人外魔境 |
角川(ホラー)文庫、角川書店 |
1978(昭和53)年6月10日発行 |
リオの軽口師
折竹孫七が、ブラジル焼酎(しょうちゅう)の“Pinga(ピンガ)”というのを引っさげて、私の家へ現われたのが大晦日(みそか)の午後。さては今日こそいよいよ折竹め秘蔵のものを出すな。このブラジル焼酎(ピンガ)を飲(や)りながらアマゾン奥地の、「神にして狂う(リオ・フォルス・デ・デイオス)」河の話をきっとやるだろう……と私は、しめしめとばかりに舌なめずりをしながら、彼の開口を待ったのである。
ところが、その予想ががらっと外れ、意外や、題を聴けば「水棲人」。私も、ちょっと暫(しばら)くは聴きちがいではないかと思ったほどだ。
「君、そのスイセイとは、水に棲(す)むという意味かね」
「そうとも」と彼は平然と頷(うなず)く。しかし、人類にして水棲の種族とは、いかになんでもあまりに与太すぎる。こっちが真面目なだけに腹もたってくる。
「おいおい、冗談もいい加減にしろ」と、私もしまいにはたまらなくなって、言った。「人間が、蛙や膃肭獣(おっとせい)じゃあるまいし、水に棲めるかってんだ。サアサア、早いところ本物をだしてくれ」
すると、折竹はそれに答えるかわりに、包みをあけて外国雑誌のようなものを取りだした。Revistra Geografica Americana(レヴイストラ・ジエオグラフイカ・アメリカナ)――アルゼンチン地理学協会の雑誌だ。それを折竹がパラパラとめくって、太い腕とともにグイと突きだしたページには、なんと、“Incola palustris(インコラ・パルストリス)”沼底棲息人と明白にあるのだ。私は、折竹の爆笑を夢の間のように聴きながら、しばしは茫然たる思い。
「ハハハハハ、魔境やさんが、驚いてちゃ話にもならんじゃないか。どれ、この坊やをおろして、本式に話すかね」
折竹の膝には、私の子の三つになるのが目を瞠(みは)っている。ターザンのオジサンという子供の人気もの――折竹にはそういう反面もある。童顔で、いまの日本人には誰にもないような、茫乎(ぼうこ)とした大味なところがある。それに加えて、細心の思慮、縦横の才を蔵すればこそ、かの世界の魔境未踏地全踏破という、偉業の完成もできたわけだ。その第五話の「水棲人」とは?……折竹がやおら話しはじめる。
「ところで、これは僕に偶然触れてきたことなんだ。『神にして狂う(リオ・フォルス・デ・デイオス)』河攻撃の計画の疎漏(そろう)を、僕が指摘したので一年間延びた。そのあいだ、ぶらぶらリオ・デ・ジャネイロで遊んでいるうちに、偶然『水棲人(インコラ・パルストリス)』に招きよせられるような、運命に捲(ま)きこまれることになった。
えっ、その水棲人とはどこにいるって?![#「?!」は一文字、第3水準1-8-77、205-15] まあまあ、急(せ)かせずにブラジル焼酎(ピンガ)でも飲んでだね、リオの秋の四月から聴きたまえ」
*
リオの、軟微風(ヴエント・モデラード)とはブラジル人の自慢――。
棕梠(しゅろ)花のにおいと、入江の柔かな鹹風(しおかぜ)とがまじった、リオの秋をふく薫風の快よさ。で今、東海岸散歩道(パイラマール)の浮(うき)カフェーからぶらりと出た折竹が、折からの椰子(やし)の葉ずれを聴かせるその夕暮の風を浴びながら、雑踏のなかを丘通りのほうへ歩いてゆく。その通りには、「恋鳩(ポムピニヨス・エナモール)」「処女林(マツトオ・ヴイルジェン)」と、一等船客級をねらうナイトクラブがある。
「ううい、処女林(マツトオ・ヴイルジェン)か。処女林なんてえ名は、どこにもあると見える」
