何枚かのレコードを購めて出ようとすると、雨であつた。狐の嫁入りだから直ぐやむだらうと暫らく待つてゐたが、なかなかやみさうになく、本降りになつた。主人は私が腕時計を覗いたのを見て、お急ぎでしたら、と傘を貸してくれた。区役所からの帰り、市電に乗らうとした拍子に、畳んだ傘の矢野といふ印が眼に止まり、あゝ、あの矢野だつたかと、私ははじめて想ひだした。
京都の学生街の吉田に矢野精養軒といふ洋食屋があつた。かつてのそこの主人が、いま私が傘を借りて来た名曲堂の主人と同じ人であることを想ひだしたのである。もう十年も前のこと故、どこかで見た顔だと思ひながらにはかに想ひ出せなかつたのであらうが、想ひ出して見ると、いろんな細かいことも記憶に残つてゐた。以前から私は財布の中にいくらはいつてゐるか知らずに飲食したり買物したりして、勘定が足りずに赤面することがしばしばであつたが、矢野精養軒の主人はそんな時気前よく、いつでもようござんすと貸してくれたものである。ポークソテーが店の自慢になつてゐたが、ほかの料理もみな美味く、ことに野菜は全部酢漬けで、セロリーはいつもただで食べさせてくれ、なほ、毎月新譜のレコードを購入して聴かせてゐた。それが皆学生好みの洋楽の名曲レコードであつたのも、今にして想へば奇しき縁ですねと、十日ほど経つて傘を返しがてら行つた時主人に話すと、あゝ、あなたでしたか、道理で見たことのあるお方だと思つてゐましたが、しかし変られましたなと、主人はお世辞でなく気づいたやうで、そして奇しき縁といへば、全くをかしいやうな話でしてねと、こんな話をした。
主人はもと船乗りで、子供の頃から欧洲航路の船に雇はれて、鑵炊きをしたり、食堂の皿洗ひをしたりコックをしたりしたが、四十の歳に陸へ上つて、京都の吉田で洋食屋をはじめた。が、コックの腕に自信があり過ぎて、良い材料を使つて美味いものを安く学生さんに食べさせるといふことが商売気を離れた道楽みたいになつてしまつたから、儲けるといふことには無頓着で、結局月々損を重ねて行つたあげく、店はつぶれてしまつた。すつかり整理したあとに残つたのは、学生さんに聴かせるためにと毎月費用を惜しまず購入して来たままに溜つてゐた莫大な数の名曲レコードで、これだけは手放すのが惜しいと、大阪へ引越す時に持つて来たのが、とどのつまり今の名曲堂をはじめる動機になつたのだといふ。そして、よりによつてこんな辺鄙な町で商売をはじめたのは、売れる売れぬよりも老鋪代や家賃がやすかつたといふただそれだけの理由、人間も家賃の高いやすいを気にするやうではもうお了ひですなと、主人はふと自嘲的な口調になつて、わたしも洋食屋をやつたりレコード店をやつたり、随分永いこと少しも世の中の役に立たぬ無駄な苦労をして来ました、四十の歳に陸へ上つたのが間違ひだつたかも知れません。あんなものを飾つて置いてもかへつて後悔の種ですよと、壁に掛つた船の浮袋を指して、しかしわたしもまだ五十三です、……まだまだと言つてゐるところへ、只今とランドセルを背負つた少年がはいつて来て、新坊、挨拶せんかと主人が言つた時には、もうこそこそと奥へ姿を消してしまつてゐた。どうも無口な奴でと、しかし主人はうれしさうに言ひ、こんど中学校を受けるのだが、父親に似ず無口だから口答試問が心配だと、急に声が低くなつた。たしかお子さんは二人だつたがと言ふと、ああ、姉の方ですか、あの頃はあなたまだ新坊ぐらゐでしたが、もうとつくに女学校を出て、今北浜の会社へ勤めてゐますと、主人の声はまた大きくなつた。
帰らうとすると、また雨であつた。なんだか雨男になつたみたいですなと私は苦笑して、返すために持つて行つた傘をその儘また借りて帰つたが、その傘を再び返しに行くことはつまりはその町を訪れることになるわけで、傘が取り持つ縁だと私はひとり笑つた。そして、敢て因縁をいふならば、たまたま名曲堂が私の故郷の町にあつたといふことは、つまり私の第二の青春の町であつた京都の吉田が第一の青春の町へ移つて来て重なり合つたことになるわけだと、この二重写しで写された遠いかずかずの青春にいま濡れる思ひで、雨の口繩坂を降りて行つた。
