イリヤがペラペラしゃべってしまうのに、法水は少からず驚いたが、何となく先手をうたれる気がして、この女は単純なようで案外莫迦(ばか)じゃないぞ――と思った。イリヤは続けて、
「姉と父の争いが一番激しかったのは、夕方五時頃のことでした。霙(みぞれ)が横殴りに吹き込んで来るのに、姉は振綱の下で満身に雪を浴びながら、いつまでも黙って父の顔を睨み付けているのです。それは物凄い形相でしたわ。」
「するとこれが、踏み躙(にじ)った婚礼の象徴(シンボル)なんですね。」法水はポケットから泥塗れに潰(つぶ)れた白薔薇(しろばら)を取り出して、「たぶん姉さんのでしょうが、この髪飾りが、振綱の下から五寸程のところに引っかかっていたのです。しかし、そう判れば、もうこれには用はありません。」と床に抛(ほう)り出してから、「だが妙ですな。嫌いでなければ結婚してもいいでしょうがね。」
「それは、真実(ほんとう)のことを云いますと、」イリヤはポウと頬を染めて、「私がルキーンを好いているのを知っているからでしょう。旧露字体(ヤッチ)のシラノは僧院の中から出て来るのですわ。」
「なるほど、面白い観察ですね。では、今度は階段の方を説明して下さい。」
それから。調査が階段の外壁にある回転窓に移ると、熊城は、窓硝子の中央に太い朱線が横に一本引かれてあるのを見て、
「なるほど、この壁燈が点け放しになっていたのをルキーンは不審がったと云うけれども、その理由はたしかこの朱線にある。しかし、これがどうして外から見えねばならなかったのか?」
法水は窓枠の埃(ほこり)をスイと撫でて、
「半分しか開かない!、 金具が錆びついているところを見ると、永らく開かれなかったと見えるな。それからイリヤさん、窓の下に引き込んである動力線らしいのは?」
その太い二本の電線は、正門の側にある電柱まで一直線に伸びていて、その上には氷結した雪が載っていない。イリヤはその周囲全部に渉って説明を始めた。
「ええ、パイプ風琴(オルガン)があった頃の動力線なんです。それから、窓の上に三尺ばかりの鉄管が、電線と並行に突き出ていますでしょう。以前は式日になると、あれにロマノフ旗を結びつけたそうです。また、鉄管に絡んでいる裸線は、私のラジオのアンテナですわ。いつだったか、陸軍飛行機の報告筒が鐘楼の屋根に落ちたことがありまして、その時塔に上った兵隊さんに頼んで、先を十字架に引っ掛けて貰ったのです。サア、これだけ判ったら、私を放免して、姉さんの看病をさせてちょうだい。」
鐘楼に戻ると、堂内担当の係員から報告がもたらされたが、それは――。両人の身体検査をしても芥子粒程の血痕さえ付着していないこと。振綱にも期待された着衣の繊維が発見されなかったこと。それから、礼拝堂の聖壇の下に間道が発見されたが、それには使った形跡がないばかりでなく、途中がまったく崩壊していて通行が絶対に不可能な事。そして最後に、指紋の無効果と、円蓋(ドーム)には烈風と傾斜とで霙(みぞれ)の堆積がないこと――などで、すべてが空しかった。
「鐘は曲芸的(アクロバチック)な鳴り方をするし、とうとう犯人の脱出した径路が判らなくなってしまった。それに、短剣を下から投げ上げたにしたところで、五尺とない塔の狭間(はざま)のどこかに打衝(ぶつ)かってしまうぜ。」検事は落胆(がっかり)した態で呟いたが、法水にぜひ訊かねばならないものがあった。
「さっき君はなぜ、ジナイーダが聴いた跫音にラザレフを想像したのだね。」
法水の瞳がチカッと光ったが、彼は冴えない声を出した。
「それは、死体の左腕が内側に湾曲(まが)っていたからだよ。歩けるところを見ると、かなり軽度なもので、おそらく発病が眩暈(めまい)を起した程度だったろうが、ラザレフの左半身は中風性麻痺に罹(かか)っていて、それがほとんど軽快に近い症状だったのだ。麻痺が薄らいでいたと云う証拠には、腕が内側に捻(ねじ)れて指先が鉤(かぎ)形になっている。また、そう云う時には、肢(あし)を曲げるのに困難を覚えるので、あの跫音をそれと想像させた環状歩行が起って来るのだ。つまり、不自由な方の足を、趾(ゆび)先がガクッとならないように足掌(あしのひら)を斜めにして、内側から外方にかけて弧線を描きながら運ぶからだよ。すると、健康な脚を運んだ時しか音が立たないから、二足運んでも跫音は一つしか聴えない。だから、それに似た調子が連続して聴えたとしたら、当然ラザレフを想像するほかにないだろう。」
ラザレフの左半身不髄であると云うことより、法水の理路整然たる推論に驚かされたが、