と彼は、蹣跚(まんさん)というほどではないが相当の酔心地(よいごこち)、ふらふら「恋鳩」の裏手口を過ぎようとした時に……。いきなり内部から風をきって、彼の前へずしりと投げだされたものがある。みると、一つのスーツケース。とたんに奥で、癇(かん)だかい男のどなり声がする。
「さあさあ、出てけ出てけ。君みたいな芸なし猿(トーロ)に稼がれてちゃ、沽券(こけん)に係わるよ。さあ、出ろ(ヴアツ・セ・エンポーラ)!」
皆さんは、よくこうした場面(シーン)を映画でご覧になる。お払い箱というときは襟首(えりくび)をつままれて、腰骨を蹴られてポンと抛(ほう)りだされるが、これも挙措(きょそ)動作がひじょうな誇張のもとに行われる、南米のラテン型の一つ。おやおや、ここの芸人が一人お払い箱になるらしい。どんな奴だ、さだめし肩をすぼめて悄(しょ)んぼりと出てくるだろうと――多少酔いも手伝った折竹が、そのスーツケースを手にもって、いま現われるかと入口を見守っていたのだ。
まったく、こうして佇(たたず)んだ数秒間さえなければ、かの怪奇の点では奥アマゾンを凌(しの)ぐといわれる、水棲人(インコラ・パルストリス)のすむあの秘境へはゆかなかったろうに。Esteros de Patino(エステロス・デ・パチニヨ)―すなわち「パチニョの荒湿地」といわれる魔所。
まもなく、その入口をいっぱいに塞(ふさ)いでしまいそうな、大男が悠然と現われた。舗道へ降りると、ちょっと足もとのあたりを一、二度見廻していたが、すぐ折竹に気がついたらしく、
「やあ大将(カピトーン)、拾っといてくれたね」
「番をしてたよ。どうせ、出てけ――を喰わされるようじゃ、だいじな財産(もん)だろう。さあ、たしかにお渡ししたよ」
しかし、此奴(こいつ)がと思うとじつに意外な気持。猫のように摘みだされた失業芸人とは、およそ想像もされぬ態の人物。肩付きの逞(たくま)しさは閂(かんぬき)のよう、十分弾力を秘めたらしいひき締った手肢(てあし)、身長、肉付き、均斉(きんせい)といい理想的ヘルメス型の、この男には男惚れさえしよう。
それに、服装(なり)をみればおそろしい古物――どこにもクラブ稼ぎの芸人といったようなところはない。違ったか、渡してしまったしとんだことをしたと、折竹も気になってきて、
「だが、たしかに君のだね」
「ハッハッハッハ、大将は聴いてたんだろうが」
とその男はカラカラと笑うのだ。
「あの、俺に出てけ出てけといった、キイキイ声の奴な、あれが、ここの支配人でオリヴェイラってんだ。俺は、あのチビ公に腰を折ってだね、どうか御支配人、ながい目で頼む。きっと、今夜から大受けにしてみせると、言ったんだが聴いちゃくれない。もっとも、理屈は向うにあるだろうがね」
陽気で、早口で、どこをみても、お払い箱早々というような、行き暮れたところがない。顔も、駄々っ子駄々っ子してダグラスそっくり。声まで彼に似て、豪快に響いてくる。
「俺は、女形(おやま)をやれる軽口師(ガルガーンタ)という触れこみで、つい四日ほどまえ『恋鳩』に雇われた。初舞台――。ご婦人の下着などを取りだして、すっきりと笑わせる。と、行ってくれりゃ何のこたあなかったよ」
「引っ込め――か」
「いわれたよ。しかし、ものというのは、とりようだと思う。俺がずぶの素人でいてやかまし屋の『恋鳩』の舞台を、よく三晩も保ったかと思えば、われながら感心するよ」
「驚いた」と折竹も呆れかえって、
「君は、軽口師(ガルガーンタ)のガの字も知らんのじゃないか」
「そうとも、窮すればなんでもするよ。浪人数十回となれば、女中にもなれる」
