您现在的位置: 贯通日本 >> 作家 >> 小熊 秀雄 >> 正文

小熊秀雄全集(おぐまひでおぜんしゅう)-16

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 7:05:35  点击:  切换到繁體中文


金島桂華論



 厳密な意味に言つて、作家の作品だけの本質を論ずることは、一応まとまりがつき易い、しかしその作家の「人気」の本質を論ずるといふことは、なかなか難事業である。批評の場合、その作家に依つてさうした困難とぶつつかる場合がある。奥村土牛氏とか徳岡神泉氏とか、いまこゝに論じようとする金島桂華氏などは、何れもその「人気」の本質に就いての難かしさを具備した作家だといふことができよう。奥村土牛氏の作品が、八千円しようが一万円しようがそのことは少しも驚ろくに足りない。しかしさればといつてこの思ひ切つた価値の良さが、全く問題にならないといふ意味ではない。もし人気が土牛氏の作品をそれほどに価格的に高めてゐるとすればその人気の問題も解明してをく必要があらう。それと同じやうに金島桂華氏の作品が六千円したといふ噂も、これまたこゝでは多少その人気の良さと価格とを接触させて論じてをくことも無意味ではないであらう。何故さうした人気と価格とを生じたか、「何、それはそれほどの金を出して買ふ人間がゐるといふことだけだ――」といつてしまへばそれまでの話である。
 しかし世の中はさうも単純でもないやうである。世間では、土牛にせよ、桂華にせよ、その価格維持の一理由の中に、寡作であるからだともいはれてゐるが、殊に土牛の場合は、寡作な上に、絵の出来がなかなかおそいといふ理由も数へられてゐる。しかし、土牛の場合には現在ではその理由は当つてゐない。曾つてはさういふ時代もあつたに違ひない。しかし画家の描く作品を、経済的機構の中の、一つの商品と観察して考へてみた場合に、全くの寡作主義者で市価が上り、人気が上つた作者があつたためしがない。あつたとしてもそれは特殊の場合であらう。商品としての作品はその市価をある動きのない状態にをくといふことだけでも、ある数量が必要とされるだらう。つまり同一作家の作品でも、庫から出したり引つこめたり絶えずしてをくだけの数が描かれてゐなければ、市価も人気も出るものではないだらう。奥村土牛氏の場合にも、展観の出品遅参組の随一ではあるが、とにかくかなり作品を間に合せてゐるし、遅筆寡作とはいへない。むしろ現在のところその製作スピードは緩急よろしきを得てゐる。
 そして金島桂華氏の場合はどうか、氏の場合には土牛氏以上に商品的数量を産出する力はもつてゐるし、また金島氏の過去の仕事の系統をみても、さうした実力をもつてゐる。それを作家の芸術的立場に立つて批判すれば製作能力の旺盛なものがあるのである。しかし土牛、桂華、神泉といつた作家が沢山展観物も所謂単なる商品的なものも産出してゐるに拘はらず、現象的にはさうは見えない。世間的には寡作者のやうに見える。その点に一つの問題点も隠れてゐる。
 こないだ開かれた土牛、桂華二人展ほど、私の興味をひいたものがない、誰がどうしてこの二人を組み合したのか、それはあまりにぴつたりとした組み合せであり、また皮肉な組み合せのやうな感想も湧いたのである。土牛はその年来の画業に近来いよいよ滋味を加へてきてゐるが、一言で言へば、土牛は嫌々絵を描いてゐるのである、一個の柿を描くときその外劃線を引くときの心理的気倦るさ、これまで土牛は注文に応じて、何個の柿を描いてきたかは知らないが、果実店の三軒やそこらは開業できるほど、柿や其他の果実類の数量を描いてきたであらう。そしていまこゝへ来てたつた数個の果実を描いて八千円もの市価を産むところまで、職業的にもあきるほどに果実を突つき描いてきたであらう。そして柿を描くのにも。矢のやうな催促の中で、嫌々引いた幾本から線の交錯によつて、絵がやつとの思ひで注文者に間に合つたり、合はなかつたりする。しかし画業の難かしさまた真個ほんとうの意味での妙味は、実はさうした嫌々に線を引くところまできて始めて、仕事の出発があるともいへよう。
