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小熊秀雄全集(おぐまひでおぜんしゅう)-16

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 7:05:35  点击:  切换到繁體中文


上村松園論


 いまここに上村松園氏の作品に対して、筆をすゝめてゆかうとする場合に、批評者は一つの心の用意を必要とする。何故なら、松園女史の世にも美しく麗はしい作品に対して、いつたい何をしやべらうとするのであるか、まづその点からも、上村松園氏の作品は、「批評なし――」で結構存在するのである、他からとやかく言はれなくても、作品の値打の保証されてゐる今日、いまこゝで何をか言はんや――なのである、批評家の心の用意とは、そこの点を言つたものである。批評を必要としない作品に対して、それを敢て行はうとするときは、心の用意が必要ではあるまいか、松園氏の作品に対しては、然し展観ごとに諸々で批評もされてゐるし、いまではその批評も画一的なもので、常識的なものである。一般の批評家の松園論が、常識的なお座成りなものに堕してゐるといふこともまた然し理由がないことではない。
 これらの批評家達は、松園氏の作品をなまじつか批評をしようとするからそこに常識的な答へより出て来ないのである。もしその批評家が、単に「批評」といつた作品の値打を評する程度のところに止めておかないで、「批評に塩を利かした方法」といふものを採つたなら、少しは松園氏の作品の本質に触れることができようといふものである。風景とかその他の題材的な作家の作品であれば、一応一般的な批評方法もあてはめることができる。しかし、人物画家殊に上村松園氏のやうな美人画家に対しては、風景並の一般的批評は当てはまらない。こゝでは風景画家を、人物画家より下位において言つてゐるのではない。こゝでいつてゐるのは、人物画には人物画としての批評的方法が必要だといふ意味なのである。しかも世間には武者絵作者も加へて、人物画だけを純粋に画材として取扱つてゐる作家は少ないし、その中でもまた、美人画ばかり描いてゐるといふ作家は少ない。画家の中でもこの美人画家は特殊的位置を占めてゐると同じやうに、批評をするといふ場合にも、批評に特殊的方法を必要とする。しかも上村松園氏の場合には現代美人を描かずして、過去の美人を描いてゐるといふ。題材上の時間的距離は一層批評方法の困難さを伴ふのである。描いてゐる画家そのものは、生きた現代の人間であつて、その描くところのものは、現代から離れた享保時代の美人であつたとしたならば、批評家なるもの、多少の戸まどひをしないわけにはいくまい。殊に作品の持ち味といふものは作者とは離れて持ち味のはつきり表現されるものがあるが、それとは別に作者によく内容を聞かされて、始めて納得のゆくものもある。説明されてみて、一層その持ち味を理解されるものもある。それといふのも一つは直接に絵画から受ける感得、後者は少しでも作者の内部的心理を第三者が辿つて始めて画面からの感得を濃くするといふ場合である。いま上村松園氏の作品の持ち味を理解するには、何れを採つたらよいであらうか。
 絵だけを見て、そこから受けとられるものだけを受けとつてゐてよいか、それとももつと作者のその作品を描いた意図の説明を求めた方がより作品観賞上で有効であるか、そのどつちであらうか、現在の上村松園氏の仕事の状態からみるときは、松園氏の作品の持ち味は、その画面に現はれたゞけ――の感得だけで決して観賞者として不親切ではない。むしろもし作者に向つて、最近の作品の一つを捉へて、その作意や計画を尋ねたとしたならば、松園氏自身が困惑してしまふであらうと思ふ。
