新版・小熊秀雄全集第一巻 |
創樹社 |
1990(平成2)年11月15日 |
1990(平成2)年11月15日新版第1刷 |
1990(平成2)年11月15日新版第1刷 |
旭川新聞 |
旭川新聞社 |
1927(昭和2)年1月18日~23日 |
(一)
或る雪の日の午後。
街の角でばつたり、お麗さんらしい背をした女とすれちがつた。
女は鼠色の角巻を目深に、すつと敏捷に身をかはしたので、その顔は見えなかつた。
――彼女だ、たしかにあの女にちがひない。
私は断定した、同時にぎくりと何物かに胸をつかれた。
彼女は雪路を千鳥に縫つて、小走りに姿を消してしまつた。
――あの女の素裸を見たことがあるのだ、勿論一物も纒はない、ほんとうの素裸さ。
私は彼女の通り過ぎた後を振りかへつて、いひしれぬ優越感を覚えたのであつた。
女達は実際美しい。
着飾つた彼女達が、街をいりみだれて、配合のよい色彩の衣服をひるがへして往来してゐる姿は、まつたく天国だ。
黒い雲がすつと走り、急に曇天となり、空の一角がピカリとひらめいたと思ふまに、何かゞくづれるやうな大音響がして、雲の中から大きな青い手が。
爪の長い手が、ふいに現れ電光のやうに下界に流れた。
そして手は、一時に彼女達の衣服を空に舞あげたとしたら、彼女達はどんなに狼狽することだらう。
もぐらもちがお日様に眼を射られた時のやうに、あわてゝ下水溝の中へ悲鳴をあげて裸を隠すだらう。
しかしそんな心配は不要だ。
女達といふものは、実に油断のないものである。色情狂が電信柱の蔭から、彼女をおそつたとしても、彼女達は膝をすぼめて、べたりと地面にすわつてしまふだけの用意はいつでもできてゐるものである。
――彼女達は何故裸体をおそれるか。
この問題は、色気のついた女達の口からは到底満足な答を得られない。
そこで中には、質の悪い大人達が、この種類の質問を発して、子供達の口からたづねださうとする。これはよくあることだ。
教育上よろしくないことだ。
私の幼年時代、ある大人が
――××ちやんは、誰から生れたんだい、お母さんからだらう、お母さんの何処から産まれたの。
私の顔を覗きこんだ、なんといふ卑怯な質問といふものだ。
しかし私は、桃太郎が桃から生れたので
――坊も桃から生れたんだろ。
とは答へなかつた。
――母ちやんの臍から産まれたんだ。
小さい私は一言にかう答へて突放した。
大人達は、私の口から満足な答を得られなかつたので、不服さうな顔をした。
私はその当時、そんな問題に何の興味もなかつたのであつた。
その問題よりも、
――どうしたらコマが長く廻つてゐることができるだらう。
――戦争ごつこの策戦。
――隠れん坊の誰も気づかない隠れ場所。
かうしたことで小さな頭の中がいつぱいになつてゐた。
私の答弁は、確に不満であつたらしい、しかし、子供達の答として上できとほめてやらねばなるまい。
それに子供達は、妹や弟が生れる時にかぎつて、必ず追ひ出すやうに遊びにやられる。遊びからかへつて見ると、母親は、沢山積みかさねた布団の上に、鉢巻をしておきあがつてゐて、赤ん坊がやかましく綿にくるまつてないてゐた。
だから、何処から生れるとたづねる方が無理であつたのだ、
(二)
彼女達が、何故に裸を怖れるかといふことを、知りたいものがあつたなら子供達に質ねた方がいゝ、子供達はきつと真実に近いことをしやべるであらう。
ところが女達が裸を怖れなくなつたらどうだらう、けつして愉快なことではない。
或る日、私は裸を怖れないものに脅かされた。
私は朝湯の陽炎のやうに立ちあがる湯気の中に、うつとりした気持で、ごし/″\手足を洗つてゐた。
高い天井の彩色硝子に、たちのぼる湯気が凝つて、その玉が行列をつくつてゐた。
玉はひとつづゝ間隔をゝき、ぽたり、/\落てきた。
その落てくる冷たさを、額やら背やらでうけた。
女湯は寂として、たつた一人の女が、ぴちや、/\、板の上を歩き廻る気配がした。
私は足音に耳を傾けてゐた。すると不意に男湯の潜り戸があき、男湯に体の純白な女が、獣よりも身軽に躍り込んで来た。
『あつ』と驚いて、仰向いた私の体の上に、彼女の裸体が掩ひかぶさつてきた。
――しまつた。牛の化物に殺られた。
瞬間、私はごつくりと、唾を嚥みこんで手近なところにあつた石鹸箱に手を掛けた。投つけようと思つたのであつた。
ところが女は私を押倒したのではなく、飛越えて湯槽の向ふに行つたのだ。