 土牛はその線を嫌々引けば引くほど、その線が光彩あるものとして、また深い人間的味がその線に滲み出るのである。ところで桂華の場合はどうか。彼は土牛、桂華二人展でもよく対照されるやうに桂華の絵はその土牛とはちがつて娑婆気の加はつてゐるところに彼の作品の良さといふより問題点が展開されてゐる。土牛は嫌々だが、桂華はまだ仕事を楽しんでゐるし、ここに試みの多くをその作品に加へてゐる。桂華ほどの画壇的な地歩にあるものが、いまさらむき出しに技法上の試みを加へる必要があらうか、彼はいまでは画学生ではない。しかし、彼の心の中には画学生的な正直な部分がある。こないだの土牛、桂華二人展は、老画生土牛と、画学生桂華とのおそろしくくそ真面目な展覧会なのである。たゞこゝで問題なのは、この二人にはある共通的な通俗性があることである。この通俗的な部分が市価を招く、そしてこの二人のもつとも通俗的でない良心的な部分が市価を引き下ろさない――といふことになつてゐる。通俗的な部分は世俗的な智慧の働き場所であり、非通俗的な部分つまり芸術的な部分は反世俗的な智慧の働き場所である。そこでこの二人の智慧は非常に良く働き世俗的にも、非世俗的にも、完成されたものをもつた作家達である。この二人に特別な人気がある理由は、期してか期せずしてかこの二人がふたつの智慧に恵まれてゐるからである。
 土牛や桂華の描くものは、神品といはれて殆んど無条件的に佳さを認められてゐる。この二人の場合の「人気」はその作品の中に含まれてゐる通俗性であり、「神品」なる理由は作品の芸術性にある。そして世間では往々にして土牛にせよ、桂華にせよ、これらの作者の二つの智慧の一面、半面だけを見て感想を述べてゐる場合が多い。絵に理解の浅い一般人は、その作品の通俗性の部分に感じ入り、そして専門家の画家は、その通俗性を発見せずに裏側から、芸術性をのみ認めて、これらの作家の仕事を肯定してゐる。
 そしてその何れの批評の仕方も正しくない。土牛や桂華の作品を見る場合には、画面に現はれてゐる、この作家たちの二つの智慧を綜合的に見る必要がある。通俗人をも感心させ、芸術人をも感心させるといふことに就いてもうすこし考へてみる必要がある、それでは土牛や桂華が、自分自身でその「通俗性」を計画し、意図してゐるかどうかといふことになると、私は否と答へたい。この二人が「通俗性」を出すことを、絶えず心の中に計画して、これまで来るといふことは不可能事だからである。またこの二人がさうした意味の通俗人であつたなら、現在の人気の維持はでき得ない。とつくに没落してゐる筈である。
 この二人は何れも、通俗性を出さうとするどころか、ひたむきな一生懸命なところがある。敢て土牛を老画生とし、桂華を画学生としたのはさうした画業精励のひたむきさを評して言つたのである。そしてこの二人は懸命になればなるほど画に通俗性がでゝくるのである。これは何もこの二人の罪ではないのであつて、この二人の辿つてゐる芸術の方法上から来たものといふべきである。
 土牛と桂華とを組み合して、斯うして論じてゐるのは、この二人は最も対立的な立場にある人に拘はらず、画風といひ、方法といひ、この対蹠的な状態であるのに帰するところが同一なものがある。同一の悩みを、異つた方法で悩んでゐるといふ。良い見本のやうなものである土牛が何故製作の方法上の帰結として「通俗性」に立たせるか、それは土牛の絵の「単純化」の方法が辿る路筋なのである。土牛は形式を益々単純にしていつて、そこに内容的深さを盛らうとしてゐる。この形式の単純化が企てられるとき、観賞者にとつては、彼に益々判り易い絵をみせられるといふことになる。形式の単純化が横拡がりに、観賞者数を殖やしてゆく、はては土牛の絵は判り易いといふ意味で、猫も杓子も、何かしら一感想を述べる自由を与へられる。観賞者としては、そんな楽しいことはないのである。自分のもつてゐる批評が正しい、不正はこゝでは問題ではない。批評ができ、感想が述べられるといふことが、見るものにとつてはこれ以上の楽しみはないのである。三尺以上に接近したら引つぱたくぞ――といつた、近寄りがたい、もたせつぷりたつぷりの作品がまことに多いとき、土牛の単純化の作品は「奥様――土牛さんの柿を拝見してきましたが、たいへんよく熟れてをりましたよ――」と女中が感想を述べる自由も保有されてゐるのである。
 桂華の場合はどうか、それは土牛とは反対にその作品の方法は、写実的意図を辿るところの通俗的なもの――単純化は、具体化と同一であり、また写実的方法は、一つの具体的方法なのである。俗に「絵が親切に描けてゐる――」といはれるのは、「具体的な説明」を作者が施すことに熱心なことが、観賞者に向つての親切さといふことになるのである。桂華の絵画勉強は、その写実的意図を何時の場合にも失はぬため、その制作の方法が何時も具体的で、一般に判り易い。さうした方法上の具体的形式が、こゝでもまた横拡がりに多数の観賞者を収容する。さうした一般性、通俗性は、これを理論嫌ひな日本画壇ではこれを理論化さず[#「理論化さず」はママ]、世間でいひ古されてゐる。一般性、通俗性といつた風にあつさり片づけたいであらうが、さうはいかない。土牛や桂華の作品がもつ、一般性や通俗性とは、全く理論的なものであり、また理論化されなければならないものである。芸術の究極目的は、作者が作画上でヱゴイストになることではない。むしろ自己の高度な芸術品をも、なほ世俗的な一般的な、通俗的な人々の、批評にも充分我慢のできる、つまり広範囲の批評に堪へ得るといふところにある。
