未知の国売物(うりもの)――じつに空前絶後ともいう奇怪なことである。まして、国というからには単純な未踏地ではあるまいが、まさか、そんなものがこの地上にあろうとは思われない。折竹はなんだか揶揄(からか)われるような気がして、ついに、二度三度と手紙がきても行かずにいた。 と、つぎに昨日のことだった。ふいに、男女二人の訪客があって、その名刺をみたときオヤッと思ったほど、じつにそれが意想外の人物だったのだ。 無疵(ラッキー)のルチアノ――いまタマニーに風を切るニューヨーク一の大親分。牝鶏(ニッキィ)フロー、彼の情婦で魔窟組合(プロスティチューション・シンジケート)の女王、千人の妓と二百の家でもって、年額千二百万ドルをあげるという、大変な女だ。そういう、暗黒街に鳴る鏘々(そうそう)たる連中が、いかなる用件があってか丁重きわまる物腰で、折竹の七十五番街の宿へやってきた。 世界的探検家対ギャングスター・ナンバー一(ワン)。まずこれは、一風雲必ずやなくてはなるまい。「ご免なすって」と人相は悪いがりゅっとした服装の伊太(イタ)公、フローは、まだ若くガルボ的な顔だち。しかし、駆黴剤(くばいざい)の浸染(しみ)はかくし了(おお)せぬ素姓をいう……、いまこの暗黒街を統(す)べる大顔役(ボス)二人が、折竹になに事を切りだすのだろう。「じつは、高名な先生にお願いの筋がござんして。と、申しますのは余の儀でもござんせん。ここで、分りのいい先生にぐいと呑みこんで頂いて……」「なにをだ」「すべて、どこへ行くとか何をするとか――その辺のところは一切(いっさい)お訊きにならず、ただ手前の指図どおり親船に乗った気で、ちかく“Salem(サレム)”をでる『フラム号』という船にのって頂く」「おいおい、俺をどこかの殴りこみに連れてゆくのか」「マア、お聴きなすって」と、ルチアノはかるく抑え、「で、その船は北へ北へとゆく。すると、そのどこかの氷のなかにだね。ぜひ先生のお力を拝借せにゃならねえものが、おいでを、じっと待ってるんですよ」「では、そこは何処なんだね。また、僕の力を借りるとは、何をすることなんだ?」「どうか、それだけはお訊きにならねえで。ただ、申しあげておくのは、けっして邪(やま)しいことじゃない。法律に触れるようなことでは絶対にないという……その点だけはご安心願いたいもんで」 折竹は、ただただ呆れたように瞬(しばたた)くだけ。ギャングども、大変なことを言ってきやがった。俺の力を、借りたいというからには探検であろうが、いま、年収八千万ドルといわれるルチアノの仕事なら、あるいはそれが途方もないものかも知れぬ。どこだろう、北へ北へといって氷のなかに出る はてなと、思いめぐらすが、見当もつかない。ただ、匂ってくるのは黒暗々たる秘密のにおい。「ねえ、先生、ご承知くださいましなね」 と、フローが間に耐えられないように、「私たちだって、偶(たま)にゃ真面目な稼ぎの一つくらいはしますからね。先生にだって一生楽に暮せるくらいの、お礼は差しあげるつもりなんですよ。ねえ、先生ったら、うんと言って……」と、それでも黙っている折竹に焦(じ)れたのか、それともフローの本性か、じりじりっと癇癪(かんしゃく)筋。「じゃ、私たちの仕事なんて、お気に召さないんだね」「マア、言やね」と折竹はハッキリ言った。すると、扉のそとでコトリコトリと足音がする。いるな、ルチアノの護衛、代理殺人者(トリッガー・マン)のジップ[#「ジップ」は桃源社版では「ジッブ」]か と思ったが顔色も変えない、折竹にはルチアノも弱ったらしい。「ご免なすって。