「ところで、鐘の音をお聴きになったでしょうな。」
「ところが、それ以前に気味の悪いできごとがございまして。四時半頃眼が醒めると、階段の壁燈が点(とも)っているのです。父は御存知の通りなので、ルキーンが戻ったかなとも思いましたが、来れば鳴子が鳴るはずです。しかし、大して気にも留めずにいたところが、間もなくこの室の扉の前辺から離れて、コトリコトリと遠ざかって行く跫音(あしおと)が、鐘楼に起りました。」
「それには、何か特徴がありましたか?」
「それが、通例の歩き方で二歩のところが一歩と云う具合で、非常に一足ごとの間が遠いのです。何か考えながら歩いているようでした。」
「すると、妙なことになりそうですね。」そう云って法水は黙考に沈んだ。が、やがて顔を上げた時には、顔色が死人さながらに蒼(あお)ざめていた。「確かあなたは、お父さんの亡霊が歩いていたと云われるのでしょう。ですが、その一時間も前に、絶命が医学的に証明されているのですよ。」
まさに、心臓が一時に凝縮したと云う感じだった。それより、一体どこに推定の根拠があるのか?――法水の意外な言葉に、周囲(ぐるり)の人々はいっせいに驚かされた。が、ジナイーダだけは水のように静かだった。
「医学的にどうこうは、問題ではございません。この世界は、計り知れない神秘な暗号と象徴に充ちているのですから。私は、正しくそれが父だと信じております[#「正しくそれが父だと信じております」に傍点]。しかも、その音は非常に明瞭(はっきり)しておりまして、聴き誤まる惧(おそ)れは毛頭もなかったのです。またたとえそれが、肉体の耳では聴えぬ消された音であったにしても、必ずや私には、異ならない啓示となって現われたに違いございません。」
なんたる厳粛さであろう!?[#「!?」は一文字、面区点番号1-8-78] 法水もそれに酬(むく)いるかのよう、沈痛な声音で応じた。
「なるほど。しかし、ハインリッヒ・ゾイゼ(十三世紀独逸(ドイツ)の有名な神学者)がしばしば見た耶蘇(イエス)の幻像と云うのは、その源が親しく凝視(みつ)めていた聖画にあったと云いますがね。それに、誰やらこう云う言葉を云ったじゃありませんか。――自分の心霊を一つの花園と考え、そこに主が歩みたもうと想像するこそ楽しからずや[#「自分の心霊を一つの花園と考え、そこに主が歩みたもうと想像するこそ楽しからずや」に傍点]――とね。」
最後の一句が終らぬうちに、ジナイーダの総身に細かい顫動(せんどう)が戦(おのの)いた。が、次の瞬間、彼女はカラカラと哄笑(たかわらっ)って、「これは驚きましたわね。私を犯人に御想像なさるとは恐縮ですわ。私達が現在父からどんな酷(ひど)い目にあわされていようと、孤児院から救ってくれた大恩を考えれば、そんなことなんでもないことですわ。この点をとくと御記憶下さいまし。それに、もう一つ法水さん、永い間費(かか)って自然科学が征服したものと云うのが、カバラ教や印度(インド)の瑜伽(ユカ)派の魔術だけに過ぎないと云うこともね……」
法水は、神学(セオロジイ)との観念上の対立以外に、嘲笑を浴びたような気がしたが、ジナイーダは相手の沈黙を流眄(ながしめ)に見て、いよいよ冷静に語(ことば)を続ける。
「で、ともかく洋燈(ランプ)を点して、覗(のぞ)こうと致しますと、外側から鍵を下したと見えて、扉はビクとも致しません。そこで妹を起しましたが、二人とも恐怖のために、梯子を上って洋燈を消しに行くことさえ出来なかったのです。すると、そのうち程なく鐘が鳴り始めました。」
「それが妙なんですわ。」イリヤが口を挾んだ。「最初にゴーンゴーンと大鐘が鳴り出して、それから小鐘が始まったのですから。」
「エッ、なんですって!?[#「!?」は一文字、面区点番号1-8-78]」法水は一度で血の気を失ってしまった。ところが、ジナイーダも口を添えて、イリヤの前言を繰り返すのだった。
