然し其処には、不似合に大きな柱時計と画布や洋画道具の外に、蔵書と蓋の蝶番が壊れた携帯蓄音機があるだけで、朔郎はこの室を捜索するために、柳江の書斎に移されていた。柳江の書斎は、茶の間から廻り縁に出ず、左折して廊下を少し行った所のドン詰まりの室で、その塀向うが寺男の浪貝久八の台所になっていて、朔郎の室とは小庭を隔てて平行している。また、その廊下は、廻り縁になる角から幾つもの室の間を貫通して、本堂の僧侶出入口で行詰まっていた。つまりどの室からも直接廊下伝いに来られるのだが、昨日から今日にかけて非常に気温が低いので、障子の間は真冬のように隙がなかった。
二人の私服に挾まれて、画室衣の青年が黙然と莨を喫らしている。――それが厨川朔郎だった。二十四、五で美術学生らしい頭髪をし、整った貴族的な容貌の青年だが、肩から下には、炭坑夫とも見擬うような、隆々たる肉線が現われていた。
彼は法水を見ると、莞爾っと微笑んで、
「ヤア、漸と助かりましたよ。実は、法水さんの御出馬を千秋の思いで待ち焦がれていた所なんです。全く熊城さんの無茶な推定にはやり切れません。鏨が一本発見された位の事や、僕の室の窓外にある裏木戸から薬師堂の前へ直接出られる位の事で、僕を犯人に擬すると云う始末ですからね。それに、鏨と云われて探してみると、もう一本あったのが何時の間にか紛失しているのですが、それをどんなに述べ立てても、僕を少しも信用してくれないのですからね。では、昨夜の行動を申上げましょうか」と云って、――四時に学校から戻って、それから室でゴーガンの伝記を読んでいて、七時に夕食に呼ばれ、九時頃蒟蒻閻魔の縁日に出掛けて十時過ぎに帰宅したと云う旨を、要領よく述べ立てた。その堂々たる弁説と容疑者とは思われぬ明朗さには、一同の度胆を抜くものがあった。
その間法水は外方を向いて、この室の異様な装飾を眺めていた。今入った板戸の上の長押には、土蜘蛛に扮した梅幸の大羽子板が掲っていて、振り上げた押絵の右手からは、十本程の銀色の蜘蛛糸が斜に扇形となって拡がって行き、末端を横手の円い柱時計の下にある、格子窓の裾に結び付けてあった。
「ハハァ、鉄輪の俥があった頃の趣味だね」と法水は初めて朔郎に声を掛けた。
「ええ、奥さんと云う方は、古風な大店の御新造さんと云った型の人ですからね。それに、これは去年の暮私が頼まれて作ったのですが、蜘蛛糸は本物の小道具なんですよ」
「すると、君は背景描きをやっているのかい」そう云って法水が端の一本を摘むと、それは、紙芯に銀紙を被せた柔かい紐だった。
その時窓外からボンと一つ、零時半を報らせる沈んだ音色が聴こえた。それは朔郎の室に適わしくない豪華な大時計で、昨年故国に去った美校教授ジューベ氏の遺品だった。然し正確な時刻は、格子窓の上にある時計の零時三十二分で、その時計には半を報ずる装置はなかったのである。
それから、朔郎の饒舌が胎龍夫妻の疎隔に触れて行って、散々夫人の柳江を罵倒してから、最後に頗る興味のある事実を述べた。
「そう云う風に、今年に入って以来の住持の生活は、全く見るも痛々しい位に淋しいものでした。それでこの三月頃には、時々失神した様になって持っていたものを取り落したり、暫く茫然としている事などもありましたし、その頃は妙な夢ばかり見ると云って、僕にこんなのを話した事がありましたっけ。――何んでも、自分の身体の中から侏儒の様な自分が脱け出して行って、慈昶君の面皰を一々丹念に潰して行くのです。そして全部潰し終ると、顔の皮を剥いで大切そうに懐中に入れると云うのですがね。然し、その頃からこの寺に兆とでも云いたい雰囲気が濃くなって行きました。ですから、今度の事件も、その結果当然の自壊作用だと、僕は信じているのですよ。法水さん、その空気は、今にだんだんと分かって来ますがね」
二、一人二役、――胎龍かそれとも
朔郎を去らせてから引続きこの室で、柳江、納所僧の空闥と慈昶、寺男の久八――と以上の順で訊問する事になった。褪せた油単で覆うた本間の琴が立て掛けてある床間から、蛞蝓でも出そうな腐朽した木の匂いがする。それが、朔郎の言葉に妙な聯想を起すのだった。
「厨川朔郎と云う男には、犯人としても、また優れた俳優としての天分もある。けれども、疚しい所のない人間と云うものは、鳥渡した悪戯気から、つい芝居をしたくなるものだがね。それに……」