 松園氏の作品に対して、批評家が心の用意が必要だといふ意味は、松園氏が自分自身で描いてゐて、説明に困惑する状態の中から、作者にも尋ねることなしにして孤立し、独立した批評をうちたてなければならないからである。つまり単に批評程度の考へでは、松園氏の作品論はできない。批評に塩を利かした方法を採らなければいけないといふ理由が成り立つ、塩とはピリゝとした方法のことをいふのである。
 或る批評家のやうに松園氏をきめてゆくのであれば世話がない曰く「いはゞ浮世絵の行き方を京都の上品な趣味で翻訳したといつた」作品が上村松園氏の作品なのださうである。この批評によれば、もし上村松園氏が大阪に住んでゐたとすれば、現在のやうな作品はできなかつたわけになる。大阪の趣味がどんな趣味であるか知らない。或は東京の趣味はどんなであるか、浮世絵を改作し、翻訳してゆくのに、京都趣味をもつてしたといふことは、いつたいどういふことであるか、この批評はいかにも一応もつともさうな松園批評なのである。しかしそれでは「京都の趣味」とは如何なものかといふ質問を発した場合には、まづ京都の趣味なるものを語れといつた場合には、さう京都の趣味なるものを軽率には語れまいと思ふ。そのことは大阪趣味とか、東京趣味とかいふことにも当てはまる。身の廻りの置きものとか着てゐる着物の好みとかいふものは、どこそこ趣味といふことも言へるかもしれない。しかし芸術上の方法に、その土地の趣味を翻訳の方法にするなどゝいふことは、絶対に不可能なのである。この批評家の言葉は、一般向きの素人評であり、かなりお座成りなものがあるのである。
 もし松園氏の作品がこの人の言ふやうに浮世絵の行き方を京都の上品な趣味で翻訳したのが事実だとすれば、上村松園といふ画家は単なる一地方画家といふことにならう。松園氏に限らず、もし京都在住の作家に向つて同じことを言つた場合には、京都在住作家の不満を買ふにちがひない。その作家の住む環境は、その画風の上に影響のあることは認めることができる。しかしその画風の本質まで、環境第一主義の作家であればその作家は大粒の作家とはいへない。小粒の作家といふべきだらう。もつと超地方的な一般的真実に接近するといふ態度は、彼が如何に地方的雰囲気を身につけてゐる作家である場合にも採るべき態度である。
 多少余談に亘るが筆者が福田豊四郎氏と語つたとき、氏は東北出身で、題材も初めの頃が郷里のものを多く扱つてゐたゝめに、世間では自分を、地方作家といふ貼り紙をつけて困つた。それで世間のさういふ概念をひつくり返すのには、自分は五年もそれ以上もかゝつて苦心したといつてゐたが、その場合の福田氏の苦衷はよく判るのである。画題を中央よりも地方により求めるといふだけで、心ない世間ではその作家に作品の価値でなく、題材の出所から、地方的作家と勝手にきめて、中央的、一般的規準にのせようとしないのである。東京が画壇の中央であるとすれば、松園氏の京都趣味は地方的趣味なわけである。しかし誰も東京が画壇の中央だなどゝ愚かしいことを言ふものは一人も居ない筈だ。芸術の伝波性は、その画家が画面に交錯させる。心理の火花のやうに、そのやうに、素早いものである。京都と地方の趣味が、松園氏の作品を押しすゝめる中軸になどなつてゐるといふことは認められない。然も松園氏の最近の傾向としては、さうした地方性や、趣味性は全く影をひそめたといつてもいゝ、然も浮世絵の行き方などゝいふものとは、はるかに遠いところにある。何故ならもしその画風が松園氏の場合、浮世絵に甚だ酷似してゐたとしても、それを指していつまでも「浮世絵の行き方」などゝ言はれるべきではない。浮世絵といふ画風は、その当時の社会的内容が産出したところの抜き差しならない画風と呼ぶことができよう。浮世絵は、その最も画風の流行した当時を境として滅んでいつたのである。浮世絵は「人生」を指して「浮世」と呼ばれる頃の時代風俗画の方法なのである。厳格な意味に言つて浮世絵が滅んでしまつてゐるのに、浮世絵の方法を採用するといふことは不可能なのである。
