その暗灰色をした、穂槍のような突角が、ベーリング島の南端、マナチノ岬であった。
そこは、宿る木一つとない、無限の氷原だった。
その、乳を流した鏡のような世界の中では、あの二つの複雑な色彩、秘密っぽい黒貂の外套も、燃えるような緑髪も、きらびやかな太夫着の朱と黄金を、ただただ静かな哀傷としてながめられた。
しかし、上陸した時には、糧食も残りわずかになっていて、二人は疲労と不安のため、足もためらいがちであった。それは、肉体だけが覚めていて、心が深い眠りに陥っているかのように、二人はただ、機械的に歩き続けるのみである。
それでなくてさえも、雲は西から北からと湧いて空中に広がり、すでに嵐の徴候は歴然たるものだった。
しかし、夜になると、二人は抱き合って、裲襠の下で互いに暖め合うのであるが、そうした抱擁の中で、ややもすると性の掟を忘れようとする、異様の愛着が育てられていった。
やがて、氷の曠原を踏んで猟虎入江を過ぎ、コマンドル川の上流に達したとき、その河口に、ベーリングの終焉地があるのを知った。
ところが、ベーリングの埋葬地点に達したとき、それがあたかも、悲劇の前触れでもあるかのように、さっと頬をなでた、砂のように冷たいものがあった。
それは、今年最初の雪で、静かに、乳のごとく、霧のごとく空を滑りゆくのだった。
そうと知って、紅琴は愕然としたけれども、千古の神秘をあばこうとする、狂的な願望の前には、なんの事があろう。二人は、互いに励ましながら、氷を割り砂を掘り下げると、果たしてそこからは、凍結した、ベーリングの死体が現われた。
それは、両手を胸に組み、深い雛を眉根に寄せて、顔には何やら、悩ましげな表情を漂わせていた。
しかし、息をあえいで太腿を改め、凍りついた、腐肉の上に瞳を凝らすと、やはりそこにはグレプニツキーの言うがごとく、EL DORADO RA という文字がしたためてあるのだ。
ああ、ついにそうであったか、しかし、もう再びラショワ島に帰ることは――と紅琴は、しばらく黙然としていたが、そうしているうちに、一つ二つと笄が、音もなく抜け落ちたかと思うと、両手に抱えたフローラの体に、次第に重みが加わっていく。
彼女は、すでに渾身の精力を使い尽くし、静かに、いまや氷原の真っただ中で、眠りゆこうとするのだ。
紅琴は驚いて、自分の胸を開き、暖めようとしたが、フローラは微笑んで、じっと紅琴の手を握りしめるのみであった。明らかにそれは、フローラにとって、もっとも不幸な瞬間が近づいたのを、紅琴に思わせた。
彼女は、胸に顔に、熱い息を吐きかけて、狂ったように叫びはじめた。
「これ、気を引きとめて、フローラ、もうしばしがほどじゃ。まだ、見えるであろうな聞こえるであろうな、そのいじらしさに、私は胸のつぶれる思いがしまする。私は、いまここで、黄金郷の所在を、突き止めることができたのですよ。フローラ、そもじこそ、不滅の黄金都市、エルドラドーの女王なのじゃ」
その瞬間、フローラの頬にほんのり紅味がさして、死の影の中から、はっきりとした驚きの色が現われた。
紅琴は、なおも続けて、
「と言って、何もラショワ島にもどるでもなく、この島にもない、それは、そもじの身内の中にあるのじゃ。実は EL DORADO RA と書かれたのは、黄金郷の所在ではなく、そもじと母のドラとベーリング――この三人の間の秘密なのじゃ。
そもじの母のドラは、ベーリングの従妹とか言うたが、ステツレルに嫁ぐまえ、ベーリングと懇ろにしおったのであろう。そのとき、妊ったのがそもじで、その名をベーリングが、末期の際に書いたというのも、ステツレルに対する懺悔の印なのじゃ。