「なるほど、」と熊城は深く頤(あご)を引いて、「すると、振綱に瓦斯管が挾んである理由が判ったよ。半身のあまり自由でないラザレフは、あれに足を掛けて引く力を助けるのだ。」
「ウン、ところが熊城君、僕がズバリと云い当てたばかりに思いがけない収穫があったのだよ。」と法水の顔に紅潮(あかみ)が差して来た。「あの時ジナイーダの外見(みかけ)はすこぶる冷静だったけれども、内心ではそれが異常な衝動(ショック)だったのだ。もっともわれわれの心理には、ちょっとした恐怖を覚えると、ごくつまらないところで嘘を吐(つ)いてしまうものだが、とにかくどうであるにしろ、あの天使のような女の陳述の中に、一つ虚構の事実があったのだ。ねえ熊城君、ジナイーダはたしか自分のいた修道院がトラヴィスト派だと云ったね。しかし、真実(ほんとう)は、刷新カルメル教会派なんだぜ。」
「カルメル教会派って?」
「例の裸足(はだし)の尼僧団のことさ。裸足の上に、夏冬ともセルの服一枚で過し、板の上に眠るばかりか、絶対菜食で、昔は一年のうち八ヶ月は断食すると云う、驚くべき苦行が教則だったとか云う話だがねえ。」
「だが、どうしてそれが判ったね?」
「と云うのは、僕がさっき、自分の心霊を一つの花園と考え、そこに主が歩みたもうと想像するこそ楽しからずや[#「自分の心霊を一つの花園と考え、そこに主が歩みたもうと想像するこそ楽しからずや」に傍点]――と云ったっけね。その時ジナイーダは確かに驚いたらしい。無論僕のつもりでは、それを一つの脅迫的な比喩(ひゆ)として使ったに過ぎないのだが、しかしジナイーダを驚かせたのは、自分が犯人に擬せられたのを悟ったからではない。元来犯罪者と云うものは、そう云う点には予(あらかじ)め用意があるものだからね。では、なぜかと云うと、その一句の文章と云うのが、自身の不思議な夢幻状態を語った、カルメル派の創始者聖テレザの言葉だからだよ。西班牙(スペイン)の女はカルメンだけと思っちゃ間違いだぜ。その昔、神秘神学の一派を率いて、物体浮揚(レヴィテーション)や両所存在(ビロケーション)まで行ったと云う偉大な神秘家がいたのだ。それにもう一つ――これはまず日本に五百人と馴染(なじみ)のない顔だけど、聖テレザの後継者と呼ばれる僧モリノスの画像が、寝台の横手の壁にかかっていたからだよ。」
「そう云えば、確かに中世紀の修道僧らしい画像があったよ。」検事が合槌をうつと、
「ウン、そこでだ。ジナイーダが童貞女生活のうちに、どの程度までこの一派の修道を積んだか? また、なぜ嘘を云わねばならなかったか?――判らないけれども、」と云いかけて、法水は俄然厳粛な表情になった。「とにかく、ただ一人虚偽の陳述をしたと云う点だけでも、あの女が一番犯人に近いと云えるね。」
熊城はびっくりして叫んだ。
「冗談じゃない。君は鍵のことを忘れてしまったのか。」
「それがさ。ここの扉口(とぐち)は回転窓もないし、下に隙もない。けれども、糸で鍵を操る術はヴァンダインの『ケンネル殺人事件』だけでつきちゃいないよ。君、お化け結びと云う結び方を知ってるだろう――一方の糸は喰い込む一方だが、片方のを引くと、スルリと解けてしまうのを。マア、実験すれば判ることだ。」
法水は鍵の輪形をお化け結び[#「お化け結び」に傍点]で結んで、ラザレフの室の扉の前に立った。
「憶えておき給え。最初に鍵を差し込んで、もう一捻(ひとひね)りで棧が飛び出すと云う瀬戸際まで捻っておくんだ。そして、片方の糸を――解けない方だよ――把手(ノッブ)の角軸に結びつけないで二回り程絡(から)めておいて、間をピインと張らせておく。それから、片方引くと解ける方のを鍵穴から潜(くぐ)らせて、それには幾分弛(たる)みを持たせておくんだ。無論鍵の押金が上へ向いていればこそ、可能な話なんだよ。そこで、扉の内側に入って把手を廻すと、この通り糸が鍵を引いて回転させるので掛金は下りるが、鍵の押金は下へ降り切らずに中途で糸に支えられる。で、その次に、鍵穴を通った糸を引くんだ。無論鍵の輪形の結び目が解けるから、それから把手を何度も回転して、角軸に絡めたのを弛(ゆる)めながら糸を引けば、どうだい、スルスル中へ入ってしまうだろう。そして、鍵の押金が垂直になって痕が残らないんだ。」
しかし、法水は弛んだ顔で扉を開いた。
「ところが、鐘声があるので、この思いつきだけで事件を終らせてしまうわけにはいかないのさ。構内に足跡がないと云うことは結局(とどのつまり)犯人が堂内にあり――と云う暗示なんだがね。」
