「ほうれ、煙が鳴るだよ」
気のせいか、その煙霧がブウンと鳴っているような気がする。やがて、陽が落ちかかると硫黄(いおう)色にかがやいて、すでにそのときは塊雲のように濃くなっていた。煙が鳴る――人煙皆無の大樹海のかなたに、毎日、日暮れちかくになるとこの霧が湧くという。そしてそれ以来、この部落を通過して悪魔の尿溜を衝こうとする、探検隊が一人も帰ってこないのだ。しかし、往(ゆ)けるところまでというとやっと承知して、あくる日、荷担ぎ(バガジス)とともに密林をわけはじめたのである。
そこは、虎でもくぐれそうもない蔦葛(つたかずら)の密生で、空気は、マラリヤをふくんでどろっと湿(し)っけている。大蟻、蠍(さそり)、土亀の襲撃を避け猿群を追いながら……、よくマヌエラがゆけたと思うほどの、難行五時間後にやっと視野がひらけた。
その地峡で、軍用電線が鍵の手にまがっている。すなわちその線を前方に伸ばせないものが、あらたに迫っている密林の向うにあるのだろう。案の定、荷担ぎどもは動かなくなってしまった。ゆけ、金をやるぞとあまり語気がつよいと、おう、お嬶ァ(ヤ・ムグリ・ワンゲ)――と、なかには泣きだすものが出てくる。
じっさい、ここで一同は戻ろうとしたのだった。探検の熱意は、もう誰にもなく、ただカークの指揮でここまで来ただけでも、一同にとれば大成功といえよう。すると、座間一人がなんと思ったのか、強くゆくことを主張したのである。
殺意が……、この静かな男の面上を覆(おお)い包んでいるのを、そのとき誰も気が付くものはなかった。この機会、最後の密林のなかでヤンを殺(や)ろう。と、身丈ほどもある気根寄生木の障壁、そのしたに溜っているどろりとした朽葉の水。それが、燈火へ飛びこむ蛾の運命となるのも知らず、ともかく、荷担ぎを待たして前方に足をすすめたのである。
そのとき、地峡をとおる蛇を追うために、カークが野火をはなった。その煙りが、娑婆(しゃば)をうつすいちばん最後のものになったのが、隊のなかの誰と誰だろうか。そうして、最後の密林行がはじまったのである。
すると間もなく、樹間がきらきらと光りはじめてきた。森がつきる――とそのとき、どこに潜んでいたのか十四、五人のものが、一同をぐるりと取り囲んでしまった。見なれぬ土人だ。しかも、頭(かしら)だった一人は短いパンツをつけている。
「やあ、今日は(ナマ・サンガ)」
カークが進みでて愛想よく挨拶をした。しかし、練達な彼がぐっとつかえ、語尾が消えるように嗄(かす)れてしまったのだ。拳銃が……無気味な銃口をむけている。やがて、顎(あご)でぐいぐい引かれて森をでると、したは、広漠(こうばく)たる盆地になっている。草葺(ぶ)きが、固まっているなかに、倉庫体のものさえある。
「ここは、どこだね」
カークが一同を怯(おび)えさせまいとするように、言った。すると、その男の口から意外にも、未探地帯(ウンベカント・クライス)――とドイツ語が洩れた。アッと、顔をみると鼻筋(はなすじ)の正しい、色こそ熱射に焼けているが、まぎれもない白人だ。
「驚いたろう。俺は、ここに二十年あまりもいる。万一有事のとき、ナイルの水源を閉塞(へいそく)するためにかくれている。俺はドイツ人でバイエルタールという男だ」
こうして、想像を絶する悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)の怪奇のなかへと、運命の手が四人のものを招きよせてゆくのだった。
「猿酒郷(シュシャア・タール)」の一夜
