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小熊秀雄全集(おぐまひでおぜんしゅう)-16

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 7:05:35  点击:  切换到繁體中文


山口華楊論


 この作家の人気は、或る特殊な雰囲気を、この作家がもつてゐるといふ理由に基づいてゐるやうだ。言はゞ、人気の二種類陽気な人気と、陰気な人気とがあるとすれば、山口華楊はその後者に属するといふことができよう。それが芸術の仕事であればこそこの陰気な人気などといふことも認容されるのであらう。それが映画女優などであれば、人気は陽気なものといふ一方的なものに止まるであらう。山口華楊にせよ、徳岡神泉にせよ、奥村土牛にせよ、金島桂華にせよ、この人々はみな陰気な人気をもつた人といふことができよう。これに対して陽気な人気をもつた作家といふのを選んでみれば、川端龍子を筆頭にあげることができ、次々と何人でもある。世評も何となく派手で解放性があるのである。しかし陰気な方の人気者たちは、何時の場合も、観賞者を全部的に納得させないでをいて、その人気をひきずつてゆくといふ力がある。だから何時まで経つても、なかなか人気を喪失しない作家といふものが居たとしたら、観賞家や、批評家はそのことに疑問をもち懐疑し、そしてその作家の本質を再吟味する必要があらう。
 山口華楊はその人気の陰性であると共に、何時まで経つても人気を喪失しないといふ、その事実に対して、人々は山口華楊といふ作家の、再認識をするべきであらう。またその再認識に良き時期がきてゐるともいへるのである。これまで華楊はどういふ世間的扱ひをうけてきたであらうか、それに就いて、最も適当な華楊評の一断片があるので、それをとりあげてみよう。春虹会第四回展に華楊は「日向」と題して猫を描いて出品した。それに対しての某氏の批評に「流石此作は又一歩華楊らしいよさを進められてゐるのが目立つ(猫の形の強ひて言へば、稍やわざとらしい誇張が気になる様な気もするが、強ひて言はねば気の利いた掴み方であるとも見え)云々」と言つてゐる。このやうな華楊の作品批評は華楊に対する世間的見方の、最も露骨に出たものとして、特長的である。しかも特長的であると同時に、これ以上、通俗的な常識的な批評はこれまた珍らしい。しかしこの華楊批評には、一応の真実があるのである。一人の批評家が、一人の作家の作品の批評に、直面し立ち向つて、「強ひて言へば」とか「強ひて言はねば」とかいふ、前置つきで批評するといふことが、どういふことであらうか。批評をされる作家の側から言つても変な気がするであらう。何故なら、強ひて言へば作品が悪く、強ひて言はねば作品が気が利いてゐて良い――などといふ批評はどうしても奥歯に物の挾まつた、蛇の生殺しのやうな批評だからである。
 そしてこの「強ひて言へば――」とか「強ひて言はねば――」とかいふ、批評の仕方は、華楊の「猫」の批評だけに止まらない。その方法を当てはめてみれば、すべての華楊の作品に当てはめられるやうである。然し、この「強ひて言ふ、言はぬ――」の批評方法を、他の作家にふり向けてみたとすれば、それでも通用をしないわけではない、しかしさういふ、批評をされた場合人に依つて憤慨する人もずいぶんあらうと思ふ。どうやらこの強ひて言ふ、言はぬの批評は、山口華楊にもつとも適当したもののやうに思はれるのである。某氏のこの評に真実があるといつたのは、さういふ意味なのである。この強ひて批評するといふ、批評家側から言つたところの御招待批評は、ひとつには華楊の人気の顕はれとみていゝ、是非、強ひて悪くも強ひて良くも言はして貰ひたいといふ、人気がこゝにあるとみていゝのである。この言ひ方は黙殺主義でも、また世間的なお座成り主義の批評とはまた違ふ、華楊の「一般的人気」は、強ひて言へば悪く言はれ、強ひて言はねば良く言はれるのである。私はこれに対して「一般的人気」といふところにカッコを附けたことに注意があつてほしい。華楊の一般的人気はこの強ひての両端をもつてゐる。しかし華楊の「本質的人気」は、実はこの二つの両端の間を埋めたところに存在するのである。通俗的人気は強ひての両端で結構なのである。しかし華楊自身の実力発揮の精神的仕事は、かゝる両端の通俗性を認めることはなくて、この両端を軽くあしらひながら、その本質的仕事を押しすゝめてゆくことであらう。