 殊に桂華の場合は、その画の傾向や、これまでの足取りといふものを調べてみればすぐわかるが、現在の写実主義者は、その昔はどういふ傾向の絵を描いてゐたかといふことを考へてみたらいゝ、いま桂華の写実的方法が伴ふところの「通俗性」が取り上げられてゐるが、桂華のその昔の作品はおよそ「通俗性」とは縁遠い画風のもちぬしであつたのである。
 現在に於いては桂華は象徴主義者であつたのである。そして現在写実主義者になつたといふことは、この間にこの作者の人知れぬ悩みがあつたであらう。彼はまだ現在完全な写実主義者になりきつてゐない。自分のもつてゐる写実的方法での弱点を、象徴的方法で補足してゐる。或る人は桂華の作風を「新自然主義」と呼んだがそれも一理がある。「新古典主義」でもよからう、しかし「新」といふ冠詞の附し方は桂華の場合適当でないだらう。「新」などを附さない、単なる「写実主義者」だと評した方が桂華の現在の現実的計画に対して適当な言ひ方だと思はれる。
「春の雨」といふ作品が桂華にある。鶴に柳の雨といふ図柄で、この作品をある人が斯う評してゐた。「見る人の悉くが感じたことは、あの羽虫を捜す頸のうねりが、写生としては如何にもさもありなんとは見受けられるが、所謂鶴首としての概念とされてる、すつきりした感じを砕くと、見る目に憾みを残さした事だ――」と批評されてゐる。この絵は成程鶴の首の曲げ方にぎこちないものがある。しかしこの批評家は「写生としては如何にもさもありなんが――」と前置きして、鶴首としての概念としてのスッキリとしたところがないと桂華を批難してゐる。桂華の写実的態度を一応認めながら、それでゐてその絵が鶴の首のこれまでの概念とは遠いからよくないといふこれはどういふことになるだらう。桂華も鶴の首位すつきりと曲げて描けない画家でもないであらう。この作者には「鳴九皐」や「独鶴逐浪」のやうな作品もある。鶴の首をすつきり曲げる技術にはこと欠かない筈である。しかしひとたび桂華が対象の真実的写意をありのまゝに描写するとき世間の一部ではそれを批難する。
 土牛、桂華二人展のときも、ある批評家が土牛の神品性を直ちに唱へたが、桂華の作品は常識的で新味工夫を欠くと批評した。これなども桂華にして見れば意外とし、また桂華論としては、批評する方がはるかに常識的であらう。
 桂華の写生態度を認めながら、「所謂鶴首としての概念」とは遠いと批評した人と好一対の常識批評なのである。何故なら批評家といふものは、実は作者との共同的な事業として、それこそ過去の概念と闘はなければならないのである。鶴の首の曲げ方がすつきりしてゐなかつたことが「過去の鶴首の概念」とは一致しなかつたかも知れないが、桂華の現実的な写生精神とは一致してゐたのである。そこに問題点がある。この批評家は桂華の味方ではなくて、過去の鶴首の概念の味方であつたわけである。
 作者がその写生精神に立脚して種々の試み工夫をするといふことは、古い概念をうちこはして新しい自己の世界を樹立するといふ目的から為されてゐる場合が多い。さうしたとき批評家の軽忽な評言は作者の味方ではなくて過去の味方になるといふことで、作者に苦痛を与へることになる。例へ短かい評言であつても、その評言が当つてゐれば当つてゐるほど、また当らなければ当らぬほどに、作者の精神に各種の心理的な反映があるものである。土牛はシンボリズムを解さない彼はそのかはりに単純化といふ抽象的方法を知つてゐる。桂華はシンボリストであり、またそれに未練がたつぷりある。絵を支へ、骨を通ずるにはその方法に依ることが彼には楽なのである。しかし一方に写実への慾望が高いために、彼は二つの間にあつて動揺し悩むのである。何かで桂華が文章を書いてゐたが、それに曰く「去る十四日から脚気だと医者に云はれ、ずつと臥床して居ります。神経痛には温泉がいゝと云ひ、脚気にはよくないと云はれ、迷つてゐます――」とあつた。両方に利く温泉といふものはなかなかないものである。丁度桂華の象徴的方法と写実的方法とがぴつたりと結合するやうな方法がなかなか発見できないやうなものである。
 然し兎も角も現代京都画壇いな日本の画壇の人気ある作家としての桂華氏には、風筆の企及し得ない芸術を持つて居ると云はねばなるまい。
--------------------------
徳岡神泉論