それこそ、文字通りの鬼気であろう。鳴鐘の機械装置はいかなる方法によっても、そう云う顛倒(てんとう)した鳴り方を許さぬのである。大体法水にしろ、鐘の鳴った原因を犯人の行動の一部に結びつければ、この事件には芥子粒(けしつぶ)程の怪奇もないと信じていた矢先に、イリヤの一言はたちどころに推理の論理的な進行を破壊してしまった。検事もブルッと身慄(みぶる)いして、
「そう云えば、たしかにそうだったよ。僕は大変なところをうっかりしていたもんだ。」
法水は堪らなくなったように扉の外に飛び出して、何度も鐘を振り仰いでいたが、それを見て、拡大鏡を振り廻していた一人の刑事が側に寄って来た。
「法水先生、鐘ですか? しかしあの大鐘は今も上って見たところですが、二三人かかって手で押したくらいでは、歯車があるのでビクともしませんぜ。また、内部の振錘(ふりこ)を手で動かしたにしたところで、音だけは妙に詰ったような鳴り方をしますが、肝腎(かんじん)の鐘が動かないのですから、振動を上の小鐘に伝えることが出来ないのです。」
「なるほど、すると、鐘を傾けるのは、振綱以外にないと云うのだね。いや有難う。」
法水はふたたび姉妹の室に戻ったが、こうして鐘の性能いっさいを知り尽してしまうと、もうこの上、鐘声の不思議を科学的に考察する余地はないと思った。第一それより、なにゆえ鳴らされねばならなかったか?――が判らなくなってしまった。それがもし犯人だとすれば、どうして自分自身の存在を曝(さら)け出すような危険を冒してまで、あえてする必要があったのだろうか?(それに安易(イージー)な解釈法を当てると、鐘が鳴った時、下の鐘楼には死体のほか誰一人いなかったと云う結論になってしまうのだ。)しかし死体になったはずのラザレフが歩いていたと云うジナイーダの言を考えると、肉体を離れた執拗な魂魄――ある種の動物磁気にすこぶる鋭敏だと云う説であるが――それを操って、跫音(あしおと)を現わし一方では、鐘を奇蹟的に動かした、一人の神現術者(セオソフィスト)が存在するのではないかとも思われる。だが、そう考えることは、彼にとってこの上もない屈辱だったのだ。やがて、法水は今までにない緊張をこめてジナイーダに問いを発したが、その内容は雑談以上のものとは思われなかった。
「時に妙な質問ですが、貴女(あなた)がいられた修道院と云うのは?」
「ハア、ビーンロセルフスクにありましたが、」
「すると、何派ですか。」
「トラヴィストでございます。」
「ああ、トラヴィスト。」それだけで法水の言葉がブッツリ杜絶(とぎ)れたが、その後数秒に渉(わた)って、二人の間に凄愴(せいそう)な黙闘が交されているように思われた。しかし、その時鑑識課員が姉妹の指紋を採りに入ってきたので、偶然緊迫した空気が解(ほぐ)れて、一同はやっと一息吐(つ)くことが出来たのである。
その間、法水は側の置洋燈(ランプ)を調べていたが、偶然注目すべき発見にぶつかった。そのナデコフ型置洋燈と云うのは、電燈普及以前露西亜(ロシア)の上流家庭に流行(はや)ったもので、芯(しん)の加減捻子(ねじ)がある部分にそれがなく、そこが普通型のものより遙かに大きく小大鼓形をしている。そして、鎧扉(よろいど)式に十数条の縦窓が開くようになっていて、そこから外気が入ると、上方の熱い空気との間に気流が起って、それが中央の筒にある弁を押して回転させ、徐々に芯を押し出すのである。しかし、法水に固唾(かたず)を呑ませたものは、この装置ではなく、安手の襟飾(ネクタイ)を継ぎ合せて貼ってある、台の底だった。彼が何の気なしにそれを剥がして見ると、内側の洋皮紙に――イワン・トドロイッチよりニコライ・ニコラエヴィッチ大公に贈る――と認められてあった。それを肩越しに見て、一人の外事課員が驚いたように云った。
