一番違い
その男は、カムポスというパラグァイ人。詳しくは、カムポス・フィゲレード・モンテシノスという名だ。首府アスンションの大学をでてから牧童がはじまりで、闘牛士、パラグァイ軍の将校と、やったことを数えれば、とにかく、五行や六行は造作なくとろうという人物。それが、ぐいぐい呷(あお)りながら、虹のような気焔(きえん)をあげはじめる。
「人間は、ちいさな機会(チャンス)などに目をくれていたら、大きなのを失うよ。誰にも、一生に一度はやってくる大(でつ)かいやつを、俺は捕まえようってんだ。これはね、女にだって同じことだろうと思うよ。男が、生涯に惚(ほ)れる女はたった一人しかない。ドン・ファンや、カザノヴァが女を漁(あさ)ったね。だがあれは、ひとりの永遠の女性を見付けるためだったと――俺はマアそういうふうに解釈している。つまり、俺のは最上主義なんだ」
「それが、君の放浪哲学だね。些細な、富貴、幸福、何するものぞという……」
「そうだ。時に、喋(しゃべ)っているうちに気が付いたがね、今夜は、“Bicho(ビッショ)”の発表の晩じゃないか」
“Bicho(ビッショ)”というのは、ブラジル特有の動物富籖(とみくじ)である。蟻喰い(タマンツァ)の何番、山豚(ポルコ・デ・マツトオ)の何番というように、いろんな動物に分けて番号がつけられている。その、当り籖が今宵の十二時に、ラジオを通じていっせいに発表されるのだ。それから二人は、パゲタ島からにおう花風のなかで、動物富籖(ビッショ)の発表を待ちながら酒杯を重ねていった。折竹は、もう泥のように酔ってしまっている。
「ううい、動物富籖(ビッショ)を一枚、てめえ大切候(だいじそう)に持ってやがって……。おいカムポス、俺はなんだか、可笑しくって仕様がねえ」
「ハッハッハッハッハ、なけなしの俺が一枚看板みたいに、動物富籖をもっているのが、そんなに可笑しいか。だが、俺だって当ると思っちゃいないよ。易(うらな)いだ。未来を卜(ぼく)すには、これに限るよ」
やがて、十二時が近付くにつれ、しいんとなってくる。おそらく、動物富籖をもたぬものは一人もあるまいと思われるほど、この富籖には驚くべき普遍性がある。やがて、ラジオから当り番号が流れはじめた。そのうち、最高位の五万ミルの当り籖が、カムポスの持っているガラガラ蛇札(カスカヴェル)のなかにあるという、声に続いて番号の発表。五九六二一番。――とたんに、カムポスが、ううと呻(うめ)いたのである。
「どうした、カムポス、当ったのかい」
「一番ちがい、大将、これをみてくれよ」
みると、カムポスの札はたった一番ちがいで、五九六二〇番だ。たった一番――。むしろ酒よりもじぶんの運命に酔ったよう、黙って、カムポスはじっと卓を見つめている。折竹は、もうその時は昏々(こんこん)とねむっていたのだ。
そんな訳で、翌日目を醒(さ)ましたのは日暮れ近くであった。みると、寝台のそばにカムポスがいて、じつに器用な手付きでズボンを繕(つくろ)っている。こいつ、昨夜のあのカムポスじゃないか。してみると、じぶんはカムポスに背負われてきたのだろう。そうそう、昨日の籖は一番違いだったっけがと……じっと目をつぶるとゆうべの記憶が、瞼(まぶた)の裏へ走馬燈のように走りはじめる。そこへ、カムポスがにこっと笑って、
「兄弟(アミーゴ)、目が醒めたかね」
きょうは、昨夜は大将だったのが、兄弟(アミーゴ)に変っている。そして針を手馴れた手付きで、スイスイと抜きながら、「どうだい、世帯持ちのいい、女房を持ちゃこんなもんだよ。これからは、みんなこんな工合に、俺が繕ってやる」
「上手(うま)いもんだね」
「そうとも、お針だって料理だって、出来ないものはないよ。俺は、コルセットの紐鉤(ちゅうこう)に新案さえもっている」
この、奇抜な男が泥坊にもせよ、折竹はけっして厭がらなかったろう。いまは、意気投合というか絶妙な気合いで、二人の仲が完全に結ばれてしまったのである。たぶんカムポスは当分の食客を、折竹のいるこの室ですることになるだろう。とその夜、二日酔退治にまた酒となった席上。
「じつは、大将に聴いてもらいたい話がある」と、なにやらカムポスが真剣顔(まがお)に切りだした。
「それはな、ゆうべの動物富籖(ビッショ)の一番違いのやつさ。あれから、俺はとっくりと考えてみた。するとだよ。あの当り籖はガラガラ蛇札(カスカヴェル)の、五九六二一番、俺の札が、一番少なくて六二〇番。と、そのもう一番で上りという意味から考えて……なんだか俺はいま途方もないような、生涯に一度ともいう大運に近付いているんじゃないか――とマアそんな風に考えられてきたのだ」