 上村松園氏の作風を浮世絵の方法だといふ批評はその批評家の頭の中に浮世絵といふものが、余りに概念として多くもつてゐすぎるからである。松園氏は言はゞ美人画の辿る方法上の路筋を来てゐるだけにすぎない。然も松園氏の画風と、浮世絵との関係を問題にするのであつたなら、それよりも先に、松園氏の初期の仕事を一応調べてみる必要があらう。「孟母断機の図」(二十四歳頃の作)にしても、これはまた浮世絵的傾向とは、およそ縁遠い厳格な手法なのである。「人形つかひ」にしても「花ざかり」にしてもそこには浮世絵の傾向の片鱗も認められない。殊に初期の作品に於いては、その作品のどれをとつてみても、みな主題をはつきりと掴まへた作品なのである。主題を捉へるといふことは、斯ういふ状態の絵を描かうする目的のはつきりしたもの、つまりその作品での主題とは、単に絵を描きたいといふ本能にのみ立つた主題ではなく、社会的主題なのである。上村松園氏の初期の作品には、この社会的主題を明確に把へた作品が多く、その何れもが優秀作なのである。「人形つかひ」にしても、「花ざかり」にしても、その画面に漂ふ雰囲気といふものは、過去の日本の生々しい雰囲気なのである。これらの作品は、今では単なる歴史画としてみても価値あるものなのである。「人形つかひ」では、現代の娘とは似ても似つかぬ内気な娘が、そつと覗きこんでゐるし「花ざかり」では婚期の円熟した娘であらうが、尚母親の後にしがみついて、美しい羞恥を示してゐる、さういふ情景や、情趣は現代では全く見ることが不可能である。
 街頭の靴磨きに、足を差出して靴を磨かせる現代娘気質とはおよそ遠い世界の娘達の出来事を、松園氏の画をみることに依つて、我々はそれを再現して感ずることができる。然も松園氏の狂ひのない描法は、当時の雰囲気を、現在に於ても、狂ひなく伝達する、芸術の妙味とか、芸術の価値とか、芸術の永遠性とか言はれるのは、そのことを指して言はれるのである。作品が、出来た時と、それを第三者が見た時と、その時、時間、空間を超越して、その描かれた当時の現実の生きた証明がその作品で為されたときに、その作品の芸術品として優れたものであることを示すのである。
 上村松園氏の作品は、現代作品から過去に逆行すればするほど、その作品の主題は明瞭であるし、優秀作が多い。そして浮世絵的方法なども比較的新しいことに気づくであらうし、またそれが単に一口に浮世絵的方法などゝいへないものがあることに気づくであらう。良い例証としては、「待月」などゝいふ作品がそれであるこの作品は、後向立姿の婦人が月の出を待つてゐる図であるが、この作画の方法は大胆極まるもので画面の上から下まで、建物の柱を通じ人物の体を縱に両分してゐる構図なのである。この方法だけからみても、この作品は、浮世絵的情趣などを覗つたものでは決してなく、全く絵画芸術の、洋画家がよく言葉として用ひたがる、「造形的」な意図から行はれた方法であることがわかる。人物を柱で縱に両断してしまつてから、更にそれをまとめるといふ方法などは、完全に情緒主義者のやる方法ではない。造形的な、絵画の方法上の苦心を盛らうとする計画に他ならない。浮世絵は、婦人の裾をチラ/\とみせるといふ意味で「あぶな絵」と呼ばれた時代から、松園氏の作品の人物の裾が拡がつてゐたからといつて、それを「あぶな絵」の翻訳されたものだなどゝはいふことはできない。松園氏はその浮世絵の形式に執着する以上に、あまりに「画家気質の人」であつたといふべきであらう、松園氏の仕事を二大別して、初期の写実的な方法のものには、テーマが明瞭で、そのテーマも然も社会的な意味をふかく含ましたものが多く、次の期間には、その画風が、美人画であるといふ理由だけで、松園氏は浮世絵的な方法と接近していつた。しかもテーマを作画方法に加へずに絵をまとめあげようとするときには必然的にその方法だけが、作者の考へ方の大部分を占める。柱をもつて人物を切るといつた絵画上の苦心の傾向に漸次移動していつた。何を描かう、どういふものを描かうといふ組み立てなしでも、形態上の美は組み立てられる。
