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小熊秀雄全集(おぐまひでおぜんしゅう)-20

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 7:09:17  点击:  切换到繁體中文



神話の擁護 高沖陽造氏へ一言


 ▼高沖陽造氏は新潮新年号で『神話の時代』を論じてゐる。二十世紀の神話は、たしかに現代的テーマではある。しかし高沖氏がこの問題をどんなに解答したところで、問題の出発そのものに一つの神秘化があるといふことを正しく認識してかからなければ無駄である。

 ▼高沖氏のやうに『神話』を論ずるにあたつて可能なものだけを引つぱり出してきて、可能なことをしやべるが、現実的なことを少しも証明しないといふ結論に陥る位なものだ。

 ▼『神話の時代がきたときに、世界観の時代が終つた』と高沖氏はいふが、氏のこゝで理解してゐる世界観なるものの解釈は頗る怪しいものである。氏は新しい神話の登場と擁護をもつて、従来の世界観の歴史的継続を、こゝのところで遮断し、否定しようとしてゐる。

 ▼何故高沖氏は、旧来の世界観にとつて代[#「代」は底本では「変」と誤記]るものが神話であつて、世界観でないなどと言はないで、神話と称する『新しい世界観』だと言ふことができないのか――、高沖氏の世界観否定の理由は『普遍的世界概念の成立しないところに世界を総体的に理解するところの「世界」観の成立しよう筈がない――』といふ。

 ▼『成立しないところ』とか『成立しようはずがない』などといふ決定的なものの言ひ方は、高沖氏が神話を理由づけるところのコジつけ以外の何物でもない。一方が一方を否定するといふ主観的状態だけで、一方が成立しないとか、成立しなくなつたとか、考へるのは独断といふものである。

 ▼『神話と科学との対立も、全民族が『法則』を承認しさへするならば、神話のうちに科学が包摂することができる――』などといふに至つては、この理論家もまた『法則』の助け太刀で、うつらうつらと夢をみようといふわけでお伽話以上である。文学雑誌に掲載されたからいゝやうなものの、高沖氏よ、この神話の問題を科学者にどんな扱ひをされるか、一度科学雑誌にでも掲載して見給へ。



謙虚となれ 従軍作家達に望む


 ▼最近の従軍作家の言説をみると、すこし許りヒガミすぎてゐるやうだ、これらのヒガミの多くは、戦地に行つてきたからといつて、いま早急にすぐれた戦時文学が生れはしないといふ自己弁護が多い、同時にこの人々が引き合に出す言葉には、軍当局が従軍作家に傑作を書くことを強請[#「請」に「ママ」の注記]しなかつたといふことである。

 ▼軍当局が「従軍作家よ、まあ焦らずに悠つくりと先に行つてから傑作を書くさ――」と言つたとしても、それを早呑込してはいけない、従軍作家はどうも軍部の親心や、軍部の真意を解してゐないやうだ。

 ▼戦場とは、鉄砲を打ちあふところで、決して作家の書斎をもちこむところではない、それにも拘はらず、軍当局が、多忙な戦時勤務の中で、火野葦平に数々の戦争物を書かせ、それを発表させるといふ自由を与へてゐるといふ事情を考へてみても判ることだ、それは作家の動員といふ、急迫した現実を語るもので、よくよくのことだと思はれる、尻に火がついたやうに火野が書きまくつてゐるのに、一方には「傑作は後でもいゝ」といふクレヂット付の従軍作家がゐるのは少し贅沢ではないのか、軍部と従軍作家との間の事情は知らない、一般読者が従軍作家に求めるものは、戦争のある間にすぐれた戦争文学をみせてほしいことである。

 ▼細田源吉氏などは、「時局ものを書けば、キハモノだといつてその努力の何ものであるかさへ考へてみない不親切極まる寸評の横行は、これこそ時局身中の虫けらである――」といつてゐるが、それは少しヒガミ過ぎである、最近従軍作家が妙に「大所高所に立つてゐるのだ」とか「時局身中の虫けらだ」とか、第三者に向つて嵩[#「嵩」は底本では「笠」と誤記]にかゝつた言ひ方をするやうであるが、従軍作家がさういふ高飛車な態度でゐる間は寸評家の跡は絶えないだらう、時節柄作家は、特に従軍作家は、謙虚な態度であるべしだ、さうでなければ人間味の強い時局ものは書ける筈がないと思ふが如何――。



