永世変りゆく大迷路
ジメネス教授が、「蕨の切り株」をとり巻く湿地を調査して、まるで海図みたいに足掛りの個所(かしょ)を記入した地図がある。それが、米国地理学協会にあったのが大変な助けとなって、ともかく難行ながら「蕨の切り株(トッコ・ダ・フェート)」にでたのである。それまでは、プォルモサの密林ではアメリカ豹(ジャガール)の難、草原(パンパス)へでればチャコ狼(アガラガス)の大群。グァラニー印度人(インディアン)百名の人夫とともに、一行はいい加減へとへとになっていた。しかし、はじめて見る「蕨の切り株」の景観は……。
ただ渺茫(びょうぼう)涯(はて)しもない、一枚の泥地。藻や水草を覆うている一寸ほどの水。陰惨な死の色をしたこの沼地のうえには、まばらな細茅(サベジニヨス)のなかから大蕨(フェート・ジガンデ)が、ぬっくと奇妙な拳(こぶし)をあげくらい空を撫でている。生物は、わずか数種の爬虫(はちゅう)類がいるだけで、まったく、水掻きをつけ藻をかぶって現われる、水棲人(インコラ・パルストリス)の棲所(すみか)というに適わしいのである。すると、ここへ来て五日目の夜。
陰気な、沼蛙(ぬまがえる)の声がするだけの寂漠たる天地。天幕(テント)のそばの焚火(たきび)をはさんで、カムポスと折竹が火酒(カンニャ)をあおっている。生の細茅(サベジニヨス)にやっと火が廻ったころ、折竹がいいだした。
「君は、ロイスさんにどんな気持でいるんだね」
「………………」
「そういう気配は、君がはじめてロイスさんをみた、その時から分っていたよ。惚れもしなけりゃ五十万ミルを棒に振ってまで、君がわざと負ける道理はないだろう」
「俺はまた、大将という人はサムライだろうと思ってたがね」とカムポスがじつに意外というような顔。
「俺は、すべてをロイスさんにうち明けにゃならん義務を背負っている。義務であるものに金を取り込むなんて、俺にゃどうしても出来ん。カムポスはつねに草原(パンパス)の風のごとあれ、心に重荷なければ放浪も楽し――と、俺は常日ごろじぶんにいい聴かしてるんだ」
「詫(あや)まる」と折竹はサッパリと言って、
「だが、惚れたなら惚れたで、別のことじゃないか。君が、生涯に一人だけ逢うというその女性が、ロイスさんのように、俺にゃ思えるよ」
「くどいね、大将は」カムポスも、辟易(へきえき)してしまって、
「いかにも俺は、あの人が好きだよ。好きで好きで、たまらんというような人だ。これだけ言ったら、大将も気が済んだろう」と、なにかを紛(まぎ)らすように笑うのである。
しかし、事実水棲人とはまったくいるものか? また、カムポスが逢った三上の姿は亡霊か、それとも生態が変って、沼土の底でも生きられるようになったのかと、いつも四六時中往来する疑問は、その二つよりほかになかった。カムポスが、「ロイスさんの執念にもまったく恐れ入ったよ。よくまあ、五日間ぶっ続けに水面ばかり見ていられるもんだ」
「そりゃ、君がみた三上は幽霊じゃないだろう」
と、はじめて折竹がその問題に触れたのだ。
「といってだよ、たとえば、水棲人といえるものになって沼の底へはいったにしろ、もう三上は到底(とうてい)生きちゃいまい」
「ええ、何のこった?![#「?!」は一文字、第3水準1-8-77、231-10]」とカムポスは煙にまかれたように、
「君はよく、水棲人というと笑ったじゃないか。人間の三上がどうして沼の底へ入りそして生きられるか――君に、それが分ったのかね」
「分ったかもしらん。あれは、君はともかくジメネスも見ている。僕は、水棲人が実在するものとして、考えている」
その奇怪きわまる折竹の言葉が、それから十日ばかり後に実現することになった。それまでも、あるいは地震計を据(す)えて微動のようなものを計ったり、土人に、オムブのような浮く樹を運ばせては、いくつも沼地に投じ足掛りをつくっていた。目標は、カムポスが三上に会った地点――五本の大蕨(おおわらび)。なお、それに加えて千フィートあまりの、藤蔓(ふじづる)が三人分用意されている。
「これから、僕ら三人は沼の底へ、もぐってゆく」
