アジアの怒り それは、大レンズのなかへ分け入ってゆくような奇観だった。さいしょは、疲労と空気の稀薄なためおそろしい労作だったが、だんだん先へゆくにしたがい氷質が軟かくなる。しかも、地表とはちがい、ほかつくような暖かさ。そこで諸君に、氷河の内部がいかなるものか想像できるだろうか。 四人はいま、微妙なほんのりした光に包まれている。しかも、四方からの反射で一つの影もない。円形の鏡体、乱歩の「鏡地獄」のあれを、マア読者諸君は想像すればいいだろう。そのうえ、ここはさまざまな屈折が氷のなかで戯(たわむ)れて、青に、緑に、橙色(オレンジ)に、黄に、それも万華鏡のような悪どさではなく、どこか、縹渺(ひょうびょう)とした、この世ならぬ和らぎ。これが、人間をはばむ魔氷の底かと、時々四人はぐるりの壁に見恍(みほ)れるのである。そのうち、ケルミッシュがアッと叫んだ。みると、氷のむこうにまっ黒な影がみえる。「大懶獣(メガテリウム)」と呼吸(いき)を愕(ぎょ)っと引いて、ダネックが唸るように言った。「あれも、第三紀ごろの前世界動物だ。高さが、成獣なれば二十フィートはあるんだがね」 それは、やや距離があってか、そう巨(おお)きくは見えない。しかしこれで、「天母生上の雲湖」の秘密の一部を明かにした。 やがて往くと、一本その長毛が氷隙から垂れている。ダネックは、それを大切そうに蔵(しま)いこんだ。すると、四人の間に期待とも、不安ともつかぬ異様なものがはじまった。どうもそれが、氷河に埋ったようにはみえない。なんだか、大懶獣(メガテリウム)のいるあたりが空洞のように思われて、いまにも、氷壁をくだいた手が躍りかかりそうな気がする。そこへ、ダネックが息窒(いきづま)ったような叫びをした。「どうした」 みると、頸筋(くびすじ)を撫でた手がべっとり血を垂らしている。そこで、恐怖は絶頂に達したが、別に、氷をやぶって突きでた爪のようなものもない。それに、ダネックの頸には傷もなく、痛みもないのになんとしたことか。あくまで、粘ったまっ赤な血だ。ダネックはじっとながめていたが、「なアんだ」とフフンと笑い、「紅藻(ヒルデブランチア・リヴラリス)の、じつに細かいやつだ」と言った。 見ると、紅藻をふくんだ天井の氷が飴(あめ)のように垂れてくる。しかも一層、四人がうごく微動につれ甚だしくなってくる。氷河氷の雨が、簾(すだれ)を立てたように降りしきるかと思えば、また、太く垂れて石筍(せきじゅん)をつくり、つるつる壁を伝わる流れは血管のように無気味だ。そして今にも、ゆるい弧をえがいて、天井が垂れてきそうな気がする。四人は、いま氷河のちょうど核へ達したのだ。「天地開闢以来、地球はじまって以来、まだ、氷河の芯にあるこの泥水をみたものはあるまい」 折竹が、驚異と感動にぶるっと声をふるわせると、「そうだよ。しかし、どうも僕は勘違いをしていたらしい。それは、紅蓮峰(リム・ボー・チェ)の嶺のあの怪光なんだが、さいしょ僕は、ラジウムの影響をうけた水晶とばかり思っていた。ところがどうやら、氷のしたのこの紅藻らしいんだよ。こんな聖地で欲をだしたんで失敗したのかも知らんね」とダネックが自嘲気味にいうのだった。 やがて、芯の泥氷部をさけて二、三時間も掘ると、なつかしい外光がながれ入ってきた。 出ると、大烈風はもう背後になっている。そこは先刻は岩陰でみえなかったが、まるで色砂を撒(ま)いたような美しい蘚苔(こけ)が咲いている。ところが、前方をながめれば、これはどうしたことか、そこは、流れをなす堆石の川だ。せっかく、大烈風を破ったと思えば危険な堆石のながれ。四人は、そこでもう前方へ進めなくなってしまった。「これまでだ。もう、われわれは断念(あきら)めようじゃないか」とダネックが力なげに言いだした。「僕らは、あの危険な開口をのぼり、大烈風をやぶった。それだけでも、前人未達の大覇業(だいはぎょう)ということができる。帰ろう。今夜は蘚苔(こけ)のなかへ寝て、明日は戻ろう」 しかし、それがもう出来なくなっていたというのは、なにも、さっき掘った洞が塞ったというのではない。とにかく、その夜四人を包みはじめた不思議な力をみれば分る。つまり「天母生上の雲湖(ハーモ・サムバ・チョウ)」の掟に従わされたのだ。その夜、なにやらケティが草に言いはじめた。「マァニの草、あたしに惚れたって、お前じゃ駄目よ。そんなに、べたべた付着(くっつ)いたって、あたしゃ嫌」 よく、野葡萄(ぶどう)の巻鬚(ひげ)の先の粘液が触れるように、ケティにベタベタ絡(から)みついてくる草がある。その情緒を知らせる微妙な力が、彼女をじわりじわりと包んでいった。そこへ、相応じたようにケルミッシュも言う。「そうかね、この草は寒いと言っている。サアサア、がたがた顫(ふる)えなくても僕が暖めてやる」 それは、咳嗽菽豆(くしゃみそらまめ)に似た清潔好きな小草で、塵(ごみ)がはいると咳嗽(くしゃみ)のようなガスをだす。