一行の導かれた盆地は谿谷の底といった感じで、赭(あか)い砂岩の絶壁をジグザグにきざみ、遥か下まで石階(いしばし)が続いている。それが、盆地の四方に一か所ずつあって、それ以外の場所は野猿にも登れそうもない。しかし、五人のものは、なんの危害もうけなかった。かえって、怪人バイエルタールは上々のご機嫌だった。
「ここで、白人諸君に会おうとはまったく夢のようだ。どうだ、“Shushah(シュシャア)”という珍しいものを飲(や)らんかね」
といって、怪人は椰子(やし)の殻にどろりとしたものを注いで、
「ねえ君らも、子供の時に猿酒の話を聴いたろう。それが、ここへきてみると、立派に『猿酒(アクワ・シミェ)』といえるものがあるんだよ。これは黒猩々がこっそり作っている。野葡萄(ぶどう)や、無花果(いちじく)の類を樹洞(ほら)で醗酵させ、それを飲るもんだからああいう浮かれ野郎になっちまうんだ、はっはっはっはっは、それでここを『猿酒郷(シュシャア・タール)』と名付けることにしたんだがね」
そういって尻ごみをする一同にはカッサバ澱粉のパンをすすめ、じぶんは「猿酒(シュシャア)」を呷(あお)り“Dagga(ダッガ)”という、インド大麻に似た麻酔性の葉を煙草代りに喫っている。その両方の酔いがもう大分まわったらしく、バイエルタールはだんだん懆(あや)しくなってきた。半白の髪の様子ではもう五十にちかいだろう。ただ剛気そうな目が、恍(うっと)りとした快酔中にもぎらついている。
やがて、問われるままに、ここへ来た話をしはじめた。
「俺はもと、ドイツ領東アフリカ駐屯軍の一曹長だったが、一九一六年の三月にタンガンイカ湖で敗れた。そのとき俺たちの隊が退路にまよい、北へ北へといってヴィクトア・ニールにでた。それはもう話にならぬような悲惨な旅で、一人減り、二人減りで百人もいた隊が、しまいには六、七人になってしまった。みんな熱病にかかったり、毒蛇にやられてしまった。
それで、とうとうここまで逃げのびると、さすがにイギリス軍もやってこなくなった。きっと、悪魔の尿溜ちかくで斃(や)られちまったと、奴らは考えたにちがいない。しかし俺たちは生きのびていた。まるで、ロビンソン・クルーソーのような生活をして、大戦がいつ終ったかも知らないし、おまけに子まで出来た。はッはッはッは、むろんお袋は土人の女だがね」
こう言ってバイエルタールは、妙にぎらぎらする瞳でマヌエラを見据(す)えた。魔烟(まえん)のために、大分呂律(ろれつ)が怪しくなっているし、調子も、うきうきと薄気味悪いほどである。
「ところで、つい一昨年のこと、ここへマコンデから宣教師がふらふらと迷い込んできた。みるとドイツ人なんだ。話がはずんだ。大戦が終ったということもそのとき聴いたし、故国(くに)も変ってしまってナチスという、反共の天下になった事も初めて知った。だが、外地へゆく宣教師には特別の使命がある。スパイもやれば宣伝もやる。彼はそういう種類の男だったのだ。それで、ともかく部落は全滅したということにして、あることないこと大嘘をこき混ぜて、マコンデの部落へいい触れさした。つまり、ここが行ってはならない危険な場所になったということを、帰りしなに触れさしたわけだよ。しかし、俺とその男のあいだには、かたい約束ができていた。いいか、俺はどんな蛮地にいようとも、立派なドイツ国民として行動して見せるのだ」
この今様ロビンソン・クルーソーがなにを言いだすのだろうと、一同は興味深く顔をのぞき込んだが、斉(ひと)しくのっぴきならぬ危険が起りそうな予感を覚えた。バイエルタールは、そしらぬ顔つきでお喋りを続ける。