 華楊といへば、一口に動物画家といふ観念がとびこんでくる。そしてその佳作「猿」とか「鹿」とかを想ひ出してくる。それと同時にこの動物画の描き手にふさはしい、素朴な、朴訥な、田舎めいた、野趣に富んだ、動きのにぶい、社交下手な、土壌臭い、内省的な華楊といふ作家の人柄といふものを、あの作品の限りで想ひ出されて来るであらう。今挙げた性格の形容の中で、当つてゐるものもあればまた当つてゐないものもあらう。しかし「猿」「鹿」的華楊へ、一つの別な観察を加へてみたらどんなものであらう。いま挙げた性格の殆んど反対のものを考へるわけにはいかないであらうか、華楊といふ人物は、猿、鹿的な動物画家の自然味とは、およそ反対な、むしろ都会的な作家であるといつたらどうであらうか、華楊といふ作家の朴訥味には実は興味が少ないのである。むしろ私は才気煥発な華楊といふ作家の、その精神的動きの方に遙かに興味をもつてゐるのである。華楊は、猿や鹿を描いたことは確かである。
 しかし同時に「洋犬図」のやうな作品もあるといふことを忘れてはならない、彼がその犬の図に於いて、材料を秋田犬のやうな日本犬を選ばないで、グレイファンドのやうなハイカラな犬を描いたといふことも、なかなか興味があるのである。
 華楊の作とは、斯うした田舎臭いものと、都会臭いものとの他に、もう一つ問題にしていゝ立場のものがある。
 それは既に過去の仕事に属してゐるかしれない。しかしこの第三の種類のものによつて、華楊の第三の立場を知る必要があるから、それを見遁すわけにはいかない。それは「畑」のやうな種類のものであり、「葉桜」のやうな種類のものである。この種の作品は全く、「猿」や「鹿」とは違つた、画面に少しも空間を残しておくことを避けたところの徹底的な綿密描写である。華楊の精神の打ちこみ加減を知るには前述の「葉桜」や「畑」などは最も早わかりなのである。「鹿」や「猿」のやうな簡略描写の佳さとはちがつた迫力をこれらの作品に発見できる。この二作だけをとりあげても、華楊には過去に於いて充分に描きこんだ時代があつたといふことを観賞者は忘れてはならない。小品物に現はれた、或は動物画に現はれた華楊は、決して華楊の本質ではない。昭和三年の「猿」は評判作であつた。猿を描いて成功したものには、関雪とこの華楊のものがあるといはれたほどであつた。この猿の親子は如何にも野趣に富んだものであつて、すぐに尻に手をやつて掻いたり、叫び出したりする態の猿であつた。関雪の猿と較べると、全くちがふものがある。関雪の猿の顔はまるでインテリゲンチャのやうに聡明な顔をしてゐる、磨きのかゝつた顔をした猿が描かれてゐる。華楊の猿は決してさうした近代的聡明な猿ではなく、何かの拍子に奇声を発して、歯を剥きだすといつた行儀の悪い猿なのである。さうした野の猿や、可憐な鹿を描いたことに依つて彼は世間的には動物画家のレッテルが附けられてゐるのである。しかしこゝで華楊はその描くところの猿を、関雪風に、磨きのかゝつたインテリゲンチャのやうな猿を描くことができないかどうか、さうしたことの不可能なほどに、作者華楊自身が野趣的であるかどうか、前にも「洋犬画」の個所で述べてあるやうに、華楊は結構ハイカラな猿も描くことができるのである。では何故に彼はさうした風に描かないか、そのことは作者自身の考へ方であつて、第三者の我々の立ち入つてとやかくいふべきではない。ただこゝに「白雉図」があり、「素秋」があるといふことを発見して、華楊の人知れぬ勉強ぶりをこれらの作品から求めることができ、華楊再認識の手懸りともなるのである。「葉桜」や「畑」の徹底的写実の方法とは別に、そこには開拓された別な境地を「白雉図」や「素秋」から発見することができる。この作品は「白雉図」に於いては、平面的であるが、素秋に於いては、全く立体的、空間的なのである。其の点に於いて、華楊の人気は、その作品が凡庸のやうにみえて、ピリッとした何かゞあるといふ実力的なものの、連続的な人気なのである。中村大三郎氏は華楊を評して、この作家には二つの勝れた点があるといつてゐる。その第一は「描かれる動機が純粋であつて、自然に対する感激の素直な流露がある」といふことと第二の点として「他の一つは技巧のたくみさである」といつてゐるこの評は当つてゐると思はれる。殊に後の部分、「技巧のたくみさ」を中村大三郎氏が挙げたことは、さすがは専門家の見方なのである。世間では多くは華楊氏の第一の「純粋」「自然」「流露」さうした点を特長として、華楊の佳さを認める。しかし第二の技巧の点はとかく見遁がされ勝である。ことに華楊の場合の技巧は、所謂技巧としての露出がないために、一層そのことは、技巧の問題としての取り上げが困難なのである。「素秋」に於いて、その作品から不思議な感銘をうける。