半月余り経つてその傘を返しに行くと、新坊落第しましたよと、主人は顔を見るなり言つた。あの中学そんなに競争がはげしかつたかな、しかし来年もう一度受けるといふ手もありますよと慰めると、主人はいやもう学問は諦めさせて、新聞配達にしましたとこともなげに言つて、私を驚かせた。女の子は女学校ぐらゐ出て置かぬと嫁に行く時肩身の狭いこともあらうと思つて、娘は女学校へやつたが、しかし男の子は学問がなくても働くことさへ知つてをれば、立派に世間へ通るし人の役に立つ、だから不得手な学問は諦めさせて、働くことを覚えさせようと新聞配達にした、子供の頃から身体を責めて働く癖をつけとけば、きつとましな人間になるだらうといふのであつた。
帰り途、ひつそりと黄昏れてゐる口繩坂の石段を降りて来ると、下から登つて来た少年がピヨコンと頭を下げて、そのままピヨンピヨンと行つてしまつた。新聞をかかへ、新坊であつた。その後私は新坊が新聞を配り終へた疲れた足取りで名曲堂へ帰つて来るのを、何度か目撃したが、新坊はいつみても黙つて硝子扉を押してはいつて来ると、そのまま父親にも口を利かずにこそこそ奥へ姿を消してしまふのだつた。レコードを聴いてゐる私に遠慮して声を出さないのであらうか、ひとつにはもともと無口らしかつた。眉毛は薄いが、顔立ちはこぢんまりと綺麗にまとまつて、半ズボンの下にむきだしにしてゐる足は、女の子のやうに白かつた。新坊が帰つて来ると私はいつもレコードを止めて貰つて、主人が奥の新坊に風呂へ行つて来いとか、菓子の配給があつたから食べろとか声を掛ける隙をつくるやうにした。奥ではうんと一言返辞があるだけだつたが、父子の愛情が通ふ温さに私はあまくしびれて、それは音楽以上だつた。
夏が来ると、簡閲点呼の予習を兼ねた在郷軍人会の訓練がはじまり、自分の仕事にも追はれたので、私は暫く名曲堂へ顔を見せなかつた。七月一日は夕陽丘の愛染堂のお祭で、この日は大阪の娘さん達がその年になつてはじめて浴衣を着て愛染様に見せに行く日だと、名曲堂の娘さんに聴いてゐたが、私は行けなかつた。七月九日は生国魂の夏祭であつた。訓練は済んでゐた。私は十年振りにお詣りする相棒に新坊を選ばうと思つた。そして祭の夜店で何か買つてやることを、ひそかに楽しみながら、わざと夜をえらんで名曲堂へ行くと、新坊はつい最近名古屋の工場へ徴用されて今はそこの寄宿舎にゐるとのことであつた。私は名曲堂へ来る途中の薬屋で見つけたメタボリンを新坊に送つてやつてくれと渡して、レコードを聞くのは忘れて、ひとり祭見物に行つた。
その日行つたきり、再び仕事に追はれて名曲堂から遠ざかつてゐるうちに、夏は過ぎた。部屋の中へ迷ひ込んで来る虫を、夏の虫かと思つて団扇で敲くと、チリチリと哀れな鳴声のまま息絶えて、もう秋の虫である。ある日名曲堂から葉書が来た。お探しのレコードが手にはいつたから、お暇の時に寄つてくれと娘さんの字らしかつた。ボードレエルの「旅への誘ひ」をデュパルクの作曲でパンセラが歌つてゐる古いレコードであつた。このレコードを私は京都にゐた時分持つてゐたが、その頃私の下宿へ時々なんとなく遊びに来てゐた女のひとが誤つて割つてしまひ、そしてそのひとはそれを苦にしたのかそれきり顔を見せなくなつた。肩がずんぐりして、ひどい近眼であつたが、二年前その妹さんがどうして私のことを知つたのか、そのひとの死んだことを知らせてくれた時、私は取り返しのつかぬ想ひがした。そんなわけでなつかしいレコードである。本来が青春と無縁であり得ない文学の仕事をしながら、その仕事に追はれてかへつてかつての自分の青春を暫らく忘れてゐた私は、その名曲堂からの葉書を見て、にはかになつかしく、久し振りに口繩坂を登つた。