 これまでの徳岡神泉氏は、画壇的には不遇な作家といふことになつてゐる。もつと早くから有名になつてゐてもいゝ作家であるとか、或は画壇的にはもつと派手な扱ひをうけてもいゝとか、色々と世間評がある。一言で言ひ尽せば、徳岡神泉氏は、もつと画壇的に恵まれてもいゝ作家であるといふ定評がある。これでなかなか神泉フママンも多いのである。ところが神泉フワンは、この神泉といふ作家が、これらのフワン達をヂリヂリさせるといふ特長をもつてゐる。いまこゝに川端龍子フワンがゐたとしたら、フワンたるものは、龍子の仕事の颯爽ぶりに、内心快適なものを味ふであらう。才気煥発、運筆自在、縦横馳駆の川端龍子氏の画の過程は、そのフワンたるものの心を躍らすに足る充分なものがある。それに反して徳岡神泉氏のフワンになつたものは、神泉氏の仕事ぶりの着実さとそして折々その停滞状態とそれから膠着現象とに辛抱をしなければならないのである。
 大正十五年の第七回で特選となつた「蓮池」はその画風ののつそりとしたそれのやうに、新進としての徳岡神泉氏の出発ぶりは、甚だのつそりとしたものであつた。以来徳岡氏の画の歩行ぶりは、のつそりとしてゐる。然しそれをもつて野暮臭いとは、決して誤つても言へないのである。非常に感の利いたこの「感」をもつと別な文字に当てはめると「癇」の利いた作品なのである。画壇に恵まれないといふ世評は、いまになつては滑稽なお世辞になつてゐるが、たしかにさういふ一時代もあつた。しかし徳岡氏自身画壇から何かを恵まれようといふ考へは毛頭もつたことがないらしい。これまでは全く作品中心主義できたといふことができよう。徳岡氏の画材が蓮とか鯉とか、牡丹とか、菖蒲とかに、とかく固定的であつて、それは現在に至るもさうではあるが、或る神泉フワンの一批評が、内心そのことを非常に気にかけてゐたらしくどういふハズミか徳岡氏が「狸」を描いたとき、その人がかう感想を述べてゐる。『徳岡神泉氏の「狸」は非常に神泉らしさが盛り上つたものであつた。此味でなら静物としての毛皮を描ても定めし佳作を得るであらう――』と、これは決してこゝで落し話を語つてゐるのではない。また作り話でもない。さる一流の堂々たる美術雑誌にさう批評されてゐたのである。私はこの神泉批評を読んだとき、思はず微苦笑を洩した。この批評家は決して神泉氏に対して皮肉な意味で言つてゐるのではない。大真面目に神泉氏の鯉、蓮の題材から狸への飛躍を祝福し、更に毛皮への躍進を求めてゐるのである。もし、本当に徳岡氏が毛皮を描いたらどんなことになるであらう。その批評家は、きつとかう激賞するにちがひない。『徳岡神泉氏の「毛皮」の作は近来稀な出来栄えでその画材も、従来に一新気軸を与へたものである。毛皮の眼の玉は、あたかも生けるが如くランランと輝いてゐる――』と、毛皮は毛皮らしく、毛皮の顔にはめられた硝子製の眼玉は、その硝子らしさに描くところが神泉氏の絵の行き方である。硝子らしさに描いた眼の玉を「生きるが如く」と批評するところが、フワンのフワンたるところであり、賞めつ放しの一般的批評の底でありフワンの味噌なのである。こゝでお可笑な例証を挙げてしまつたが、神泉フワンは、作家が題材的にも大いに今後飛躍して、毛皮まで描いてほしいといふ欲望をもつてゐるといふことをこゝでちよつと伝へておきたい。しかし神泉といふ作家がさうした神泉フワンの求め方に応ずるかどうか、それは多大に疑問なものがある。
 それはフワンの期待の毛皮を生けるが如く描くのではなくて、神泉といふ作家は毛皮を死んだやうに描きたい――といふ欲望をもつた作家であり、その即物象主義といふか、対象の物質性への喰ひ下りの態度は、日本画壇でもかなり強烈な態度をもつた作家なのである。ただ絵の出来上りの静謐さが作者のさうした内部的な欲求を温和に隠してゐるために、その激情性は見えない。作者の客観的態度、つまり作者が外部から自己の慾望へ加へるところの圧力の強さといつた方がわかり易い。自制力の強さの点では神泉といふ作者は珍らしい。そしてさうした圧力が作品の自由性を決して損ねないといふ手段をもつてゐる点、これまた神泉といふ作者は、画壇でも珍らしい。作画上の方法を身につけてゐる作家といふことができよう。