そう言って、とっぷり暮れた夜気を一、二回吸い、暫(しばら)く、空の星をつくねんとながめていたが、急に、なにかに気付いたらしく、くるっと振りむいた。彼は、ぜひ大将に話したいことがある。それには、ここじゃ何だから彼方(あっち)でといって、ぐいぐい折竹を急き立てて、向うの小路へ入っていった。
「なんだね」
「じつは、大将にこれを見て貰いたい」とポケットからだしたその男の掌には、キラキラ光る粒が二、三粒転がっている。手にとると、まだ磨かれていないダイヤの原石。大きさは、まあ十カラットから二十カラットぐらいだろうが……、それよりも、掘りだしたままの土の手触りが、折竹にはじつに異様であった。彼は、手にとった石をあっさりと返して、
「君、これは盗(と)ったやつかね。それとも脱税品(コントラバンド)か」
「マア、言(い)や後のほうだろう。ところで、見受けたところ大将は、日本人(ジャポネーズ)らしい。日本人でも、サントスやサン・パウロにいるならお移民(コロノ)さんだが、リオにおいでのようじゃ大使館だね。まったく、どこの税関でもお関(かま)いなしに通れる、結構なご身分というもんさ。こっちも、そういう御仁(ごじん)相手でなけりゃ話しても無駄だし、また、大将なら乗ってくれるだろう。どうだ、いい値で売るが、いくらに付ける」
しかしその時、折竹は一つの石をじっと見詰め、じつにブラジル産にしては稀(まれ)ともいいたい、その石の青色に気を奪われていた。小石ならともかくこうした大型良品(ボン)にあって、美麗な瑠璃(るり)色を呈すとは、じつに珍しい。ブラジル産にはけっしてないことである。
「君、これはブラジルのじゃないね。南阿(アフリカ)かね、英領ギニアかね」
「どうして、泥のついた掘りたてのホヤホヤだ。といって、ブラジルでもなし蘭(オランダ)領ギアナでもない。こいつは、おなじ南米でも新礦地(しんこうち)のもんだ」
出様によっては、なにかそれに就(つ)いて言い出したかもしれないが、あいにく折竹はダイヤなどというものに、熱や興味をいだくような、そんな性格ではない。その男も、折竹の態度にアッサリとあきらめて、もとのポケットへポンと突っこんでしまったのだ。
「これはね、じつは俺には宝のもち腐れなんだ。この国は、脱税品がじつにやかましい。うっかり持っていようものなら、捕まってしまうんだよ」と、いよいよさようならというようにニッコリ笑い、一、二歩ゆきかけたが、立ちどまって空を仰いだ。おおらかに、胸をはり嘯(うそぶ)くように言う。
「はてさて、俺も追ん出されて行き暮れにけり――か。颯爽(さっそう)と、乞食もよし、牧童(ガウチョ)もよし」
男の魅力が、時として女以上のものである場合がある。ここでも、これなりこの奇男子と別れたくないような気持が、折竹にだんだん強くなってきた。
警抜なる挙措(きょそ)、愛すべき図々しさ。なんという、スッキリとした厭味のないやつだろう。しかし、この男が何者かということは、ほぼ彼に想像がついていたのだ。泥坊か、密輸入者か故買者(けいずかい)か。どうせ、素姓のしれぬダイヤなどを持つようではそんな類(たぐ)いだろうが、とにかく、なんにもせよ気に入った奴だと、一度打ち込めば飲ませたくなるのが、折竹のような生酔いの常。
「どうだ、一杯やるが付き合うかね」
「酒?![#「?!」は一文字、第3水準1-8-77、210-11]」と、その男は飛びあがるような表情。「せめて、飯とも思っていたのに、酒とは有難い。有難い(オブリガード)。大将、このとおりだ」
それから、リオ・ブランコ街の一料亭へいったのが始まり、それが、水棲人(インコラ・パルストリス)に招かれる奇縁の因となるのである。
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