたいを持った。寺田にしては随分ずいぶん思い切った大胆だいたんさで、それだけ一代にのぼせていたわけだったが、しかし勘当かんどうになった上にそのことが勤め先のA中に知れて免職めんしょくになると、やはり寺田は蒼くなった。交潤社の客で一代に通っていた中島ぼうはA中の父兄会の役員だったのだ。寺田は素行不良の理由で免職になったことをまるで前科者になってしまったように考え、もはや社会にれられぬ人間になった気持で、就職口を探しに行こうとはせず、頭から蒲団ふとんをかぶって毎日ごろんごろんしていた。夜、一代の柔い胸の円みにれたり、子供のように吸ったりすることが唯一ゆいいつのたのしみで、律義な小心者もふと破れかぶれの情痴じょうちめいた日々を送っていたが、一代ももともと夜の時間を奔放ほんぽうに送って来た女であった。かたや胸の歯形をたのしむようなマゾヒズムの傾向けいこうもあった。かべ一重の隣家をはばかって、蹴上けあげの旅館へ寺田を連れて行ったりした。そんな旅館を一代が知っていたのかと寺田はふと嫉妬しっとの血を燃やしたが、しかしそんな瞬間の想いは一代の魅力みりょくですぐ消えてしまった。
 ある夜、一代は痛いと飛び上った。驚いて口をはなし、手で柔くおさえると、それでも痛いという、血がにじんでも痛いとは言わなかった女だったのに、妊娠にんしんしたのかと乳首を見たが黒くもない。何もせぬのに夜通し痛がっていたので、乳腺炎にゅうせんえんになったのかと大学病院へ行き、歯形が紫色むらさきいろににじんでいる胸をさすがにはずかしそうにひろげててもらうと、乳癌にゅうがんだった。未産婦で乳癌になるひとはめずらしいと、医者も不思議がっていた。入院して乳房ちぶさを切り取ってもらった。退院まで四十日も掛り、その後もレントゲンとラジウムを掛けに通ったので、教師をしていた間けちけちとめていた貯金もすっかり心細くなってしまい、寺田は大学時代の旧師に泣きついて、史学雑誌の編輯へんしゅうの仕事を世話してもらった。ところが、一代は退院後二月ばかりたつとこんどは下腹の激痛げきつううったえ出した。寺田は夜通しぜてやったが、痛みは消えず、しまいには油汗あぶらあせをタラタラ流して、痛い痛いと転げ廻った。再発した癌が子宮へ廻っていたのだ。しかし医者は入院する必要はないと言う。ラジウムを掛けに通うだけでいいが、しかし通うのが苦痛でえ切れないのなら、無理に通わなくてもいいという。その言葉の裏は、死の宣告だった。癌の再発は治らぬものとされているのだ。余り打たぬようにと、医者は寺田の手に鎮痛剤ちんつうざいのロンパンをわたした。モルヒネが少量はいっているらしかった。死ぬときまった人間ならもうモルヒネ中毒の惧れもないはずだのに、あまり打たぬようにと注意するところを見れば、万に一つ治る奇蹟きせきがあるのだろうかと、寺田は希望を捨てず、日頃ひごろけちくさい男だのに新聞広告で見た高価な短波治療機ちりょうきを取り寄せたり、枇杷びわの葉療法の機械を神戸こうべまで買いに行ったりした。人から聴けばへそせんじ、牛蒡ごぼうの種もいいと聴いて摺鉢すりばちでゴシゴシとつぶした。
 しかし一代は衰弱する一方で、水の引くようにみるみるせて行き、癌特有の堪え切れぬ悪臭あくしゅうはふと死のにおいであった。寺田はもはや恥も外聞も忘れて、腫物はれもの一切いっさいにご利益りやくがあると近所の人に聴いた生駒いこまの石切まで一代の腰巻こしまきを持って行き、特等の祈祷きとうをしてもらった足で、南無なむ石切大明神様、なにとぞご利益をもってあわれなる二十六歳の女の子宮癌を救いたまえと、あらぬことを口走りながらお百度をんだ帰り、参詣道さんけいどうきゅうのもぐさを買って来るのだった。それでも一代の激痛は収まらず、注射の切れた時の苦しみ方は生きながらの地獄じごくであった。ロンパンがなくなったと気がついて、派出看護婦が近くの医者まで貰いに走っている間、一代は下腹をかきむしるような手つきをしながら、くちびるを突き出し、ポロポロなみだを流して、のた打ち廻るのだ。世の中にこんな苦痛があったのかと、寺田もともにポロポロ涙を流して、おろおろ見ている。一代は急に、んで、噛んで! とさけんだ。下腹の苦痛を忘れるために、肩を噛んでもらいたいのだろう。寺田はガブリと一代の肩にかぶりついた。かつては豊満な脂肪しぼうで柔かった肩も今は痛々しいくらい痩せて、寺田は気の遠くなるほど悲しかったが、一代ももう寺田に肩を噛まれながらむかしの喜びはなく、痛い痛いと泣く声にも情痴のひびきはなかった。やっと看護婦が帰って来たが、のろまな看護婦がアンプルを切ったり注射液を吸い上げたり、うでを消毒したりするのに手間取っているのを見ると、寺田は一代の苦痛を一秒でも早くやわらげてやりたさに、早く早くと自分も手伝ってやるのだった。
 気の弱い寺田はもともと注射がきらいで、というより、注射の針の中には悪魔の毒気が吹込まれていると信じている頑冥がんめいばあさん以上に注射をおそれ、伝染病の予防注射の時など、針の先を見ただけで真蒼まっさおになって卒倒そっとうしたこともあり、高等教育を受けた男に似合わぬと嗤われていたくらいだから、はじめのうち看護婦が一代の腕をまくり上げただけで、もう隣の部屋へやへ逃げ込み、注射が終ってからおそるおそる出て来るというありさまであった。針という感覚だけで参ってしまうような弱い神経なのだ。ところが、癌の苦痛という感覚の前にはもうそんな神経もいつか図太くなって来たのか、背に腹は代えられぬ注射の手伝いをしているうちに、次第にれて来て、しまいには夜中看護婦がねむっている間一代のうめき声を聴くと、寺田は見よう見真似みまねの針を一代の腕に打ってやるのだった。

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