 自制力を加へることに拠つて、次第に動きがとれなくなつてゆく作家もあり、又反対に自制力を加へることによつて、自己を拡大してゆく作家もある。また第三の種類の作家に、全く自制力などといふことを考慮に入れず、自己のあるがまゝに振舞つてゆかうとするものもある。殊に神泉の場合の第二の自己抑制の方法は甚だ自己を知るものと言へるだらう。作家が現実からの衝撃のうけ方の敏感なものは、通俗的な形容でいへば、『あまり神経質な作家は――』その神経質なために却つて芸術が完成されずに、作品も人も斃れてしまふといふ場合が少くない。神泉を指して「感」といふよりも「癇」だと形容したのはそれである。俗にいふ「癇癖」の強い作家の一人に私は神泉氏を加へたい。次いで「癇癖」組を二三挙げてみよう。小杉放庵氏なども加へたい。横山大観氏などその癇癖の大なるものだ。そして神泉、放庵、大観にしてみても、精神上の癇癖の高いことと反比例して、作品的にはまことに、温和な境地を開拓してゐるのである。これらの作家がもし心のまゝに絵を描いたならば、絵がまとまらないばかりでなく、絵絹を引き裂くのと一緒に、自分の肉体をも一緒に引裂いてしまふであらう。しかしこれらの作家は、自己抑制の手段を、まづその画風の上で打樹ててゐるといふ賢明さがあるから、その破綻を自己の手によつて繕ふことができるのである。自己破綻の救済といふことを、絵で描くといふことによつて果たされるといふことは、簡単明瞭に、それは良い作品が残るといふことになるのである。神泉の制作態度のネバリ方は、かなり個人主義的なものであるに拘はらずその出来た作品が決して個人主義的ではなくて、いろいろと画壇に問題を提出してゐるといふことは、そこに神泉の仕事のしぶりの面白さがあるのである。
『誰のために描いてゐるか――』といふ質問をすべての画家に発してみたいものである。そして徳岡神泉氏へも一質問を試みたらどうであるか、画商のためにか、或は日本美術の世界的発展の為めと大きく出るか、或は妻子の幸福のためといふ子孫永続の立場にたつか、金が欲しいためにか、世間的栄誉を目指してか、行きがゝり上描いてゐるか、あの男に負けるのが忌々しいからと、小さな個人的勝敗心理からか、かう数へあげればきりがない。神泉氏に対して、『貴方は誰のために描いてゐますか――』といふ質問を発した場合に、彼は何事も答へないであらう。そして黙々と牡丹や蓮ばかり描いてすごすだらう。たまたま一党派の主脳者となつたために、後進、部下のためにも、勉強ぶりをみせなければならない立場に立ち到つてゐる画家も世間にはある。そしてその主脳者は、相当に自分の実力以上に無理な仕事をして主脳的位置に立つてゐる。さういふ状態はあまりにも惨めなものがある。徳岡氏はさういふ政治的計画は絵の上には加へられてゐないやうだ。画壇の一党派を引具したところで、広い世間からみたら、単なる画家の一団体にすぎない。それが絵の仕事を放りなげて、政治的工作をしたところで、高が知れてゐるのである。もし徳岡神泉氏が、さうした画壇政治的野心があるものと、こゝに仮定したならば、『それはお止しなさい』と止めたいところであるし、さうした政治的工作よりも、蓮や菖蒲の一枚の葉の真実を描くことの、如何に仕事が大きいかといふことを、神泉氏のために奨めたいのである。世間では神泉氏に対して一種の大器晩成主義とみてゐる、その出来上つた作品は賞める。それに『将来有望』と附加しなければ気が済まないやうな型だ、何かしら次に出て来なければならない筈だといふ批評的立前から、ものを言つてゐるのである、『神泉氏は恐らく昨今に於ては、一つの転機に立つてゐるのではないかと思はれる』といつた批評がこれまで幾度となく繰り返されてきた。観賞家や批評家といふものはまことに気が短かい。観賞家の気の短かいことはわかるが、批評家はほんとうは作家よりも、気が永い位でなければ嘘なのである。少し許り同じ題材がつづいて描かれると、それを行詰りと見るなどは、神泉氏の場合に当てはめても当らないこと甚しい。神泉氏が狸を描くと、すぐ毛皮を描いてくれと注文するやうなものだ。少し仕事の渋さが連続すると、転機だ転機だと言はれるのである。神泉氏はさうした意味の、騒がれる人徳をもつてゐる。批評の内ではかういふ大胆不敵な評もある。『時には作者自らを動きのとれぬ苦悶の境地に縛りつける。しかし所詮真の芸術が一つの業苦であるならば悩みのまゝに押し切るより外に術はない――』と神泉氏に向つて言つてのける。しかもそれが女流批評家の言葉であつて、かういふ批評を戴いては神泉氏たるもの、左様貴女のおつしやる通りですと肯定せざるを得ないであらう。かういふお嬢さん批評家にかゝつては作家も適はないであらう。この批評家は、神泉氏が何か病気にかゝつてゐるかのやうに錯覚を起してゐるのである。何故なら彼女は、芸術といふものを病気と同じものに考へてゐるらしいからで『所詮真の芸術が一つの業苦であるならば』などといふ形容は、これは『一つの業苦』ではなく『一つの病苦』といふ書き誤りであらう。さうだとすれば、つぎの彼女の言葉『悩みのまゝに押し切るより外に術はない』といふ言葉が意味を為すからである。