牝の蹴合鶏みたいな阿魔(あま)なんで、とんだことを言いやして。とにかく、この問題はお考え願っときましょう。いずれは、うんと言って頂かなきゃルチアノの顔が立たねえが、そんな強面(こわもて)は百万だら並べたところで、先生にゃ効目(ききめ)もありますまい。なア、俺らが来てもビクともなさらねえなんて……、フロー、お立派な方だなア」 折竹は、その間ものんびりと紫煙にまかれている。代理殺人者(トリッガー・マン)の銃口を扉のそとに控えていても、暗黒街(アンダーウォールド)の閻魔(えんま)夫婦を目のまえに見ていても、不義不正や圧迫には一分の揺ぎもしない彼には、骨というものがある。静かだ、ウエスト・エンド通り(アヴェニュー)の雑踏が蜂のうなりのように聴えてくる都心紐育下町(マンハッタン)のなかにも、こうした閑寂地がある。がいよいよルチアノも手がつけられなくなって、「マア、これをご縁にちょいちょい伺ううちにゃ、先生だって情にからむだろう。なにも、殴り込み(ラケット)ばかりが能じゃねえ。誠心誠意という、こんな手もありまさア」「おいおい、ギャングの情にからまれるのか」「そう仰言られちゃ、身も蓋(ふた)もねえが」 とルチアノは苦笑しながら立ちあがる。が、なんと思ったか、ちょっと目を据えて、「時に、あっしらしくもねえ妙なことを伺いやすが……最近、先生んところへ匿名(とくめい)の手紙が来やしませんか」「来たよ。しかし、地獄耳というか、よく知ってるね」「ご注意しますが、絶対あんなものには係わらねえほうが、いい。ずいぶんコマゴマしたことで、無駄な殺生をしたり、ケチな強請(ゆすり)をするために大変な筋書を書く――というような奴が、ゴロゴロしていますから。そこへゆくと、あっしらのは実業(ビジネス)で……」 と、これがルチアノの帰りしなの台辞(せりふ)だった。 二人が帰ると、ギャングという初対面の怪物よりも、なにを彼らが企てつつあるのか、陰の陰の秘密のほうに心が惹(ひ)かれてゆく。 極洋――そこにルチアノ一味がなにを目指している いわば変態ではあるが一財閥ともいえる、ルチアノ一派の実力で何をしようとするか またそれがあの手紙の主とどんな関係にあるのだろう と思うと、イースト・サイドの貧乏窟でせっかくの秘密をいだきながら、ギャングの圧迫のためうち顫(ふる)えている、一人の可憐な乙女が想像されてくる。 未知の国売物――それと、ルチアノ一味のギャングとのあいだには、見えない糸があるのではないか。 行ってみよう、彼はやっとその気になった。が「老鴉(オールド・クロウ)」というその酒場へいってみると、すでに日も過ぎたが、それらしい人影もない。見えない秘密、いや、逸してしまった秘密……とやきもきとした一夜が過ぎると、翌朝はケプナラとともにウィンジャマー曲馬団(サーカス)。いま、彼はあれこれと思いながら、奇獣「鯨狼(アー・ペラー)」のまえに立っているのだ。すると、ケプナラがウィンジャマー親方に、「だが、よくこの鯨狼(アー・ペラー)は餌につきましたね」「そこです。最初は、誰がやっても見向きもせんでした。ところが、相縁奇縁(あいえんきえん)というかたった一人だけ、この先生に餌を食わせる女がいる。呼びましょう。オイ、牝河馬(ファティマ)のマダムに、ここへ来るようにって」 と、やがて現われたのが意外や日本人。“Onobu-san(オノブ・サン), the Fatima(ゼ・ファティマ)”――すなわち大女おのぶサンという、重錘揚げの芸人だ。身長五尺九寸、体重三十五貫。