 完全に造形的立場に立つたとき、松園氏の作品は社会的テーマからは孤立してしまつたそこにはたゞ線の運びの苦心、画面の空白の効果、小雨をサラッと降らすとか、桜の花びらを三片ほど地面にちらばすとか、襟足を極度に美しく描くとか、主題の上では凝ることをしないで、作画方法の上で凝るといふ方法に変つてきたのである。したがつて過去の絵は、その作品は絵画的であるとゝもに、歴史画、風俗画としても存在するが最近の松園氏の作品は、全く絵画的意図から出発して、絵画的方法に帰した仕事といふべきであらう。松園氏の作品の線の動き、連絡、切断等に注意してみるときは、殆んど不可能と思はれる場所で、甲と乙の線が結びつけられてゐるものもある、しかもそれは少しも不自然ではなく、造形的な完璧さをもつて結びつけられてゐる。しかしその方法が写実的方法でなく、超写実、錯覚的な方法での調和が行はれてゐることに気附くであらう。松園氏自身の絵画方法の発達がその点にまで到達してゐるのである。
 つまり普通の画家ではとても行へないやうな方法、線の錯覚的調和といふべきものも、こゝでは完成されてゐるのである。
 吾人は、松園氏自身もさうであらうが、松園氏の過去の作品の良さの魅力にひきずられるものがまことに多い。
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大智勝観論


 大智勝観氏の画業に対して、いまこゝに殊更に声を大にして叫ばなければならない理由といふものはない――、然しながら、その半面に『声を小さく落として』語るといふ理由は一層ないのである。更にもう一つの理由が残つてゐる。それは大智勝観といふ作家を『全く黙殺する――』といふ理由である。この三つ目の理由をもつて、大智氏の従来の仕事が看過されてきたといふことが少くないのである。私は批評家的見地からも、世間の第三の理由とは闘ふ必要があるやうに思ふ。最も冷静な意味で、大智勝観氏の画業の正統な立場を擁護したいといふ本能に馳られるのである。世間的には大智勝観氏を院展に於ける最大の人格者であり、解脱者であると評されてゐるが、こゝでも絵の評価の規準がみつからなければ『人柄の良さ』に押しつけてしまふ日本の美術批評家のヅルサと無能力とがある。作画上の『人格的方法』とか『解脱的手法』などといふものは無いので、これらの人格、解脱などといふ形容は、作家の生活態度の上にだけ適用できるもので、それ以外には適用ができない。さういふ人柄の方法だけで、大智勝観氏はこれまで祭りあげられ、体の良い黙殺をうけてきたといつても誤りではあるまい。大智勝観氏の作家的実力を証明されるものといつては、氏の作品そのものと、日本美術院の同人に推薦されたといふこと、この二つだけであらう。
 さういふ意味で、この作家くらゐ実力で『押してきた』作家は珍らしい。いや『押してきた』といふ形容が、まだ強烈にすぎるやうで、もつと穏やかな存在としての『押してきた』といふ形容にかはる言葉をみつける必要がある。しかし大智氏の場合、みつかるまいと思ふ、何故なら画壇的位地がながく続くといふことの中には、現在の日本の画壇の現状では、画の出来不出来を度外視した、政治的工作といふものが、相当に有効な場合が多いからである。大智氏の場合の押し方の性質は、かゝる世俗的意味のものではない。従つて『押してきた』といふ言葉にとつて代るべき世俗的言葉はみつからないのである。またかゝる言葉はこの作者には適用できない。
 世間で大智勝観氏の『解脱者』だと評してゐることには、たしかに一面の当つた批評ではある。しかしこゝで日本画の解脱性といふものを考へてみれば何も不思議ではないのである。『解脱』といふ言葉を人柄に押しつけずに、ちよつと許り批評家が、頭を使ふことを億劫がらずに作品にふりあててみるときは、大智氏の作品の本質問題にふれることができよう。いまこゝに三人の作家を取り合してみよう。酒井三良氏と、磯部草丘氏と、大智勝観氏と、そして私がこの三人を列べたといふことは、出鱈目に選んだのでも、悪戯心から組み合したのでもない。それは大智氏が他の二人に較べて『解脱』といふ古めかしい形容にふさはしい作家であるかどうかを調べてみたいので、さうしたのである。