 彼女批評家は、まるで同じ年輩の女友達の帽子を批評するのと同じ調子で、日本画家達を批評してゐるのである。単純無類の美術批評壇の現状なのである。神泉氏がその堅実な手法とは、一見相違するやうな形の変つた、形の崩れた試みをすると、一批評家はすぐかういふのである。『氏はフォービズムの洗礼を受けてゐると見なければならない――』と、フォービズムなどといふ言葉は、洋画壇では通用はするものの、日本画の傾向に対しては、どのやうな角度からも適用できない言葉なのである。日本画は少くとも洋画とはその育ちに於いて違ふといふことを無視して、野獣派だとか立体派だとか、印象派だとかいふ洋画傾向の上の言葉を、いとも簡単に押しつける批評家の太さは驚ろくべきものがある。
 神泉氏が何時フォービズムの洗礼を受けたか知らないが、かうした洋画批評を押しつけることの好きな批評家に対して、私も洋画批評風にかう言つて『徳岡神泉氏は、君のいふフォービズムの影響からは卒業してゐる。昨年文展の「菖蒲」を見給へ、セザンヌの境地に到つてゐる――』と、ひやかしてやりたい。また或る批評家は正直にかう告白してゐる『神泉が色調でセピア風なものを好む心理がわからない、また日本画壇ではその点珍らしい作家だ――』と、他の画家が、青だ赤だ藍だと騒いでゐるときに、神泉は茶つぽい色を好んで使用する気が知れないといふのである。それはもつともな疑問でなければならない。しかし飜つて考へてみるときは、至つてこの問題の謎は容易に解ける。茶とか黒とかは現実主義者が好んで使用する色なのである。殊に「茶」といはれ、また「セピア風」と呼ばれる色調「自然主義的な色調」なのである、こゝでいふ自然主義とは××主義とか××流派とか呼ばれる意味での「自然主義的」といふ意味ではない。こゝで誤解を避けるために言ひ方を変へてみれば「自然科学的」といつた方がわかり易く、また当つてゐるであらう、神泉の色調がたまたま彼が現実主義者であつたために、「自然科学」的な色調を選んだといふことは、至つて自然な選び方だと言へるだらう。茶にせよ、青にせよ、神泉の色の選択、色の重ね方は、自然への復帰といふ第一の方法が採用されて後、表現といふものにとりかゝるのである。表面的には絵が冷酷で、神経質で、冷たい形をとりながら、観るものをして、神泉の絵からは何か滲みだしてくるもの、何か温かいもの何か、何かといろいろの感動を与へられるのは、実は神泉氏がさうした制作過程をとり、さうした効果を作品の段階の中に附与してあるからなのである。
 神泉氏に対する一般的期待は、作者自身の期待ではなくて、どうやら世間自身の気休めらしい、神泉氏が今後少しも飛躍らしい飛躍をしないと仮定することが、世間自身が想像することさへ辛いのである。動きのとれない絵を描いてゐる不思議な画家神泉氏の持ち味といふものを少しも理解しようとせずに、何かしら神泉氏に求めて許りゐるのである。或る人は神泉氏を指して、新傾向の指導的立場にある人であると評したが、一応当つてはゐるが正確には指導的な「人」ではない指導的な「絵」を描いてゐる人である。また人に依つては神泉氏が一作毎に人の意表に出ようとしてゐる――と評されてゐるがこれも当つてゐない、それらのものを全然考慮の外に置いて、神泉氏は何時の場合にも問題作を描いてゐるだけなのである。昔の「蓮池」とか「後苑雨後」といつた作風は、すでに神泉氏の運命をその画風の上で規定し、決めてゐたのである。蓮とか菖蒲とか、牡丹とかを、好んで題材にしてゐるといふことは、これは唯一の勉強の方法として、好都合なものであるからにすぎない。人一倍「空間」といふものの探求を好んでゐるこの作者は、これらの題材で良き探求をしてゐるのである。そして画面に加へる「熱量」がその画面を迫力あるものにしてゐるのである。「絵画に於ける空間は其の色調よりも画題によりて寧ろ指示されるものである」といふ言葉はラスキンの言葉であるがこれは作家の制作事情をよく理解した言葉だと思はれる。昨年文展「菖蒲」の空間的に成功してゐたのは、画題の選択の上で、先づ成功してゐたといふことと結びつけることが必要である。しかしこの「菖蒲」に対する一般的感心の仕方の特長は、菖蒲の水に反映した部分なのである。しかし問題の本質は反対の処にある。水から上に出てゐる部分の描写の仕方が問題であつたのである。しかし世間は甘く、そして世間といふものは事物の映像をより愛する。水に映さしたり、少し許り神泉氏が水墨的な滲みを利かしたりするとワイワイ言ふ。しかし神泉の真の作家的歩みの興味ある点は、その足取りがおそろしくスローモウションなところであり、能芸術のやうな動きなのである。それは静かな動作形のなかに最大の熱量を加へるといふやり方なのである。神泉の作品は緩やかさの極致に於て、磨かれ、また情感的なのである。
--------------------------
石崎光瑤論