大一番の丸髷(まるまげ)に結って肉襦袢(タイツ)姿、それが三百ポンドもある大重錘をさしあげる、大和撫子(やまとなでしこ)ならぬ大和鬼蓮(おにはす)だ。 狂人の無電か「おやおや、故国(くに)の人だというから、もうちっと好い男だと思ったら……。えっ、あんたがあの、探検屋折竹」 とこれが、折竹にひき合わされたおのぶサンの第一声。サーカスにいるだけにズケズケと言う。悪口、諧謔(かいぎゃく)、駄洒落(だじゃれ)連発のおのぶサンは一目でわかる好人物らしい大年増。十歳で、故郷の広島をでてから三十六まで、足かけ二十六、七年をサーカス暮し。 このウィンジャマー曲馬団(サーカス)の幌馬車時代から、いま、野獣檻(ミナジリー・デン)だけでも無蓋貨車(マフラット・カー)に二十台という、大サーカスになるまで、浮沈を共にした、情にもろい気さくな性格は、いまや名実ともにこの一座の大姐御(おおあねご)。といって、愛嬌はあるが、寸分も美人ではない。まあ、十人並というよりも、醜女(しこめ)のほうに分があろう。「ほら、私だというとこんな具合で、化物海豹(あざらし)めが温和(おとな)しくなっちまう」と、餌桶いっぱいの魚をポンポンくれているおのぶサンと、鯨狼(アー・ペラー)をひき比べてみているうちに、折竹がぷうっと失笑をした。それを見て、「この人、気がついたね」と、おのぶサンがガラガラッと笑うのだ。「なんぼ、私とこの大将と恰好が似ているからって、別に、親類のオバサンが来たなんてんで、懐(なつ)いたんじゃないよ。つまり、相縁奇縁ってやつだろうね。私もこいつも、知らぬ他国を流浪(るろう)の身の上だから、言葉は通じなくても以心伝心てやつ」「おい姐さん、以心伝心で口説いちゃいけねえよ」 と、白粉っ気はないが、道化らしい顔がのぞく。 馬を洗う音や、曲奏の大喇叭(チューバ)[#「大喇叭」は底本では「大喇叺」]の音。楡(エルム)の新芽の鮮緑がパッと天幕に照りはえ、四月の春の陽がようやく高くなろうとするころ、サーカスのその日の朝が目醒める。しかしまだ、鯨狼(アー・ペラー)をここへ売ったのが何者かということが、最後の問題として残っているのだ。それに、親方が次のように答える。「なんでもね、二っちも三っちもいかなくなった捕鯨船の後始末とかで、こいつを売ったやつの名は、クルト・ミュンツァ、です。住所(ヒシラ)はイースト十四番街の高架線の下で」 この、鯨狼の[#「鯨狼の」は底本では「鯨の」]出所については折竹よりも、むしろ、このほうの専門家のケプナラ君に興味多いことだ。ところが、どうしたことかそれを聴くと、ちょっと、折竹が放心の態になった。ただ、“Krt Mnzer(クルト・ミュンツァ)”と呟いている訳は あの、未知国の所在を売るという匿名の手紙の主の、K・Mというのがクルト・ミュンツァの頭文字。 事によったら、これが導きとなってあの手紙のわけも、また、それに関連しているらしいルチアノ一派の策動の意味も――すべてが明白になるのではないか。してみると、この奇獣鯨狼(アー・ペラー)も全然無関係ではない。いや、無関係どころか極地に春がきて、ながい闇が破れるようにすべてを分らせる――と、折竹はそんなように考えてきた。 金鉱、ダイヤモンド鉱それとも石油か いま、ルチアノ一味が全能力をあげて、それに打衝(ぶつか)ろうという意気が仄(ほの)みえるだけに、……秘密の、深い深い底をのぞき知ろうとする、彼はいま完全に好奇心の俘虜。「折竹さん、海獣(けもの)とばかり交際(つきあ)ってて、あたしを忘れちゃ駄目だよ。一度、ぜひ伺わせて貰うからね」「来給えな」と言ったのも、上の空。