現代文学大系 44 武田麟太郎・島木健作・織田作之助集 |
筑摩書房 |
大阪は木のない都だといはれてゐるが、しかし私の幼時の記憶は不思議に木と結びついてゐる。
それは生国魂神社の境内の、巳さんが棲んでゐるといはれて怖くて近寄れなかつた樟の老木であつたり、北向八幡の境内の蓮池に落つた時に濡れた着物を干した銀杏の木であつたり、中寺町のお寺の境内の蝉の色を隠した松の老木であつたり、源聖寺坂や口繩坂を緑の色で覆うてゐた木々であつたり――私はけつして木のない都で育つたわけではなかつた。大阪はすくなくとも私にとつては木のない都ではなかつたのである。
試みに、千日前界隈の見晴らしの利く建物の上から、はるか東の方を、北より順に高津の高台、生玉の高台、夕陽丘の高台と見て行けば、何百年の昔からの静けさをしんと底にたたへた鬱蒼たる緑の色が、煙と埃に濁つた大気の中になほ失はれずにそこにあることがうなづかれよう。
そこは俗に上町とよばれる一角である。上町に育つた私たちは船場、島ノ内、千日前界隈へ行くことを「下へ行く」といつてゐたけれども、しかし俗にいふ下町に対する意味での上町ではなかつた。高台にある町ゆゑに上町とよばれたまでで、ここには東京の山の手といつたやうな意味も趣きもなかつた。これらの高台の町は、寺院を中心に生れた町であり、「高き屋に登りてみれば」と仰せられた高津宮の跡をもつ町であり、町の品格は古い伝統の高さに静まりかへつてゐるのを貴しとするのが当然で、事実またその趣きもうかがはれるけれども、しかし例へば高津表門筋や生玉の馬場先や中寺町のガタロ横町などといふ町は、もう元禄の昔より大阪町人の自由な下町の匂ひがむんむん漂うてゐた。上町の私たちは下町の子として育つて来たのである。
路地の多い――といふのはつまりは貧乏人の多い町であつた。同時に坂の多い町であつた。高台の町として当然のことである。「下へ行く」といふのは、坂を西に降りて行くといふことなのである。数多い坂の中で、地蔵坂、源聖寺坂、愛染坂、口繩坂……と、坂の名を誌すだけでも私の想ひはなつかしさにしびれるが、とりわけなつかしいのは口繩坂である。
口繩(くちなは)とは大阪で蛇のことである。といへば、はや察せられるやうに、口繩坂はまことに蛇の如くくねくねと木々の間を縫うて登る古びた石段の坂である。蛇坂といつてしまへば打ちこはしになるところを、くちなは坂とよんだところに情調もをかし味もうかがはれ、この名のゆゑに大阪では一番さきに頭に泛ぶ坂なのだが、しかし年少の頃の私は口繩坂といふ名称のもつ趣きには注意が向かず、むしろその坂を登り詰めた高台が夕陽丘とよばれ、その界隈の町が夕陽丘であることの方に、淡い青春の想ひが傾いた。夕陽丘とは古くからある名であらう。昔この高台からはるかに西を望めば、浪華の海に夕陽の落ちるのが眺められたのであらう。藤原家隆卿であらうか「ちぎりあれば難波の里にやどり来て波の入日ををがみつるかな」とこの高台で歌つた頃には、もう夕陽丘の名は約束されてゐたかと思はれる。しかし、再び年少の頃の私は、そのやうな故事来歴は与り知らず、ただ口繩坂の中腹に夕陽丘女学校があることに、年少多感の胸をひそかに燃やしてゐたのである。夕暮わけもなく坂の上に佇んでゐた私の顔が、坂を上つて来る制服のひとをみて、夕陽を浴びたやうにぱつと赧くなつたことも、今はなつかしい想ひ出である。
その頃、私は高津宮跡にある中学校の生徒であつた。しかし、中学校を卒業して京都の高等学校へはいると、もう私の青春はこの町から吉田へ移つてしまつた。少年の私を楽ませてくれた駒ヶ池の夜店や榎の夜店なども、たまに帰省した高校生の眼には、もはや十年一日の古障子の如きけちな風景でしかなかつた。やがて私は高等学校在学中に両親を失ひ、ひいては無人になつた家を畳んでしまふと、もうこの町とは殆んど没交渉になつてしまつた。天涯孤独の境遇は、転々とした放浪めく生活に馴れやすく、故郷の町は私の頭から去つてしまつた。その後私はいくつかの作品でこの町を描いたけれども、しかしそれは著しく架空の匂ひを帯びてゐて、現実の町を描いたとはいへなかつた。その町を架空に描きながら現実のその町を訪れてみようといふ気も物ぐさの私には起らなかつた。