「それはね、万一事ある場合、たとえば英仏相手の戦いがおこった場合、まず青(ブルー)と黒(ブラック)ニールの水源をエチオピアでとめてしまう。それから、俺は白(ホワイト)ニールにでて上流を閉塞する。と、どうなる?! エジプトの心臓ナイル河の水が、底をみせて涸々(からから)に乾(ひ)あがるだろう。むろん灌漑水(かんがいすい)が不足して飢饉(ききん)がおこる。舟行が駄目になるから交通は杜絶する。そうなって、澎湃(ほうはい)とおこってくる反乱の勢いを、ミスルの財閥や英軍がどうふせぐだろうか」
折から天空低く爆音が聞えた。毎夕、悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)からくる昆虫群をふせぐために、石鹸石(ソープストーン)、その他の粉霧を上空から撒(ま)くのだという。それがマコンデからみえる「鳴る霧」の正体だったのだ。ドドが飛行機をみても驚かぬわけは、おそらくここの近くにいたために、機影を知っていたせいであろうと察せられた。
それから、その飛行機のことをバイエルタールに訊(たず)ねると……英領ケニアの守備隊で同僚を殺し、偵察機一台をさらってここへ逃げこんできた英人飛行士で、その後、縦断鉄道測量隊をヤンブレで襲い、当分防虫剤やガソリンには不自由しないと、バイエルタールは鼻高々の説明だった。
その間も彼の目は、寝ているドドの背に置かれたマヌエラの手のうえを、まるで甜(な)め廻すように這(は)いずっているのだが、どうやらそれも、ただの酔いのせいではなさそうに思われてきた。と突然、彼は割れるような哄笑(こうしょう)をはじめた。
「分ったろう、俺はナイルの閉塞者なんだ。はっはっはっはっは、君らは妙な顔をして、俺を島流しの狂人とでも思ってるだろうが、それもよかろう。しかし、ここには武器もあり爆薬もある! それに、月に一度は連絡機がくる。サヴォイア・マルケッティの大輸送機が、北アフリカ航空(ノルド・アフリカ・アヴィアチオーネ)の線から飛んでくる。倉庫もある、飛行場もあれば格納庫もある。全部、巧妙な迷彩で上空からわからんようになっている」
探検の一同は、聴いているまにだんだんと蒼(あお)ざめてきた。今宵にも、命がなくなるかもしれぬおそろしい危機が、いま次第に切迫しつつあるのを知ったのである。おそらく、これまでの探検隊に生還者がなかったのも、ここでバイエルタールに殺されたからにちがいない。かほどの、国の興廃にもかかわる大機密を明して、無事に帰すはずはない。カークをはじめ一人も声がなく、喪(ほう)けて死人のようになってしまった。
ところが、座間一人だけはさすが精神医だけに、ほかの人たちとは観察がちがっていた。バイエルタールの言葉を聞いていると、ときどき他のことを急にいいだすような、意想奔逸(ほんいつ)とみられるところが少なくない。これは精神病者特有の一徴候なのだ。
普通の人間でもこんな隔絶境に半月もいたら少々の嘘にも判別(みわけ)がつかなくなるだろう。それが、バイエルタールのは二十と数年――宣教師のでたらめをまことと信ずるのも無理はない。そのうえ、彼はインド大麻で頭脳を痺(しび)らせているのだ。
けれど今となっては、それがじぶんたちには狂人(きちがい)の刃物も同様。もう、どうあがこうにも……、彼の狂気の犠牲となるより他はなさそうに思われる。
防虫組織や飛行機などは、いかにも神秘境と背中合せの近代文明という感じだが、ナイルの閉塞、イタリア機の連絡とは、じつに華やかながら実体のない、狂人バイエルタールの極光(オーロラ)のような幻想だ。いやいま、この猿酒宮殿(シュシャア・パラスト)に倨然(きょぜん)といる彼は、そのじつ、悪魔のような牧師の舌上におどらされている、あわれなお人よしの痴愚者なんだと、座間だけはそう信じていたのである。