ところが名曲堂へ行つてみると、主人は居らず、娘さんがひとり店番をしてゐて、父は昨夜から名古屋へ行つてゐるので、ちやうど日曜日で会社が休みなのを幸ひ、かうして留守番をしてゐるのだといふ。聴けば、新坊が昨夜工場に無断で帰つて来たのだ。一昨夜寄宿舎で雨の音を聴いてゐると、ふと家が恋しくなつて、父や姉の傍で寝たいなと思ふと、今までになかつたことだのに、もうたまらなくなり、ふらふら昼の汽車に乗つてしまつたのやいふ言ひ分けを、しかし父親は承知せずに、その晩泊めようとせず、夜行に乗せて名古屋まで送つて行つたといふことだつた。一晩も泊めずに帰してしまつたかと想へば不憫でしたが、といふ娘さんの口調の中に、私は二十五の年齢を見た。二十五といへば稍婚期遅れの方だが、しかし清潔に澄んだ瞳には屈託のない若さがたたへられてゐて、京都で見た頃まだ女学校へはいつたばかしであつたこのひとの面影も両の頬に残つて失はれてゐず、凛とした口調の中に通つてゐる弟への愛情にも、素直な感傷がうかがはれた。しかし愛情はむしろ五十過ぎた父親の方が強かつたのではあるまいか。主人は送つて行く汽車の中で食べさせるのだと、昔とつた庖丁によりをかけて自分で弁当を作つたといふ。
この父親の愛情は私の胸を温めたが、それから十日ばかし経つて行くと、主人は私の顔を見るなり、新坊は駄目ですよと、思ひがけぬわが子への苦情だつた。訓されて帰つたものの、やはり家が恋しいと、三日にあげず手紙が来るらしかつた。働きに行つて家を恋しがるやうでどうするか、わたしは子供の時から四十の歳まで船に乗つてゐたが、どこの海の上でもそんな女々しい考へを起したことは一度もなかつた。馬鹿者めと、主人は私に食つて掛るやうに言ひ、この主人の鞭のはげしさは意外であつた。帰りの途は暗く、寺の前を通るとき、ふと木犀の香が暗がりに閃いた。
冬が来た。新坊がまたふらふらと帰つて来て、叱られて帰つて行つたといふ話を聴いて、再び胸を痛めたきり、私はまた名曲堂から遠ざかつてゐた。主人や娘さんはどうしてゐるだらうか、新坊は一生懸命働いてゐるだらうかと、時にふれ思はぬこともなかつたが、そしてまた、始終来てゐた客がぷつつり来なくなることは名曲堂の人たちにとつても淋しい気がすることであらうと気にならぬこともなかつたが、出不精の上に、私の健康は自分の仕事だけが精一杯の状態であつた。欠かせぬ会合にも不義理勝ちで、口繩坂は何か遠すぎた。そして、名曲堂のこともいつか遠い想ひとなつてしまつて、年の暮が来た。
年の暮は何か人恋しくなる。ことしはもはや名曲堂の人たちに会へぬかと思ふと、急に顔を見せねば悪いやうな気がし、またなつかしくもなつたので、すこし風邪気だつたが、私は口繩坂を登つて行つた。坂の途中でマスクを外して、一息つき、そして名曲堂の前まで来ると、表戸が閉つてゐて「時局に鑑み廃業仕候」と貼紙がある。中にゐるのだらうと、戸を敲いたが、返辞はない。錠が表から降りてゐる。どこかへ宿替へしたんですかと、驚いて隣の標札屋の老人にきくと、名古屋へ行つたといふ。名古屋といへば新坊の……と重ねてきくと、さいなと老人はうなづき、新坊が家を恋しがつて、いくら言ひきかせても帰りたがるので、主人は散々思案したあげく、いつそ一家をあげて新坊のゐる名古屋へ行き、寝起きを共にして一緒に働けば新坊ももう家を恋しがることもないわけだ、それよりほかに新坊の帰りたがる気持をとめる方法はないし、まごまごしてゐると、自分にも徴用が来るかも知れないと考へ、二十日ほど前に店を畳んで娘さんと一緒に発つてしまつた、娘さんも会社をやめて新坊と一緒に働くらしい、なんといつても子や弟いふもんは可愛いもんやさかいなと、もう七十を越したかと思はれる標札屋の老人はぼそぼそと語つて、眼鏡を外し、眼やにを拭いた。私がもとこの町の少年であつたといふことには気づかぬらしく、私ももうそれには触れたくなかつた。
口繩坂は寒々と木が枯れて、白い風が走つてゐた。私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思つた。青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直つて来たやうに思はれた。風は木の梢にはげしく突つ掛つてゐた。
(昭和十九年三月)
●表記について
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