そして、いきんだように葉をまっ赤にして、しばらく、ぜいぜい呼吸(いき)をきるように茎をうごかしている。そういう植物の情緒や感覚が触れてくる、二人はもう普通の人ではない。ダネックも折竹もつつき合うだけで、見るも聴くも気味悪そうに黙っていた。魔境「天母生上の雲湖」へ溶けこんでゆくこの二人を、救い出すのはどうしたらいいのだろう。「サア、行こう。ここで愚図愚図してたって仕様がないよ、君」翌朝、さんざん押問答のすえ焦(い)らついてきたダネックが、語気を荒げていう。しかし、ケルミッシュの態度は水のように静かだ。「だけど、これが僕の希望なんだからね。あくまで、踏みとどまって登攀の機をねらうよ。それに、折竹君も僕とくるというし、とにかく、ダネック君にだけ一先ず帰ってもらう」「そうか」と棘(いら)だった目でぎろっと折竹を見て、「君もか?! このダネック探検隊(エキスペジション)の……隊長だけが帰って何になる。それとも、君らが死にたいというなら、別だがね」「死にはせん。僕にはこの堆石の川を突っきれる自信がある。ただ、方法は分らぬが、そうなるような予感がある」「止せ」ダネックは堪(たま)らなくなったように、叫んだ。なにより、彼を掻(か)きたてたのはケルミッシュに寄り添っているケティの像のような姿だ。「君は帰れ! 僕は引き摺(ず)っても、君を連れてゆく」 とケルミッシュの腕をぐいと捉(とら)えたとき、止めようと、馳(は)せよった折竹の目にそれは怖ろしいものが映った。堆石のながれを越えた向うの断崖の積雪が、みるみる間に廂(ひさし)のように膨(ふく)れてきた。雪崩(なだれ)?! と思ったとき氷塊を飛ばし、どっと、雲のような雪煙があがったのである。とたんに視野はいちめんの白幕に包まれた。折竹は、暫時(ざんじ)その場で気をうしなっていたのだ。 やがて気がつくと、堆石のうえが雪崩で埋まっている。そして、四つの足跡が向うまで続いているのだ。これが、ケルミッシュの予感というものか。彼とケティは雪崩のうえを渡り、「天母生上の雲湖(ハーモ・サムバ・チョウ)」の奥ふかくへと消えたのである。折竹も、続こうとしたが起きあがることが出来ぬ。その間に、ごうごうと続く堆石のながれが、しだいに橋となった雪崩を払ってゆくのだ。「ああ、せめて這(は)いでもできれば、俺は往くんだのに……」 万斛(ばんこく)の恨みが、いま分秒ごとに消えてゆく雪橋(はし)のうえに注がれている。援蒋ルートをふさぐ……九十九江源地(ナブナテイヨ・ラハード)へゆく千載の好機が、いま折竹の企図とともに永遠に消えようとしている。彼は、打撲と凍傷で身動きも出来なくなっていた。「本望だろう。ケティは、遠い遠いむかしの、血の揺籃(ようらん)のなかへ帰った。ケルミッシュは、現実をのがれて夢想の理想郷へいった。二人はいいが……せっかく此処(ここ)まで漕ぎつけて失敗(しくじ)る俺は哀れだ」 となおも手をついて起き上ろうと試みたとき、ふと掌のしたに紙のような手触りを感じた。みると、ケルミッシュが書いた走り書きのようなものだった。 折竹君―― 僕とケティは、これからこの世界の向う側の国へゆく。君は、現実逃避をする僕を嗤(わら)うだろう。しかし、素志を達した僕は、このうえもなく満足だ。あの「天母生上の雲湖(ハーモ・サムバ・チョウ)」には何があるだろう。ユートピア?! しかし僕は、小説にあるような美しさは求めてない。きっとそこには、冬眠生理でもあるような人間がいるだろう。ながい冬は眠り、短い春は耕す――そういう世界にこそユートピアはあるのだ。 君よ、悠久うごかぬ雲に覆われた魔境「天母生上の雲湖(ハーモ・サムバ・チョウ)」とともに、時々、僕とケティのことも思いだしてくれ給え。なおダネックは雪崩(なだれ)のしたにいるよ。 雪橋(はし)をわたるまえとり急ぎ ケルミッシュより その夜、主峰の雲のなかで囂々(ごうごう)と雷が荒れた。電光が、尖峰(パーク)をわたりながら、アジアの怒りのように……ダネックへは死、ケティとケルミッシュは己が手におさめ……一人ただ日本人折竹のみに生還を許したのである。そして折竹は、※※(ローロー)の人夫の背に負われて、 Zwagri (ツワグリ)、九十九江源地(ナブナテイヨ・ラハード)と囈言(うわごと)を言いながら魔境をでた。
底本:「人外魔境」角川ホラー文庫、角川書店※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)入力:笠原正純校正:福地博文ファイル作成:野口英司1999年2月13日公開2000年3月21日修正青空文庫作成ファイル:このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について本文中の※は、底本では次のような漢字(JIS外字)が使われている。
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