文壇の警官 阿部氏の頽廃取締役


 ▼改造新年号の『文化時評』で阿部知二氏が事変下に於ける国民の『頽廃、享楽面』を取締る政府のやり方に就いて意見を述べてゐる。阿部氏に言はせれば『人間の愉楽への本能を根絶し得ぬかぎり、長期に渉る根本的方法は、その愉楽の質を向上させる他になく――』といつてゐる。しかしかういふ言ひ方は、阿部氏が作家でなければ通用する言ひ方である。

 ▼『本能の根絶』とか『愉楽の質の向上』などといふものが、いつたい出来ることなのか、出来ないことなのか、阿部氏は文章ではことも無げに書いてはゐるが、阿部氏自身そのことを本気で考へてゐるのか、どうも疑はしいものがある。更に阿部氏はつづけて『それには取締形式の整備のみでなく、一般民衆の社会連帯の観念を高めることが必要とする』とおつしやる。御もつともさまである。しかし阿部氏は考へ違ひをしてゐるやうだ。政府のとつてゐる方法は、一般民衆の社会連帯の観念を高めるために――の取締形式の整備といふ方法なので、これは唯一の方法で、これ以外に何ものもないといふことに、氏は考へついてゐない。

 ▼巡査講習所を出たての、ホヤホヤのお巡さんでも、社会政策に対しては阿部氏よりも、もつと具体的な意見をもつてゐさうである。こゝに良い見本がある。所謂丹羽物といはれた頽廃もので売り出した丹羽文雄氏が、あだかも自分が女性主義者でないことを証明するかのやうに、甚だ男性的な『勇ましい小説』を書いてゐることである。我々がこれまでの丹羽に期待してゐたのは、人間心理の機構の崩壊してゆく過程を、生々しく描いてほしいことであつた。ここに丹羽は頽廃物から脱して所謂阿部氏の求めるところの『社会連帯の観念を高めるために』軍事物に転向したことは慶賀の至りだ。そして阿部氏そのものは文学に於ける頽廃、享楽面の取締りのために私設警官となつたわけである。



政変的作家 一つの幻滅悲哀か


 ▼最近『某々氏、農民文学懇話会の委嘱により××地方に旅行』といつた文芸消息が数々と現れる、『委嘱』に依りとか『嘱託』によりとかいふ、作家活動をさういふ形で報道されたことは我国文壇近来稀有の現象であらう。これが官報に掲載され、出張旅費稼ぎでもできれば申分なからう。

 ▼作家の生活行動を、その好むと、好まざるとに拘はらず、他からの制約によつて規定されるといふことに対して、作家はもつと敏感になつても良ささうなものである、政治と作家との関係を考へてみても、政治そのものが果す理性的役割といふものは、一部の作家達がわいわい言ふほど、大したものでないことは、世界の政治史が雄弁に語るものだ。

 ▼政治は機構であつて、全体的結論を問題とされなければならない、作家は自らそれと立場を異にするところに、作家の独自な立場があるので、委嘱に依つて農村を走りまはるのもいゝが、作家はもつと意志の表現の単位としての、個人の事業といふものに執着していゝ筈である。

 ▼見給へ、有馬賞の設定も、これを設けた有馬氏が政治的人物であればあるほど、氏が一夜の政変によつて、内閣から去つたことに依つて『有馬賞』なるものの本質また一夜にして変化したのである。従つて農民文学懇話会員作家諸君は、一般的意味に於ける農民小説を書くよりも、近く産組中央会々頭に就任すると噂される有馬氏のために産組小説を執筆する機縁を今後恵まれるだらう。

 ▼政治家の個人的な意志などは、政治のメカニズムの中で働すことが如何に微弱で頼りないかを政治家自身がよく御存知なのに、それを取巻く作家が、何かさういふものに頼らうとする、政治家にとつて最大の幻滅は『政変』だが、近来の作家の中には政変から政変の間をさまよふ陣笠的作家の現れるのも、これまた文壇の一つの幻滅悲哀であらう。

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