と、指令をいうような沈痛な語気の折竹に、ロイスもカムポスも唖然(あぜん)となってしまった。泥亀(すっぽん)でさえ、精々十尺とはもぐれまい。それだのに、何百尺ゆけば底がみえるかもしれぬ泥のなかへ、潜水器も付けず潜ってゆけとは?![#「?!」は一文字、第3水準1-8-77、232-4] しかし、折竹といえば名だたるエキスパート。あるいはと、折竹の命にしたがった二人が危なげに浮き木をわたり、最終点の「五本の大蕨」へきた。そこで、最後の言葉を折竹がいった。
「沼の底へゆくということは依然として変らない。二人は、いっさいなにも考えず、私のとおりにする。私が、飛びこんだ個所へ、躊躇(ちゅうちょ)せずに飛びこむ。いいか」
そういって、折竹は大きく息を吸った。日没の、血紅の雲をうつしてまっ赤に染った沼土は、さながら腐爛(ふらん)物のごとく毒々しく美しい。と、彼のからだがスイと浮き木を離れ、ずぶりと泥にはまったかと思うと、たちまち見えなくなった。二人は、相次いで飛びこんだ。すると、泥のために息詰まるような苦しさが、ほとんど一、二瞬間後には消え、はっと空気を感じた。おやっと、息を吸えば肺に充(み)つる嬉(うれ)しさ。
「折竹さん、ここ、何でしょう? どこに、いらっしゃいますの?」ロイスが、あまりといえばあまりなこの不思議に、漆黒の暗(やみ)のなかで折竹に声をかけた。腐土のにおいと湿った空気。ぬるっと、触れた手には水苔(みずごけ)がついてくる。と、遠くないところから折竹が答える声。
「ここはね、いわば地下の大密林というのでしょう。むかしは樹がしげった渓谷だったでしょうが、地辷(じすべ)りもあってすっかり埋(うも)れた。そこへ、ピルコマヨが流路を求めてきた。水が、沖積層(ちゅうせきそう)のやわらかな土に滲(し)みながら、だんだん地下の埋れ木のあいだへ道をあけていったのです。どこまで行くか、どこで終るのか、形も蟻穴のように多岐怪曲をきわめた――『蕨の切り株』の地下の大迷路(ラビリンス)です。それも、上から水がくるために、絶えず形が変ってゆく。また、沼の水面下に大穴が空いても、すぐピルコマヨが運んでくる藻のために埋まってしまうのです」
「では、三上はここへ落ちたのでしょうね。カムポスさんに会ったときは、ここから出たのでしょうね」
「そうですよ。しかし、生きていられることは、期待せんほうがいいでしょうね」
と言ってから、カムポスに声をかけた。
「君は、僕が地震計を持ちだしたら、笑ったじゃないか。だが、絶えず迷路が変ってゆくので、微動も起る。それに、あのダイヤの土が渓谷性金剛石土(カスカリヨ)なのを考えても、むかしは渓谷――といったような深い地下が思われてくる」
そこで、懐中電燈がはじめて点された。ぐるりは、水苔(みずごけ)のついた軟かな土、ところどころに、埋れ木の幹が柱のようにみえている。三人は、それから足もとに気遣いながらじわりじわりと進んでいった。すると、紆余曲折(うよきょくせつ)しばらく往(い)ったところに右手の埋れ木にきざんだ文字と地図。あっと、ロイスが胸をおどらせてみれば……。
――日本人、三上重四郎なるものこの迷路に入る。アルゼンチン各所監獄を転々とした末に、政治犯四名とともに「蕨の切り株」へ連れてこられて機関銃弾で追われながら沼地へと追いやられた。四名のなかには、革命に関係した有名な女優 Emilia Vidali(エミリア・ヴィダリ) 嬢も混っていた。嬢も、おそらくここへ落ちこんだのだろう。時々、かすかに歌声のようなものを聴いたが、ついにめぐり会えなかった。それほど、この迷路は複雑多岐である。さらに、ここへ来て余は、勝利を痛感す。それは、この密林が埋れて迷路ができたのは……まだ新しく、白人侵入当初だったろう。その犠牲者が、所々に完全な屍蝋(しろう)となっている。それに反して、グァラニー土人のは一つも見当らない。つまり、白人における化石素(ペトリ)説が、ここに完全に立証されたわけだ。
ここは、四季を通じて一定の温度を保ち、寒からず暑からず至極(しごく)凌(しの)ぎよい。食物は、盲(めし)いた蝦(えび)、藻草の類。底には、ダイヤモンドがあるが無用の大長物。さて、本日出口をさぐりさぐりやっと地上へ出たが、やはりパ、ア両軍の対峙(たいじ)は続いている。ダイヤをやって、ロイスへの伝達を頼んだが、あの男はやってくるだろうか。
