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人外魔境(じんがいまきょう)08 遊魂境

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 7:29:59  点击:  切换到繁體中文

底本: 人外魔境
出版社: 角川ホラー文庫、角川文庫
初版発行日: 1995(平成7)年1月10日
入力に使用: 1995(平成7)年1月10日初版


底本の親本: 人外魔境
出版社: 角川書店
初版発行日: 1978(昭和53)年6月10日

 

 死体、橇を駆る※(疑問符感嘆符、1-8-77)

 いよいよ本篇から、魔境記も大ものばかりになってくる。まず、その手初めが“Ser-mik-suahセル・ミク・シュア”グリーンランド中部高原の北緯七十五度あたり、氷河と峻険と猛風雪と酷寒、広茫こうぼう数百の氷河を擁する未踏地中のそのまた奥。そこに、字義どおりの冥路よみじの国ありという、“Ser-mik-suahセル・ミク・シュア”は極光下の神秘だ。では一体、その「冥路の国セル・ミク・シュア」とはどういうところか。
 まず、誰しも思うのは伝説の地だということ。グリーンランドの内部は、八千フィートないし一万フィートの高さのわたり、大高原をなしている。そして、それを覆う千古の氷雪と、大氷河の囲繞いにょう。とうてい五百マイルの旅をして核心を衝くなどということは、生身なまみの人間のやれることではない。だから、そこに冥路の国がある、死んだ魂があつまる死霊の国がある――とエスキモー土人が盲信をいだくようになる。
 と、これがマアいちばん妥当なところで……たぶん皆さんもそうお考えであろうと思われる。また、「冥路の国セル・ミク・シュア」について多少の知識のある方は、一歩進んだものとして次のようなことも言うだろう。
 馬来マライ狂狼症アモックをジャングルの妖とすれば、「冥路の国セル・ミク・シュア」の招きは氷の神秘であろう。それに打たれた土人は狂気のようになり、家族をわすれおのが生命をもかえりみず、日ごろ怖れている氷嶺の奥ふかくへと、そりをまっしぐらに走らせてゆく。まばゆい、曼珠沙華まんじゅしゃげのような極光オーロラの倒影。吹雪、青の光をふきだす千仭せんじん氷罅クレヴァス。――いたるところに口を開く氷の墓の遥かへと、そのエスキモーは生きながらまれてゆく。
 と、いうように氷の神秘と解釈する。それだけでも、「冥路の国セル・ミク・シュア」は興味津々しんしんたるものなのに、一度折竹の口開かんか、そういう驚異さえも吹けば飛ぶ塵のように感じられる。それほど……とは何であろう※(疑問符感嘆符、1-8-77) 曰く、想像もおよばず筆舌に尽せず……ここが真の魔境中の魔境たる所以ゆえんを、これからお馴染なじみふかい折竹の声でしゃべらせよう。
「なるほど、君も『冥路の国セル・ミク・シュア』について、ちっとは知っているね。だが一つだけ、君がいま言ったなかに間違いがあるよ。というのは、『冥路の国セル・ミク・シュア』の招きでエスキモーがそりを走らせる。まるで、とっかれたようになって、夢中でゆく。というなかに、一つだけある」
「へええ、というと何だね」
「つまり、生きた人間ではないからだ。その、橇をはしらせるエスキモーは、死んだやつなんだ」
「そうだろうよ」と、私はひとり合点をして、うなずいた。ついに、折竹も語るに落ちたか、魔境中の魔境などと偉そうなことをいうが、やはり結句は、死霊あつまるというエスキモーの迷信たん。よしよし日ごろやっつけられる腹癒はらいせに今日こそいじめてやれと、私は意地のわるい考えをした。
「なるほど、死んだ人間が橇をはしらせる。じゃそれは、魂なんてものじゃない、本物の死体なんだね」
 と参ったかとばかりに言うと、意外なことに、
「そうだ」と折竹が平然というのである。
「死体が橇をる。ふわふわと魂がはしらせる幻の橇なんて、そりゃ君みたいな馬鹿文士の書くことだ。あくまで、冷たくなったエスキモー人の死体。どうだ」
 私は、しばしは唖然あぜんたる思い。すると、折竹がくすくすッと笑いながら、ふところから洋書のようなものを取りだした。みると「グリーンランズの氷河界ユーベル・グレーランズ・グレッチェルウェルト」という標題。一八七〇年にグリーンランドの東北岸、マリー・ファルデマー岬に上陸したドイツ隊の記録だ。それを、折竹がパラパラっとめくり、太い腕とともにぐいと突きだしたページには、

