晦冥国大油層
魔境からの女、やはり「大地軸孔」のしたには住民がいるのか。暗黒中の生活はどういうものだろう、どんな文明をもち、どういう衣食住をし、あの一生陽の目をみない大暗谷[#「大暗谷」は底本では「大暗黒」]にいるのか と、まだ夢を追うような醒めやらぬ気持のなかで、折竹はつくねんと考えていたのだ。
しかし気が付くと、どうやらこれが眉唾のもののようにも思われてくる。「大地軸孔」のしたの晦冥国の女なんて、どうもこりゃ芝居がすぎるようだ。きっと、その女を躍らしている闇の手があるのだろう。と、思うが見当も付かない。結局、ザチのことは半信半疑に過ぎてゆくのだった。とその時、部屋付女中が窺うような目をして、
「あの方を、ほんとに旦那さまは、ご存知ないのですか」
「知らんねえ、一向イランやあの辺の人には、近付きがないからね」
「そう、じゃ私、勘違いしてたのかしら……」
「どんな事だ」
「じつは、私、こう考えていたんですの。どこか、近東の古いお寺から、旦那さまが宝物をお盗みになった。その跡を蹤けてはるばるあの方が、『月長石』のように追ってきたんじゃないかしら……。宝物を返せ、さもなくば殺してしまうぞ――って、いま、旦那さまは嚇されてるんじゃない ホホホホホホ、お怒りになっちゃあたくし、困りますわ」
こんな冗談から、なにか引きだそうとする部屋付女中の態度も、折竹には不愉快な一つだ。しかし彼は、なぜ「大地軸孔」ゆきを断念したのだろう。こういう、英官辺の厭がらせのためか……それとも真実「大地軸孔」は征服不可能なのか。いや、彼のゆくところ砕けざる魔境はない。では、それはどういう理由だろう。
――探検とは、国という砲身のはなつ弾丸なり。
この言葉を、彼は忘れていたわけではないけれど、いまロンドンにいてイギリス人の生活をみていると、しみじみその言葉が胸うつように響いてくるのだ。いまイギリス人は、わずかを働いて多くをとっている――その、余裕綽々ぶりはなにに由来する インド、濠州、南阿、カナダ――みな一、二世紀まえの探検の成果だ。
するとじぶんに、民族の血をとおしてした探検があったろうか。時代がちがうとはいえ最小の効果でも、国にたむける意味の探検があったろうか。文化の貢献者という美名にあこがれて、ただそれだけのために働いていたのではないか。と思うと、泣きたいような気持になる。これまで彼がしたすべての事が、いまは些細な塵のようにしか見えなくなったのだ。もう、大地軸孔へ行く気力などはない。
まして、独逸航空会社は純文化的意味だというけれど、この「大地軸孔」探検はそんなものではないらしい。近東空路を、はるばるアフガニスタンの首府カブールまで伸ばしてきた、独逸航空会社には一層の野心があるのだろう。英ソの緩衝地帯である「大地軸孔」一帯を精査して、ナチスの楔を南新疆にうちこもうというのではないか。また一方、この探検が成功すれば利益を得るものに、対印新攻撃路をにぎれるソ連がある。いずれにしろ、これは他国を益するにすぎない。ご免だ。くだらん英雄になってお先棒に使われるよりは、暫く故国へ帰って、ゆっくりと休もう。と、彼はついに参加を思い止まったのである。
窓をあけた。近ごろは、こうして窓をあけ往来をながめることが、彼には習慣のようになっている。ザチ――。あの「大地軸孔」の女と称する神秘的な婦人が、もしや彼に会おうとして、うろついていやしないだろうか。会いたくはない。が、どんな婦人だか、一目だけみたい。いまは、彼の脳裡からとり去ることが出来なくなったほど、ザチのことは強烈なものになっている。
(事実、「大地軸孔」のしたには、住民がいるのだろうか。いや、あの女はまやかし者にちがいない。じぶんに、「大地軸孔」攻撃の興味を湧かさせようと、あるいはソ連からでも仕立てられて来たのではないか。G・P・U女――。マア、底を洗えば、そんなところだろうが)
土を守る、探検を妨害する――なんぞといいながら逆効果をねらい、かえって「大地軸孔」へじぶんを惹きよせようとする。きっと、ザチはソ連の女だろう、と、折竹はそういうように考えていた。しかし、どこにもザチらしい婦人はいない。ただ、テムズを越えてみえるバタッシー公園の新芽の色が、四月はじめの狭霧にけむり、縹渺として美しい。
翌朝は、ロンドンの郊外クロイドンの飛行場。アームストロング・ウィットウァース機の車輪一度地をはなれれば、鵬翼欧亜の空を駆り日本へと近付いてゆく。が、まず彼は事務所にいって、同乗の旅客表をしらべたのである。しかし、ザチの名はなかったのだ。
「たいていは、アラビアオーマン国の王子ご新婚式に出むかれる、新聞社の方々や外交関係でございます」と、折竹に旅客掛りが説明をする。
「ご婦人 それはお一人ですが、ハッキング卿夫人で。いいえ、外国の方は貴方さまばかりで……」