それはこの作家はどうしてこのやうに的確に空間を描き出し、距離を描き出し、形態の面白さを描き出すことができたかといふ点である。しかしそれは直ぐに解決をすることができる。山口華楊といふ作家は、いつたい誰の門に居たかといふことを考へてみたらわかる。彼の師が西村五雲であつたといふことを想ひついたらいゝ、華楊といふ作家は、五雲の画風を如何に摂取したかといふことを考へてみたらいゝ、俗に親に似ない鬼つ子といふ言葉がある。華楊はその作品、作風の一寸と見では五雲の形式とは似てゐない。鬼つ子である。五雲の作は、ずつと躍動的であるし、それこそ才気煥発である。自然の変化を極度に追求した点がある。華楊は五雲に師事しながら、五雲のこれらの方法とは全く違ふ、似てゐない。然し私は前の稿で、華楊もまた才気煥発だと述べてゐる。その理由を明らかにしよう。華楊は五雲門のうちでも、最も五雲の方法を摂取した一人ではないかと思ふ、それは画風としては、師のものを継いでゐない。それはあくまで華楊のものである。しかし方法、手段の点では五雲の方法が、まことにこなれて取り入れられてゐると思はれる。描かれてゐる部分と、描かれてゐない部分との画面上での抱合、この巧みさは五雲独特なものがある。華楊もその点実に五雲的な巧みさなのである。線の発展の追究的なところも、五雲の態度とそつくりなのである。トコトンまで一本の線の流れるところ、描かれてゆくところの究極的まで押してゆくといふやり方は、五雲の方法であつた。五雲はそれを写実的方法といふ重厚な方法として、線の行き先きを見とどけるといふ方法をとつたのではない。五雲は五雲の抽象的な手段としてそれを行つた。従つて五雲は思ひもかけぬ図柄を我々の眼の前に提供し、次の作品が予測できないやうな変幻の妙を示した。五雲の絵の派手で、そして優れてゐるのはその理由に基づく。華楊の場合は、師の五雲の芸術上の抽象化を避けて、その五雲の方法を写実的方法といふ限界の中で行つたといふ相違があるのである。そのことは華楊もまた時代の子であり、若い世代の心理の洗練を、その現実主義としてうけてゐるのである。着実な手段を選び、煥発する才気をじつと抑制する力はこれまた作家の実力の一部といふことができよう。一本の線を描かうとするその線の辿る路に、相触れて拡がり、またはせばまつてゆく空間の変化、この描かれた部分と、描かれない部分、線の実在と、非線の非実在この調和抱合、その追求態度さうしたものは、華楊にとつては、唯一の芸術的手段であり、これはまた態度として失つてはならないものであらう。その点こそ、五雲の本質の正しい意味での継承といふことができるであらうし、五雲もまた良きその本質の継承者を山口華楊といふ作家によつて得たことになるであらう。
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小杉放庵論


 小杉放庵氏の仕事も、最近では俗に言ふところの「呼吸ぬき」をしてゐるかのやうに思へる、ながい緊張感の間、あひだの休息といふ怠惰の伴つたそれではない。彼は不断に張り切つてはゐるが、それでゐて彼流の呼吸ぬきといふものもあらうといふものである。私のいふのはさういふ意味での呼吸ぬきといつてゐるのである。軍隊の方の用語に、「小休止」といふのがある。行軍の間のほんのちよつとした休息を指さしていふ。この僅かの休息の時間に、兵隊達はそれぞれその最も有効な休息の方法を採る。或る兵士は水を嚥むことに一生懸命になつてゐれば、或る兵士はいきなり靴を脱いで、足を休めてゐる。或る兵士は、いきなり仰向けに寝転がつたと思ふと、もう高いびきである。
 兵士がそれぞれ独特の休息法を採るやうに、芸術の戦士としての小杉放庵もまた、時には小休止する。現在がその期間であるかのやうな印象をうける。ただ興味のふかいことは、小杉放庵の呼吸ぬきは、「本朝道釈」のやうな作品を生み、この呼吸ぬき作品がなかなか風味が良いのである。
 横山大観にはこの呼吸ぬきで妙味ある作品を描くことはできない。大観は仕事の感情を盛り上げてゆく、今度の陸海軍への報国的制作、海と山とに因んだ二十点などは、さうした感情状態でできあがつた作品である。放庵には感情を盛りあげてゆくといふ時代は、既に終つたかのやうに思へる。感情を盛りあげて制作してゆくが、その頂点において横に逸脱するといふことができる。ただこの逸脱が単なる逸脱に終らないといふことは、その制作を不断に反覆してゆくといふ、非常な精力的な仕事ぶりが値打があるのである、もし放庵にして作品が少なかつた場合には、彼の仕事は作品が多いといふ場合よりも値打が附くであらうか、それは問題なのである。