 酒井三良氏の作品の問題点は、彼の画にはあの形式には、珍らしい強い物質性が出てゐるといふ点である。形をもつて空間を攻めるといふやり方は、その描き残された空白の部分に、強い物質性が顕れる。酒井三良氏の持ち味は従つて解脱しない佳さにある。磯部草丘氏もまた線描をもつて画面を圧倒してしまふといふ逞ましさがあつて、これまた解脱しない佳さである。そして大智勝観氏はどうか、この作家も他の二人と同様に、解脱しない佳さがある――芸術家が解脱などをしたら大変なことになるだらう。何故なら解脱は死だからである。そして非解脱は俗物化なのである。大智氏の作品は、酒井氏、磯部氏のもつ近代的要素にも、優れてゐても、決して劣るとも思へない。大智勝観氏の作品は一言にして言へば『新しい』のである。解脱的死の作家でもなければ非解脱的俗物作家でもない、むしろこの両端の中間を辿る作家である、その意味でも酒井氏、磯部氏も同様であると言へる。
 ただ大智氏が他の二人に較べて違ふところは、色に対する執着が、ずつと少いといふこと、水墨を最上のものとするといふ精神的立場がある。酒井、磯部氏の絵には色気がある。大智氏の場合は、墨一色の世界に境地がある、しかし大智氏がそのために彩色画を軽蔑してゐるといふのではない、事実彩色もしてゐるのである。青や紫を使つてゐても、大智氏の場合には、その色彩を墨色と同様の扱ひをする、墨以外の色を、墨の扱ひのできる作家といふのは、日本の画壇にはさう沢山はゐないのである。だがこゝで誤解を避けなければならない、それでは大智勝観氏は『黒』の作家であるが、私はこれまでの文章で、ただの一度も大智氏ママ『黒』の作家などとは言つてはゐないので、その点を曲解されては困るのである、『墨』の作家だとは言つてゐるが『黒』の作家だとは言つた覚えがない、それでは『墨』は『黒』ではないのか――さういふ疑問も起るであらう。
 そこで私はさうした疑問をもつ人に斯う答へよう『まさに墨は黒にちがひない、しかし墨は色ではない――』と、私のいふことは何と屁理窟に聞えないだらうか。しかし大智勝観氏は私と同じ意見をもつてゐるといふことを此処で伝へたいのである。
 大智氏は黒は色の部分に編入されるが、墨は色の世界から除外して欲しいといふ意見をもつてゐる。こゝで通俗的な例をあげると、小学生の八色とか十二色とかの水彩絵具の中には『黒』はあるが『墨』とはなつてゐない。こゝまで述べてくると、どうやら墨と黒とが別なものだといふことを薄々理解してもらへるだらう、しかしその事は格別に私の発見でもなんでもない。そのことを理解してゐる人にとつては私の意見などは平凡な説にちがひない。しかし私はこゝで墨の論を説くのが目的ではなく、一人の作家が全く『墨』の精神を拠点として仕事をしてゐるといふこと、その作家とは大智勝観氏であるといふこと、この兎角に黙殺的な待遇をうけてゐる作家の作品の本質が墨にあるといふことを、ここで強調する機会を得たといふこと、つまり私は一つの墨の理論の発見をしたのではなく、墨の精神の保持者の発見といふ点で、それは一つの発見に違ひないと信じてゐる。この墨の精神とは目下ずるずるべつたりに前進してゐる日本画壇の方向に対して、一つの、『日本的本質』の問題の提出といふことになると思はれる。