おのぶの言葉も瞬後に忘れてしまったほど、心は、クルト・ミュンツァが住む高架線(エル・トラック)の下へ。 その後、彼とケプナラがイースト・サイドへ出掛けていった。 そこは、二十七か国語が話されるという、人種の坩堝(るつぼ)。極貧、小犯罪、失業者の巣。いかに、救世軍声を嗄(か)らせどイースト・リヴァの澄まぬかぎり、ここのどん詰り(デッド・エンド)は救われそうもないのだ。「ここが、二〇九番地だから、この奥だろう」 と、皮屋と剃刀(かみそり)屋のあいだの階段をのぼり、突き当りのボロ蜂窩(アパート)へはいってゆく。 廊下は、壁に漆喰(しっくい)が落ちて割板だけの隙から、糸のような灯が廊下にこぼれている。年中、高架線の轟音と栄養不足で痛められている、裸足(はだし)の子供たちがガヤつく左右の室々。やっと、さぐり当てたクルト・ミュンツァの部屋を、折竹がかるく叩き(ノック)をした。「入れ。誰だ、マッデンかい」 あけると、意外な男二人にオヤッと目をみはる。どこか悪いらしく寝台にねているミュンツァは、三十恰好(かっこう)の上品な面立ちの男だ。折竹が、来意を告げると踊りあがるような悦び。あのK・Mとは、やはりこのミュンツァ。「ああ、来てくだすったですね。いろいろ、ご都合もあろうし、駈け違ったことと思っていましたが」 と、やがてあの不思議な手紙を折竹に出したについての、極洋に横たわるという知られない国の話をしはじめた。「折竹さん、あなたは五年ほどまえ北極探検用として、潜水客船(ウィンターワッサー・ファールツォイク)というのを考案したミュンツァ博士をご存知ですか」「知っています。じゃ、おなじミュンツァとなると、あなたは?」「あの、アドルフ・ミュンツァは僕の父です」とクルトは[#「とクルトは」は底本では「クルトは」]感慨ぶかげに言うのだ。「父は、ご存知のとおりの造船工学家でしたが、極地の大氷原を氷甲板(アイスデッケ)として、そこに新ドイツ領をつくろうという、夢想に燃えていたのです。新極北島――と、父は氷原上の都市をこう呼んでいましたよ。ところが、まもなく一隻を自費でつくりあげ、一九三三年には極洋へむかいました。僕は、体質上潜行に適しないので、捕鯨船の古物である一帆船(パーク)にのって『ネモ号』というその潜船に蹤(つ)いていったのです。すると、運の悪いことには半月あまりの暴風雨。無電はこわれ散々な目に逢ったのち、『ネモ号』を見失って漂流一月あまり。やっとグリーンランド東北岸の“Koldewey(コールドウェー)”島の峡湾(フィヨルド)に流れついて、通りがかりの船を待っていました」「その間、ネモ号は」と、ケプナラ君がロイド眼鏡をひからせる。「なにしろ、無電が壊れているんで、サッパリ消息が分りません。すると、そこへ運よく一隻の捕鯨船が通りかかって、僕は無電の修理材料をもらいました。修理が成った、と、それから三日ばかり経った夜、偶然、ネモ号の通信をとらえたのです。ご想像ください。まるで、蒼白いランプのような真夜中の太陽のしたで父の通信と分ったときの、私の悦び。しかしでした」「では、その通信にはなんとありましたね」「奇怪なことです。僕は、父が気違いになったとしか思えなかった。どうです、たとえば貴方がたがこういう無電をうけたとしたら……」と、クルトの目が、じっとすわって、当時の回想が胸迫ったような面持。それは、たぶんお読みになる皆さんもアッと言うだろうほどの、つぎの奇怪極まるものであった。
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