放庵の場合は作品が多いことが、彼の価値の一部といふことができよう。彼は小休止するときも、筆を停めない、そして「本朝道釈」のやうな、呼吸ぬきの、肩の凝らない、それでゐて内容的には非常に凝つた作品を見せてもらふことができる。然も数多く、そのことは観賞者の一つの幸福といはねばならない。「本朝道釈」の中の一人物に芋銭を加へてゐるのなどは、如何にも放庵の理解の面白さがでゝゐる。私が日本画家であつたら、「新本朝道釈」を描いて、芋銭の次に放庵を描くであらう。放庵そのものも確かにさうした人物の一人に加へても差支へはなからうし、またさうした人物と共通した「人生の味」を体験してゐるといへよう、芋銭の作品もこれはまた人生を呼吸ぬき、肩ぬき、肩透かし、うつちやりの連続で生き抜いたといふ感を抱かせる。彼の作品の妙味や値打は、その作品一つ一つに就いても言ふことができるがその作品の数多いといふ事も値打である。放庵は芋銭のやうにはいかないだらう。芋銭は自分の尻の穴まで解放した。野放図な人生の渡り方をした。画きなぐつたやうな作品が多いが、このなぐり画きに生命感が横溢してゐるから妙である。作品の数が多く、その数の多いといふことが少しもその作家の価値を下げないといふ境地に、何等かの形で到達してゐたわけである。しみつたれに一枚の絵に筆を加へて、そして出来上つた作品が大したものでもないといふ場合のことを考へていゝ、精神力も肉体力もしきりに出し惜しみをしてゐる日本画家が多い折柄芋銭のやうな人生度胸があつて始めて「人間としての画家」といへるのであるまいか、興味ふかいのは今後の小杉放庵そのものの「人間味の出し方」である。「人間放庵」といふ形容はよく耳にするところである。しかし何が故の人間放庵であるかといふことを説かない、放庵といふ一人物は、それが如何なる形に於いて人間的であるかといふことを、我々はお世辞抜きにして考へてみたいのである。
 その日常生活に於いて放庵は、まことに人間的であるのか、或は画風の上に人間味があらはれてゐるのか、その何れであるかといふことを分明にしてゐない。芋銭が人間的であるといふことに就いて、彼の日常生活の逸話風なものや、ゴシップ風なものはよく聞くことである、しかしそれは浅い興味をひいても、深い興味をひくことはない。その日常生活に問題があるのではない。芋銭の作品そのものに問題があるのである。いま放庵を論じ放庵の人間味を論ずる場合には私は日常生活を少しも知らないから、そこから放庵人間論の材料を求めるわけにはいかない。矢張り過去、現在の放庵の作品から、それを求める以外に方法はない、私は放庵の人間味を求めるとき、いま一人の人物を想ひ出さずにはをかない。それは小杉未醒といふ人物である。この人物の油絵は「杣」といふ作品にせよ「水郷」といふ作品にせよ、百パーセントに人間らしさが現はれてゐるのである。テーマを杣夫とか漁師とかに取材するといふ庶民性は、作家の態度として非常に正しい高いものであり、その写実主義的方法は現在に於いても立派に通用する方法であり、また見渡したところ、未醒ほどの写実力をもつた作家は現在の洋画壇には見当らないと思へるほどである。洋画壇でも何々主義、何々派といふ流派的な変遷があつてその意味では、未醒はこれらの新しがり屋共と現在まで行を共にすることは不可能であらう。然し庶民間テーマに基いた写実主義で、もし未醒が現在まで押し切つてゐたとしたら、洋画壇に在つての一権威として存在するであらう。一つの実体から、二つの影像が浮き出したやうに、小杉未醒といふ人物の中から小杉放庵といふ人物が現はれたのであるか、或は小杉未醒といふ人物の中から小杉放庵といふ人物が生れだしてきたのであるか、そしてその途端に小杉未醒といふ人物が消滅してしまつたのであるか、或は現在に於いても未醒と放庵といふ二人の人物が存在するのであるか、私はそのことを興味ふかく考へてみたいのである。
 洋画を追求した未醒は、日本画に転じて放庵と改名した。これは二人の人物ではなくて、一人の人物のことである。曾つては未醒と呼んだこともあるといつた。一般的な理解はそれは一般的な理解で納得する人にだけまかしてをけばいゝのである。私は未醒の洋画から放庵の日本画への移行といふものを、もつと追求して考へてみたいのである。もしこんなことができるのであつたら、小杉未醒といふ洋画家にいままで洋画を追求させてこさせたかつたし、また小杉放庵といふ日本画家にも、日本画の追求をつづけてこさせたかつたといふ、殆んど不可能な慾張りな希望をもつてゐるのである。その希望は殆んど夢想的なもので、また夢幻的な不可能な希ひである。しかし幸ひにして、後者としての日本画家放庵は、生きつづけてきてゐるし、仕事を連続的にしてきてゐるのである、しかし一方未醒はその実体が時に距たれて、影うすく、また全く存在してゐないのである。