 墨が色でないといふ考へ方に、もう一つを加へて、大智氏は『金』を取りあげてゐる。墨と金は、色彩の分布の範囲を超えて存在する。精神的なそれであり、その強烈で物質的なことは、他の色と名附けられてゐるものと、全く異つた作用をするといふのである。墨や金泥は全く孤立した効果をもつてゐる。赤とか紫とか其他の原色、中間色は他の色彩との関係でどのやうにも、自分をゆづる、一つの可変性をもつてゐる。それなのに墨や金泥はこれらの色彩のやうに他の色との関係での普遍的な連帯責任をもつことをしない、この二色はさながら人間なら自我の強い、それのやうに、時には排他的な特質をさへ示す。なかなか他と妥協をしたがらない、しかしそれだけに墨や金泥を巧みに使ふときは、『効果を超越した効果』を獲ることができる。
 大智氏は曰く『墨と色とは結局同一なものですがそこへ到る境地は難かしい。色ばかりやつてゐる人が墨絵をやつても駄目でせう。その反対に墨さへ技術的に叩きこんでおけば、色彩画は楽です――』といつてゐる。大智勝観氏は墨の以外に近来彩色画も描く。興味のふかいのはこれらの彩色ものの、色の本質である。私は氏の彩色ものから驚ろくほどの、『紅』にはまだぶつからない。しかし清麗そのものの『青緑』には、殊に小品ものでは接してゐる。大智勝観氏は精神的拠所を『墨』において、色彩的には『青の作家』といふことができるだらう。
 大智氏は『墨を運しては五色具はる』といふ境地をもつてゐると共に、それを逆に彩色の場合には、『色の運しては墨色具はる』といふ絵が少くない。彩色ものでも何となく墨の味がでてゐる。墨で叩きあげてきた人の色彩の持ち味である。墨でもなく色でもない持ち味といふものがあるとすれば、その感覚的世界は、有韻、無韻の境地をゆくものであらう。大智氏の色彩は、その意味から独特な境地であり、それこそ却つて『色気』のたつぷりとした彩色的作品といふことができるだらう。その色気たつぷりな水々しさ、色の世界にあらはれた気の若さに於いて甘味な持ち味に於いては、日本画壇稀に見るところである。明治十五年生れ当年五十八歳とは思へない若さをもつてゐる。然も大智勝観氏は、仕事の上に年毎に若々しさを加へてきてゐることは、注目すべきである。日本画の老大家のうちには、老いて益々旺んな作家も少くない。しかし私のいふ大智勝観氏の若さの性質は、少しくその性質を異にしてゐる。それは純粋化の過程を年毎に示してゐるといふ意味で、大智氏はいよいよ今後に於いて『甘美』な持味を顕はしてゆくだらうと思はれる。
 整理と、簡略化の方法は年来のこの作家の精進の姿であつた。現象的な表現力をのみ窺つて、画面上の効果のみを目的として、制作をすゝめてゐる作家は少くない。さうした意味では時々刻々に出来のよい作品も描いてゐる。しかしその方法は創作方法の瞬間的解決ができてゐても、全体的な一貫した、絵画の本質問題は解かれてはゐない。大智氏の画風の滋味な行き方の中には、一貫した系統的な仕事のすゝめ方がある。前述のやうに、その画面の『整理の方法』『簡略化の方法』は、年とともに完璧に近づいてゐるやうだ。世間ではそのことを問題にしない。作者の激しい方法上の意図のあるところを見遁してしまふのである。嘗て『島四国の一日』に於いて得意な連作物で、線描の持ち味の多角的な面を見せてゐる。この作品の中には、大智勝観氏のあらゆる性格的なものから制作上の方法から、一切のものが含まれてゐる。この作品は大智氏自身にとつても全く研究的な態度で制作をすすめられたものに違ひないが、作家研究の立場からみても、この『島四国の一日』は大智氏のこれまでの作の中では、多くの問題をもつた作である。対象の把握の方法の種々層を、六種の画面に於いて、六通りに描いてゐるといふ意味からも、其後の大智勝観氏の画風のすすみ方の研究の上からも、この作は興味がふかい。現在の画風は、そこから抽き出された何等かの形式なのである。大智氏の作品には表面的には何等その激しさは認められず、温和そのものの表現ではあるが、追求の方法の激しいこと、一例を挙げれば、大智勝観氏は直線と曲線との相剋に永い間悩んできた人である。したがつてその両者の独立、溶合、更に直線でも曲線でもない或る物、さうしたものの発見の方法は、かなりに激しいやり方をしてゐるのである。