 石崎光瑤氏の画的経歴くらゐ、複雑微妙なものはまたとあるまい。こゝで注意して欲しいといふのは私は「画壇経歴」とは言つてゐないので「画的経歴」と言つてゐるといふことである。ながい作家の画生活のうちで、画壇的な動き、またその起き伏しの点では、ずゐぶん複雑な画家も多からう、敵もつくるが、また味方もつくる。そして画壇的位置の進退駈引に精魂をうちこみつゝも、画作をつゞけるといふ画家もあらう。さうした経歴者は、その個人の動きが政治的だといふ意味で、「画壇経歴」といま仮に呼んでおく。
 石崎光瑤氏の場合は、さうした経歴とはちがつたものをもつてゐる。石崎氏はその画風が独特であるかのやうに、その心理的な内部生活も、独特なものがあらうと、観察を下して、それが言ひすぎであらうか、さうは思はないのである。石崎氏の画のあの華麗さは、如何なる心理構成によつて出来あがるものであるかといふことを考へてみるとき、美しさは単化された純粋度をもつて見る人をうつが、作者そのものは決して単純ではない。しかも私は石崎氏の作品の形式が作者に与へるところの、厳粛な苦悩といふものを、充分察することができるのであり、また察することが、至当であると考へる。
 この論を書くに際して、自分は石崎氏の作品をすこし計り見てをけばよかつたのであつたかも知れない。それでも批評の的確が不可能とはいへない、ところが、幸か不幸か、石崎氏の過去の作品をかなりに数多く見たり、経歴を調べたりしてしまつたのである。そしてそのために世にも華麗な画家のために、いくぶん陰気な評論を書かざるを得ない立場になつた。しかし私はそのことを喜んでゐるのである。石崎光瑤といふ画家は、決して華美な、派手な画家ではない――といふこと、これはこゝで語る結論なのである。
 石崎氏の過去の作品「熱国妍春」を始めとして、諸製作全体からうける感じは甚だ鈍重なのである。決して明朗でない許りか、圧迫感をもつてゐるのである。曾つて評判作「野鶴」に就いて、色々の人が批評をしてゐるうちに、この作品の真鶴の組み立ての苦心や、「羽色の調子がよく、重なり合つた後ろに親羽根の調子など自然である」(西村五雲)など、鶴の羽の裏あたりの明暗など成功したものといふ定評があつた[#「。」がないのはママ]だが西村五雲は唯バックが装飾的に行く上から止むを得ないかも知れないと思つたが、どうも少しどうかと思つた、と言つてゐる。殊に平福百穂は「三段にも四段にも塗つた群青の水と茶色の草原ですが、そこに何だか落付かないところがあつて、大変惜しい気がするのです――」といつてゐる。この人達の批評の中で、私の興味をひくのは作品の出来不出来の批評をしてゐるに違ひないが、心づかずして石崎光瑤の本質を語るものがあるからである。「そして何だか落付かないところがあつて、大変惜しい気がするのです――」といつた平福百穂氏の言葉が光瑤氏の本質論を代表してゐるのである。読者は石崎光瑤氏の作品全体を通じて、どの作品にも秘められたところの不安感が漂つてゐるといふことである。殊に初期の作品にはそれが多い。この不安感、焦燥感は、不用意に見るときは、感じないで見過ごしてしまふ程度のものである。しかし作品は少しく吟味してゆくときは、それを発見するであらう。露骨ではないが、ある種の焦立ちを感じさせるものなのである。たゞその不安感はその色彩の上には現はれてゐないで、多く構成の上に現はれてゐる。その不安感は美麗な甘美な色調の中に溶解されて、一種異常な感覚美と化して観者にうつたへてゐるのであり、その意味から、初期の作品に漂ふ雰囲気には形容しがたい妖性なものを感じさせる。それは光瑤氏は時代の子としての、近代感覚的な現はれであらう。光瑤氏はその作品の感覚的世界に於いては、近代の所謂、新しい日本画家も、その新しさの点では光瑤氏から学ばなければならない多くのものがあるであらう。新しい日本画家が、もし光瑤氏の作品に批判的であるとすれば、それは光瑤氏の精神的部分ではなく、其の形式の点であらう。ある人は光瑤氏の作風の装飾的な部分が、気に喰はないであらう。するとまた一方では「闘鶏」の批評で斎田素州は「装飾化したいつもの得意な作柄であるが、今迄の例から云ふと画面の単純化されたもの程成功してゐる」といふ。光瑤氏の作品の装飾的単純化を支持してゐる人もある。「闘鶏」評で「唐黍の葉がやゝ多過ぎ出方にもわざとらしさがあつて気掛りになる」(斎田素州)や「野鶴」評で、「石崎光瑤氏の「野鶴」は昨年の鶉程に若沖の影響を明らさまに示してゐないのはいゝ、只猫柳の花などは、少しうるさ過ぎはしないかと思ふ」(石井柏亭)といつた二種類の分裂的批評が、絶えず石崎氏には、これまで加へられてきてゐるのである。石崎氏が写意を主とした部分に、うるさがられて、「唐黍の葉がやゝ多過ぎ」といはれ、表現の単純化、とそれに伴ふ芸術的誇張に対しては、「唐黍の葉がやゝ多過ぎ、其出方にもわざとらしさがあつて気掛りとなる」と評されてゐる。徹底的写意と、抽象的表現、この石崎氏の二つの方法は何時も、一つの画面の中で、二組の対立した観賞者があつて、一方は装飾化を嫌つて写実的手段をより認め一方は装飾単化された作風を認めてゐるのである。
 石崎光瑤氏は、その画壇的出発点から、数奇な運命を辿つてゐるといへるであらう。その画風の微妙な推移をみるときはそれは将に数奇な運命といつてもいゝであらう。光瑤氏が「熱国妍春」を、印度土産として、出品したときは、その画面に加へた圧力の圧倒的なものは、人々に驚異の眼をみはらし、この一作が殆んど決定的に石崎氏の力量を証明したものとなつた。殊にその精力的態度と、極度の絢爛美は他の追従をゆるさぬものがあつた。この作発表の三四年後には帝展審査員任命をもつて遇されてゐる。こゝに、一つのヱピソードを語れば、氏は其後帝展審査員としての不首尾なものがあつたといふ、その理由はかうだ。その失策といはれるものは、唯審査会場で、あまり露骨に大胆に自己の意見を述べたためだといはれてゐる。それが先輩や仲間の不快を買つたことになつたのだといふ。今ではさうした話も笑ひ流せる一※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)話であるが、それが事実であつたとすれば、当時の光瑤氏の面目躍如たるものがある。またさうした理由が審査員不首尾の理由だとすれば、その理由は、若き時代の光瑤氏の満々たる闘志の現はれとして、むしろほゝゑましいものがある。