 洋画を自個の芸術の手段とすることに、不満を感じて日本画に転じたものであらうかといふ疑ひは、洋画家から日本画に転じた作家には、無理なく考へられることなのである。しかし放庵の場合はそれを感じない、つまり洋画の芸術手段が嫌になつて、日本画へ転じた人とはどうしても感じられない。その点が評者としての私の疑問点なのである。何故放庵が洋画を不満としなかつたかといふことを言へるかは、現在の日本画の仕事ぶりを見ればはつきりとする。放庵位、仕事を楽しみ、悦楽の境地においてゐる日本画家がゐるであらうか、芋銭はその楽しみ、悦楽を果して一生を終つた人であるが、放庵に於いても、仕事を楽しむといふ境地は、芋銭と等しいものがある。芋銭は自己の理想境を、絵を描くといふことの中に没頭する、強い理想主義者としての現実的な迫真力の強さをもつてゐた。放庵は曾つて未醒時代の写実的追求によつて、その理想境を一応追求したのであつたに違ひない。何故ならその描いてゐるところの洋画は何れも強い現実的な描写を以て杣夫とか漁師とかいふ人間的環境を驚ろくべき的確さをもつて描いてゐるからである。洋画に於ける理想はそこで一応果たされた。それは現実的写実的物質的手段の徹底的追求によつて完成されたからである。
 彼未醒が洋画家として第二次的な芸術的悩みに陥るとすれば、それは手段、方法に対する悩みでなく画題に対する新しい悩みが登場して来なければならなかつたのである。然しこの未醒の第二次的な悩みが襲来したとき、未醒は、その「題材の喪失」といふ一事件にぶつかつたのであらう。道筋は当然さうあるべきだ、杣夫や、農夫や漁師から、突然極度に美しい鳥類や、松の木や、蔬菜類などを描かうといふ精神的移行は、洋画といふ現実的な材料と袂別の始まりであつたのである。生活に痛んだ漁師の人間らしい顔を描き、その漁師の悠つたりとした心の寛容さを描くのに用ひた油絵具は、こゝでは、斯うした材料を描かないといふ心の規則によつてまたこの「題材の喪失」によつて捨て去られたのである。そして全く日本画題材へ精神が傾注したときに日本画材料を手にした放庵といふ生れ替りが立つてゐたとみるべきであらう。
 未醒、放庵の転移の瞬間に就いては、かなりに強烈な意図の下に行はれたやうに思へる、いまこゝに放庵の人間味を論じ、論じ尽し得ない人々があるといふことは、それは放庵の心内の状態の吟味と彼の日本画の仕事の性質の検討が不足だからだと思はれるのである。
「胡馬」といふ作品がある。この作品は人間味のある作品であらうか、この作品は非常に作者の心理の複雑なものをこの作から感得できるのである。読者はこの「胡馬」の描かれた状態に注意をされて欲しい。殊にこの馬の前脚に何か不思議な感得をすることがないであらうか、私はこんな幻想的な批評をこの場合ゆるして貰ひたい。それは小杉放庵といふ作者は、小杉未醒といふ作者をこの「胡馬」の前脚の処に封じ込んでしまつたのだと考へる、私はそれほどに、この馬の前脚に人間が立つてゐるやうな、擬人的なものを感じられるのである。この作品は、決して張り子の馬のやうな現実遊離の馬ではない。しかし歌舞伎の縫ひぐるみの馬のやうに、確か前脚には、一人の人間が縫ひこまれてあるやうに思へてならない。しかもそれは放庵は未醒をこゝに封じこんだといふ幻術的な異様な感覚をそこからうけとる。馬の頭部は何事かを思索してゐる。それが何であるかはわからない、再びこゝで問題をすゝめて、それでは日本画家としての放庵の人間味はこの「胡馬」的なものに求めたらいゝであらうか、それは全く見当が違ふのである。それは花鳥を極度に美しく描いた作品にそれを求めなければならないのである。その現実離れのした美しさは、その現実離脱の距離の長いほどに、放庵の人間的慾望は果たされてゐるといふことに、観るものは気附かなければならない。放庵は未醒時代から、今に至るも私は理想主義者であると思ふ。芋銭が神仙境を描いたといふことは、さうしたことを好んで描いたといふことはどういふ理由に基づくであらうか。それは芋銭が自己の理想の顕現をそこに果たしたことになり、芋銭の人間味はそこに発見されるのである。放庵の人間味は、あの孔雀或はその他の花鳥類の細微の華麗さの中に彼の神仙境があるのである。石上人や樹下の仙人達に、真の放庵の楽しみは、放庵の理想境は、放庵の神仙境があるのではない。実は大根や人参や、アケビやザクロの転がつてゐるところに仙境があるのであつて、彼の人間味があるのである。