 第十六回美術院試作展に大智氏の出品した『春秋』といふ作に、或る批評家は『春秋』の松が余りに弱々しい、優美と云へばさうも思へるが力が欲しい――と評してゐたが、この種の批評はこれまで大智氏はずゐぶんされてきた。作者の立場からすればこれらの批評は全く作者とは見当外れの立場に立つものであらう。何故なら私の見るところで、その松の木の弱々しさ、優美さこそ、この作家のねらひどころであらうと思はれるからである。作者が計画企図するところが画面にうまく表現されると、批評家がその点が悪いとか、不満だとかいふ。それほど奇怪なことはない。我国の美術批評界には実にさうした批評が多い。一言でいへば、さうしたことを指して『無理解』といふのである。しかも大智氏の松の描方は単純な弱さではないのである。殊に大智氏の線の種類のうちで『縱直線』は一種特別な解釈が加へられてゐて、この松のやうに、上にのびた直線を使つた対象物は、微細な震動的な直線としての持味がある。『力が欲しい』といつた大智氏に対する注文こそ滑稽である。大智氏は南画のことをかう語つてゐる『南画といふのは柔らかい自然主義です』と、この言葉こそ正確な南画理論と一致する言葉であらう。問題点は『柔らかい』といふことにある。何という柔らかくない硬化した南画形式の自然主義的な作品が、世上に多いことであらう。
 大智氏は稀に見る柔らかい作家なのである。だから一部の人々にとつては、その柔軟さが何か作品の欠点であるかのやうに見させてゐる。そしてもつと『力が欲しい』といふ。我国の日本画壇では『迫力』をもつて、芸術的な力量だといふ風に思ひ違ひをしてゐる。近頃どうやら、龍を描く作家が少くなつた許りの日本画壇では、それでも手を替へ、品を替へて、仁王さまとか、鷹とか、精々出来が悪くても構へがいゝといふだけで、得をするモデルを選んで描かうとする気分がまだ絶えてゐない。雛鳥を描くよりは、二羽の鶏に喧嘩をさせて『闘鶏』とでも題して展観に出した方が得らしい。よしこの二羽の鶏がおそろしく下手に描かれてゐても、画面に現はれた限りで、どつちの鶏かが、どつちの鶏よりいくぶん強くは描かれてゐるに違ひない。この二羽の鶏が丁度毛変りの季節にぶつかつてゐて、闘つたのではなく、身ぶるひしただけで、羽毛があたりに飛散つただけでも、脱羽を散らしてあるだけで、観者に闘ふ鶏だと思ひこましてしまふのである、画材上の迫力とは『雪隠の構へ』のことをいふのであらう。大智氏の作品は、さうした硬さや迫力を窺つたものではない。殆んど横線と思はれる線の使用が少く、作品に依つては殆んど斜線ばかりで仕上げてあるほどに肩のとれた、撫で肩の作品が多い。踏ん張りだけを迫力だと考へてゐる現画壇にとつては、大智氏の作品はヒューマニズムの濃い行き方として、当然形態上の柔らかさ、弱さが一つの方法であり、武器であるといふことにまで考へが及ばないらしい。
 南画形式は人間が出来なければ、形式を使ひこなすといふことが殆んど不可能である。南画の形式のさまざまの変革は対象の真を描かうとしての必然的な形式として生れたものであるが、他にはこの南画形式の種類の多さは『画工の習気を避けようとして』いろいろと変革を生みだしたのだと言はれてゐる。大体に日本画のやうに、技術を尊重しなければ大成しがたい芸術は、従つて形式勉強の長さが、その独創性を育くむ場合よりも習気に溺れてしまふといふ危険性の場合が多い、そして画家の惰性、習慣性を救ふために、新しい形式を持ちだした。しかしそのことで現在の南画の状態をみてもわかるやうに、南画は救済されたであらうか、南画はその形式主義の故に、没落の道筋をたどり、その救ひの方法としてもつてきたものがこれまた形式主義的方法以外のものではなかつたために時代性を喪ひ、下降線を示してゐるのである。大智氏のいふごとく、南画はその人間ができなければ、この形式の自由な馳駆といふものは不可能であらう。