――爺さん、流しませうか、こつち背中向けなされ。
湯気の中から、ざら/″\とした触感の女の声がした。
――垢も無いやろ、ざつとでいゝぞえ。
湯気の中の今度は男の低い声だ。
男湯に、はいり込んできた女はまさしく牛の化物であつた。
斑点のある生物であつた。
実に痩こけた老婆であつたが、その皮膚は瀬戸物のやうに、真白に光沢があつた。
俗にシラコといふ不気味な皮膚をしてゐた。
二人の痩た老人夫婦は、おたがいの膚に触れあつて、たがひの背中を流し合つてゐる様子が、いまにも崩れ折れさうな枯れ木が、押あつてゐるやうであつた。
婆さんは臆面もなく素裸であちこち歩き廻つた。
――ちよつと、御免なされや。
かういつて、婆さんは俺の背中に、その人間離れをした白い皮膚の股を触れたりして、平気で湯を汲んだのであつた。
歳をとると、羞恥心などは遠くに置き忘れてしまふのだ、私はしんみり考へながら慌てゝ湯槽に飛込んだ。
老人の裸体ほど醜怪なものはない、下腹の皮が、唇のやうに垂れ下がつて、歩く度にぶら/″\と揺れた。
それにくらべて、お麗さんの体はどんなであつたらう。
モデル台の上に立てはにかんだ彼女は。
皮膚は張切つてゐて、筋肉はどこもこゝも今にも叫びさうに身構へてゐたのであつた。
小さな街の画家連は急に裸婦を描きたくなつたのだ。
冬は青いものがみんな雪の下に隠れてしまふので、情熱家達はその憂鬱な感情の捨場に苦るしんだ。
――研究会を開かう、モデル女をみつけようぢやないか。
気の早い日本画家の蘭沢は、すぐ飛び出て、そして何処からかお麗さんを発見できた。
(三)
私達はアトリヱを探し求めた。
何よりも光線の充分に室内に射しこむ家、そして彼女の肉体を、自由な距離から描くことの出来るやうな、大きな部屋を探し廻つた。
そして室内は余り大きくなかつたが、明るい一室を、或る風呂屋の二階にみつけた。
芸術家などゝいふものは、降神術の中の人物のやうなものだ、そのやることが人間離れがしてゐて動作に特色がある。
一人の素裸の女を、数人の男達が取囲んで狂人眼をして彼女の肉体の各部分を、細大洩らさず絵に描きあげようなどゝいふ計画は、この画家仲間を離れては到底思ひももうけぬ欲望であるのだ。
彼女の体を描くさまは烏が餌を突きまはすやうな現実的なものだらう。
室は好都合にも総硝子になつてゐた。その硝子に紙張りをして芸術家以外の出歯亀が、外から覗かれないやうにした。
室には二箇所に、ストーブを据つけ、煙筒も燃えてしまふほど石炭をしつきりなしに投り込んだ。
室の一隅に桃色のカーテンを長く垂れて彼女がその中で衣服を脱いで現れてくるやうに設備をした。
お麗さんは素人娘であつた。
彼女は処女であると、蘭沢を始め、仲間は力説した。
画家達は、彼女がまだ着物を脱ぎもしないうちから、もうすでに感激し興奮してゐた。
――芸術のために、我々の芸術のために彼女が裸体になつてくれるのだ。
なんといふ彼女は大きな理解をもつてゐるのだらう。
新らしい油絵具も買つてきた。
新らしく画布も張つた。
すべての準備はとゝのつた。画家達は、お麗さんの麗しい姿を、感謝の心で迎へるばかりとなつた。
第一日目の日。
彼女が最初のモデル台に立つ日。
私の仲間が九人、研究室のストーブを破れる程に、石炭を燻べて室を温め、画架を林のやうに立て彼女の出来を待つてゐた。
彼女はなか/\研究室に姿を見せなかつた。
――女は怖気がついたのさ。
私がかういふと、仲間の一人は打消した。
――私は信じよう、お麗さんは芸術の理解者なんだ、待ちぼうけを喰はすやうなことはないよ。
すると又一人がその尾について
――大丈夫来て呉れるよ。わざわざこの室まで借りて準備をすつかりしたことを知つてゐるんだし、あれほど堅い約束もあるから。
しかし約束の時間から三十分も経つたが彼女の姿が見えなかつた。
――それ見ろ、お麗さん逃亡さ。
私は冷やゝかに一同を嘲笑した。
仲間は、不安な気持でがや/″\と話しながら彼女を待つてゐた。
――おい諸君。お麗さんは風呂に入つてゐたよ。
頓狂を声をあげて、蘭沢が飛込んできた。
仲間は小さな歓声をあげた。
私はぎくりとした。彼女がそれほどに、芸術を愛してゐるとは信じてゐなかつたのに幸彼女が現れたからであつた。
私はしかしお麗さんがモデル台に立つまではどうしても信ずることができなかつた。
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