彼の絵は華美の極点を衝くほどの人間味が、ぐんぐん出て来る筈である。その点既に仕事の境地は石崎光瑤と似てゐる。光瑤の花は見てその気持が悪くなるほどに美しく描かれてある作品ほどにこの作者の恐るべき人間的境地があるのである。放庵または[#「または」はママ]その境地に入つてゐると思はれ、また是非さう方向づけてすゝむべきであらうといふ結論にも達する。何故なら写実的な現実的な追求をするのであつたら、放庵は未醒に還らなければならない。現在の放庵はさうではない。非現実的世界を求めて、未醒と袂別した放庵の絵画上の手段方法は、その非現実な美の頂天に到達して、現実性を見るものに与へなければならない。更にこゝに放庵は「胡馬」の前脚に封じこめた未醒を、魔法を解いて解放してやるといふことも考へられる。同時に私は放庵はあの不思議な紙「放庵麻紙」ともあつさりと袂別して、彼のあらゆる規律と、形式とからの解放と自由とをもつて、真のなまなましい人間放庵の仕事をみせて欲しいやうにも思ふ。放庵麻紙を捨てよ、といふ私の忠告は色々の正統な解釈と、誤解とを生むかも知れない。しかし人々は安心しなければならない。この不思議な紙に捉はれてゐる彼がその紙を捨てたからといつて、彼が第三流の画家になるとは思へないからである。私のこの注文は放庵の脱皮を希望しての一つの利の提言なので、私のこの提言は一つの科学的根拠に立つた考へから出発したものだといふことを信じてゐるものである。
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福田平八郎論


 福田平八郎氏と堂本印象氏の、これまでの画壇的な経歴といふものを比較してみると、そこに対蹠的な興味を湧かすことができる、それは印象氏、平八郎氏の、初期の時代に、そゞろに画業の覇をきそつたことを想ひ起こすことができるからである。そして現在二人はどういふ画壇的位置、画風、を示してゐるかといふことを考へてみよう、帝展が最初に発見した新人は第二回『静夜聞香』中村大三郎氏、第三回『調鞠図』堂本印象氏、同第三回『鯉』福田平八郎氏のそれであつた、この三人は文展時代何回か鑑別されつづけて帝展になつて初めて抜擢されたといふ、同じ特徴をもつてゐたことだ。大正十一年の第四回には、推薦『阿梨母帝』堂本印象氏、推薦『鶴』福田平八郎氏、特選『燈籠のおとど』中村大三郎氏、特選『秋二題』水田硯山氏、といふ選ばれ方である。この印象、平八郎に、いま大三郎を加へて、現在の画業の足跡をそれぞれ顧みるとき、何か肯かれるものがあるのである。この作者達の仕事ぶりの開きはかなりに現在では大きい、そしてその初期の出発に於いてこの三人が、何か特異な距離を既に当時に於いて示してゐたわけである。いま堂本印象氏は寺院壁画其他に全幅の精力を傾注してゐる、そして中村大三郎氏は人物を主体としたテーマ芸術に立脚してゐるのである、そして福田平八郎氏は現在どのやうな仕事をしてゐるであらうか、彼は依然として鯉を描く情熱は衰へてゐないし、これまで彼が手にかけてきた画題雪でも鶴でも、『朝顔』『菊』『茄子』等々と過去の画題を引きずり出してきて、何べんも描く情熱があるのである。この点に、印象、大三郎氏等とは異つて平八郎的立場があるのである。つまり彼は何度でも同じものを蒸し返すことができるのであるし、また彼の足跡はさうした蒸し返し(画題的には)によつて現在に到つてゐるのである。
 印象氏の仏画的な画業は、画業であると共に、事業でもある、それは絵画の果し得る一つの宗教的任務を、印象氏は果しつゝあるので、さういふ意味では印象氏は非常に社会的な、また政治性を加味した動きをしてゐるわけである。印象氏は最も公衆術を描いてゐるといふ意味で、社会的意義をもつてゐるわけである。
 こゝで平八郎氏の仕事ぶりを、堂本印象氏の仕事ぶりと較べてみるときは、全くその性質を異にしてゐる、世間的評価の印象、平八郎の相違点もまたその仕事の態度の相違点に拠つて決定されてゐるといふことができるだらう。こゝでは評価をこの二人のどちらが絵がうまいかといふ意味での問ひ方をしてゐるのではなく、この二人の仕事の違ひ方を問題にしてゐるのである、福田平八郎氏の仕事の系統は、その鶴とか、鯉、鮎、牡丹、といふ風に画題の選択に於いて、全く造形的分野のもの以外に出てゐないのである、テーマ芸術へ行かずに、絵画的造形性に執着してきたといふことが、何よりも福田平八郎氏の特徴であり、またこの点に立つて福田氏を論じて行かなければ、この人の仕事を理解するといふ鍵は発見できないのである。