検事と熊城はややしばし放心の態であったが、やがて熊城は階下へ降りて行き、二人の捕虜に対する訊問を終って来た。
「ルキーンの奴は、イリヤの話は全部それに違いないと云うのだが、行くふりをした豪徳寺行だけは、飽くまで頑張り通している――なんてヘマな不在証明(アリバイ)じゃないか。それから、ワシレンコは一種の志士業者で、右翼団体の天竜会が養っているそうだが、ひどい結核患者で見る影もないよ。あいつは昨夜ジナイーダが結婚すると云う噂に亢奮して、終夜(よっぴて)この周囲(ぐるり)を彷徨(うろつ)き歩いていたと云うのだがね。しかし、あの男は犯人じゃない。」そう云って、熊城は脂(やに)で染った指先をピチリと鳴らした。
「ねえ法水君、風が烈(はげ)しかったのと傾斜とで、円蓋に霙が積っていない。だが、円蓋に足跡のないことが、かえって想像を自由にしてくれる。そして、なんだか犯人の目星がつきそうなんだよ。それから、鐘の鳴った原因もさ。」
「そりゃ奇抜だ。」法水は猛烈に皮肉った。「すると、君はどう云う方法で、鐘にああ云う不思議な鳴り方をさせるんだ? それに、第一犯人の特徴を備えた人物が、現在知られているうちにはないはずだぜ。」
三
「冗談じゃない。ルキーン以外に犯人があるもんか。」熊城の声が思わず高くなった。「死体の謎も、六呎(フィート)と三呎半の差をいかに除くかによって解決されるんだ。」
「ホホウ、と云うと、」
「それは、構内に足跡がないからだよ。と云って、犯人を姉妹の中に想像することは、鐘声が明確な反証を挙げているのだからね。結局、犯人は霙の降りやんだ二時頃にはすでに堂内にいて、兇行を終えてから、地上に踵(かかと)を触れず遁(のが)れ去ったと観察するほかにない。その際は鐘が鳴ったことは云うまでもないが、しかし、脱出の径路はすこぶる単純なんだよ。まず振綱に攀(よ)じ登ってから塔の窓に出て、そこで兇器を裏門の方へ投げ捨ててから、架空線(アンテナ)を伝わって円蓋(ドーム)を下り、そして、回転窓の下に引き込まれてある動力線に吊(つ)り下って、スルスル猿みたいに構外へ出てしまったのだ。ところで、何が僕にそう云う推定をさせたかと云うに、第一が動力線に霙の氷結がないことで、次が振綱に刺さっていた白薔薇だ。――あれは、ルキーンが拾ってそれでジナイーダの移香を偲(しの)んでいたものが、綱を登る際に何かの拍子で移ったのだよ。それからもう一つは、そう云う離業(はなれわざ)を演(や)って退(の)けられる膂力(りょりょく)と習練を備えた人物が、現在この事件の登場人物のうちにあるからだ。三丈もある綱を軽々と登れるばかりでなく、動力線を猿渡(さるわた)りする場合に、もし普通人程度の膂力と体重だとすれば、引込個所や電柱上の接合部分に、相当眼にとどまる程度の損傷が現われるだろう! おそらく一町以上の距離は容易に渡り切れぬだろうと思うね。そうなると、人並優れた腕力とそれに反比例する小児程度の体重[#「人並優れた腕力とそれに反比例する小児程度の体重」に傍点]――と云う至極難条件が、ルキーンによってやすやすと解決されるのだよ。しかも、綱に織物の繊維が残っていないと云うことが、かえって防水服で固めたルキーンを、逆説的に証明することになるだろう。」
検事は呆(あき)れたように熊城を瞶(みつ)めていたが、
「そんなことなら、わざわざ君に聴くまでもないぜ。楽な解釈に有頂天になってしまって、君は鐘の機械装置を忘れてしまったのだ。」
しかし、その時はまだ熊城の解釈以上に、鐘声の怪を実務的に説明するものがなかったのだ。
「マア、聴き給え。いま綱の振動で鐘が鳴ったと云ったけれども、それは、あの不可解な鳴り方をした時を指して云うのではない。それ以前にあったのだ。つまり、時刻はずれに鐘の鳴ったのが二度あったのだよ。その二度目の時が君達始め姉妹の耳に入ったので、最初脱出の時のは、おそらく聴えぬ程度の弱音だったに違いない。なぜなら、ルキーン程度の腕力を備えた人物だと、尺蠖(しゃくとりむし)みたいな伸縮をしなくても、最初グッと一杯に引いて鐘を一方に傾けておき、その位置が戻らぬように腕だけを使って登ることが出来るだろうからね。そうすると、始めと終りの二度だけ、ガチャリとかすかに打衝(ぶっつか)る音しか立たんわけだよ。」
「すると、君の云う二度目の鐘は。」
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