なぜなら EL のEは、Fの見誤りで、次にあるDの字は、腐肉に現われた自然の斑文。その時、ベーリングは、Dの前にある腫粒に触れたために――のう、よいかフローラ、盲者というものは、粒のように微細な点でも、それに触れると、ひどく大きく感ずるものなのじゃ。それで、次のDを飛び越えて、EL DORADO RA と書いたものと思われます。
どうじゃ、わかったであろうな、それはラショワ島を暗示する、黄金郷の所在ではなく、そもじの FLORA と、母の DORA の名を連らねたもの。それゆえ、そもじの父はステツレルではなく、ベーリング海峡の発見者、ヴィツス・ベーリングなのじゃ。愛しのフローラよ、そもじの悩みは、貴い涙となって、父の顔の上に落ちまするぞ」
フローラは、無限の感動をこめて、じっと紅琴の顔を見つめている。もう、薄っすらとにじんだ涙にも流れ落ちる気力はなかった。
紅琴は、彼女の首をひしと抱いて、子供のように胸の上で揺すぶった。
「私は、そもじの過去を、はじめて会うたときに、それと悟ったほど……。その、燃えるような緑の髪も、惨苦と迫害の標章でのうて、なんであろう。そもじは、ネルチンスクの銅山にまで流れていき、髪にそのような、中毒が現われるまで、つらい勤めを続けたのであろう。だが、それはさておいて、今こそ、そもじに横蔵慈悲太郎を害めた、下手人の名を告げましょうぞ。
そもじが見た父とやらは、真実の腕ではなく、実は、格ガラスに現われる、性悪な気紛れなのじゃ。そもじは、砒石の蒸気を防ぐために、硫気を用いたのであろうけれど、それが市松のくぼみに溜まった水に溶け、黝んだことゆえ、まっすぐなものも、かえって反りかえって見えたのじゃ。
船内でも慈悲太郎の部屋でも、一つはそもじをねらった荒くれ漢、また一つが――この私だったと聞いたら、驚くであろうのう」
そう言って、高い木沓を脱ぐと、なかから、それは異様なものが現われた。双方の足趾は、いずれも外側に偏っていて、大きな拇趾だけがさながら、大箆のように見えるのだった。
それは、言わずと知れた、纏足だったのである。
「これを見たら、慈悲太郎の聞いた、足音の主が何者であったか、いまさらくどくどしく、説き明かすまでのこともないであろう。私は、イルクーツクの日本語学校で育てられたとき、漢人に興味を持った、魯人の一人にもてあそばれて、かような痕を残すようになった。それこそ、木沓を脱いだら、壁に手を支えぬと、私は歩けませぬのじゃ。のうフローラ、なぜに私は、かけ換えのない二人の兄弟――横蔵と慈悲太郎を殺めたのであろう。それは、そもじを、太夫姿に仕立てたのを見てもわかるであろうが、それとても、そもじが愛おしく、同胞とはいえ妬ましく、私の小娘のようにもだえ、またあるときは、鬼神のような形相にもなって、なんの不安もなく懸念もなく、いちずに愛の魔術に、愉しく魅せられ酔わされておったからじゃ。人は、恋に向かって歩み、その方向にひたすら進むものです。正しかったり貞潔であったにしても、それがなんの役に立ちましょうぞ。そもじの手は、もう動きませぬか、この白い、美しい臥床を選んで、いまこそ、そもじと妾は(八字削除)、フローラ、私はこの手で、そもじの灯火を消すまいと、腕を回しているなれど……」
けれども、フローラの浄らげな顔は動かず、眼を閉じて、眠っているのか、それとも、永劫の休息に入ったのかわからなかった。紅琴の眼は炎のように燃え、止めどない欲情に駆られて、フローラの体を掻い抱いた。
ぐるりの丘や岩は、不思議な樹木のごとく、咲き乱れた花のごとく、刻々と白く高くなっていく。
こうして、黄金郷の秘密も、悪霊ステツレルも、ラショワ島の殺人者も……、神秘と休息と眠りの中に、名状しがたい色調となり、溶け込んでいくのだった。
●表記について
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