風景も、人物も、また仏画、武者絵もまた決して絵画的造形性を失つて成り立つものではない、しかし素朴な意味に於いて、それが仕事の上に於いて完成された場合に決して単なる素朴でないところの造形的なテーマといふものは鯉を一生描きつづけること、茄子や柿の形をせつせと追求してゆくといふところにも尚且つ、物質の探究といふ精神的労作があるのである、福田氏はさういふ意味で造形性への執着探究に於いて、稀にみる厳格な態度をもつてゐる作家といふことができる、福田氏の人気の拠りどころはかうした平凡なテーマのものを、清新な雰囲気に描き得てゐるといふ点にある、しかしてこれらの一般大衆の評価は、清新な雰囲気を感得することだけで満足してゐて、どうしてこの作家が、さうした清新さをもちつづけることができるかといふことなどには触れない、それは無理もないことである。一般観賞者にとどまらない、美術批評家なるもので、福田氏の仕事に対しての正統な批評を誰かしてゐるだらうか、さうした材料を自分は求めたか、つまりは平八郎式だとか、清新だとか、なかには現在我国の日本画壇に於いての唯一のモダニズム作家は福田平八郎氏であるとかいふ、一言でいへばお座なりな、浅薄な批評が多いのである、ただ何となく福田平八郎の絵は佳いのである。福田氏は鯉の研究者としても大したものだといふ、鯉といふ魚類の生物学的研究者であるか、或は観察者としての研究者であるかその点は語らない。ただ鯉を巧みに描くといふ事実が起きて、次いで起つてきた世間の噂なのである、もし作者にして鯉を巧みに描き得なかつたら、鯉の研究者でないわけである。『漣』といふ作品がある、この作品は一言で言へば奇怪な作品なのである。この作品の制作動機、手段方法は、一つの謎としてのこされていゝだらう。この作品だけを見ながら考へるときは福田氏は鯉を描く場合の魚類学の大家であると共に、この『漣』を描くことに於いて物理学的立場からみた波紋の研究者としても、大家のやうに思へるのである。この『漣』は全く科学的な根拠と一致してゐるといふことは、福田氏が科学人であるか、或は観察者としての徹底的態度が、偶然にもこの作品を産み出したのであるか、その何れであるか、その解明も興味ふかいものがある。科学的であればそれは近代的であるわけである、したがつて福田平八郎氏を我国唯一のモダニズム作者であるといふことができる、しかしさうでなく科学的根拠に特に立つて描いてゐるわけでなく、観察を以て方法として、それが偶然科学性と一致したといふ場合は、モダニズム作家と呼ぶわけにはいかないのである、福田平八郎氏と、吉岡堅二氏と何れがモダニズム作家であるかといふことを考へてみたら、こゝでもまた問題が起きるわけママ福田氏の文展二回の『青柿』には作品に怖るべき質的昂揚があるのである、しかも吉岡氏の作品にも、同系列の質的昂揚のある作品が少くないことも注意すべきである。
 科学者の認識と、芸術家の観察とが一致するといふことはあり得るのであつて、それをもつて奇とするにはあたらないが、その芸術家の観察がどのやうな計画性をもつて行はれたかといふことは問題とされねばならない、つまり観察が充分な計画性の下に行はれる場合には、そこに正しい科学的手段といふべきものが生れてくる。
 福田氏の『漣』はあの波紋を、単に直感といふ観察の下に描かれたものであるかどうか、さうではなくもつと充分な科学的な計画の下に描かれたものであるかどうかといふ、この点が作者の所有する制作技術の内容を吟味する唯一の鍵なのである。鏑木清方氏が福田氏の『漣』を当時批評して『ちよつと見ると単純な仕事のやうにも見える群青の波の一つ一つの形態の心づかひ単にそれだけで見て行つても倦きる時がない[#「』」の脱落はママ]、この批評が語るやうに、この波を描いた作者の心の配り、心づかひ、といつたものは、その一線一線に現はれてゐて、それだけをみて行つても倦きないといふことはよくあたつてゐる、前田荻邨氏の波も優れたものであつて、『潮』は特選作である。いかにも生々と波は描かれてゐるが、前田氏の波に対する観察の高度な頂点は感じられるけれども、その観察に科学的認識の導入といふものが感じられない、福田氏の『漣』では、波の線はもつとぶつ切つたやうな、切れ切れの線の配列にすぎないが、実感的には波を感じさせる、高木保之助氏の『早瀬の波』といふ作品があるが、これもすぐれたもので、波に対する新しい解釈が加はつたものであるが、それでも矢張り人間の解釈といふものが、画面にぶらついてゐてぴつたりと波の実感に即しない、福田氏の漣は、その点ではその制作方法を第二段の問題としても、作者が自己の立場を、自然の対象物へ全く身を投じたといふ対象との密着性がある、農学博士の内田清之助氏が昭和八年一月号の『塔影』に花鳥画と鳥類生態写真と題して色々の鳥を語り、写真を掲げてゐるが、その中で波に立つてゐる『シギ』を撮つた写真を掲げ、その写真の漣の部分だけの拡大写真と、福田平八郎氏の作品『漣』とを比較掲載して、内田博士はかう語つてゐる。