「これですよ――四年程前巴里(パリー)警察本部から移牒のありましたのは。大公の死後に、手ずから書かれた備品目録の中から、カライクの宝冠と皇帝(ツァール)の侍従長トドロイッチから贈られたこの置洋燈が紛失しているのです。」
「道理で、昼間はこれを寝台の下に隠すように、厳しく云いつけられておりました。父なら盗み兼ねませんわ。」ジナイーダが恥入ったように嘆息するのを、熊城は得たり顔に頷いた。
「いずれ劇的(ドラマチック)な秘密のあることだろうがね。とにかく動機としての資格は充分にある。だけど法水君、そうなると、一人殺すも三人殺すも同じことになるがね。それだのに、どうして外側から下した鍵をそのままにして逃げ出したのだろう。」
「それが判れば犯人の目星がつくぜ。だが僕の想像するところでは、その原因が床の採光窓(あかりとり)だろうと思うね。ここから外壁の回転窓が見えるのだから、あれがちょうど階段の天井に当っているのだよ。だから、姉妹の誰か一人が金網をはずして硝子(ガラス)を踏み抜きさえすれば、犯人が迂回して窓の下に着く頃には、充分戸外へ飛び出してしまうことが出来る。つまり、明敏な犯人はそう云う危険な条件を悟って、昨夜は障碍(しょうがい)を一つ除いたのみに止めておき、さらに次の機会を狙うことにしたのだろうと思うね。」
それから、法水はふたたびジナイーダに、
「ところで、鍵ですが、」と訊ねた。
「鍵は、父の室と兼用のものが一つしかないのです。そして、いつも父の室の花瓶の中に入れておくことに致しておりますが、どちらにも、夜分鍵を下す習慣はございません。とにかく、跫音と鐘声以外には、何も私達に触れたものがなかったことを御承知下さいまし。」
が、そう云い終ると同時に、突然ジナイーダはかすかな呻声(うめきごえ)を発してクラクラと蹌踉(よろめ)いた。法水は危く横様(よこざま)に支えたが、額からネットリした汗が筋を引いて、顔面は蝋黄色を呈している。それがなんとなく、抗争する気力のまったく尽き果てた――犯罪者として最も惨(みじ)めな姿のように思われるのであるが……!?[#「!?」は一文字、面区点番号1-8-78]
脳貧血を起したジナイーダを寝台に横たえてから、法水はイリヤを伴って鐘楼に出たが、その時S署員が、六時頃聖堂と十五六町程隔った地点で非常線に引っかかったと云う、三十がらみの露人を同行した旨を伝えて来た。デミアン・ワシレンコと云う名を聴くと、
「あ、とうとう、」とイリヤがルキーンと同じ言葉を呟いた。
「あの人は姉さんには大変な逆上(のぼ)せ方なんですから。でも、姉さんと云う人は、人間の一番人間らしいところにはてんで興味がないのですから、一寸法師でも綺麗なワシレンコでも、同じものにしか見えないでしょうよ。」
「すると、ワシレンコは姉さんの愛人ではないのですね。」
「それどころですか、」イリヤはちょっと蓮葉(はすっぱ)な云い方をして、「姉さんはルキーンが一番好きだと云っているくらいですわ。ですから、昨夜ルキーンとの結婚を拒んだのも、私には父に対する面当(つらあて)としか思われません。実は昨夜こうなんです。――父が姉の花婿にルキーンを選んだのは、そもそも一寸法師の貯金が目当だったからです。そして、内々でかなり貰っていたらしいのですが、姉にそれを打ち明けたのがつい一昨日(おととい)の話で、それから二日の間執拗(しつこ)く付き纏(まと)って、結婚の実行を迫るのでした。けれども、姉は何と云われても一言も口をきかず、頑強に拒み続けて、父と争いながら夜になりました。すると、娘の飜心を絶望と見た父は、にわかに態度を変えて今度はルキーンに法外な金を要求するのです。無論二人の間に激論が沸騰して、一時はどうなるかと危ぶまれましたけども、折よくその場にルキーン宛の電報が舞い込んで来たので、それが、一時だけですが、危機を防ぎ止めてくれたのでした。」
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