新版・小熊秀雄全集第一巻 |
創樹社 |
1990(平成2)年11月15日 |
1990(平成2)年11月15日新版第1刷 |
1990(平成2)年11月15日新版第1刷 |
旭川新聞 |
旭川新聞社 |
1927(昭和2)年3月23日~26日 |
この一篇をマルキストに捧ぐ
(一)
屋根の上の物音、禿鷹のやうに横着で、陰気な眼をした、あんまり飛び廻つて羽の擦りきれた鴉の群であつた。
こ奴等は、私の家の上で絶えず仲間同志争つた。
私はジット室の中に閉ぢこもつて、この屋根の上を駈け廻る物音を聞いた。不吉な鳥達が、黒いあしうらで跳ね廻つてゐることを知ると、私はたいへん不快な気持にとらはれた。
そして今度は戸口の物音である。
近所に住んでゐるらしい病気の犬こ奴の姿も私には気に喰はない。
何時も腰を、ズルズル曳きづつて歩く、ちよつと見ては、坐つてゐるのか、立つてゐるのか判らない犬であつた、
この犬が戸口に体を一生懸命にこすりつけて、枯れ草のやうな音をたてるのであつた。
逃げてゆくその斑犬の後姿を見ると、まるで赤ん坊のやうにすつかり毛がぬけてしまつてゐる。
頸や肢は哀れに痩てゐるが、腹だけは何つも大きく瓶のやうにふくらんでゐた。
私の郊外の家を、訪れる物音といつたら、まづこの不吉な鴉と、毛のぬけた犬位なものであつた。
海のやうに展けた雪原には何日も何日も吹雪が続いた、殊にこの吹雪のやんだ翌日の静けさは、実に惨忍に静まり返つた。
私の会社に出勤した後の、このぽつちりと雪の中に建つた私の家の中には、どんなに妻は退屈に留守をしてゐるか。
彼女は、室中に縦横に麻繩を張り廻し、凡太郎のむつきを掛け、どんどんと石炭をストーブにくべて、この黒、白、黄、の斑点のあるしめつた旗を乾かしたり、室中をぐるりぐるり子供を背負つて、どうどう廻りをしたり、また流し元でたつた二つよりない飯茶碗を湯の中でコリ/\コリ/\いはせながら何つまでも撫廻してゐることであらう。
凡太郎は部屋の真中にほうりなげられ、円を描いてくる/\廻りながら、手近なものを、なんでも口に頬ばる、畳の間から藁屑を摘み出して頬張つたり、乾からびた飯粒、石炭の小さい塊やら、新聞紙の切つ端や、蝋燭の屑、など片つ端から口にいれた、そして嚥み下されるものは嚥み、嚥みこめないものは吐き出てゐたが、看視人である母親は、鈍感であるので多くの場合知らなかつた。
たまに母親はこれを発見するが落付いたものであつた。
――凡太郎、なんだい、今口へ入たものは、まあ驚いた、これは炭滓ぢやないの、なんといふ判らない児だらうね、お前は、口に入れることの出来るものは、なんでも喰べられるとでも思つてるのかい。
母親は、まだ歩き出すことも出来ないやうな凡太郎に向つて、威猛高になつてかう叫ぶのであつた。
その頃から凡太郎は、しきりに赤い唇を動かして
――あ、あ、あ、あ、あ、
と意味の通じない、小さな叫びをあげるやうになりだした。
――凡太郎は、そろそろ、ものをいひ出すのでは、ないでせうか。
かういつて母親は、すつかり嬉しがつてゐるのであつた。
(二)
私も、凡太郎の『最初の言葉』といふことに、非常に重大な興味と注意とを感じた。
なにかしら凡太郎が、第一に叫びだす言葉によつて、凡太郎の運命の決まつてしまふやうな、その吉凶を占ふ父親の態度でそれを期待した。
――凡太郎の奴。突然新約全書の一章でも、ベラ/″\しやべりだしたら、俺はどんなに吃驚するだらう。
すると凡太郎の相場は決まつてしまふ。
親不孝の凡太郎
父親が、ゲジ/″\よりも、大嫌ひな赤い帽子を冠つて、楽隊附で神様を売歩く西洋坊主。
救世軍の士官に相場はきまるのだ。
――凡太郎。神様のお先棒にだけはなつて呉れるなよ。
すると急に私の赤ん坊時代。清浄でなければならない第一の言葉が、最初に吐きだされた片言が、なにかしら『泥棒』とか『淫売婦』とか『ごろつき』とか『掏摸』とかいつた風な、世の中でいちばん忌み嫌はれてゐる言葉からでも、始たやうにも考へられ、私はそれを凡太郎に怖れて
『花』『太陽』『蝶々』『お星さま』などと、世の中で精々美しい品々を選んで覚えこませようと努力した。
しかし凡太郎が最初に覚えこんだ言葉はなんであつたか。
それは意外にも、私の郊外の家の二つの訪問者であつたのだ。
――かあ、かあ、かあ、かあ
屋根の上の烏の鳴き声と、それから数日して
――わん、わん、わん、わん
玄関口で、皮膚を鳴らす毛の脱けた病気の犬の鳴き声であつたのだ。
私は落胆した。
――凡太郎に合図をしてゐるやうですね、嫌らしい烏。
妻は天井を仰いだ。いまにも屋根を剥いて持つてゆきさうに荒々しく屋根を渡り歩き烏どもは鳴きたてた。すると妻のいつたやうにいかにも凡太郎はその尾について
――かあ、かあ、かあ、かあ
とやり出すのである。そして不吉な烏と、病気の犬との真似をものゝ十日もつゞけたのであつた。
『唖ではないだらうか』こんな不安を抱き始た。然しそれからまもなく凡太郎は、またもや奇妙な叫びをあげはじめた。
――まふ、まふ、まふ、まふ。
最初はその意味がどうしても私達には判断が出来なかつた。
――貴方判りましたよ。凡太郎は牛の真似をしてゐるらしんです。
妻は、或る日凡太郎を抱きあげながら窓際に立つて戸外をながめてゐたが、突然かういつた。
私の家の近くに牧場があつた。そしてその牧柵が、私達の家の窓の下までも伸びてつゞいてゐた。
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