やがてドドをまじえた一行五人は小屋に押しこめられた。もっとも、番人もつけられず鍵もおろされない。武器も弾薬も依然として手にある。これはバイエルタールの手抜かりというわけではなく、四か所の石階(いしばし)に厳重な守りがあるからだ。
アフリカ奥地の夜、山地の冷気が絶望とともに濃くなってゆく。蟇(がま)と蟋蟀(こおろぎ)が鳴くもの憂いなかで、ときどき鬣狗(ハイエナ)がとおい森で吠(ほ)えている。その、森閑の夜がこの世の最後かと思うと、誰一人口をきくものもない。ときどき君が言いだしたばかりにこんな目に逢ったのだと、ヤンが座間を恨めしげに見るだけであった。
と時が経って暁がたがちかいころ、座間にとっては思いがけぬ事件が降って湧(わ)いた。一見大して奇もないようだったが、重大な意味があった。それはとつぜん、マヌエラが気懶(けだる)そうな声で、なにやら独(ひと)り言のようなものをドイツ語で言いはじめたのであった。
「明日、牝(めす)をのぞいた残りを全部殺(や)るというんだ。人道的な方法というからには、アカスガの毒を使うだろう」
驚いたことに、男のような言葉だ。調子も、抑揚がなく朗読のようである。そして、これがなかでもいちばん奇怪なことだが、いまマヌエラが喋(しゃべ)っているドイツ語を、当の本人が少しも知らないのである。知らない外国語を流暢(りゅうちょう)に喋る――そんなことがと、一時は耳を疑いながらまえへ廻って、座間はマヌエラをじっと見つめはじめた。
「マヌエラ、どうしたんだ、確(しっ)かりおし!」
しかしマヌエラの目は、狂わしげなものを映してぎょろりと据(すわ)っている。ひょっとすると心痛のあまり気が可怪(おか)しくなったのかもしれない。その間も、なおも譫言(うわごと)は続いてゆく。
「逃げやしないかな」
「大丈夫、武器は取りあげてないから、まさかと思っているだろう。第一、石階(いしばし)には番人がいるし……そこを逃げても、マコンデ方面は網目のようだからな」
こうした気味の悪い独語が杜絶えると、闇の鬼気が、死の刻がせまるなかでマヌエラだけをつつんでしまう。彼女は、ちょっと間を置くとまたはじめた。
「水牛小屋の地下道は分りっこねえんだ。何時だ? 三時だとすりゃ、あと二時間だが」
一体マヌエラは誰の言葉を真似ているのだろう? 座間は微動だもせず冷静な目で、じっとマヌエラをながめていたが、思わず……この時首をふった。すると、おなじようにマヌエラも首を振る。ハッとした座間が今度は試みに唇をとがらした。とまた、マヌエラがおなじ動作を繰りかえす。とたんに、座間はわッとマヌエラを抱きしめた。やがて、むせび泣きとともに二人の頬の合せ目を、涙が小滝のようにながれてゆくのだった。
「ああ君?!」
カークはじぶんとともに冷静だった座間が、近づく死の刻に取乱してしまったのだと思った。しかし座間はすこしも腕をゆるめずに、まるで恋情のありったけを吐きだしてしまうように、泣いたり笑ったりもう手のつけようもない狂乱振りだった。が、座間は狂ったのではなかった。彼は、悦びと悲しみの大渦巻きのなかで、こんなことを絶(き)れ絶(ぎ)れに叫んでいた。
(“Latah(ラター)”だ。マヌエラにはマレー女の血がある“Latah(ラター)”は、マレー女特有の遺伝病、発作的神経病だ。ああ、いますべてが分ったぞ。あの夜の、ヤンとのあの狂態の因(もと)も……、いま、マヌエラの発作が偶然われわれを救ってくれることも……)
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