 翌五月十六日、依然天候は険悪、吹雪はますます激しい。天幕テント内の温度零下五十二度。嚢内からはく呼吸いきは毛皮に凍結し、天幕テントのなかは一尺ばかりの雪山だ。すると突然、エスキモーの“E-Tooka-Shooエ・ツーカ・シュー”が死んだような状態になった。脈は細く、ほとんど聴きとれない。体温は三十二度。まさに死温。
「死んだよ」と、私がもう一人のエスキモーの“AL-Ning-Waアル・ニン・ワ”にふり向いて、
「だが、どうして急にこんな状態になったか、わからん。さっきまで、ピンシャンしてた奴が、急にこうなっちまった」
 と、その時だ。いきなり、死んだはずのエ・ツーカ・シューが、むっくと起きあがった。蘇えったか、と、支えようとする私をアル・ニン・ワは押しとどめ、
「死んでいるだよ。動いているだが、エ・ツーカ・シューは死んでいるだ」という。私が、なにを言うかとッとみる目差まなざしを、その老エスキモーは受けつけぬように静かに、
「論より証拠というだて、ちょっと手を握ってみなせえ、脈はあるだかね。おいら、生きてる人間みてえに、暖かになったかね」
 なるほど先刻さっきと、彼のいうとおり少しも変っていない。死体がうごく――と、呆気あっけにとられた私にアル・ニン・ワは言い続ける。
「そっとして……。旦那は、何もしねえほうが、いいだよ。エ・ツーカ・シューは、これから『冥路の国セル・ミク・シュア』へ召されるところだから。死骸になってから行かされるなんて、おいらの種族はなんて手間が掛るだべえ」
 とみる間に、エ・ツーカ・シューがのっしのっしと歩きはじめた。まるで、ゼンマイ人形のような機械的な足取り。やがて天幕テントをまくったとき吹きこむ粉雪のために、彼の姿は瞬間にみえなくなった。それなりだ。橇犬の声がやがて外でした。岩がちぎってくるような吹雪の合間合間に、しだいに遠ざかってゆく鈴の音、犬の声。
 行ってしまった。極北の神秘「冥路の国セル・ミク・シュア」は実在せり! エ・ツーカ・シューは死体のまま橇を駆り、晦冥かいめいの吹雪をつき氷のはてへと呑まれたのだ。

地図「グリーンランドとセル・ミク・シュア」
 なんたる怪か――と、あきれる私の耳元へ折竹の声。それが、また意味はちがうがなぐるような驚きを[#「驚きを」は底本では「響きを」]……。
「どうだい、僕が魔境中の魔境といったのも、ハッタリじゃあるまい。それに、この探検にはひじょうな意義がある。じつは、国際法の先占せんせん問題にも触れている」
 と、私に固唾かたずをのましたその「先占」とは。例をわが国にとれば、南極問題あり。かの大和雪原領有を主張する、白瀬中尉の熱血。また近くは、フランスと争った新南群島の先占。いずれも事新しいだけに賢明な皆さんのまえで、この言葉の説明の必要はあるまいと思われる。つまりこれは、無主の地へいちばん先に踏み入ったものが、その本国政府に言って先占宣言をさせる。今後この地は自国の領土である、異議あるものは申し出い――というのが「先占」。
 では今、国際紛争をほのめかすような先占問題がからむという、極北のその地とは一体どこのことだろう※(疑問符感嘆符、1-8-77) 私は、深くも聴かずひとり合点をして、
「なるほど、それが『冥路の国セル・ミク・シュア』探検の副産物というわけだね。じゃ、どこだ? その、新発見の北極の島ってえやつは」と言うと、折竹はいけぞんざいに手をふって、違う、と嘲けるように言う。
「島じゃない。その無主の地というのは、グリーンランドの内部なかだ」
 驚いた。現実を無視するにもこれほど痛快なものに、私はまだ出会ったことがない。
 全島、ヨーク岬をのぞくほかデンマーク領のグリーンランド――。よしんば内部なかが、「冥路の国セル・ミク・シュア」をふくむ広茫こうぼうの未踏地とはいえ、沿岸を占めれば自然奥地も領地となる――国際法には奥地主義の法則がある。それでは、先占云々うんぬんの余地は完全にないではないか。無主の地はたとえ一坪たりと、いま北極圏の大島グリーンランドにはないのだ。それにもかかわらず……。
 と、いうところが「死体駆るそり」とともに、「冥路の国セル・ミク・シュア」探検の大眼目になっている。しかしこれは、しばらく興味上保留することにして、では、そこを先占しようとしたのは、いずれの国であろう。訊くと、折竹は紅潮さえもうかべ、
「どこって※(疑問符感嘆符、1-8-77) それが他の国ならいう必要のないことだ。日本政府が、もしも僕の仕事を追認してくれてだね、『冥路の国セル・ミク・シュア』の先占宣言をしてくれたら……」
 ここで、もはや言うべき言葉もなくなった。ドイツ人が夢想する新極北島アイランド・アルクチス徒手空拳としゅくうけんで実現しようとした折竹の快挙談。氷冥郷ひょうめいきょうをあばく大探検にともなう、国際陰謀と美しい情火のもつれを……。さて、彼に代ってながながと記すことにしよう。

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