やがて、機はふんわりと空中に浮び、朝の湿気のもとに広茫とひろがっているクロイドンは、はや見えずになってしまった。左様なら、また、信念を充すものがくるまで、探検よさらば。と、翌夜捲きこまれる奇怪な運命があるのも知らず、彼は胸をくもらせ、無限の感慨にひたっていたのだ。やがてパリ、イタリアのブリンディッシ、アテネ、アレキサンドリア。
翌日は、バグダット、バスラを過ぎアラビヤ半島の突角にある“Sharjah”へ着いたのが深更の二時。荒い城壁にかこまれた、沙漠中の空港。すると、機体を下りたった彼のそばへ、歩み寄ってきた男がいる。まず、その男は慇懃な礼をして、
「ポルトガルの御使節、エスピノーザ閣下にいらせられましょう」
「へえっ」
と彼はびっくりして、叫んだ。
「日本人だ。いくら、日本と葡萄牙人が似ているからって、間違うにもほどがある。まして、俺は閣下じゃない」
「ご冗談を」
とその男は引きさがる気配がない。
「オーマンの、華の御儀へご参加になるエスピノーザ閣下であることは、手前よく存じております。また、お気さくの方で下々のことまで、よくおわきまえでいらっしゃる事も……」
「ハッハッハッハ、上にも下にも、下情しかしらん男だよ」
となんだか折竹も面白くなってきたところへ、とつぜん彼の咽喉がぐびっと鳴り、顔の表情が凍てついたようになってしまった。銃口が、彼の下腹部にぴたりと付けられている。
「これが、エスピノーザ閣下を遇する方法かね」
さすが、折竹の声は顫えもせずに、発せられる。そうして、眼前の男をつくづくながめると、それは狐のような顔をしたイギリス人。さてはと、彼は何事かを覚ったのである。そこへ、その男が圧するような声で、
「折竹さん、一言ご注意しておきますが、われわれには力がある。どうです、ここで荒らだって、からだを失くしますかね。イギリス保護領のこの空港には、いたる所に銃口が伏さっている。マア、暫くご辛抱願いましょう」
アラビヤ兵の白衣が点々とみえていたのが、眼隠しをされ、まっ暗になる。男は、彼を自動車にのせ、一時間ばかり運んでいった。やがて、家らしいものに着くと、眼隠しをとられる。彼のまえには顎骨のふとい、大きな男がぬうっと立っているのだ。五十ばかりでほとんど表情がない。それが却って、悚めるような凄味。
「儂は、ある任務の男で、セルカークといいます。今夜は、あなたとは大変不本意な会見で……」
「驚いたですよ。マア、大抵なところでご大赦に願いたいですな」
といまは度胸もすっかりすわった折竹は、臆す色もなく生洒々として、
「時に、ここは何というところで……」
「なるほど」
とセルカークは冷酷そうな笑いをうかべ、
「ご自分の、墓になる所だけはご存知なくてはなりますまい。ジェベル・カスルン。付近には製油所があります」
それなり、暫くはなんの声もなかったのである。夜の沙漠の冷々としたなかで、にぶい灯りが二人を照らしている。ちょっと、折竹のからだが顫えたようにみえた。墓―― なん度胸に問うてもおなじ意味の答えを、彼はぼんやりと味わっていた。死ぬ、そうとすれば、どんな理由で……。
「とにかく、危険な存在は殺らにゃなりませんでな。あなたは、アフガニスタンのダワダール[#「ダワダール」は底本では「クワダール」]で降りて、『大地軸孔』へゆくつもり……ねえ」
「いや、大変なちがいだ。このまま僕は、ずうっと本国へ帰る」
「ハッハッハッハッ、こっちでそう信じている以上、釈明は要りません。つまり、あなたをあの『大地軸孔』へは遣りたくない――その意味はお分りだろうと思います。あの辺のすべてが不明であるということが、わがインドの貴重な守りになっている。しかし、もし貴方がゆけば、どうなるか分らない。ヒルト博士らのほかの人たちはとにかく、こっちは、貴方一人の超人力をおそれている。インドを、ソ連の南下策から完全に護らにゃならない」
「ふむ」
と折竹は笑うような表情をして、
「あまり、偉そうに見られたのが、とんだ災難でしたよ。いや、デモクラシーも当てにはならん」
「お気の毒です。しかし、これが任務ですから」
とセルカークが心持頭をさげ、彼にペル・メルをすすめた。その莨煙のなかで暫くのあいだ、折竹はじっと考えていたが、
「やれやれ、おなじ事なら探検で死んだほうがいい。僕は『大塩沙漠』地下の油層をさぐるわけだったのです」
と、セルカークの頭がヒョイと上って、
「油層」
と、彼は惹かれたような表情になった。
「そうです。あなたの想像は不幸にして違っているが、僕のほうのはおそらく図星でしょう。それは、東は外蒙からサハラ沙漠まで延びているといわれる、地下の大想像洞、『大盲谷』。ギリシアのホーマーでさえが晦冥国といっていた、大盲谷が実際にあるらしいのです。むろんそれは、土地によって高低がちがうでしょうが、岩塩と、石灰岩層を貫いて流れている。しかも、その大盲谷二万マイルのうえは豊潤な油層だ」
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