ところが、去年の初春、本籍地の区役所へ出掛けねばならぬ用向きが生じた。区役所へ行くには、その町を通らねばならない。十年振りにその町を訪れる機会が来たわけだと、私は多少の感懐を持つた。そして、どの坂を登つてその町へ行かうかと、ふと思案したが、足は自然に口繩坂へ向いた。しかし、夕陽丘女学校はどこへ移転してしまつたのか、校門には「青年塾堂」といふ看板が掛つてゐた。かつて中学生の私はこの禁断の校門を一度だけくぐつたことがある。当時夕陽丘女学校は籠球部を創設したといふので、私の中学校指導選手の派遣を依頼して来た。昔らしい呑気な話である。私の中学校は籠球にかけてはその頃の中等野球界の和歌山中学のやうな地位を占めてゐたのである。私はちやうど籠球部へ籍を入れて四日目だつたが、指導選手のあとにのこのこ随いて行つて、夕陽丘の校門をくぐつたのである。ところが指導を受ける生徒の中に偶然水原といふ、私は知つてゐるが向うは知らぬ美しい少女がゐたので、私はうろたへた。水原は指導選手と称する私が指導を受ける少女たちよりも下手な投球ぶりをするのを見て、何と思つたか、私は知らぬ。それきり私は籠球部をよし、再びその校門をくぐることもなかつた。そのことを想ひだしながら、私は坂を登つた。
登り詰めたところは路地である。路地を突き抜けて、南へ折れると四天王寺、北へ折れると生国魂神社、神社と仏閣を結ぶこの往来にはさすがに伝統の匂ひが黴のやうに漂うて仏師の店の「作家」とのみ書いた浮彫の看板も依怙地なまでにここでは似合ひ、不思議に移り変りの尠い町であることが、十年振りの私の眼にもうなづけた。北へ折れてガタロ横町の方へ行く片影の途上、寺も家も木も昔のままにそこにあり、町の容子がすこしも昔と変つてゐないのを私は喜んだが、しかし家の軒が一斉に低くなつてゐるやうに思はれて、ふと架空の町を歩いてゐるやうな気もした。しかしこれは、私の背丈がもう昔のままでなくなつてゐるせゐであらう。
下駄屋の隣に薬屋があつた。薬屋の隣に風呂屋があつた。風呂屋の隣に床屋があつた。床屋の隣に仏壇屋があつた。仏壇屋の隣に桶屋があつた。桶屋の隣に標札屋があつた。標札屋の隣に……(と見て行つて、私はおやと思つた。)本屋はもうなかつたのである。
善書堂といふ本屋であつた。「少年倶楽部」や「蟻の塔」を愛読し、熱心なその投書家であつた私は、それらの雑誌の発売日が近づくと、私の応募した笑話が活字になつてゐるかどうかをたしかめるために、日に二度も三度もその本屋へ足を運んだものである。善書堂は古本や貸本も扱つてゐて、立川文庫もあつた。尋常六年生の私が国木田独歩の「正直者」や森田草平の「煤煙」や有島武郎の「カインの末裔」などを読み耽つて、危く中学校へ入り損ねたのも、ここの書棚を漁つたせゐであつた。
その善書堂が今はもうなくなつてゐるのである。主人は鼻の大きな人であつた。古本を売る時の私は、その鼻の大きさが随分気になつたものだと想ひ出しながら、今は「矢野名曲堂」といふ看板の掛つてゐるかつての善書堂の軒先に佇んでゐると、隣の標札屋の老人が、三十年一日の如く標札を書いてゐた手をやめて、じろりとこちらを見た。そのイボの多い顔に見覚えがある。私は挨拶しようと思つて近寄つて行つたが、その老人は私に気づかず、そして何思つたか眼鏡を外すと、すつと奥へひつこんでしまつた。私はすかされた想ひをもて余し、ふと矢野名曲堂へはいつて見ようと思つた。区役所へ出頭する時刻には、まだ少し間があつた。
店の中は薄暗かつた。白昼の往来の明るさからいきなり変つたその暗さに私はまごついて、覚束ない視線を泳がせたが、壁に掛つたベートーベンのデスマスクと船の浮袋だけはどちらも白いだけにすぐそれと判つた。古い名曲レコードの売買や交換を専門にやつてゐるらしい店の壁に船の浮袋はをかしいと思つたが、それよりも私はやがて出て来た主人の顔に注意した。はじめははつきり見えなかつたが、だんだんに視力が恢復して来ると、おや、どこかで見た顔だと思つた。しかし、どこで見たかは思ひ出せなかつた。鼻はそんなに大きくなく、勿論もとの善書堂の主人ではなかつた。その代り、唇が分厚く大きくて、その唇を金魚のやうにパクパクさせてものをいふ癖があるのを見て、徳川夢声に似てゐるとふと思つたが、しかし、どこかの銭湯の番台で見たことがあるやうにも思はれた。年は五十を過ぎてゐるらしく、いづれにしても、名曲堂などといふハイカラな商売にふさはしい主人には見えなかつた。さういへば、だいいち店そのものもその町にふさはしくない。もつとも、区役所へ行く途中、故郷の白昼の町でしんねりむつつり音楽を聴くといふのも何かチグハグであらう。しかし、私はその主人に向つて、いきなり善書堂のことや町のことなどを話しかける気もべつだん起らなかつたので、黙つて何枚かのレコードを聴いた。かつて少年倶楽部から笑話の景品に二十四穴のハモニカを貰ひ、それが機縁となつて中学校へはいるとラムネ倶楽部といふハモニカ研究会に籍を置いて、大いに音楽に傾倒したことなど想ひ出しながら、聴き終ると、咽喉が乾いたので私は水を所望し、はい只今と主人がひつこんだ隙に、懐中から財布をとりだしてひそかに中を覗いた。主人はすぐ出て来て、コップを置く前に、素早く台の上を拭いた。
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