 習気に堕した南画形式の作家は多いが、この南画形式を、完璧な形式として、自由に扱ふ作家はまことに少い。
 大智氏の見解では、形式はそのまゝであつても構はない、ただその使ひ方一つにある。新しい形式を編み出す必要があるかどうかわからない――といつてゐる。この大智氏の言葉を単純に丸呑みにはできない。もしこれを丸呑みにして、古い形式がうんざりするほど画壇に復活してきたら、たまらないからである。古い形式の復活よりも、下手でも新しい形式の発見は有益である。ただ大智氏のやうな言ひ方は、極めて少数の人だけがその真実を理解し得る言葉であり、これは大智氏の創作態度に現はれた『捨身』の態度として解すべきであらう。
 しかも大智氏は新しい形式をさへ事実編み出してゐるのである。読者諸君は大智勝観氏の作品の構図に注意していただきたい、とともにその画中の山岳或は家屋に殆んど三角形にちかい、或は全く三角形に描かれたもののあることを発見されるであらう。この三角形の表現は、非常に独創的なもので、五十八歳の作家のものとは思へない、新しい方法の獲得なのである。その意味から若い画家も顔色なしのものがある。私が大智氏が日本画に於ける直線と曲線との対立に悩んでゐて、一つの解決点にすゝんでゐると指摘したが、その現はし方はさまざまあるが、なかでも具体的には、三角形の形態への到達を問題にすることができる。直線といひ曲線といひこの二つのものの、一元的な結合、この二つのものの親和状態といふものが、どういふ方法によつて出来るであらうか、それは二つのものに共通な第三のもの、第三の方法を選ぶより方法がない、直線と曲線とを作画の上で一致させるには曲線を、或は直線を、どつちか、どつちかへ漸近的に接近させるより方法がない。三角形はさうした両者の漸近的な方法として一つの到達点なのである。大智氏がそれを意図してやつてゐるか、やつてゐないかは此の場合問題ではない。問題なのは、さうした究極点に進んでゐる氏の仕事が一切を証明してゐるだけである。いまこゝに若しフランスの最も正しい意味での進歩的な美術団体が『貴国に於ける、現代の最も日本的意味で進歩的な日本画家の作品を紹介されたし』といつてきたと仮定した場合には、私は何のためらひもなく、大智勝観氏の作品を推すであらう、意外なことにこゝに五十八歳のモダニズム作家を発見して、外国人は日本画の近代的要素の存在することを、強く肯定するであらう。

 大智氏の絵を、世間ではその仕事を『老人仕事』といふ風に、投げやりにみてゐるらしい。でなければ敬意を表して黙殺してゐるだけである。第六回院展の『秦准の夕』では、ある批評家にこの作は漫然たる浪漫的気分の胚胎したものだといふ風にも評された。当時鏑木清方氏は『異常か平明か』といふ題で、当時の院展の評判の悪さに関して、院同人の多数は趣味に淫し、色彩に戯むれ、形式に堕したと指摘してゐる。そして創作方法を異常に求めるか、平明に求めるかと出題してゐる。時は流れ、現在に到り、異常派の作家はまことに多いが、何と平明派の作家で寿命のつづいてゐる作家が少いことであらう。大智勝観氏は、その昔からその浪漫的要素を非難され、迫力のとぼしさを残念がられ、その作風の平明なる故に、とかくに見遁され勝である。若し隠然たる勢力といふものが、画家の政治的工作にあるのでなくて、作品の本質にあるものだとすれば、大智氏の画壇的生命力は、その作品の顕れざるところの力量にあると思ふ。
『手に筆硯を親しむの余、時有りて遊戯三昧し、歳月遙永にして頗る幽微を探る、妙悟は多言に在らず善学は還り規矩に従ふ』と王維が述べたが、大智氏の仕事ぶりは歳月遙永であり、四十にしてではなく六十にして不惑であらう。然し沈黙勝の人柄は、却つて妙悟を得、しかも案外の勉強家である点、規矩に従ふといふ方法は、益々その作品の新鮮度を増す理由であらう。
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