「担(かつ)ぐじゃないか」と折竹は面白そうに笑って、「だが、俺の国の判じようだと反対になるがね」
「なんでだ」
「つまり、俺の国でいう一番違いという意味は、運の、じき側までゆくがどうしても追い付けない、その、たった一番だけの距離をどうしても詰められない、とうとう、追っ付けずに一生を終ってしまうという、ごくごく悪い意味になるよ」
「チェッ、縁起でもねえ」と、舌打ちはしたが自信は崩(くず)れぬばかりか、カムポスが大変なことを言いだしたのだ。
「とにかく、俺は俺の考えをあくまでも押し通す。そういう気力には、逃げようとする運までも、寄ってくるというもんだ。で、大将にたいへんなお願いだがね、俺は、ここでいちばん運試しをしようと思う。一番先にある運をつかまえてやろうと思うんだ」
「それには――」
「大将に金を借りる。それで、俺は今夜、賭博場(キヤジノ)へゆく」
折竹は、しばらくカムポスの顔をじっと見まもっていた。鉄面皮というか厚かましいというか、しかし、こういうことを些(いささ)かの悪怯(わるび)れさもなく、堂々と、些細(ささい)の渋ろいもなく言いだす奴も珍しい。気に入った。こりゃ、事によったらカムポスに運がくる。これで、この泥坊が足を洗えりゃ、俺は一つの陰徳をしたというもんだ。
なにしろ、独り身で金の使いようもないうえに、週給五百ドルをもらう折竹のことであるから、たかが、千ドルや二千ドルなら歯牙(しが)にかけるにも当らない。よろしいと、彼はカムポスの申出でを、きっぱりと引きうけてやった。
リオでは、「恋鳩(ポムピニヨス・エナモール)」の賭博場(キヤジノ)が最大である。折竹は、そこへ兼ねて紹介されていたが、ここで、困ったのがカムポスの処置。なにしろ、軽口師でございと大嘘をいって、あげくの果に追いだされた彼のこと。しかし、カムポスはご心配なくと、自信あるのか洒々(しゃあしゃあ)たるものだ。まず、鼻下の細髭(ひげ)を剃り落しもみあげを長くして、これなら、三日軽口師(ガルガーンタ)の「鼻(ナリシス)のカムポス」とは、誰がみようと分るまいというのである。そうして、その翌夜「恋鳩」へいった。
歓楽地、リオへ遊ぶ一等船客級相手のナイトクラブ――。財布の底まで絞りにしぼって、オケラになったらまたお出でというのが、此処だ。したがって、リオの歓楽中いちばん暗黒のものが、賭博場(キヤジノ)をはじめ洩れなく揃(そろ)えられている。
「君、一丁賭くか(ヴオツセ・ケル・アポスタール)」そんな声が、はやとっ突きの玉転がし場(ポーチャ)からも響いてくる。婦人の、キラキラかがやくまっ白な胸、脂粉、歌声、ルーレットの金掻き棒(ロード)の音。二人が、内部のキャバレーへはいると、パッと電気が消える。
※これは白い(エステ・エ・ブランコ) 白いは肌(ペルレ・エ・ブランコ)
と、舞台の歌声とともに緞帳(どんちょう)があがるが、だんだん、その白いというのが肢だけでなくなるというのが、「恋鳩」のナイトクラブたるところだ。それから、キャバレーを出てちょっと口を湿しているうちに、ふいにカムポスがなにを見たのか、ボーイを呼びとめてあれ[#「あれ」に傍点]と顎(あご)をしゃくって見せた。
「君、あのご婦人はなんて方だね」
ボーイは、ちょっとその方向をみるや、にこりと笑って、
「さすが、旦那さまはお目が高ういらっしゃる。あの、ちょっと小柄な金髪(ブロンド)でございましょう。お計らいなら手前致しますが、なんせい、美しいだけに(エー・ボニート)、ちょっと高価うございますよ(マース・カーロ)」
すると、カムポスはそれを遮(さえぎ)って、違うと叱(しか)るように言った。
「あれじゃない。ホラ、あの右にいる黒いドレスの方だ。あれは、まさかここの妓(こ)じゃあるまい」
「ほう、あの方」とチップを貰ったボーイが、にこっとなって言った。「あの方は、グローリァ・ホテルにご滞在中とかでございます。ここでは、たまにルーレットをおやりになるくらいのもんで、マアこんなところへ何でお出でになっているのかと、手前どもも不審に存じあげておりますんです」
その婦人は、もう娘という年ごろではないかもしれぬ。面長(おもなが)で、まさに白百合とでもいいたい上品な感じは、まったく周囲が周囲だけに際だって目立つのである。カムポスは、妙に熱をもったような瞳でじっとその婦人をみていたが、まもなく、運定めをする賭け場へはいっていった。
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