「いや、あの男はもっと他に知っている事があるんだぜ」検事はそう云って法水の言葉を遮ったが、法水は無雑作に頷いたのみで、
「ねえ熊城君」と鏨を示して、「これは兇器の一部かも知れないが、全部じゃない事だけは明らかだよ。と云って、兇器がどんなものだか、僕には全然見当が附かないのだが」
それから、彼は窓の障子をあけて、土蜘蛛の押絵をあちこちから眺めすかしていたが、突然背伸びをして、右眼の膜を剥ぎ取った。
「ホホウ、恐ろしく贅沢なものだな。雲母が使ってある。所が、左眼にはこれがないのだ。どうだね、光ってないだろう」法水がそう云った時に、静かに板戸の開かれる音がした――それが胎龍の妻柳江だった。
柳江は過去に名声を持つ女流歌人で、先夫の梵語学者鍬辺来吉氏の歿後に、胎龍と再婚したのだった。恰好のいい針魚のような肢体――それを包んだ黒ずくめの中から、白い顔と半襟の水色とがクッキリと浮出ていて、それが、四十女の情熱と反面の冷たい理智を感じさせる。会話は中性的で、被害者の家族特有の同情を強いるような態度がない。寧ろ憎々しい迄に冷静を極めている。法水は丁重に弔意を述べた後で、まず昨夜の行動を訊ねた。
「ハァ、午後からずうっと茶の間に居りましたが、多分七時半頃で御座いましたでしょう。主人が雪駄を突掛けて出て行った様子で御座いましたが、程なく戻って来て、薬師堂で祈祷すると云い、慈昶を連れて出掛けましたのです」
「では、あの雪駄が すると、一端戻って来てから履いたのが日和なんですね」熊城は吃驚して叫んだ。てっきり犯人の足跡と呑み込んで、深く訊しもしなかった雪駄の跡が住持のものだとすると、一体犯人は、如何なる方法に依って足跡を消したのだろうか? それとも、接近せずに目的を果し得る兇器があったのだろうか? 然し、法水は更に動じた気色を見せなかった。
「ハハハハ熊城君、多分この矛盾は、間もなく判る筈だよ。それから奥さん、その時御主人の様子に、何か平生と変った点があったのをお気付きになりませんでしたか?」
「ハァ、別に最近の主人と変ったような所は御座いませんでしたが、どうした訳か、空闥さんの日和を履いてしまったので御座います。それから十五分程経って、慈昶が戻ったらしい咳払いを聴きましたけれども、空闥さんはその時、本堂脇の室で檀家の者と葬儀の相談をしていた様子で御座いました。主人は二、三日来咽喉を痛めて居りますので、黙祷と見えて読経の声も聴こえず、夕食にも戻りませんでした。ですから、毎夜の例で十時頃に、私が池の方へ散歩に参りました途中、薬師堂の中で見掛けましたのが、最後の姿だったので御座います」
「所が、その時とうに、御主人は玄白堂の中で屍体になってた筈なんですがね」
「それを私にお訊ねになるのは無理で御座いますわ」柳江には全然無反響だった。「決して、虚偽でも幻覚でも御座いませんのですから」
「すると、扉が開かれていた事になる」熊城が誰にともなしに云った。「慈昶はピッタリ閉めて出たと云うのだがね」
「屹度、護摩の煙が罩もったからだろう」法水は大して気にもせず質問を続けた。「所で、その時何か変った点に気が付きませんでしたか?」
「ただ、護摩の煙が大分薄いな――と思った位の事で、主人は行儀よく坐って居りましたし、他には何処ぞと云って……」
「では、帰りにはどうでした?」
「帰り途は、薬師堂の裏を通りましたので……。それから十一時半頃でしたが、主人の室の方で歩き廻るような物音が致しました。私は、その時戻ったのだと信じて居りましたのですが」
「跫音」法水は強い動悸を感じたような表情をしたが、「然し、寝室の別なのは?」
「それには、この二月以来の主人をお話しなければなりませんが」と柳江は漸と女性らしい抑揚になって、声を慄わせた。「その頃から、何か唯事でない精神的打撃をうけたと見えまして、昼間は絶えず物思いに耽り、夜になると取り止めのない譫言を云うようになりました。そして身体に眼に見えた衰えが現われて参りました。所が、先月に入ると、毎夜のように薬師堂で狂気のような勤行をするようになったのです。ですから、自然私から遠退いて行くのも無理では御座いませんわ」
「成程……。所で、今度は頗る奇妙な質問ですが、長押にある押絵の左眼は、あれは、とうからないのですか?」
「いいえ」柳江は無雑作に答えた。「一昨日の朝は、確かにあったようでしたけども……。それに、昨日あの室には、誰一人入った者が御座いませんでした」