ああ三上と、しばらくロイスは咽(むせ)び泣いていた。おそらくこれが彼の絶筆であろうか。なお、地図には祈祷台(トラスコロ)とか、鉄の門(プエルタ・デ・イエロ)とか目印が記されてあるが、おそらく、当時と今とは道がちがっているだろう。しかしこれで、水棲人の謎が解けたのだ。
ジメネス教授がみた女の姿は、たぶんエミリア・ヴィダリ嬢だろうし、また沼地から現われた化石屍蝋(しろう)をみて、水棲人覗(のぞ)くと早合点したのだろう。そこからは、道あるいは広くあるいは狭まり、くねくね曲りくねりながら、下降してゆくようである。すると、眼界がとつぜん開け、かすかに光苔(ひかりごけ)のかがやく、窪みのようなところへ出た。
四辺(あたり)は、かつて地上の大森林だった亭々たる幹の列。あるいは、岩石ともみえる瘤木(りゅうぼく)のようなものの突出。ちょっと、この奇観に呆然(ぼうぜん)たる所へ、ロイスのけたたましい叫び声……。
「アッ、あすこに誰かいますわ」
すると、はるか向うの光苔の微光のなかに、一人の、葉か衣か分らぬボロボロのものを身につけた、瘠(や)せこけた男が横たわっている。声を聴いたか……手をあげたが、衰弱のため動けない。三上と、ロイスはぽろりと双眼鏡を取り落した。
しかし、ここに何とも意地の悪いことには、ちょうど此処(ここ)までが綱の限度であった。ずぶずぶもぐる泥の窪みをゆくことは、僥倖(ぎょうこう)を期待せぬかぎり、到底できることではない。みすみす眼前にみてとロイスの切なさ。そこへ、カムポスが敢然と言ったのである。
「俺がいってみる。このままで、帰れるもんじゃないよ」
そうして彼は、感謝の涙にあふれたロイスの目に送られながら、綱をといて窪みに降りていったのだ。無法、神に通ず――とは、カムポスの憲法(モットー)。今度も、三上を抱えてようやく戻ってきたのだが……、差しあげて、折竹に渡したとき足場を取りちがえ、ずぶっと深みへ落ちこんでしまった。とたんに、その震動で亀裂がおこり、泥水が流れ入ってくる。
「あッ、カムポス」と、思ったときは胸までも漬(つか)っている。カムポスは、一度は血の気のひいたまっ蒼な顔になったが、やがて、観念したらしくにこっと折竹に笑(え)み、
「駄目だ。俺は、もう駄目だから、君らは帰ってくれ。ホラ、みろ、上の土がだんだん崩れてくるじゃないか」
「カムポスさん、私のことから、なんてすまないことに」
とだんだん浸ってゆくカムポスに絶望を覚えるほど、いっそうロイスは切なく、絶え入るように泣きはじめた。
「じゃ、カムポス」と、折竹がおろおろ声で言うと、彼は、
「一番違い――動物富籖(ビツショ)のあれがやはりこれだったよ」
それからロイスに向い、「御機嫌よう(ボーア)、気を付けてね(ヴイアジェン)」と言った。
それから、身を切られる思いで帰路についていた二人の耳へ、カムポスが高らかにいう声が聴えてきた。「シラノ・ド・ベルジュラック」の一節を朗誦(ろうしょう)している。シラノが、末期にうち明けなかった恋を告白しているところ……。
「面白くもない私の生涯に、過ぎゆく女性の衣摺(きぬず)れの音を聴いたのも、まったくあなたのお蔭」
ああと、ロイスが何事かをさとり、抱いていた三上の感触がスウッと飛び去ったような気がした。カムポスが私に恋し、私のために死んでくれた……。朗誦の声は、なおも続く。
「哲学者たり、理学者たり、詩人、剣客、音楽家、また、天界の旅行者たり。恋愛の殉教者――カムポス・モンテシノスここに眠る」
そして、声が杜絶(とだ)えた。
底本:「人外魔境」角川文庫、角川書店
1978(昭和53)年6月10日発行
入力:笠原正純
校正:大西敦子
ファイル作成:野口英司
2000年9月15日公開
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
本文中の※は、底本では次のような漢字(JIS外字)が使われている。
※これは白い(エステ・エ・ブランコ) 白いは肌(ペルレ・エ・ブランコ) |
第3水準1-3-28 |
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