『次に出してゐる写真は、此の写真の一部を引延したもので、その次は、御承知の、帝展で評判になつた福田平八郎氏作『漣』です、之で見ても、福田画伯の観察の鋭さには敬服する(中略)よく此の双方を注意して見ますと、漣の一部に統一を破つた、複雑な線の現れてゐる所が見られますが、絵にも写真にもやはり全く同様に現れてゐます、無論漣は物理的現象ですから、いつの場合にも、同じ条件の下には同じやうな線が現れるのに不思議はないと云つて仕舞へばそれ迄ですが、全く別箇の此の絵と写真とで、斯く迄一致してゐることは面白く思はれます――』と述べてゐる。実際の水の動きの写真と描いた絵とがぴつたり一致したといふことは、悪写実の世界から言へば、物と絵との悪どい似方といふものも珍らしくない、しかしこゝでの福田氏の漣と実際の漣との相似点は、悪写実といふ固定した制作方法の上に立つての似方ではなく、むしろその反対の最も非固定的な、自由な形式の上での自然物と創作品との一致を見たのである。
 然も内田博士はさすがに科学者らしく、自然の漣からも福田氏の漣からも、最も重要な一つの事実を指摘することを忘れなかつた。然もこの博士の指摘はとりも直さず画家福田平八郎の本質をはつきりと語つてゐるし、この作者の創作手段解明の鍵ともなるのである、それは博士が『漣の一部に統一を破つた、複雑な線の現はれてゐる所が見られますが、絵にも写真にも、やはり全く、同様に現はれてゐます云々』といふ言葉である。
 自然観察の妙は、実はこの点にかゝつてゐるのである、福田平八郎といふ作家の描くものに、清新さを失はぬ理由は実は、さうした、或る一部に統一を破つて複雑なもの――を、画面に感ずるからである、福田氏の作品は殆んど無構図主義だと思はせるほどに画面のはまり所を考へないやうな大まかな構図のとり方をしてゐる作品が多い、しかし出来上つた絵はぴつたりと画面にはまつてゐて、何ら構図上の欠点といふものが現はれてゐない、それはどういふ訳か、それは観賞者の視覚的焦点を、構図にもつてゆかさず色彩に分割してしまふからである、そして構図は最も効果的には、線の連絡の変化をつける事によつて、画面上を動的なものとしてゐる、福田氏の線と線との連繋は、実は非常な細心な態度で、その連繋を意義づけてゐる、『漣』に於いて観賞者のママ覚をさんざんもち運ばされるやうに、福田氏の作品に含まれた作者の計画性は、生理的効果にまで高めようとする野望が潜まれてゐるのである、数箇の果実をならべたものにせよ、数匹の鯉を配列したものにせよ、その配列には『或る一部に統一を破つた複雑なもの――』を方法として、かならず加へてゐるといふことは少しく注意すればすぐ理解できると思ふ、つまり福田平八郎氏は『線の発展の画家』なのである。
 同時に問題となるのは、その色彩であらう、この福田氏の方法といふのは、色彩の徹底的な突離しと、手元への引寄せともいふべきもので、制作過程にがらりがらりと色を変へてしまふピカソのやり方と一致してゐるのである、ピカソと異る点は、福田氏の色の美は、色彩の平面的変化、色彩の配列的な変化を顧慮してゐる点で、西洋のピカソはその点で立体的に度胸よく色を変へてしまふ。
 福田氏の作品で色彩の濃厚な出来栄へのものには、総じて平面的変化でない、立体的な生々しい物質感がでたものが多く、この質的昂揚に接するとき、若い時代的な画学生は、また一人前の画家も、福田氏の仕事の研究的対象となることを痛感するのである。
 福田氏の最近の作品ではその色彩の淡い物に、色のマンネリズムに陥つたものも少くない、また同時に氏の作品の特徴として、その作品が総じて図様化されたものが多く、この模様のやうな方法が度がすぎた場合は迫力にとぼしく、質感もまた形の制約性の中に閉ぢこめられて、生々しい所謂清新なる色彩はでゝゐない。
 福田氏は一言にしていへば、氏一流の物の発展の原理を自覚してゐることで、色彩に思ひがけない偶然的な変化を与へる手段も心得てゐれば、線の変化連絡によつて、第三者の視覚を自由に操縦するテクニックももつてゐて、本人は理屈といふものを非常に嫌悪してゐるらしいが、福田平八郎氏ほど理屈つぽい絵を描く作家は他に見受けられないといつてもいゝであらう。
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