「有難う、よく判りました。所で」と法水は始めて鋭い訊き方をした。「昨晩十時頃に散歩に出たと云うお話でしたが、昨夜はその頃から曇って、非常に気温が低かったのですよ。確かそれは、散歩だけでなかったのでしょうね」
その瞬間血の気がサッと引いて、柳江は衝動を耐えているような苦し気な表情をした。所が、法水はどうした訳か、その様子を一瞥しただけで、彼もまた深い吐息をつき、柳江に対する訊問を打ち切ってしまったのであった。
柳江が去ると、熊城は妙な片笑いを泛べて、
「聴かなくても、君には判っているのだろう」
「サア」法水は曖昧な言葉で濁したが、「然し、似れば似たものさ。勿論偶然の相似だろうが、この顔が実に伎芸天女そっくりだとは思わんかね」
「それより法水君」検事が莨を捨てて坐り直した。「君は何故、押絵の左眼を気にしているんだ?」
それを聴くと、法水は突然熊城を促して閾際に連れて行き、板戸を少し開いて云った。
「では、実験をする事にしようかな。昨夜、此の室に秘っそり侵入したものがあって、その時眼の膜がどうして落ちたかと云う……」
そして、彼自身がまず閾の上に乗って力を加え、片手で板戸を押したが、板戸は非度い音を立てて軋った。所が、次に熊城を載せると、今度は滑らかに走る。と同時に、押絵を見ていた検事がウーンと唸った。
「どうだい。閾の下った反動で長押の押絵がガクンと傾いたろう。その機みに剥れかかっていた膜が落ちたのだよ。熊城君は十八貫以上もあるだろうが、僕等程度の重量では、戸が軋らずに開く程閾が下らない。つまり、戸を軋らさせずこの室に入る事の出来る者は、熊城君と同量以上――即ち朔郎か或は二人分以上の重量でなければならないのだ」
二人分――それは犯人と屍体とを意味する。果して一人か二人か? そして、此の室で何事が行われたのだろう? それとも眼膜剥落は、法水の推測とは全然異なる経路に於いて、起されたのではないだろうか? と様々な疑問が、宛ら窒息させん許りの迫力で押し被さって来る。が、その空気は間もなく空闥に依って破られた。この老達な説教師は、摩訶不思議な花火を携えて登場したのであった。
空闥と云う五十恰好の僧侶には、被害者と略々同型の体躯が注目された。僧侶特有の妙にヌラめいた、それでいて何処か図太そうな柔軟さで、巧みな弁舌を弄んで行くけれども、容貌は羅漢宛らの醜怪な相で、しかも人参色の皮膚をしている――その対照が非度く不気味なのだった。彼は問に応じて、――夕食後の七時半から八時頃迄の間は、檀家葛城家の使者と会談し、それから同家に赴いて枕経を上げ、十時過ぎ帰宅したと云う旨を述べ終ると、俄かに襟を正し威圧せん許りな語気になって、この事件の鍵は、俗人には見えぬ法の不思議にある――と云い出した。そして、眼を瞑じ珠数を爪繰って語り出したのは、仄暗い霧の彼方で暈と燃え上った、異様な鬼火だったのだ。
――三月晦日の夜、月が出て間のない八時頃の事だった。突然慈昶と朔郎が駈け込んで来て、玄白堂に妖しい奇蹟が現われたと云うのである。それが、天人像の頭上に月暈の様な浄い後光がさしたとの事なので、ともかく一応は調べる事になり、胎龍と空闥の二人が玄白堂に赴いた。所が、堂の内外には何等異常がない許りか、試みに頭上の節穴から光線を落してみても、髪毛の漆が光るに過ぎない。そして、とうとう不思議現象の儘残ってしまったのだが、その翌日から胎龍の様子がガラリと変って、懐疑と思念に耽るようになったと云うのである。
「然し、朔郎は何んとも云いませんでしたよ」聴き終ると法水は、鳥渡皮肉な質問をした。
「そうでしょう。あの大師外道めは、誰かの念入りな悪戯だと云いますでな。てんで念頭にはありますまい。然し、科学とやらでは、どうして解く事が出来ましょうか。いや、解けぬのが道理なのですじゃよ」
「すると、像の後光はその時だけでしたか」
「いや、その後にもう一度、五月十日にありました。その時見たのは、つい先達暇をとった福と云う下女でしてな」
「今度のは何時頃でしたか?」
「左様、確か九時十分頃だったと思いますが、恰度その時私は時計の捻子を捲いて居りましたので、時刻は正確に記憶しとりますので」
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