 しかし世間ははるかに冷酷であり、そのほゝゑましい※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)話もまた、画壇政治の中にあつては深刻な様相を呈してくる、「燦雨」とか「雪」といつたそれにつゞく作品が、「熱国妍春」のやうな感動を与へなかつたといふ理由の下に、何か光瑤の仕事が落ちたといふ印象を与へたのである。それは確かに「熱国妍春」のやうな執着力は、其後のこれらの作品には見られないかも知れないが、しかし「燦雨」にせよ、「雪」にせよ、決して執着が去つてはゐない。むしろ「熱国妍春」の主題の変つてゐることゝいふ助け船なしに、別な意味の執着が加へられてゐる作品と見るべきだらう。
「雪」ではいまにも※[#「口+堂」、85-上-11]と音してずり落ちさうな雪質を巧みに描き出されてゐる。余寒の中に、羽虫をとつてゐる雉の、この鳥類の精神的位置といふものも、よく捉へられてゐる。作品はそのまとまりに於いて完全であるが、技法の上からみれば、雪の散らし方などは、大胆を極めたものがある。其他の作品に於いても、その技術や制作精神は、情趣は使駆するが情趣に溺れないといふ態度が、石崎氏には多分に見受けられたのである。いまにも崩れ落ちさうな雪を、描いてゐて、その雪が崩れ落ちるといふ瀬戸際まで描いてゆくといふ、その追求的な態度が「雪」には良く現はれてゐるのである。「熱国妍春」では南国植物の葉脈の徹底的細密描写があり、それは見るものをして驚嘆させるほど、根をつめた仕事ぶりなのである。しかし「雪」に於いて、雪がズリ落ちる瀬戸際まで描くといふ根のつめやうは、一般はとかく見落し勝なのである。私が前に述べた作品に漂ふ不安感や、焦燥感は、さうした創作的態度から滲み出たものであり、或は作者自身は、それを目的として描いてゐないだけに、本人が気づかないこと柄であるかも知れないのである。「奔湍」に於いては泡立つ浪の面白さや、水にのり出した木の枝の面白さ、などにはほんとうの面白さがなく、むしろこゝでは散らした紅葉に、細かい人生的な運命的な作者の考察を発見することができるのである。
 この奔湍に押しながされる、無数の葉の在り場所が、まことに面白く自然の運命を語つてゐる。一枚の葉は岩の上に、押しあげられてゐる。ある葉は飛沫の中に飜弄されてゐる。ある葉はたゞ押し流される許りだ、これらの葉の描き個所によつて、これらの葉がそれぞれの宿命を語つてゐる面白さは人生の奔湍に押しながされる人間の運命と照り合せて興味が湧く、そしてそこには二羽の雉が飛んでゐる。光瑤の描く雉に就いても、かういふ特殊の状態がある。古来雉は幾多の画家によつて描かれてきた。その羽毛の美麗で、羽毛の線の整然とした配列はその鳥でなければ、得られないものである。しかしその華麗さに於いて描いた人は多いが、光瑤氏はその華麗さに加ふるに動態美と、緊張感に於いて独特な雉を描いてゐるのである。「奔湍」の中に描かれた雉は、その羽を極点的に拡げてゐる。これ以上羽に力をいれることが不可能だと思はれるほどに、充分な羽の拡がりに描ききつてゐる。もしこれ以上に、この雉が羽に力をいれたなら、その肉体がばら/\に分解飛散してしまふであらうと思はれるほどに、作者の緊張はこの対象物にうちこまれてゐる。「春律」の雉に於いては、その緊張感を、画面全体の韻律に解消してゐるが、「奔湍」では全く、力学的な構成の頂点に達した雉を描いてゐるのである。そしてそこにはさうした技術的計画が、新しい感覚美を、画面にもたらしてゐるのである。「野鶴」に於いても「装飾風のやり方では止むを得ないが――」といふその「止むを得ない」部分は実は作者の意図があると見ていゝだらう。鶴の群の背景をなす部分にこそ、作者光瑤氏の強烈なロマンチストな部分を窺ひ知ることができるのである。春の野花の数々はその美しさを競ひ、星空を地上に引きをろしたやうな極度の美しさが展開されてゐる。そこには装飾的だといはれる何物をも感ずることができない。たゞそれをみる人が、この美しさを現実とみるか、それを一口に「非現実」といひきつてしまふか、それ/″\見方によつて、鶴を認めて、背景を否定し、またその反対の背景にこそ光瑤の精神的な理想境が語られてゐるもので、鶴は単に絵画的形態としての借り物にすぎないといふ論も出てくるのである。人々は光瑤の作品のなかの「非現実」を認めない。しかし非現実の部分に感動してゐながら、それを認めないといつた風な、否定の仕方なのである。そしてもし光瑤が全くの写実主義者になりきつたと仮定したら、その人々は眼もふりむけないだらう。そしていふだらう「昔はもつと美しい色であつたがと」光瑤は勿論、これらの人々のいふことをきいて軽忽に写実主義者になることはあるまい。抽象的方法、象徴的方法は高度の写実的方法であることははつきりしてゐる。その方法が適確である場合には、その形態がどんなに突飛であつても、写実的実感を見る者に与へるし、ねらひがはずれたときは、装飾的な嫌悪を感じさせるのである。「春律」はその意味の後者に属し、私にとつては興味が薄い。「春律」は何等光瑤の画風転換作でもなんでもない。近来の作品は写意が強く、不安感や、焦燥感も全く拭ひ払はれた、静謐なものが多く見受けられる。しかし光瑤の脂肪はまだこのやうにして、脱けてはいけないやうに思はれる。
 もつと強烈な光瑤の理想的美の境地を、作品で顕現してほしいのである。
 美しいものは何時もまつさきに感動した者が、まつさきに嫉妬するのである。光瑤はこゝで驚ろくべき美しさを表現して、多くの人々に最大の嫉妬をされなければならないであらうし、また人間の為し得る美しさの究極点を示し得る人は光瑤氏のやうな人ををいてあるまいと思ふ。また我々はさうした極点の美を示されることを待望してゐるのである。
--------------------------

上一页  [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10]  ... 下一页  >>  尾页


 

作家录入:贯通日本语    责任编辑:贯通日本语 

  • 上一篇作家:

  • 下一篇作家:
  •  
     
     
    网友评论:(只显示最新10条。评论内容只代表网友观点,与本站立场无关!)
     

    没有任何图片作家

    广告

    广告